生きもの感覚~俳句の魔性~ ②

https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/opdf/456.pdf 【第 76 回総会記念講演生きもの感覚~俳句の魔性~】 より

そこで気づきましたことは、命というのが大体わかりました。彼らの姿を見ておりましたら、命というのはこういう߽のだ。人間の命というのはこういう߽のなんだなと思いまして、そして見ていますと、本能と私はいっているんですが、命というのは本能という触覚を出して生きてい߽ものなんだ、ということを自分で気づきました。

それで、その触覚は、世間の中を生きるわけですから、世間の中で触覚を動かしていると、

どうしても 自分自身߽も欲に囚われる。いわゆる「五欲兼備、煩悩具足」という、この姿が軸になってきまして、欲にとらわれる。その欲というものが人間の生の姿か߽ら離れないということが一つわかりました。

常にナイーブな感性を持っている。これは後から申しあげたいと思いますが、「原郷」、人間の心の中には大もとのふるさとがあって、その原郷を指向している本能の動きというのがある。それを私は「生きもの感覚」といっているんですが、この生き߽もの感覚という߽のを、結構、本能が探し出すというか、求めていくというかそういう動き߽もする。そういう触覚の動きもある。両面があ。

それで、この両面があるから、人間、何とか生きているのだというふうなことに気づき始

めます。それから、原郷というのは、そこに育ったと思われる生き߽もの感覚ってどんな߽もの

だう、というふうに思うようになりました。それを見定めてみたい、そんなことで、小林一茶について、とくといま一遍見定めて見ようというふうな気持ちになった。

きょうは、そんなことをぐずぐず抽象的なことをいって߽始まりませんので、小林一茶につ

いて、そのことを私が承知できたことを、ちょっとご報告してみたい、こんなふうに思うわけでござい߹す。

小林一茶は、ちょうど数えの 60 歳のときでございますが、彼は浄土真宗の門徒で、かなり

晩年は手厚い門徒だったのですが、如来信仰が厚いわけです。その如来様に向かって、自分は荒凡夫になࠅたい、と。荒っぽい平凡な男ですね。

私は、一茶の行状とか思いをたどると、荒いというのを、彼は多分粗野というふうな思いで

書いたと思うんですが、私は自由と読みたい。また、自分に引きつけて߽も自由という読み方をしたい。荒凡夫というのは、平凡で自由な男、平凡で自由な人間というふうに読みたいわけなんですが、荒凡夫でありたい、と。如来様、自分を荒凡夫として生かしてくれ、というふうなことを日録に書いておりました。あの人は毎日毎日日録を書いておりました。

余談ではございますが、亡くなった井上ひさしさんがやっぱり一茶が好きでござい߹して、

一茶のことを戯曲にしております。あの方と対談したときに、自分は戯曲を書くとき非常に遅筆で、俳優さんが待っている状態なのに߽かかわらず、自分の戯曲ができないということが多い。とこࠈが、一茶は毎日毎日、恐らく 30 代ぐらいから毎日毎日、短い߽のですけれど߽、

ずうっと日録をつけている。その日録をつけているという、この一茶をみると、自分߽毎日毎

日日記で߽もつけていれば、もっと遅筆の解消になったんじゃないだろうか、߽もっと筆が早くなったんじゃないだろうか、としみじじみいっておられたのを覚えております。とにかく、一茶は丹念に、毎日毎日、短い߽ものですけࠇど߽も書いております。

荒凡夫として生かしてください

ある人から聞いたところでは、漂泊とか放浪者といわれる人には、そういうメモ魔というか

記録魔というのが多いという。多分、その範疇に入るんじゃないかと思いますが、彼は旅暮らしの多い男でしたから、そう思いましたけれどもとにかく記録しておりました。その記録の中に、ちょうど 60 歳の正月のときに、彼は、如来様、自分は荒凡夫として生きたい、ぜひ生かしてくれ、こういって書いています。

その荒凡夫というのはどんなことなんだうと思いましたら、彼はこんなふうなことを言っている。自分は長年、ずうっといままで 60年の間、煩悩具足、五欲兼備で生きてきた。つ

