http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html#Anchormazu 【サンカ(山窩)を考える】より
まずはじめに
サンカ(山窩)に対する想いを、Webページにするにあたり、僕の拙い知識と文章で掲載することに戸惑いがありました。しかし、あまりにもサンカ(山窩)に関する情報が少なく、戦後生まれにおいては、その存在すら知らない人が殆どだと思います。それは意図的な山窩隠しが、国家側によるものなのか、あるいは自らの手によるものかは分かりませんが、明らかにおこなわれてきた結果 だと思います。僕としてみれば、この行き詰まった状態にある今の地球にあって、自然を愛して共生する、自発的貧困ともいえる質素で簡素、素朴な生活を送り、本当の豊かさを知り、自由で誇り高く、弱者に対して慈しみの精神を持った山窩の生き方こそ、現在の日本に光りをそそぐ生き方だと思っています。山窩を知る人達の中には多少綺麗事だと云う人もいるかも知れません。確かに犯罪を犯したりヤクザになった人達もいたでしょう。明治から昭和へと加速度的に物質的豊かさを求めた時代の中、その質素で被差別 的な生活を嫌い、瀬降りを捨て一般社会に溶け込み、物質的豊かさを追い求めた人達もいたでしょう。しかし、ヤクザの中にも一般 に溶け込み何代か経て、山窩の流れを汲む意識も自覚も無く普通に暮らしている人達、また政治的、経済的、社会的に成功した人達、また周辺から差別 された処において生活している人達の中に、今も山窩の魂は生き続けていると思いたいのです。ですから魂よ蘇れと云う思いで掲載するに至りました。僕は民俗学を学んだこともなく、また研究者といえるほどのこともありません。ただただ山窩の真実が知りたくて、自分なりに調べ、感じ、思ったことを書いたにすぎない旨を汲んで頂けたらと思います。なにぶん若輩者ですので随時書き直しをすることがあると思いますが、ご了承下さい。
呼称について
サンカ(山窩)と云う呼び名は、あくまでも外部からの呼称であり、近代(明治以降)になってから官憲用語として使われ始め、一般 で使われるようになったようです。しかし明治以前にもサンカと呼んでいた地方があったようで、地方により箕作り・箕直し・テンバモン・オゲ・ポン・カワラコジキ・などと呼ばれていたようです。自らはサンカと呼ばれることを嫌いショケンシ(世間師)・ケンシ・ヤコモンなどと称していたようです。山窩と云う言葉のイメージには、当時の国の方針により、あまりにもネガティブ(犯罪者集団など)で差別 的なものがあり、本来は使いたくはないと思っていますし、実体をあらわしたものとは思えませんが、民俗学一般 にて使われているので、あえて使うことにしました。アメリカにおいてインディアンの呼び名がネイティブアメリカンと呼ばれるようになったように、本来は原日本人と呼ぶべきかもしれません。
山窩(サンカ)とは
一言に山窩と云っても様々なタイプがあったと思われますが、代表的な山窩とは戸籍を持たず、定まった所に定住することなく、竹細工と川魚などの狩猟、山の恵みの採取を生業として、人目の付かぬ 河原などに瀬降り(独自のテントのようなもの張り生活すること)時折人家近くにあらわれては、主に農作業で使う箕などと穀物や野菜、時にはお金と交換し、季節と共に違う場所に移動する生活をしていました。近代日本にあっても戸籍を持たず、縄文の長きに渡って培われた、自然を愛し共生する精神性の高い、また自発的貧困とも言える質素、簡素、素朴な霊性の高い生き方をしていたと思っています。
サンカの資料について
山窩に関する正確な資料、書物は数が少なく、また何人かの研究者(三角寛氏、柳田国男氏、宮本常一氏、後藤興善氏、清水清一氏、喜田貞吉氏、荒井貢次郎氏、菊池山哉氏、八切止夫氏など)が山窩のことを研究発表した書物がありますが、手に入れるのが困難な本も多いです。手に入れやすいところとして田中勝也氏の[サンカ研究]や佐治芳彦氏の著作にサンカに関するものが何冊かあります。個人的な意見ですが、五木寛之氏の小説[風の王国][戒厳令の夜]は山窩を題材にしたもので、資料としてだけでなく、小説として大変素晴らしく、山窩と呼ばれていた人達の感性や魂が伝わってきます。また[鳥の歌]は山窩の子孫とも思える主人公のひとりが、現在の中に自らのアイデンティティの確立を模索する姿を感じたりします。また山窩を題材にした映画[瀬降り物語]にも山窩の姿をイメージすることができます。山窩のことに興味を持ち始めた頃に、一通 り、めぼしい文献に目を通しましたが、何か物足りないなと思っていました。そんな時に知人から[風の王国]を教えられて読みましたが、小説の中に自分の求めていたものを、あまりにも感じ過ぎまして、魂が震えるような感動を覚えました。
