https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946815795&owner_id=7184021&org_id=1946845076 【山頭火の日記(昭和14年1月1日~、其中日記十四)】より
『其中日記』(十四)
一月一日 曇――雨。
聖戦第三年、興亜新春、万歳万々歳。安眠、朝寝、身心平静。おめでたう、ありがたう。――起きるなり、水を汲みあげて腹いつぱい飲んだ、それは若水であり、そして酔醒の水であつた。朝湯、香を いて自戒自粛、――回顧五十年、疚しくない生活、悔のない生活、あたりまへの生活、すなほにつつましく生活したい。朝酒、かたじけなし、酒を楽しみ味ふ境涯であれ。雑煮のうまさ、酒がうまいやうに。十時、私も祈願祝祷。雨、あるいは雪になるらしい、雨もよし、雪もよし、たうとう雨になつた、しめやかな雨である。転一歩――新一歩。戦地のS君Y君へ賀状を書く、まことに千里同風の感がある。風邪をひいたらしい、宵から炬燵にもぐつて読書。門外不出、黙然独坐の一日であつた。不眠、酔つぱらひが通る、さすがにお正月らしく。
Nさんに――
……生きてゐることは時々つらいとは思ひますけれど、やつぱり生きられるだけは生きて、
酒を飲んだり句を作つたりする外ありません、……それが私の宿業であります。……
【其中日記(十四)】
『其中日記』(十四)には、昭和14年1月1日から昭和14年3月21日までの日記が収載されています。
一月十六日 晴。
うららかである、ほのかなよろこびを覚える。土と兵隊を読んで感激した、麦と兵隊もよかつた。花と兵隊もよい、火野葦平万々歳である。昼食すましてから、運動がてら山口まで散歩する。とある小路を歩いてゐたら、思ひがけなくY君に呼び入れられて、酒をよばれた、読物も貸して貰つた、ほんたうに予期しない幸福だつた。ハガキのあるだけたよりを書いて出した。まつたく雲のない晴天だつた。夜はのんびり読書。久しぶりで(いつでもだが)、餅がうまかつた。恋猫が切ない声で鳴いてうろつく。
黙つて死んで行く
生死の中から
自分を空しくする
真実一路
酔境――
ほろほろ、ぼろぼろ、
とろとろ、どろどろ。
【第六句集『狐寒』刊行】
山頭火は、昭和14年1月25日に第六句集『狐寒』を刊行しています。その「後ろ書き」に、次のようにあります。
「孤寒といふ語は私としても好ましいとは思はないが、私はその語が表現する限界を彷徨してゐる。私は早くさういふ句境から抜け出したい。この関頭を透過しなければ、私の句作は無礙自在であり得ない。(孤高といふやうな言葉は多くの場合に於て夜郎自大のシノニムに過ぎない。)
私の祖母はずゐぶん長生したが、長生したがためにかへつて没落転々の憂目を見た。祖母はいつも『業(ごふ)やれ業やれ』と呟いてゐた。私もこのごろになつて、句作するとき(恥かしいことには酒を飲むときも同様に)『業(ごふ)だな業だな』と考へるやうになつた。祖母の業やれは悲しいあきらめであつたが、私の業だなは寂しい自覚である。私はその業を甘受してゐる。むしろその業を悦楽してゐる。
凩の日の丸二つ二人も出してゐる
音は並んで日の丸はたたく
二句とも同一の事変現象をうたつた作であるが(季は違つてゐたが)、前句は眼から心への、後句は耳から心への印象表現として、どちらも残しておきたい。
しみじみ食べる飯ばかりの飯である
草にすわり飯ばかりの飯
やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深いものがある。 (昭和十三年十月、其中庵にて 山頭火)」
二月一日 晴曇。
