https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/opdf/456.pdf 【第 76 回総会記念講演生きもの感覚~俳句の魔性~】 より
俳 人金子兜太氏2010年5月28日
90歳の前衛俳人の旺盛な生命力とおおらかさと深さと明晰さと美しさに直に触れることができた。小林一茶、種田山頭火の生き方や句を引いて、さらには自身の産土・秩父体験を߹じえ、俳句の魔性を説明した。
「五欲兼備、煩悩具足」の愚者としての存在と、大昔、人類が森の生活で養った精霊を感ずるような「アニミズム」との両面が、一茶の内面をたどるかたちで語られた。金子さんは後者を「生き߽の感覚」と呼ぶ。「森の中には土があり߽生きものたちがたくさんい߽、みんな平等だということですねߺ。生きものが生き߽のを愛し合って生きる。個々の生き߽のに命を認めて、そこに精
霊を感ずずるような状態…」。人は誰߽がこの太古の信仰へのあこがࠇを有する。それを俳人は「原郷指向」と表現した。
斎藤史郎(日本経済新聞専務取締役) 皆さん、こんにちは。日本記者クラブ理事長の斎藤
でござい߹す。本日は、日本記者クラブ総会の記念講演ということで、俳人の金子兜太さんをお招きしております。皆さんよくご存じの方であࠅ߹すが、大変変化に富んだ人生というか、キャリアを歩んでまいられたようでござい߹して、改めて少し紹介させていただきます。
金子さんは 1919 年 8 月、埼玉県のお生まれでござい߹す。1919 ということで、イックイ
ック(一句一句)ということで、まさに俳句の道に進むために生まれてこられたようなことで
はないかと、よくいわれております。
お父様が東亜同文書院で校医をされていた関係で、2 歳からࠄ 歳まで上海で過ごされまし
た。その後、旧制水戸高等学校から東京帝国大学経済学部に入学され、1943 年に繰り上げ卒
業で日本銀行に入行されました。その日銀をわずか 3 日で退職さࠇて、海軍経理学校に入校、
翌年には主計中尉としてトラック島夏島に赴任されました。そして、1945 年、秋島に移動
し敗戦を迎えられした。米軍の捕虜となった後、46 年に最後の引揚げ船で復員、日本銀行
に復職されたと聞いております。
日本銀行では、組合の初代専従事務局長を務めた後、福島、神戸、長崎の各支店勤務などを
経て、1974 年に退職されました。
俳句との出会いは高校生のときだとうかがっております。お父様߽も俳人でいらっしゃいましたので、その影響߽お受けになったのではないかと思います。お母様が当時「兜太、俳句なんかするもんじゃないよ。あれはけんかだからね」といわࠇていたに߽かかわࠄず、俳句の世界に入っていかれたようでござい߹す。
日銀時代、約 10 年にわたって地方で勤務されたわけですが、中で߽神戸時代に俳句に専念を決意さࠇ、このときがその後の前衛俳句運動の原点となりました。
1962 年には同人誌「海程」を創刊、後に主宰されています。1983 年に現代俳句協会会長、
1988 年紫綬褒章、2003 年日本芸術院賞、2005年日本芸術院会員、2008 年文化功労者、と数々の栄誉をお受けになっていらっしゃいます。
著書߽多数おありで、Amazon で著書を検索したところ、実に 160 冊が表示さࠇたと聞いております。いまや世界じࠀうに広がる俳句の世界の最先端を、い߹だに現役で走っていらっしゃいます。
俳句や人間の生き方について、金子さんはいろんなところで、いろんな場所で、いろんな言
葉でいっておられます。あるところではこういうふうに߽いっておられます。「私は花鳥とと
߽に人間を書きたい、いや、何߽より人間を書きたい」といっておられます。また、104 歳ま
で生きられたお母様について詠んだ句には、こんな、ちよっとびっくりするような表現の߽ものがあります。「長寿の母うんこのように我を産みぬ」というのです。こࠇが名句なのかどうか、私にはよくわかりませんけれど߽も多分間違いなく名句なんでしょう。
また、生き方についてはこういうふうに߽いっておられます。「本能を制御しない、ユルフ
ン(緩褌)の生き方」――ユルフンというのは、褌を緩くという、その緩褌だと思います。ユル
フンの生き方を勧めておられたやに߽聞いております。
ということで、本日の演題は「生き߽の感覚・俳句の魔性」でござい߹す。どんな話がうかがえるか、大変楽しߺでございます。では、金子さん、よろしくお願いいたします。
金子兜太 ご紹介いただきました金子でございます。いろいろ前座で申しあげたいことが
あるわけですけれど߽も というのは、俳人がここへ呼ばれてお話をしたのは初めてだと思い
ます。何かリストをいただいたのには、吉永小百合さんがありましたけれど߽も俳人はなかっ
た。だから、そういう意味で߽も初めはちよっとこちらがビビッていたわけですけれど߽もいろいろな事情があって、だんだんそういうふうなのがなくなりまして、今、非常にさわやかな気持ちでここへ座っております。
いまのご紹介をうけて、前座をいろいろ申しあげたほうがいいような気になってきたんで
すけど、時間の関係でそれはやめまして、本論をさせてࠄもらいます。
記者になりたかった父親
それで߽もただ一つだけ申させていただきますと、私の父親が田舎の開業医で、秩父という