サンカの特徴
男は凛々しい顔をしていて眼光が鋭く、それでいて穏やかで物静かな感じであり、手先が器用で一途で律儀な人が多かったようです。独自の言葉を使い、やはり一般 の人達とは雰囲気が違ったらしいです。そして美人が多かったなんてのは本当に心ひかれたりしてたまりません。それと文献からと直接接した人の話しから、僕が一番好きな部分ですが、弱者に対してのいたわりの精神です。戦前の話では見捨てられた癩病者のめんどうをみたり、何かの理由で山に逃げたり困窮した人をかくまい助けたと云う話しもよくある話しです。
サンカの源流と起源
起源については定かな資料も研究もなされていません。幕末から近代にかけて困窮した人達が山に逃れたのが始まりではとの検討違いな見解もありますが、むしろ逆に幕末から近代にかけて多くのサンカと思われる人達が瀬降りを捨て町や村のなかに居着いた可能性が高いと思います。僕としては縄文から弥生時代、さらに大和中央集権国家へと推移する中、監理、統制され、支配されることを拒んだ原住民、先住民が源流ではないかと思っています。そこに大陸からの渡来人(ユダヤ人の可能性もあると思う)で中央集権国家を形成したグループとは違うグループ(価値観、信仰が違ったのか、それとも政治的、軍事的敗者なのかはわかりません)と混じり合ったのが大体の起源ではないかと思っています。本来、敗者や異民族に対して包容力がある縄文の流れを汲む集団は、それらの人々を内包し、闇に潜むことで神代の魂を近代まで守り続けたのではないかと、日本特有の文化の担い手になることで、そして時折時代の節目に出てきては、日本の方向性を変えていた形跡を感じさせることもあります。民俗学の大家である柳田国男氏は、若い頃の主要な関心はサンカをはじめ被差別 部落などに向けられていて、彼等、被差別民の民俗は、日本列島の文化の古層に属する重要な残留物を表示していると指摘しています。
サンカと木地師
山窩と同じような漂泊の民として木地師(ろくろを使い椀などを作り、材料を求め諸国の山野を移動、漂泊した)がありますが 、色んな点で山窩とは異なっていたようです。しかし同じ山の民としてのシンパシーや繋がりはあったかも知れません。山人の系譜として一番上位に木地師の集団をあげる人もいるようです。山窩に比べると存在確認が比較的容易で、木地師の定着が源流となった山村や木地屋墓を全国に見付けることができます。それは比較的賤民視されることなく定着することがてきたからではないかと思ったりもします。
文字と言葉
サンカには独自の言葉と文字があったとされています。その言葉には古事記、日本書紀などの古い言葉にきわめて近い言葉が多数あり、また逆さ言葉など一部の業界や世界で使われている言葉に近いものもがあります。このことからサンカの起源を上古に求めることができるのではと思っています。また文字にしても古史古伝として伝わっている豊国文字と類似していることから、私達が教えられてきた歴史以外の別 の歴史を密かに守り伝えてきたのではないかと思われます。しかし学術的には何の確証もなされていませんし、また積極的に研究対象としてアプローチしたようにも思えません。そして、それらの研究家の殆どは学術的には無視されているのが現状のようです。以前、僕の住む近くの村に、何処かの大学教授と生徒達がサンカに関する研究に来て、役場へ住民に協力するように放送を頼みに来たそうですが、結果 は芳しくなかったようです。非常民を研究した民俗学者の赤松啓介氏の本によると「大学教師の中にはサンカの研究をして、論文を書いて博士、教授に成りたがっている者も多く、サンカを紹介せんかと頼まれるが、紹介すれば何でも喋ってくれると思っているのだから極楽なものである」と研究姿勢を非難したともとれる記述があります。また「サンカも殆ど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう・・・裏の世界には裏の掟がある。仲間にになって生涯を埋めるならよいが、よいところで足を洗ってあっといわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのはやめておくがよい。絶対に死体の上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ 林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある。」と研究の難しいことを言っています。サンカ自身も、自らの真相を世間に知られることを極度に嫌ったようです。瀬降り生活者が多かった時代なら、その気持ちは理解できますが、現在にあっても頑に真相を明かさないのは如何なる理由によるものなのか、聞けるものなら聞いてみたいです。