身心不調。――私は近来あまりに放漫だつた、知らず識らず、若い連中の仲間にまじつて、年甲斐もなく浮れ騒いだ、省みて汗するばかりである、私は自戒自粛して、正しい私に立ちかへらなければならない。ことに一昨夜の自分、昨日の自分を考へるとき、私は私に対して恥づかしいばかりでなく、Yさんに対して申訳ないではないか。馬鹿、馬鹿、馬鹿。――夜はやりきれなくなり、Sさんを訪ねて少しばかり飲んだ。Yさんに置手紙して私の衷情を伝へた、よかつた。
【旅に出る】
この日の日記に、「私は近来あまりに放漫だつた、知らず識らず、若い連中の仲間にまじつて、年甲斐もなく浮れ騒いだ、省みて汗するばかりである、私は自戒自粛して、正しい私に立ちかへらなければならない」とあります。さて、正しい私に立ちかへるためにはどうしたらいいのか。山頭火にとっての一番よい方法は、旅にでることでした。一度は近くまで行きながら念願を果たせなかった井月墓参を、ここで改めて思いつくのです。
三月廿一日 晴――曇、また雨らしい。
お彼岸日和らしく。――S屋で朝飯をよばれて帰宅。Yさんはどこかにしけこんで、まだ帰らないらしいが、早く帰りたまへ、仕事に精出したまへと祈る。午後は散歩、うらうら春を歩いた、御堀まで歩いて、W家を見出して、中学時代の回想に耽つた、あれから四十年、その部屋は昔のままに残つてゐた。水にそうて歩く、――春をしみじみ感じる。古雑誌を燃やして飯を炊き茶を沸かす、わびしいと思はないでもないが、不平ではない。このごろ私はよく食べよく睡る、極楽々々。湯田にゐて湯にはいれないことはさびしいと思ふ。近来、私は人間に接触しすぎたやうである、何だか嫌なものがこびりついたやうである、早く旅に出て、その嫌なものを払ひ落したい。待ちうけてゐる手紙が来ない。……
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946845076&owner_id=7184021&org_id=1946877010 【山頭火の日記(昭和14年3月31日~、道中記・昭和十四年)】より
『道中記』(昭和十四年)
道中記
三月卅一日 曇。
夕方になつてやうやく出立、藤井さんに駅まで送つて貰つて。――春三君の芳志万謝、S屋で一献! 白船居訪問、とめられるのを辞して、待合室で夜明の汽車を待つて広島へ。
春の夜の明日は知らない
かたすみで寝る
句はまづいが真情也。
【旅日記(昭和十四年)】
『旅日記』(昭和十四年)には、昭和14年3月31日から昭和14年5月13日までの日記が収載されています。
四月二日 雨、仏通寺(豊田郡高坂村)。
澄太君に導かれて仏通寺へ拝登する。山声水声雨声、しづかにもしづかなるかな、幸にして山崎益道老師在院、お目にかかることが出来た。精進料理をいただきつつ、対談なんと六時間、隠寮はきよらかにしてあかるし。杉本中佐の話は襟を正さしむるものがあつた、夜が更けたので泊めてもらつた、澄太君はやすらかな寝息で睡れているのに、私はいつまでも眠れなかつた、ぢつとして裏山で啼く梟の声を聴いてゐた、ここにも私の修業未熟があらはれてゐる、恥づべし。
仏通寺(許山一宿)
あけはなつや満山のみどり
水音の若竹のそよがず
山のみどりのふかぶか雲がながれつつ
塔をかすめてながるる雲のちぎれては
ほんにお山はしづかなふくろう
【あけはなつや満山のみどり】
この日の日記に、「山声水声雨声、しづかにもしづかなるかな、幸にして山崎益道老師在院、お目にかかることが出来た。精進料理をいただきつつ、対談なんと六時間、隠寮はきよらかにしてあかるし」とあり、「あけはなつや満山のみどり」の句があります。あてどないさすらいの旅の中の心静かな一日でした。三原市高坂町の仏通寺境内に、この句の句碑があります。
四月十四日 晴、魚眠洞居。
旅も一人の春風に吹きまくられ
波音の菜の花の花ざかり
春まだ寒いたんぽぽたんぽぽ
指のしなやかさ春の日ざしの
杉菜そよぐのも春はまだ寒い風
かすんでとほく爆音のうつりゆくを
山羊鳴いて山羊をひつぱつてくる女
うらうらやうやうたづねあてた
椿は落ちつくして落ちたまま
四月十五日 花ぐもり。