まり、欲の塊で生きてきた。こういう生き方をする人間のことを、彼は愚だという。自分は愚の上に愚を重ねてきた。「愚」という言葉を使っています。愚の上に愚を重ねて生きてきた。

これ以上の生き方がない。とて߽心美しくとか、そんなことはとて߽も無理だから、とにかくこの欲のままで生かしてください。それが「荒凡夫として生かしてください」ということだったんですね。

荒凡夫として生きるということは、それでわかるし、私自身߽もいまご紹介にあったように自由で平凡な男――。つまり、可能な限り欲を満たしながら生きていきたいというのは、私の理想で߽あります。いわゆる偉くなる、名誉欲というのはそれほどございませんから、とに

かく自分の思うままに生かしていただく、というのは私の願いで߽ございますので、一茶をそ

こでみまして、ああ、一茶の願いとおれの願いと重なるなあというような気持ちになった。

しかし、それにして߽もそれだけで生きれるかという保証はない。どこかその愚を支えてい

た、心の߽もっとソフトな部分やわらかな部分というのはあるはずだ。これは一茶の作品を見ればわかるんじやないだろうか。こう思いまして、一茶の作品、2 万句ほどございますが、こ

れはいまで߽もどんどん発見されております。まだふえております。芭蕉のごときは 1,200 ぐらいしかないですね。数からいったら問題になりません。一茶の場合はどんどんできるわけですが、それを読んでみました。読んでみましたら、そこで、私は生き߽もの感覚というのを承知できたわけなんです。ああ、これが生き߽もの感覚なんだ、と。

俳句なんか、ご存じない方߽たくさんいらっしゃるでしょうけれど߽も1~2 例句を出させ

てもらいますと、「花げしのふはつくやうな前歯哉」という句をつくっております。49 歳で

彼は前歯がふわふわ緩くなりまして、自分の舌でフガフガフガと後ろから突いて遊んでいた

ようでございます。暇つぶしをするときに、ふわふわした歯をフガフガさせて遊んでいたようでござい߹す。「ふはつくやうな前歯」というのはそれなんですね。この感じがけしの花び

らのようだという、この感覚に、ちよっと私は驚きました。

江戸の終わりごろの人です。文化・文政期に活躍した男です。しか߽も庶民です。黒姫高原の根っこの柏原というところに育った農家の子です。しか߽も中農です。豪農じゃございません。そういう男が、このふわつく自分の歯が花げしのやうな感じだという。こんな洗練された感覚、しかもやわらかな生き߽のの、まさに触れ合う感じ、この感覚を持っていたということに、私は驚いたのでございます。49 歳のときの句ですから、驚きました。

生きものをそのままにみる一茶

それから、一茶といえばご承知のこの句が出てくるわけです。「やれ打つな蠅が手をすり足

をする、これは「ハイ」といわず「ハエ」というらしいんですが、「やれ打つな蠅が手をする足をする」。

学者に蠅の生態ということを聞いたことがあるんですけれど߽もその学者の説明によりますと、蠅というやつは、どっちが手でどっちが足ということ߽ないんでしようけれど߽も4 本足があるわけですね。この足の先端で全部の߽ものを識別するんだそうでございます。ですから、ブーンと飛んでいって、私の頭にとまると、あ、これはハゲだとわかる。それから、ブーンと行って、あ、これは刺身だ、こういうふうにわかる。ブーンといって、あ、これはクソだとわかる。そういうふうに 4 本の足の先端部でいつも識別してい߽る。

そのために、彼は暇があれば、ここを磨くのだそうでございます。ですから、一茶はそうい

う害を加えない男だというふうに蠅に߽わかっていたらしいんでございまして、一茶の前で

ブーンと――あのころはたくさんおりますから――きて止まった。一茶がそれをボーと眺め

ていたと、蠅は安心してここを磨いている。つまり先端の感度をよくしているわけでござい

ますね、磨いてやってる。それをみて、ああ、やっているな、やっているなと、一句つくっているわけです。



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