ウメガイとテンジン
あまり物を持つことのなかった人達ですが、ウメガイと称する両刃の短剣と天人(テンジン)と称する自在鈎を用いることが、正真正銘のサンカであることの証明であったと言われています。さて、そのウメガイですが、一度だけ本物を見たことがあります。その時にはすでにサンカに対する興味はあったのですが、三角寛氏の本の写 真や映画[瀬降り物語]にでていた身幅の広い、鉈のように使用する物だけがウメガイだと思っていたので、それがウメガイだと気付かずにいたのでした。それは不思議な両刃の短剣で巾は狭く肉厚で外装は丁度キセル入れのような感じでした。用途から考えて合戦で使う鎧通 しではないかと思いましたが、外装からしても刀身からしても時代はせいぜい明治時代にしか見えませんでした。それにどうも日本刀作りとは違ってナイフに近い感じの焼き入れがしてあったようにも感じました。その後しばらくしてから[ウメガイを手にする福知山のサンカ]と云う写 真に同じ物が写っていたのを確認し、あれはウメガイであったのだと確信したことがあったのです。身幅の広い方のウメガイが欲しくて結構探したことがあったのですが、さすがに見つかりませんでした。一度欲しいと思ったらどこまでも欲しくなるたちなので、結局は自分で作ることにしました。運良く知人のデザイナーがナイフも製作していましたので、その人に色々と教えて貰い、一心不乱に作ったのが【写真のナイフ】です。ナイフを作って感じたことですが、材料にしても、作る技術にしても、瀬降り生活者だけの存在では、独自の刃物を持つには問題が多すぎるように思いました。たぶんタタラと呼ばれた産鉄民と深い繋がりがあったのかも知れません。タタラと言えば映画[もののけ姫]が浮かんできますが、もののけ姫の名前がサンであり、アシタカの名前から先住民の首長ナガスネヒコを連想し、タタラの頭の烏帽子御前が癩病者のめんどうをみていたことから、宮崎駿氏はサンカを始めとした人達を描いたのではと思うのは僕の考えすぎでしょうか。テンジンについてですが、梅干しの種の中身を、僕の育った地方ではそう呼んでいました。天神さんの名称でお馴染みの菅原道真を祭った天満宮の紋は梅鉢であることから何か関係があるのかも知れません。
サンカの被差別性
山窩の被差別性について考える時、どうしても避けて通れないのが被差別 部落との関係だと思います。ある研究家によれば、お互い緊張関係にあって敵対していたように書かれてあり、また逆に重層していた可能性があると指摘する研究家もいます。両者はあきらかに形態が違うものですが、その他の賤民視されていた人達とも源流に於いて同じ(極めて近い)ような気がします。事実としては山窩を差別 した被差別部落もあり、また山窩にしても同じ扱いをされるのを嫌い差別したことがあったようです。しかし弱者が弱者を差別 したと云うのでは、あまりにもあさはかで為政者の思うつぼであり、部分的には、お互いそのようなことはあったと思いますが、個人的には、お互いに助け合っていたと信じたい気持ちがあります。沖浦和光著[竹の民族誌]には阿多隼人の血を引く人達が南北朝動乱時代に南朝側について戦い、敗れて賤民に貶められ山深く隠れ住んでいた時に、困窮ぶりを見たサンカの人達が親切に箕作りを教えてくれたのが竹細工の始まりだとの伝承が残る被差別 部落の話しがあります。また部落ではあまり分け隔ててなくサンカの人達と接していたので近くに定着することがあったと書かれています。多数の日本人は自分達と違った生き方や理解できない者、異質な者を差別 する傾向にありますが、差別には、弱者と見て差別する者(無知蒙昧、狭量、落ちこぼれ意識があり、自分より弱い者をいじめることでしか精神的均衡を保てない)と畏怖とも言える、潜在的能力を恐れる者(支配者階層)があると思っています。もし広義において賤民視された人達がお互い敵対関係にあったのなら、それは為政者によって作られたものであり、本来縄文の流れを汲む人達の資質からは遠いものだと思います。サンカを始め賤民視された人達の資質は決して低いものではなく、今も昔もこの国を代表する人物を多く輩出していた事実があります。しかし最後まで瀬降り生活を続けていたサンカこそ、人間にとって一番素晴らしい生き方であり、純粋な魂の持ち主であったと思っています。
