雨過ぎて青苔潤う

https://esdiscovery.jp/vision/es003/buddha/zengo006.html  【雨過ぎて青苔潤う(あめすぎてせいたいうるおう):松尾芭蕉】より

雨過ぎて青苔潤う(あめすぎてせいたいうるおう) 松尾芭蕉(まつおばしょう)

[出典]『本朝参禅録』

[意味・エピソード]

松尾芭蕉(まつおばしょう,1644年-1694年)は紀行文『奥の細道』を書いた日本史上最高の俳人・俳諧師として知られるが、芭蕉は禅宗(座禅)にも興味を持っていた。松尾芭蕉には、鹿島にある根本寺の仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)について参禅していた時期があり、芭蕉と仏頂には個人的交遊もあった。

ある梅雨晴れの日、仏頂は久しぶりに江戸深川にある『芭蕉庵』を訪ね、仏頂の姿を見つけた芭蕉は喜んで庵から駆け出てきた。そして、松尾芭蕉は仏頂和尚と正面から顔を見合わせた瞬間に、芭蕉なりの『悟りの境地』に達して、俳諧にも応用可能な物事をあるがままに見る『悟りの目線』を手に入れたらしい。

芭蕉の顔色や様子がいつもと違うことを見てとった仏頂和尚は、『近日何の事かある(最近何か良いことでもあったのか)』と問いかけた。

その仏頂の問いかけに対して、松尾芭蕉は『雨過ぎて青苔潤う(あめすぎてせいたいうるおう)』とさらりと答えたのである。雨過ぎて青苔潤うという言葉の意味は単純なもので、『梅雨時期の雨が過ぎ去った後に青苔がその水を受けて潤っている、何と美しいのだろうか』という意味である。梅雨の雨上がりの青苔の様子について、ありのままに飾らずに述べた言葉である。

芭蕉が得たとされる『悟りの眼』は『心眼(しんがん)』というように言い換えることもできるが、心眼を開いた者は『真如実相(しんにょじっそう)』を見抜くことができるようになるのだという。真如実相というのは、物事のあるがままの姿、修飾されていない物事のそのままの実在といった意味である。

松尾芭蕉が俳諧師として歴史的な業績を残せた要因の一つが、この『真如実相を見る心眼(悟りの眼)』にあったと考えてみるのも面白い。しかし、仏頂和尚は芭蕉の『雨過ぎて青苔潤う』の言葉だけでは悟ったとは認めず、更に『如何なるか是れ青苔未成(せいたいみせい)以前の仏法』という突っ込みを入れた。青苔などが生じる遥か以前から普遍の真理を伝える仏法はあったのだぞという突っ込みである。

仏教用語には、物事の兆しさえまだ芽生えていないという意味の『朕兆未萌以前(ちんちょうみぼういぜん)』という言葉があるが、仏頂和尚は芭蕉の青苔の美しさをまだ悟りには達しておらず甘いと見ていたのである。しかし松尾芭蕉はそういった仏頂和尚の極端な普遍性や朕兆未萌以前(ちんちょうみぼういぜん)を求める批判に対して屈することはなく、言下に『蛙飛び込む水の音(かわずとびこむみずのおと)』という余りにも有名な一句を読んで返したのである。

『古池や 蛙飛び込む 水の音』、衒い(てらい)も気取りもなくありのままの自然の情景を心眼で切り取った会心の一句、この瞬間に『蕉風(しょうふう)』と呼ばれる俳諧の芸術的感覚が開眼したとも言える。


https://ameblo.jp/modewriter/entry-10358212238.html  【芭蕉、悟りの時】より

かつて松尾芭蕉は、茨城の鹿島にある根本寺の仏頂禅師のもとに参禅していた、と書いたことがあった(9/10、9/22)。

※雨過青苔潤(雨過ぎて青苔潤う)。

梅雨の晴れ間に、仏頂和尚は鹿島から江戸深川の芭蕉の庵を訪ねた。

-近ごろ何かよいことがあったかな?

出迎えに出た芭蕉の顔を見て、仏頂和尚は感じるところがあったのだろう、彼にそう尋ねた。そこで芭蕉は、

-なんと雨あがりの苔が青々として、きれいなことか。

と答えた。

-そこにいかなる仏法があるのかな?