この旅死の旅であらうほほけたんぽぽ
虫がぢつとガラス戸のうちとそとと
たんぽぽひらく立つことにする
吹きつめて行きどころがない風
これがおわかれのたんぽぽひらいて
【この旅死の旅であらうほほけたんぽぽ】
この日の日記に、「この旅死の旅であらうほほけたんぽぽ」の句があります。「死の旅」といういいかたに深刻味がなく、むしろ毎度の事で、の満足感があるのは、これで良かったの明るさがあります。
四月十六日 曇、吟行。
青麦ひろびろひらけるこころ
業平塚
はこべ花さく旅のある日のすなほにも
枯草にかすかな風がある旅で
無量寿寺
くもりおそく落ちる椿の白や赤や
明治用水々源池
さくらがちれば酒がこぼれます
緋桃白桃お嫁さんに逢ふ
依佐美無電局
花ぐもりの無電塔はがつちりとして
【青麦ひろびろひらけるこころ】
この日の日記に、有名な「青麦ひろびろひらけるこころ」の句があります。
【業平塚】
また、「業平塚」として、「はこべ花さく旅のある日のすなほにも」「枯草にかすかな風がある旅で」の2句があります。愛知県知立市八橋の無量寿寺から、歩いて10分くらいのところに在原寺があります。業平の分骨を葬った時に、かたわらに小堂を建てたのが起源といいます。この在原寺に、この2句と「むかし男ありけりという松が青く」の句碑があります。
【花ぐもりの無電塔はがつちりとして】
また、「依佐美無電局」として「花ぐもりの無電塔はがつちりとして」の句もあります。昭和14年、山頭火は刈谷市の稲垣稔の家を訪れた際に、依佐美村にある送信塔(第一次世界大戦時にドイツの青島基地にあったものを移設)を見てこの句を詠んでいます。稲垣道場にこの句碑があります。
四月十七日 曇。
逢うて菜の花わかれて菜の花ざかり
いちめんの菜の花の花ざかりをゆく
さくらちりかかる旅とたつたよ
旅もいつしかおたまじやくしが泳いでゐる
途上
未定稿(作品そのものは――)
未完成稿(芸術家その人は)
旅やけ! ルンペンの色!
【知多半島】
この日の日記に、「旅もいつしかおたまじやくしが泳いでゐる」「逢うて菜の花わかれて菜の花ざかり」の句があります。昭和14年春、死期を悟った山頭火は、このころ知多半島を歩いています。尾張・三河・信濃を遍歴し、途中、美浜町河和の「層雲」誌友・斎藤帰城子や南知多町内海の俳人・橋本健三を訪ねています。健三は、内海在住の画家・稲垣勇次郎(雅号半月庵)を誘い、近くの山寺で酒を酌み交わしました。半月庵には、良質の鉱泉あふれる「蛤水」と呼ばれる泉があり、近所でも評判の名水でした。
また、南知多町内海一色の熊野神社下遊園地内に、「波音の松風となる水のうまさは」「枕ならべて二人きりの波音」「ひとり兎を飼うてひっそり」の句碑があります。さらに、知多半島の先にある佐久間島に、「島嶋の人が乗り人が一人春爛漫」「波の上はゆき違う挨拶投げかけかわしつつ」の二つの句碑があります。さらに、篠島観光ホテル大角に、山頭火の自筆かどうか不明ですが「歩きつづけて荒波に足を洗はせてまた」の色紙も残っています。
四月十九日 曇つたり晴れたり、花ぐもりだ。
八時出立、礫浦まで送られて別れる、健三君よ、ありがたう、どうぞ幸福であつて下さい。旅立つてから、初めて私の旅らしくなつた。師崎まで海岸づたひに三里強。至るところ、てんぐさが干してある、わかめがほしてある、いかなごが干してある。いたどりの若芽が旅情をそそる。おかめさん――龍亀大菩薩の墓標。遍路シーズンなので、おへんろさんの群がつづく。師崎は物価の高い場所らしい、二三杯ひつかける。新四国第三十六番、遍照寺、いやな風景の一つ。三時の船で福江へ、海上二時間の眺望はよかつた。島へ帰る人々、港の女! やうやく福江に着いて、あちこち探して、よささうな宿を見つけた、吉良屋。おとなしくやすらかな一夜であつた。
浦波おだやかなてんぐさ干しひろげ
右も左も網干してある花のちる道を