サンカの組織性
研究家によって厳格な組織が存在すると云う見解と、そのような組織は無いとする見解があります。僕は組織はあると思っています。それは起源となった大昔から綿々と続いているものかも知れませんし、社会にトケコミを強いられた中で、自らのアイデンティティと神代の魂を守る為に必然的にできたものなのかも知れません。文献によれば、乱裁道宗(アヤタチミチムネ)を頂点に透 破(ミスカシ)、突破(ツキサシ)を最高権威者とし、知事格にあたるクズシリ、郡長格のクズコ、村長格のムレコがサンカ集団を統制していたとの記述があります。(乱裁、透 破、突破の呼び方は忍者集団との共通点が指摘されていますが、忍者との関係については別 の項目にて考えたいと思います)またトケコミ三代といって、瀬降り生活を離れても三代までは同族として交流があり、三代以降は絶縁状態となるとあります。そして社会の急激な変化の中で、瀬降り生活者が絶滅の危機に瀕したことで、同族間の相互の連絡や助け合いの為に隠密族(シノガラ)と云う組織を作り、その理念として日本の根幹となることを目的としたとありますが、そのような組織の話しはどこからも聞いたことがないのが現状だと思います。しかし賤民視された人達の組織は厳にあり、裏社会、表社会に絶大なる力を誇示しているのは周知の事実としてあると言えます。それらの組織と重層するのか、まったく別 のものとして存在するのかは判りません。メンメシノギと云う サンカの言葉があります。それは各自が独裁独立自由の生活をすることで、誰にも支配されず、誰の干渉も受けず、自己の思うままに生活し、しかもサンカの仲間として自主的に掟を破ることなく自由に生きることを意味した言葉だとされています。僕はそれが一番サンカ本来の姿を表しているように思います。必然的に一部のサンカの人達が組織を継承し、叉は形成したことは充分あり得ることだと思います。しかし、大多数のサンカの人達は程度の差こそあれ、深くは組織と関係ないと思った方が自然のように思います。僕としては、進化しなければならない人類の智恵として、これからは組織は必要の無いものだと考えています。いくら崇高な理念を持って発足した組織であっても、組織が大きく力を持つようにつれて、組織の力でエゴを通 したり、利権を貪ったりするのではないかと思います。それでは本来の崇高な魂を汚し、自ら腐ってしまうのではないかと思ったりもします。しかし弱者にたいして余りにも理不尽な行いをする者に対しては、それなりに団結して退治することは是非と思います。
サンカの血を想う
血を想うと言っても、自分の中に確実にサンカの血が流れていると云う確たる証拠があるわけではありません。自分で勝手に確信しているにすぎません。しかし、サンカに興味を持ち、思いを寄せる人には、何らかの形でサンカと呼ばれた人達を始めとした縄文的な血(精神)が流れていると思っています。日本人は自らの中に流れる縄文の血を忌み嫌い、そして差別 してきたと何かの本で読んだことがあります。この国の成立に関わり、日本人の大半のルーツとなったのが、朝鮮半島、中国、その他思いもよらぬ 処からの渡来者であり、技術と武力により、自然との調和、共存を長きに渡り培ってきた精神文明人である縄文人を支配し卑しめてきたような気がします。そして渡来人が縄文人との血の交わりを交わすことがあっても、精神の交わりは片寄った(物質文明的)なものであったと思います。しかし、渡来人の中にも(たとえば三韓でいうと新羅とか)何らかの理由で縄文人と友好的に結びつき縄文的な精神を継承した集団も幾つかあったと考えています。そんな幾つかの集団がサンカを始めとした縄文的な人達の原形だと思っています。そのような人達は近代になるまでは、一般 の人達との血の交わりを拒まれ、また拒んできたかも知れませんが、近代になり、激変した社会により、広く、それらの血が常民の中に浸透したように思います。そのような人が少なく見積もっても数百万人、多ければ国民の何割かの人達が存在すると思っています。しかし、アメリカの人類学研究者の調査によると、ほとんどのアメリカ人の中に、僅かながらインディアンの血が混入しているとの話がありますから、ほとんどの日本人にも縄文人の血が混入していると考えるのが自然だと思います。 何年か前、釣りに行った時に老釣り師と話をしたことがあります。昔は魚がようさんおった、今は道具はようなったが、その変わりに魚がおらんようになった。と、ぼやいておられました。