http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/philosophia4.htm 【第3節 ヘラクレイトス(Herakleitos, B.C.535~475)】より
ヘラクレイトスは、現在のトルコが位置する小アジアのエフェソスで生まれ、生活した。エフェソスは、万物の根源(アルケー)を水や空気などに求めたミレトス学派の本拠地ミレトスのすぐ近くにある。彼の生涯についても、やはり詳しいことは分かっていない。彼は、後述する無常な世界観によって、「暗い人」とか「泣く哲学者」と呼ばれている。彼は前述のパルメニデスとほぼ同時代の人で、誰の弟子にもならなかったと伝えられているが、ソクラテス以前の哲学者の内ではもっとも深い思想の持ち主だった。
彼は、『自然について』という書物を書き残している。しかしそれは、あまりにも難解で古代の人々を悩ましたようである。後ほど紹介するソクラテスは、ヘラクレイトスについて「私が理解したものは優れたものであった。私に分からなかったものも同様だと思う。しかし、この著作には熟練した潜水夫が必要である」と言ったとされる。
ヘラクレイトスは、ミレトス学派の伝統を引き継ぎ、万物の根源アルケー を火(生命力の象徴)とし、その火から万物が生じたと考えた。しかい彼は、パルメニデス(エレア学派)が否定した万物の生成と変化を認めた。ヘラクレイトスは、絶え間ない変化を見せるこの現象界こそ真の世界の姿であり、「万物は流転する」(パンタ・レイpanta rei)と言っている。ヘラクレイトスによれば、すべてのものは絶え間ない変化の中にあり、何一つ永遠に続くものはない。人間は、生まれては、やがて大人に成長し、老人に成り、遂には消える。現象する自然界のすべてのものは、変化する。彼は、万物のこのような変化を川の流れにたとえて、「君は、同じ川に二度入ることはできない」とも言っている(資料)。「なぜなら私が二度目に川の流れにひたったときには、私も流れもすでに変わっているから(資料)と。
しかしヘラクレイトスは、さまざまに姿を変えるこの自然の変化を無秩序な変化とは考えなかった。彼によれば、この変化は、さまざまなものの対立によって起こっている。この対立によってこそ万物の調和は保たれているとされる。
伝えられる資料によれば、「戦いは万物の父であり、万物の王である」(資料)。しかし、この戦いが万物に調和をもたらしている。「病気は健康を、飢餓は飽食を、疲労は休息を快いもの、善いものにする」(資料)。このような万物の対立は、「弓やリュラ琴のそれのような、逆に向き合った調和」(資料)を可能にする。その対立は、ギターの弦のように、相反する方向に張り合いながら、それでも全体として一つの調和を保っている。彼の考えに従えば、おそらくこの世の中の悪も、善を際立たせ、善を促進させる限りで、全体の調和の確保に貢献していることになろう。悪がなければ、善もない。
彼は、相反するものの対立によって成り立つ調和を、「上り道」と「下り道」を例にあげて説明している。「上り道も下り道も一つの同じものだ」(DK.22B60(Hippo1.Ref.IX 10)。彼によれば、「上り道も下り道も一つの同じもの」であり、「上り道」も「下り道」も、同じ坂道の統一や調和を乱すものではなく、むしろその統一や調和に不可欠の側面である。
さらにヘラクレイトスは、そのような対立によって万物に調和が保たれる仕組みを、神ともロゴスとも言っている。ロゴス(logos)とは、ギリシア語で「言葉」や「法則」という意味である。「万物は、このロゴス(=神)に従って生じる」(資料)と言われている。この場合、ヘラクレイトスの考える神とは、信仰の対象としての神ではなく、万物の対立そのものである。彼は、「神は、昼夜、冬夏、戦争平和、飽和飢餓である」(資料)と述べている。ヘラクレイトスによれば、世界の変化には、「反対物の対立という法則(ロゴス)」があり、それが世界の変化を操り、世界の調和を保っているのである。
もちろん我々人間も、この法則から逃れることはできない。我々人間もこの世界の一部であるから、対立の中に調和を保つ世界のロゴスに従って生活するしかない(資料)。世界のロゴス(法則)に従う生活とは、要するに対立物に満ちた自然の変化に逆らうことなく、自然に生きよ、ということである。
「智恵は、ものの本性(フュシス・自然)を聞き分けて、それに従って真実のことを言ったり行ったりすることにある」(DK. 22 B 122: Sob. Flor. I 178)。彼によれば、自然の法則(ロゴス)に従わない人間の生活は不自然で愚かなものであり、逆に自然の法則に従う生活は賢いものとされた。
以上のような世界観と倫理観は、日本人には馴染みやすいものだろう。「万物は流転する」(パンタ・レイ)というヘラクレイトスの考えは、まさに仏教の「諸行無常[1]」の思想を思い起こさせ、鎌倉時代の鴨長明が『方丈記』の冒頭に述べた深遠な言葉:「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためし無し」に通じるものがあろう。自然のロゴスに従うべきというヘラクレイトスの勧告は、古代中国の老子の「無為自然[2]」、あるいは江戸時代の松尾芭蕉の「造化にしたがひ、造化にかへる」(『笈の小文』)の思想に通じるものがあるのではなかろうか。造化とは、天地間の万物が生滅変転し、無窮むきゅう に(際限なく)存在していくことを意味する。
このようにヘラクレイトスは、おのずから成る自然(フュシス)をそのまま物事の真のあり方として肯定し、その一部である我々人間も、自然の整然たる運行に身を任せるのが賢明な生き方だとした。もちろん彼の自然観が、ミレトス学派のそれと同じく、今日の自然科学が想定するような命を欠いた無機的な自然観(唯物論的な自然観)でないことは言うまでもない。それはやはり、何らかの生命原理によって動かされる生きた自然――自ずから然ある自然、「葦牙の如く萌え騰る物によりて成る」(古事記)、物活論的な自然――であった。
*** まとめ ***
パルメニデス(エレア学派)の原理とヘラクレイトスの原理とは正反対である。パルメニデスはあらゆる生成変化を否定し、存在は絶対に不変であることを主張しているが、ヘラクレイトスはあらゆる出来上がった存在を絶対に流動的な生成へ解消している。エレア学派(パルメニデス)が主張する絶対に不動の有の立場(有るものは有る)とヘラクレイトスが主張する生成変化の立場(万物は流転する)とをいかに調停し両立させるかが、以後の哲学者たちの課題であった。その課題に取り組んだのは、次章で取り上げる原子論者(アトム論者)たちである。
[1] 仏教の根本的主張の一つ。世の中のいっさいのものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ。
[2]自然にまかせて、作為のないこと。
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