禅者・松尾芭蕉   井本 光蓮

http://www.ningenzen.org/zen43/05-1.pdf#search='%E9%AB%98%E3%81%8F%E5%BF%83%E3%82%92%E6%82%9F%E3%82%8A%E3%81%A6%E4%BF%97%E3%81%AB%E5%B8%B0%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%97%E4%B8%8D%E6%98%93%E6%B5% ①81%E8%A1%8C' 【禅者・松尾芭蕉   井本 光蓮 】  より

はじめに、世界的詩人として、又、俳諧の大改革者としての芭蕉を論ずる事は 私には到底不可能だが、禅者としての芭蕉の片鱗を禅の立場から垣間見ることは、 或いは許されるのではないかと考えて話を始めたい。 古池の句について 芭蕉の俳句で最も有名なのは、例の <古池や蛙飛びこむ水の音> であろう。日本人ならこの句を知らぬ者は居るまい。特に芭蕉が蕉風に開眼した 句として有名である。だが同時に、これほど謎に包まれた句もまた少ない。 古池に蛙が飛びこんで水の音がした。この句のどこが名句なのか? どこが蕉 風開眼なのか? 誰も知らないし、誰も分からない。 

ここに一つの逸話がある。慶応4年に俳人春湖によって書写刊行された『芭蕉 翁古池真伝』で、禅の立場から見て面白いので紹介しょう。 

[仏頂和尚、芭蕉を訪わんとして、六祖五兵衛(五平とも)を供に芭蕉庵に至 り、五兵衛先ず庵に入り、「如何なるか是れ閑庭草木中の仏法?」と。芭蕉答えて 曰く、「葉々大底は大、小底は小」と。それより仏頂門に入り、「近日何れの所に か有る?」。

芭蕉曰く「雨過ぎて青苔を洗う」。又問う「如何なるか是れ青苔未だ 生ぜず春雨未だ来らざる以前の仏法?」

その時 池辺の蛙一躍して水底に入る。

 音に応じて「蛙飛びこむ水の音」と答う。仏頂これを聞いて「珍重、珍重」と。]

 問答はこれだけだが、仏頂が帰ったあと、芭蕉はそこに居合わせた杉風や其角 らに上の句を置いてみよと置かせてそれを聞いてから、我はこの庭のままに「古 禅者・松尾芭蕉 井本 光蓮 <解 説> - 55 - 池や」と置こうと云ったという。

 白隠和尚は釈迦・達磨など祖師方の頂相 ちんぞう を数多く残されたが、その中に芭蕉の 頂相がある。

翁は頭巾を冠り、黒染姿で坐禅を組んでいる。

白隠の讃語を読むと、 [連歌の宗匠俳諧の達人、蛙の井に投ずるを聞きて心身を打失す]とあり、後に 続けて「古池」の句が書いてある。

解説を読むと、「心身打失」とは「心身脱落」 と同じで、身も心も一切の束縛を離れて大悟することとあった。(左脳が鎮まった状態

白隠和尚はこの 古池の句は、芭蕉が蛙の飛びこむ水音に触れて大悟徹底した、まさにその時の句 であることをこの讃語で証明しておられるのだ。

 これは芭蕉見性の句であり、だからこそ蕉風開眼の句と云えるのだ。『禅林句集』 に[無一物中無尽蔵、花有り月有り樓台有り]という句があるが、「古池」は天地 開闢以前の宇宙的寂けさであり、「無一物」の一大円相である。

又、「蛙飛びこむ 水の音」は、古池の寂けさを破って天地乾坤が真っ二つに裂けた大音声であり、 「無一物」の世界ががらりと転じて、そこに「無尽蔵」の世界がいきなり現成した端的であるといえよう。 

こうして蕉風の俳諧は、芭蕉の見性から始まった。この時芭蕉が体験した地 一下の消息を、体験したことのない人にとっては、この古池の句はまるで理解不 能ではあるまいか。

 仏頂和尚のこと 芭蕉の師、仏頂河南については『近世禅林僧宝伝』によって、その秋霜烈日の 気象(性)を窺うことができる。

曰く [偶々家書、母氏の病を報ず。師跳駆して帰省す。母氏恩愛深厚、師の手を把っ て放たず。師、怒喝して曰く、母氏初め我が出家より瞻 せん 撥 ぱつ に至るまで、我が修道 の障害を作すこと甚大なり。我、常に憶う、将に母氏を齕齧 こつげつ 掴裂 かくれつ し去らんとすと。 今や寿を以て終う。是れ幸いなるのみと、口角炎を噴く。云々] 字引を引くと、「瞻撥」は「志気を熾んにすること」「齕齧掴裂」は「噛み切り、 ビンタをくらわし、引き裂くこと」とある。これを言葉通りに訳すと、仏頂は瀕 死の母親に向かって、噛み切り、平手打ちをくらわせ、引き裂いてやろうといつ - 56 - も憶い続けていたことを、口から火を吐くように怒喝して云ったという。家人は 師を狂せりとして、別の部屋に入れてとどめた。この仕打ちは余りにひどい。人 間の仕業とは思えぬ。何か仔細があるにちがいない。