道具がいくら良くなっても、魚がいなくなればもともこもありません。それはそのまま、成金乞食に成り下がった、今の日本にも云える言葉のように思います。地球の命を削ってしか成り立たない、行き詰まった今の時代にあって、自分の中に流れる血(精神)の中で、どれを意識し、選択するかによって、自然との調和、人々との共生を選ぶのか、自然を征服し、人との戦いを選ぶのか、生き方や考え方を変化させる時なのかも知れません。どちらを選択しても大変困難な道を歩むことにはなるでしょうが。もしかしたら地球と云う生命体の意志が、僕の中のサンカの血を意識させているのかも知れません。たぶんこれを読んで、少しでも共鳴する人がいれば、あなたもそのひとりだと思います。
ある山林労務者の手記より
この手記は知人を通じて、読むことができたものです。手記を記した方は、戦後から昭和40年代頃まで、山林労務者として、各山を転々としたようです。手記には紀伊半島を襲った大水害のことや、山での生活が記録してありました。書いた本人は、直接サンカの人達とは関係がなかったと思われますが、サンカに関しての記述がありましたので、以下抜粋させて頂きました。 【今になって思われることがある 人間は川岸を通り山に入り 家族単位で野宿同様の生活をし移動し 仲間の集会もあって法があり 山野早を食用や薬草につかいわけ 必要な時は 毒草を狩猟にもしただろう 奥谷川に魚はあふれ道具なしで 手掴かみが出来たと思う 山芋や木の実はさずかりものと大切にした 神聖な場をむやみにいためなかった 里人と交流は お互いが必要な時だけだった その種族から別 れて農耕を知り 土着したものと 元のままの生活する者とになった 子孫が歳月を経て平地の住民と山に住む山窩との区別 がついた 知らないから平地の住民は自分たちは先祖から平地の住民だと思い 山窩の人を てんばもん と言い 山窩の人は不器用な平地の住民を とうしろう と呼ぶようになった 昭和に入って日本はあっちの国にも こっちの国にも戦争をしかけ 登録した住民に召集礼状を発したが、まだ人手不足 戸籍のない山窩の人を平地へ住まわしたが 山また山の秘境の果 もあり 古き良きと舞い戻った者もあった】 サンカの人達に対して、何故に、このような認識を持っていたのかは、手記を読んだ限りでは判りませんでした。
サンカと忍者
サンカに関心を持ち始めてから、忍者とサンカについて書かれた本を何冊か読みましたが、いまひとつよく判りませんでした。どちらにしても資料の少ない、謎とされた人達ですから仕方がないのかも知れません。サンカと忍者との関係ですが、サンカ共同体と忍者集団とは別 の存在であったと思います。ですが何らかの関係は確実にあったと思います。飛躍していますが、例えば、サンカ最高権威者(権力者)である乱裁道宗(アヤタチミチムネ)と忍者集団の頭領とされる人物が同一の人物であったり、極めて近い間柄であったり、また忍者集団の中にサンカ出身者が多くいた可能性など充分に考えられると思っています。忍者の持つ技術や文化は大陸からの影響が強いことなどを考慮すると難しくなりますが、やはりサンカ共同体が体制側に組み込まれなかった渡来系の人達を内包していったのではと思っています。八代将軍徳川吉宗に伝わる話しがあります。よく時代劇で、お庭番という忍者のような役職の者が出てきますが、あれは吉宗が紀州藩から隠密を呼び寄せて作ったものらしいです。その隠密ですが、根来者と呼ばれた忍者集団で、密教行者(修験道)から発し、同根には出雲熊野系と紀伊熊野系があり、(その混流の末には信州の飯綱山を発祥地とした忍術の元とも云われる飯綱遣いがある )諏訪神社(出雲系)から出た諏訪三郎兼家(甲賀忍者の祖)の忍術と融合し、さらに河内・和泉・大和・紀伊のサンカ共同体とも融合したものであると伝わっているようです。また戦国時代に信長により討伐された伊賀忍者の頭領である百地丹波が高野山に逃れ、後に根来に移りて本拠とし、信長に抗戦したとの記録があるそうですから、伊賀忍術の流れも伝わったのだと思います。その吉宗側近の根来隠密には、吉宗の生母が自分達と同族であったとの認識があったようです。父の光貞が風呂炊女を側女として源六(吉宗)を生ませたとありますが、隠密仲間の間には大和葛城の忍び(サンカ)の一族の者であると解していたようです。吉宗の剛胆さや庶民性(下々の者に対しても分け隔てなく接し、卑賎とされる者をも登用した)、また様々な障害を乗り越えて将軍の座に就いたことを考えると、闇の者とされた忍者集団やサンカ共同体の見えない形での働きがあったのかも知れません。時代が幕末から明治となり、隠密(忍者)家業の人達も職を失い、お庭番の時に磨いた植木職などを生かし、正業に就いた者も多くいたが、生活に困窮し、再びサンカ共同体へ吸収された人達もいた可能性があるとの見解もあります。