春の山からころころ石ころ
大魚籠はからつぽな春風
歩きつづけて荒波に足を洗はせてまた
春風の声張りあげて何でも十銭
花ぐもりの、病人島から載せて来た
出船入船春はたけなわ
島へ花ぐもりの、嫁の道具積んで漕ぐ
島島人が乗り人が下り春らんまん
やつと一人となり私が旅人らしく
波の上をゆきちがふ挨拶投げかはしつつ
春の夜の寝言ながなが聞かされてゐる
【春の山からころころ石ころ】
この日の日記に、「春の山からころころ石ころ」の句があります。「春の山」の生命律を、そこから「ころころ」と転がってくる「石ころ」に自然律があります。美浜町の知多半島ユースホステルに、この句と前日に詠んだ「伊勢は志摩はかすんで遠く近く白波」と「啼いて鴉の飛んで鴉のかへるところがない」の句碑があります。
四月二十日 曇――雨。
早々出発、伊良湖崎へ、――二里。若葉のうつくしさ、雀のしたしさ。街はづれの潮音寺境内に杜国の墓があつた、芭蕉翁らの句碑もあつた、なつかしかつた。沿道は木立が多い、豌豆の産地である、家はみな相当の大きさで防風林をめぐらしてゐる。伊良湖明神はありがたかつた、閑静なのが何よりだ、御手洗は汲上井戸だがわるくなかつた、磯丸霊神社とあるのもうれしかつた、芭蕉句碑もあつた、例の句――鷹一つが刻んであつた。岬の景観はすばらしい、句作どころぢやない、我れ人の小ささを痛感するだけだ! なまめかしい女の群に出逢つたのは意外だつた、芭蕉翁は鷹を見つけてうれしがつたけれど、私は鳶に啼かれてさびしがる外なかつた。易者さんですか、俳諧師ですよ! ――砲声爆音がたえない、風、波、――時勢を感じる、――非常時日本である。今日は道すがら、生きてゐてよかつたとも思ひ、また、生き伸びる切なさをも考へた。岬おこし、磯丸糖、――芭蕉飴などはいかが! 伊良湖から日出(ひい)、堀切、小塩津、和地と歩いた、豌豆の外に花を作つている、金盞花が多かつた、養鶏も盛んである。途中からバスに乗つて、赤羽根といふ漁村のM屋に地下足袋をぬいだ(昨夜の吉良屋老人に教へられた通りに)、予想したよりも、さびしい寒村であつた、宿も何だか変な宿だつたが、それでもアルコールのおかげで、ぐつたり寝た。――たうとう雨になつた。伊良湖の荒磯で貝穀を拾ひ若布を拾うたことは忘れられない。
穂麦まつすぐな道が伊良湖へ
鳶啼くや花ぐもり明るうなる
風が出て来てからたちの芽や花や
道しるべやつと読める花がちるちる
松のみどりの山のむかうの波音
とんびしきりに鳴いて舞ふいらござき
風は海から吹きぬける葱坊主
芽吹いて白く花のよな一枝を
岩鼻ひとり吹きとばされまいぞ(伊良湖岬)
吹きまくる風のなか咲いてむらさき
潮騒の椿ぽとぽと
波音の墓のひそかにも
風のてふてふいつ消えた
波音のたえずして一人(赤羽根の宿)
花ぐもり砂ほこり立てていつてしまつた
――(或る日或る時)――
麦に穂が出るふるさとへいそぐ
伊良湖岬
荒磯ちぎれ若布を噛みしめる
風吹きつのる汽車はゆきちがふ
若葉へ看板塗りかへてビールあります
沿道は木立が多い、豌豆(えんどう)の産地である、家はみな相当の大きさで防風林をめぐらしてゐる。伊良湖明神はありがたかつた、閑静なのが何よりだ、御手洗は汲上井戸だがわるくなかつた、磯丸霊神社とあるのもうれしかつた、芭蕉句碑もあつた、例の句――鷹一つが刻んであつた。岬の景観はすばらしい、句作どころぢやない、我れ人の小ささを痛感するだけだ! なまめかしい女の群に出逢つたのは意外だつた、芭蕉翁は鷹を見つけてうれしがつたけれど、私は鳶に啼かれてさびしがる外なかつた。易者さんですか、俳諧師ですよ! ――砲声爆音がたえない、風、波、――時勢を感じる、――非常時日本である。今日は道すがら、生きてゐてよかつたとも思ひ、また、生き伸びる切なさをも考へた。岬おこし、磯丸糖、――芭蕉飴などはいかが! 伊良湖から日出(ひい)、堀切、小塩津、和地と歩いた、豌豆の外に花を作つている、金盞花が多かつた、養鶏も盛んである。途中からバスに乗つて、赤羽根といふ漁村のM屋に地下足袋をぬいだ(昨夜の吉良屋老人に教へられた通りに)、予想したよりも、さびしい寒村であつた、宿も何だか変な宿だつたが、それでもアルコールのおかげで、ぐつたり寝た。――たうとう雨になつた。伊良湖の荒磯で貝穀を拾ひ若布を拾うたことは忘れられない。