-蛙飛び込む水の音。

とすかさず答えた。芭蕉、開眼(悟り)の瞬間である。

※古池や 蛙飛び込む 水の音

実はこの句は、松尾芭蕉にとってターニング・ポイントにあたる俳句だったのだ。

as-it-is-ness(あるがままを観て感じる、真如実相)を、仏頂和尚は芭蕉のやり取りの中から彼の悟りを感じ取り、彼に印可を与えたのだろう。

これらが正に、禅問答というものである。昨日の「日日是好日」もまた禅語と言われる一つである。


http://old.k-unet.org/season/201007/201007-02.html 【季節の風景:青苔が潤う今 】より

夏の日、青苔を前にし 芭蕉を想う。鈴木大拙によると芭蕉が

佛頂和尚のもとで参禅していた頃、庵を訪ねてきた和尚に「近頃どう過ごしていますか」ときかれ、それをきっかけに“今日とは何か”という話に発展、芭蕉は「雨過ぎて青苔が潤うようなもの」と答えたという。「では青苔が生えるその前は」と問われ、芭蕉が放った言葉が「蛙飛び込む水の音」だったと。芭蕉の禅問答では“古池や”の発句はなく、これが付けられたのは後の話とのこと。“古池や”で始まる芭蕉の名句も、青苔の潤う静謐な心象風景から生まれたのだ ろうか。 ( 写真・文 大谷恭子)

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声  芭蕉


https://j-kitap.hatenablog.com/entry/62221130 【父北村雨垂とSの作品(188)】より         

原稿日記「風雪」から(その9)

芭蕉と禅僧仏頂和尚(根本寺)

水戸鹿島の根本寺の和尚仏頂から得た六祖五兵衛と云う門人を連れて深川に芭蕉を訪ねた際、六祖五兵衛が先に立って「如何なるかこれ閑庭草木裏の仏法」と問うた。すると芭蕉が「葉々大抵は大、小底は小」と答えた。すると仏頂和尚がずっと這入って来て「今日のこと什麽生(そもさん)」と問われたら芭蕉答えて「雨過ぎて青苔潤おう」というた。和尚また問う「青苔いまだ生ぜず、春雨いまだ来たらざるときいかん」その時にちょうど蛙が古池に飛びこんだ。芭蕉翁が悟りの極意を得たのである。それで和尚が「汝は満ちの極意を得たと云って印可証明を与えた。その時分に杉風(さんぽう)とか嵐雪とか其角とか云う多くの弟子が翁に向かって蛙飛びこむ水の音でお許しをお受けになったが頭の五文字をつけたらどうでせうといった。杉風が「宵暗に」嵐雪が「淋しさに」其角が「山吹に」をつけた。各々の力があらわれている。翁は大いに嬉び皆尚豪いがわしはやっぱり「古池に蛙飛びこむ水の音」だといわれた。これが名高い句であります。(以上は宗演師の言そのままを写した)。

これには専門の現代俳句作家にクレームをつけられるところが在ることであらうが、これは純然たる禅家の言であって俳句作家ではないし、この著作した時期と現在との歴史的時間差も考慮すべきであらうとも考えられるし、俳句作家としての個性の差等多々あることであり、唯今は禅家の言を素直に受け入れるべきであると考えられる。

                            1983年(昭和58年)11月28日 

悟りと云うことはむづかしく論ずることはさておいて、一種の修養から練り出した心の光であると、こうみたらよろしいこういう工合に自由になってくれば何事をするにも取りはずしがない。

 禅者の云う平等と差別が世界即ち「無」とか「空」とする名命題の本態であり、それが平等を本質とする世界空間でありその空間世界に現象する「もの」が差別であり、この平等と差別が全と個でもある。言葉を換えて云えば、この全と個は一枚の紙の表と裏の相であり、この裏打ちされた表なる所謂一枚が世界空間と云う命題が眞理であると観る「覚知」即ち「悟り」の境に於いて観る法であり仏法であり、その相を仏と命名したものであり、その仏が即ち眞理の相であるところの空間世界であると。それを生きた身体がこの世界空間に即ち無(若しくは空)に内包された差別相の因子なる現象を把握するノエマであり、そしてそのノエマこそ世界空間を個即ち差別の相に於いて把握する肉体の堅持しているところのノエマであり、その「ノエマ」の反省態がノエシスであると云うことである。而してこの世界空間が創造する時間即ち過去現在未来の相でもある平等空間即ち空間世界と差別空間即現象が個の空間相を覚知する。換言すれば、職識知即ノエマであって、このノエマと云ひ現象即ち差別相とする「相」そのものが即ち「無」の相であり「空」の相と云う命題の根基であることは瞭らかである。

 この私の拙劣なる表白が日本の生んだ哲学者西田幾多郎であり、その系統を堅持した田辺元であってその特異なる色彩を持つ弁証法的表現で即ち無の自覚的限定であり絶対無のそれとなったものと考えられるのでありと、これが私の云う覚知即ち悟りの構造であると、これが私の独善的表白であると私なる無の相即ノエマの自省と云うことになる。

                            1983年(昭和58年)12月2日

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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