南朝とサンカ
忍者や修験道と深く関係していた楠正成が活躍した南北朝時代からサンカを考えてみました。考えたと云っても、ほとんど何らかの本の受け売りにすぎません。南北朝時代を考えると、どうしても南朝贔屓になってしまうのですが、後醍醐天皇や楠正成達に代表される南朝方の人達に惹かれるからでしょうか。それとも南朝を支えた人達を想うとサンカを始めとした闇の住民達が浮かんでくるからでしょうか。楠正成と云えば南朝の大忠臣としての顔と、まつろわぬ 民を率いて奇想天外な戦術で北朝の武士団を翻弄させた山の民のリーダーとしての顔があるとされています。また楠正成は能の世阿弥と血縁関係があったとされ、山の民の聖地とされる天川とも深い関係があったようです。(熊野も山の民の聖地です)さらに楠正成は辰砂(水銀の原料で丹生とも呼ばれ、古代、中世において重要な物であり、また漂泊の民である山の民が渡り歩いた聖地霊山の多くは水銀・鉄・金・銀・銅を産出したところであり、水銀や鉄に関する神々が祭られている)とも深い関係があったと云われています。朱砂とも云われスサノオと結び付ける研究家もいるようです。そして朱砂、水銀は渡来系の秦一族とも深く関わっていたとされています。秦氏とは古代におけるハイテク技術を持った渡来系集団で、秦の始皇帝の五世孫と称していたようですが、その出自は謎とされていて、中国系ユダヤ人との説もあります 。その秦氏ですが、どうも古代王権に疎まれ、一族は各地に分断されたと云うことです。そしてなぜか南朝、後醍醐天皇を支えた勢力図と秦一族が分断され居住させられた地域が一致するとの話しがあります。そのことから南朝と秦一族が深く関係していたことが考えられます。伊賀服部氏が秦一族と深い関係があったとされ、楠正成との血縁関係もあったとされているので、秦一族が山の民とされた人達と融合したのかも知れません。サンカを代表とした山の民が、体制から除外された人達に対して同情の念を持つのは、同じ境遇にあった縄文の民として当然の心情だったのかも知れませんし、融合するだけの共通 の目的や価値観があったのかも知れません。これまた飛躍していますが、以前、山の民である山伏の様式が古代ユダヤの様式に通 じるものがあるとの話を聞いたことがありますが、秦氏がユダヤ系の渡来人ならば頷けるものがあります。スサノオとサンカについても書きたかったのですが別 の章にて書きます。
追記
僕の知人である、言霊に通じた人との共通の認識として、日本には太古、知られざる文明があり、その文明を断片的に受け継いだのが縄文?出雲族?の人達で、そして、その文明を目指して幾つかの民族が渡来し、縄文人と平和的 に融合したのがサンカを始めとした山の民のルーツではないかとの話を、信頼している方に話したところ【日本に「古事記」や「日本書紀」以前の文明があったのは、間違いないですね。 「知られざる文明」というより、 意図的に「隠された文明」と見ていますが、「竹内文書」や「宮下文書」を調べれば、 面白いことがわかるかもしれません。 「秦氏」や失われた「十(十二~十三?)支族」に言及すると、 熊野ライフの品格を下げることになるかもしれませんね……。 少なくとも今の日本と、ユダヤ教徒国家イスラエルでは、 直接的には何の関係もないので、ページでは説明に時間がかかります。 古代ユダヤ人というより、シュメールからの流れは、 日本の成り立ちと深い関係がありますね……。 ただ、シュメール神話は、聖書や他の影響力ある書物と同じく、 為政者によって改竄されているので、 「ニビル」や「アヌンナキ」の話など、鵜呑みにしない方がよいと思います。】 との答えがかえってきました。その意図的に隠された文明を継承していたのがサンカの人達をはじめとした山の民であったと僕は感じています。
スサノオノミコト