穂麦まつすぐな道が伊良湖へ
鳶啼くや花ぐもり明るうなる
風が出て来てからたちの芽や花や
道しるべやつと読める花がちるちる
松のみどりの山のむかうの波音
とんびしきりに鳴いて舞ふいらござき
風は海から吹きぬける葱坊主
芽吹いて白く花のよな一枝を
岩鼻ひとり吹きとばされまいぞ
吹きまくる風のなか咲いてむらさき
潮騒の椿ぽとぽと
波音の墓のひそかにも
風のてふてふいつ消えた
波音のたえずして一人(赤羽根の宿)
花ぐもり砂ほこり立てていつてしまつた
麦に穂が出るふるさとへいそぐ
荒磯ちぎれ若布を噛みしめる
風吹きつのる汽車はゆきちがふ
若葉へ看板塗りかへてビールあります
【伊良湖岬】
山頭火は昭和14年3月、長野県伊那の俳諧師・井上井月の墓参のため東へ向かいました。広島から大阪まで船で行き、京都、名古屋を経て、4月20日、渥美半島の潮音寺にある芭蕉の弟子・杜国の墓に参り、伊良湖岬まで足を伸ばしました。この日、「はるばるたづね来て岩鼻一人」の句を詠んでいます。
【潮音寺】
潮音寺境内には杜国の墓碑があり、その右に芭蕉ほかの三吟句碑があります。貞享4年(1687)4月、芭蕉44歳のとき「笈の小文」の途中、門弟越人を伴って、渥美に隠棲している愛弟子の杜国を訪ねました。再会した師弟がその時詠んだのが次の三吟の句です。野仁とは杜国の別号です。
麦はえて能隠家(よきかくれが)や畑村 はせを
冬をさかりに椿咲く也 越人
昼の空のみかむ犬のねがへりて 野仁
潮音寺に、「あの雲がおとした雨にぬれている」「波音の墓のひそかにも」の山頭火句碑があります。句の選定と揮毫は、山頭火の親友・大山澄太です。
【芭蕉句碑】
芭蕉句碑には、「鷹ひとつ見付て嬉しいらこ崎」の句があります。季節により、伊良湖から鳥羽へ海峡を越える鷹がみられるといいますが、季節によっては、ヒヨドリの渡りの時期もあります。
四月廿五日
黙祷
松のみどりのすなほな掌をあはす
若葉へあけはなちだまつてゐる
雀のおしやべり借りたものが返せない
春寒抜けさうで抜けない歯だ
天龍さかのぼらう浜松の蠅をふりはらふ
浜名街道
水のまんなかの道がまつすぐ
【水のまんなかの道がまつすぐ】
4月23日の日記に、「白須賀公園、潮見坂の眺望、ここで折君が自身をも入れて撮影する。大平洋の壮観、そこでちよつと昼寝する。新井まで徒歩、新井関阯」とあり、山頭火はこの日二度目の遠州路・新井宿を旅しています。この日(25日)の日記に「浜名街道」と題して、句集『草木塔』にある当時の浜名街道を直截に詠んだ「水のまんなかの道がまつすぐ」の句があります。新居駅西方100mの国道301号(浜名街道)沿いの小公園に、この句碑があります。別に山頭火の句に有名な「まつすぐな道でさみしい」があり、また句集『草木塔』に「わかれてきた道がまつすぐ」があります。山頭火は、放浪の道を自ら選んではいたものの、度々俳友を訪れて孤独を癒しています。会う時の喜びが大きければ大きいほど、別れが辛いのは世の習い。それでも無理に背中を見せて歩くこと暫く、もう友の姿も見えなくなった頃合いになって、こらえきれず振り返った山頭火が見たものは・・・。そう、まっすぐただまっすぐなばかりの道なのです。「まっすぐな道でさみしい」では、さみしさを感じながらも孤独を既に受け入れている山頭火でしたが、ここには孤独に追い討ちをかけられているような受け身の山頭火がいます。
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