山国の開業医で、そこで死んだ男ですが、おやじが新聞記者志望者だったんです。田舎の農家の長男でござい߹して、親戚の多い家でございますが、その連中が集まりまして、みんな貧しかった߽のですかࠄ、一人ぐࠄい医者にしておけば、自分たちが死ぬときに何とかなるだろう、そういうことで、親戚じゅうを見回して、一番医者になりそうなやつはいねえかと探したんですな。そしたら、私のおやじに白羽の矢が立ちまして、親戚会議で、これを医者にしょうというので、独逸協会中学に入れたわけです。
ご承知の水原秋桜子という、「馬酔木」の主宰で、ホトトギスの虚子の有力な弟子の一人で
すけࠇど߽も水原秋桜子さんと同級生でございました。
そして、医者の学校のどこへ入るんだろうかと親戚が期待しておりました。そうしたら、来
た電報が、早稲田大学から来たんです。驚きまして、聞きましたら、おれは新聞記者になりたいんだ。だから政経に入った。こういうことで、ここで慌てて、こいつを医者にしておけば、何とか我々が死ぬときは医者にかかって死ねるとかというような思いでいたわけですからそれがいなくなっちやうんじや大変だというわけで、また親戚会議を開きまして、みんなで哀願しまして、それで医者にした。
そのときに、いまからで߽受験できた医者の学校はないかというので探したら、二つしかな
かった。二次募集をしていたのは。そのうちの一つが京都府立医専、いまの府立医大でございますが、それがあいていましたので、そこへ入った。それで、そこを卒業して、そういう男なのですから、すぐ上海に行ってしまって、いまのご紹介のように同文書院の校医をした、という経緯でございます。
私が長ずるに及んで父親の雰囲気というのをみると、どう߽も医者の雰囲気というのではな
いわけです。最後までそういう雰囲気じやなくて、もっぱら、なるほど新聞記者になりたかったんだなと思った、そういうタイプの男でした。
そういう点で、私は内心、新聞記者という仕事には親しみを持っております。私߽も実はそれ
に――それにというと、みんなここにおられるのは新聞記者なんだから、それにという言い方は失礼ですが――私もなりたいと思ったことは実はあるのでござい߹す。あるのでございま
すけれど߽も戦争中だった߽んですから、こんなことになったんですが。
そういうわけでござい߹して、何となく私は初めビビッておりましたが、だんだんそのこと
を思い出しましたら、結局、おやじさんのような面をした人たちがこんなたくさんいるんだ、 年が多分皆さんは私より小さいだろうそう思いまして そうだったら、私の勝手なことをいわせてらおう、そういうふうに考えまして、ここに参上した次第でございます。
ちࠂうど 27 歳でトラック島という戦地から帰って߹いりまして、それからいろんなことを
やりましたが、その中で、例の 60 年安保、安保闘争、あのときにちょうど東京へ戻って来て
いました。10 年間地方回りをしておりましたが、ちょうど安保闘争の昭和 35 年、1960 年
に東京へ戻りまして、安保の後の空気を直接体験したわけでございます。
そのときに、俳句の世界では現代俳句協会というのが全国組織としてあったのでございますが、それがちようど安保闘争の翌年、昭和36 年に分裂いたします。そして、それまでは
社会性なんていうことをスローガンにもっていたんですけれど߽も分裂してできました俳人
協会というのが、虚子のいった「有季定型」、これをスローガンに掲げまして、完全に対決姿勢をとった。そういう現象がありました。
ことほどさように、どんどんいろんなことが変わっていったわけですが、それを目の当たࠅ
に見た。それから間߽なく東京オリンピック大会がありまして、そのオリンピックの後で高度
経済成長に入ったというわけでございます。
私が 50 歳のとき、ちようど高度成長経済の終わりごろになりますか、1970 年代の半ばぐ
らいかな、そのときに熊谷というとこࠈへ越しまして、いま熊谷に住んでおります。
人間のナマの姿を知りたい
そのとき、どう߽も人間というのは、それまで社会の中の人間というような、そういう見方を
しておったんですが、社会の中の人間じやなくて、社会を外して、人間そのものをとくと見ないと、どう߽もいろんなことの判断が十分じやないんじやないかというふうに気づきました。遅きに気づいたと申すべきなんでしょうけど߽も気づきまして、それならば、自分はどうせ俳句をやっているんだから、俳人の先輩たちを見つめてみようと考えた。例えば江戸期の小林一茶――江戸の終わりごろの庶民の俳諧師ですが――あるいは大正期から昭和期にかけて、ほとんど全国といっていいほどの規模で放浪しました種田山頭火、それから、それまでは保険会社に勤めていたんですが、晩年の 3 年間放浪状態に入りまして、小豆島で放浪者のまま死んでし߹った尾崎放哉、こ߽れも東大を出ているわけですが そういう連中がいる。
一茶は漂泊者といわれておりましたが、そういう放浪者とか漂泊者、そういう連中のことを見れば、そのありていを見れば、生きざまを見れば、人間の生なまの姿がわかるんじゃないだろうか。そう思うようになりまして、そࠇで彼らの姿を見ようと、ある程度の勉強をした――勉強したというの߽おかしいんですが、彼らの本を読んだ もちろん俳句も読んだわけでござい߽ます。
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