神話によるとイザナギとイザナミの男女二神が、天の沼矛によって国生みをし、最後にホノカグツチという火の神を生んだ時にホトを焼かれてイザナミは死んでしまい黄泉国へ旅立ちます。イザナギは諦めきれずに黄泉国へイザナミに会いに行き、醜いイザナミの姿を見て逃げ出すと、よくも私に恥をかかせたわね、とイザナミが怒って追いかけ、結局離縁してしまいます。そしてイザナミは、こんなしうちをなさるなら、あなたの国の人間を1日に1000人殺しましょうと呪います。それに対してイザナギは、ならば1日に1500の産屋を建てようと言い返し、イザナギはイザナミとの戦いに勝ちました。そしてイザナギは日向のアワギハラの清流で禊祓いをして 黄泉の穢れを完全に浄めた身になってから顔を洗うと左の目からアマテラス、右の目からはツキヨミ、鼻からスサノオが生まれたといいます。いわゆる三貴子の末弟ということです。神話では三番目に生まれたことになっていますが、鼻から生まれたということは、一番最初に生まれたことを意味しているのかも知れません。(ハナという言葉には最初という意味がある)イザナギは、アマテラスに高天原を、ツキヨミに夜食国を、そしてスサノオには海原を治めるように命じました。そのとき、スサノオだけは就任を嫌い、顎髭が胸にとどくほどの大人になっても、妣の国、根の堅州国に行きたいといって、山野も枯れるほど泣き続けたといいます。(母思いの純粋な神さんです)それでイザナギの怒りに触れて追放されてしまいます。ここでも素朴な疑問が湧いてきます。三貴子はイザナギがイザナミと離縁して、禊祓いから生まれたとされているのに、なぜスサノオだけがイザナミを恋しがるのでしょう。スサノオだけがイザナミから生まれたのでしょうか?兄妹であるアマテラスやツキヨミが天津神とされているのに、スサノオだけが国津神とされていることからも、三貴子の中では不思議な神さんです。イザナミが葬られたところは 古事記によると山陰の比婆の山の中、日本書記では紀伊熊野の有馬村(縄文からつづく日本最古とされる花の巌神社)とされていますが、どちらも縄文的な感じがします。ですから三貴子の中でスサノオだけが、縄文的指向の強い神さんだといえるように思います。スサノオだけがイザナミ(国津神、縄文的、大地母神)との融合により生み出された神さんなのかも知れません。 追放されたスサノオはアマテラスにいとまごいをするために高天原へ行きます。アマテラスはスサノオが高天原を奪いにきたと勘違いしますが、疑いが晴れてスサノオは高天原にしばらくとどまることを許されます。有頂天になったスサノオは、もともと乱暴者?だったのでアマテラスの耕す田を荒らしたり、灌漑用の溝を埋めたり、御殿でうんこをまき散らしたりしました。とどめの悪さは、皮をはいだ馬を神聖な衣装を織る服屋へ屋根をぶち抜いて投げ入れたので、それに驚いた服織女が死んでしまい、怒ったアマテラスは天の岩戸に隠れてしまいます。 乱暴を働いたスサノオは 神逐いで 高天原を 追放され漂泊することになります。そこで思うのですが、その乱暴のほとんどが農耕文化に対して行われていることです。農耕儀礼的色彩 の濃い神道(弥生神道)から見れば、スサノオの乱暴は許されない天津罪になると思いますが、別 の視点(自然崇拝、縄文神道)から見れば、農業は人間が自然に手を加えた最初の自然破壊だといえるようにも思います。災いとは技に関連して起こるということを何かの本で読んだ覚えがありますが、公害問題や環境問題、さらに戦争に至るまで、技が大きくなり過ぎた為の災いだといえると思います。技が大きくなればなるほど自然を破壊し人々を苦しめることになることをスサノオは知っていたのかも知れません。だからスサノオの乱暴は、高天原の文化、価値観が自然破壊を指向していたことに対する怒りではなかったかと思うのです。縄文から弥生への文化(技術)革命への憤りが高天原での乱暴というかたちで表現されているのかも知れません。それとも古代においては農民はオオミタカラとされていたのに、縄文系の山人や海人は人権を認められない存在であったことに対する憤りであったのかも知れません。いろんな本を読むとスサノオのルーツを海外に求める話もありますが、たとえスサノオが海を渡ってきた神さんであっても、縄文的な精神を尊び、融合しようとした神さんであったことは間違いないと思います。それは縄文的なお祭りとして、よく熊野の火祭り、諏訪の御柱祭り、青森のねぶた祭りがあるといわれていますが、いずれの地も縄文的であり、熊野においてはケツミミコとしてスサノオを、諏訪大社ではタケミナカタ(スサノオの孫)を祭っていることから想像できると思います。サンカの人達には、スサノオによる穴居払い(穴居生活をしていた人民を地上に導きだし、家を建てて住まわせた)によって地上に出た国津神の末裔であるとの伝承があり、スサノオを親神さんとして崇めていたとの話があります。自分がサンカに惹かれるのはなぜだろうかと思う時に、それはサンカと呼ばれた人達が、自然に溶け込むようにして暮し、自然の声を聞き、そして、自らの責任で自由に生活することで、心の中の深奥の魂が、何を本当に求めているのかを感じ、素直にそれにしたがって生きたからではないかと思うことがあります。それは妣の国を想い、泣きつづけ、追放されて漂泊したスサノオの姿と重なるような気もするのです。
古史古伝
古史古伝とは、戦後の超古代史研究家の吾郷清彦氏が著書「古事記以前の書」において神代についての伝承を含む古文献を古典・古史・古伝の三通 りに分類したことに由来するようです。古典とは古事記・日本書紀などのアカデミズム公認の神代関係史料で、古史は竹内文献や富士古文献のように神代文字に関する伝承を含んだ史料を意味し、古伝とは上記(ウエツフミ)や秀真伝(ホツマツタエ)のように全文が神代文字で書かれた史料を意味するとのことです。古史古伝という言葉を、超古代史などと呼ばれていた史料の総称として定着させたのが、佐治芳彦氏の一連の著作によるものです。古史古伝には竹内文献・富士古文献・上記・秀真伝・九鬼文献・東日流外三郡誌・三笠文・カタカムナ文献などがありますが、いずれもアカデミズムからは黙殺されるか、偽書として扱われています。また、古史古伝の多くが、サンカを始めとした山の民と深く関わっていたとされています。縄文時代が始まったのは今から約12000年前だとされていますが、沖縄周辺で発見されている海底遺跡が海に没したのがほぼ同時期とされています。縄文時代以前に高度な文明があったのかもしれませんし、なんらかの理由で、その文明が滅び、生き残った人達が縄文人の始まりなのかも知れません。
ヤゾーの空想。
もしも、今の文明がなんらかの理由で滅び、少数の人が生き残り、自分もその中のひとりだとしたら、どうするだろうかと想うことがあります。当面 はその日その日を生きていくのに大変な苦労をすると思いますが、生活が安定した時には、過去に自動車やパソコンを使っていたことを懐かしむかも知れません。しかし、機械設備や技術者がまったく残こされていなかったら、それらの道具を一から作り出すことは容易ではないでしょう。それに行き過ぎた物質文明が戦争や環境破壊をひき起こして滅びたのであれば、二度と同じ過ちを繰り返さない為に違う価値観での生き方を選択するのかも知れません。自然と調和のとれた母なる大地が喜ぶエコロジ-で霊性の高い生き方を。 そして、また次の世代にもそのことを伝えていくのだと思います。一万年も続いた縄文時代って、そんな時代だったりして・・・(*^^*)
ある方から聞いた話しです。
「サンカに関する情報は日本よりアメリカが握っているだろう。また日本では偽書扱いされている古史古伝のいくつかは、アメリカにおいて、日本を知るうえでの正規の研究対象となっている話を聞いたことがある。大平洋戦争が始まる以前から、日本を知る為に、国の成立から天皇制、被差別 民の成り立ちまで、綿密に歴史を研究したようである。それは日本を占領した際に、統治しやすくするための研究だったのだろう。しかし、戦後においても全国の貴重な古代に関する古文書などを接収して、本国に持ち帰っていることから、何か日本の歴史に特別 関心があるのかもしれない。」とのことでした。
サンカの掟(ハタムラ)
サンカの社会は、彼等独自のもので、アユタチと呼ばれる大親分(おおやぞう)を頂点に、クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)が、 各地のセブリを取り仕切り、その生活は、彼等が理想とする誇り高き社会を守るために、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていたと言われています。 結婚により彼等は親兄弟と離別し、独立のセブリで独立の生業(なりわい)をすることを決められています。 そして掟(ハタムラ)では、ひとたび関係のできた男女は夫婦(ツルミ)とならねばならぬ し、 ツルミとなった以上は、如何なる不正な関係も断じて許されないということです。映画「瀬降り物語」ではそう語られていますが、本当のところは分かりません。ただサンカの人達の夫婦の結びつきは強く、病身の妻を最後まで夫が甲斐甲斐しく看病した話しや、男尊女卑的な考えはあまり無かったようです。神示などの教えには「神界の乱れ、イロからじゃと申してあろう。男女関係が世の乱れであるぞ。お互いに魂のやりとりであるぞ。」との言葉がありますが、かなり自由に生きていたと思われるサンカの人々ですが、人間として守らねばならぬ 掟に対しては厳格であったのかも知れません。
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