『臨済録』に[父母に逢って は父母を殺し、親眷 しんけん に逢っては親眷を殺して、始めて解脱することを得ん]とあ る。耕雲庵老大師の『臨済録新講』を開くと、[無明を父といい、貪愛を母といい、 八万四千の煩悩妄想を親眷という]とあってようやく呑み込めた。仏頂は母親の 貧愛をズタズタに截断して、臨終の母を済度したのだと。芭蕉の師はこんな人だ った。 

芭蕉の参禅 芭蕉は寛文 12 年(1672)9月、29 才で東海道を江戸に下る。途中、江戸中の 郷定林院の黙宗和尚と邂逅 かいこう し、ついに定林院の傍らに小庵を結んで、朝暮に参禅 を始める。そして後に、黙宗に伴われて臨川庵の仏頂に謁する。(『芭蕉桃青伝』) 

仏頂への本格的な参禅は、延宝8年(1680)冬、深川の草庵に入った頃からと 思われる。

 仏頂はそれより前、常陸鹿島神宮との間に寺領返還訴訟を起し、延宝2年 (1674)から天和2年(1682)まで足掛け9年の間、深川臨川庵を本拠として住 し、その間、芭蕉やその弟子達の参禅を聞き、永年の裁判に勝訴の後も、根本寺 を法嗣の頑極禅鉄に託して臨川庵にとどまる。すでにその会下に芭蕉ら修行者に よる僧伽が形成されていたからである。

 天和3年(1683)6月、芭蕉は母の死に遭うも江戸を動かず、葬式にも、四十 九日にも、初盆にも、一周忌にも、故郷伊賀へは帰らなかった。

このことは禅僧 として、臨川庵での血のにじむような修行の真っ只中にあったことを思わせる。 この年芭蕉は 40 才、弟子の支考の『俳諧十論』の中で、[今や投子一盌の茶に、 俳諧はただ平生なるをと、三十九年の非を知りて、その茶に夢のさめけるとぞ] と述懐している。 

ある時、投子大同和尚が柴 頭 さいじゅう の僧に茶を点てて、「森羅万象、総にこの一碗の 裏 うち にあり」と拶したところ、この僧いきなりその茶碗をくつがえして、「森羅万 - 57 - 象いずれの処にかある」と切り返した。投子は静かに「惜しむべし一杯の茶」と 応じたという。

この問答は、そのまま仏頂と芭蕉との室内の問答であったのか、それとも茶話 のついでの話であったのか、芭蕉はこの時、臨済の[仏法は用功の処なし。只こ れ平常無事なり]、或いは南泉の[平常心是れ道]の境地を己の俳諧を通して手に 入れたのではなかろうか。

いずれにしても容易ならざる境涯である。『臨済録』も 『無門関』も、常に彼の座右にあったにちがいない。

 その後、芭蕉は天和4年(1684)9月ようやく伊賀に帰り、母親の霜のような 遺髪を拝んで <手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜> と詠んで慟哭している。 『近世禅林僧宝伝』によれば、仏頂が常陸根本寺に帰ると、芭蕉はすぐに後を 追って到り、益々激しく参禅を繰り返した。後に、遠く那須の雲巌寺に隠れると、 又そこに到って参じ、遂にその蘊奥を窮め尽くした。

仏頂は出山の仏像、紙縒 こ よ り の袈裟を付して印可の証とした。時に貞享4年(1687)秋の頃であったという。 (高橋庄次『芭蕉伝記新考』)

 芭蕉がここまで禅に打ち込み、遂に仏頂に嗣法したことは、現在俳壇でも禅者 の間でも殆ど知られていない。

 芭蕉の法系 白隠の法嗣、東嶺円慈の書『相承宗分統譜』の中に芭蕉の法系が明記されてい る。白隠の法系と極めて近いのに驚く。共に妙心寺開山・関山慧玄から十四世の 愚堂東 寔 とうしょく の流れに連なる。 ―至道無難―正受慧端―白隠慧鶴―東嶺円慈 愚堂東寔(宝鑑国師)― ―頑極禅鉄(根本寺) ―錐翁慧 え 勤 ごん ―仏頂河南― ―風羅芭蕉 - 58 - 蕉風俳諧の禅味 芭蕉が常に弟子たちに説いて止まなかった「不易流行」にしろ、「松のことは松 にならえ」にしろ、「風雅の誠」にしろ、これらは別々の芸術論ではなく、芭蕉が 禅によって到り得た宇宙観・人生観から自然に流露し、互いに分ちがたく相即相 入している。

これらの教えを通して、いささかなりとも芭蕉の禅味に触れてみよ う。 

(1)不易流行 芭蕉は奥の細道の旅で、悠久の時の流れの中で自然も歴史も、万物が流転する 姿を観じて、この旅から帰った元禄2年(1689)の年の暮れ、京の去来宛てに初 めて「不易流行」を説いた。 

『去来抄』に曰く、[蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云う有り。是を二つ に分けて教え給える。其の元は一つ也。云々]と。

去来は其の元は一つと云いな がら、弟子の間では、まるで不易の句、流行の句というものが別々にあるように 誤解されたようだ。不易と流行が、互いに対立する反対概念のように思われたの であろう。

 禅の公案に「堅固法身」というのがある。 [僧、大龍に問う、「色身は敗壊す。如何なるか是れ堅固法身?」龍云く、「山花 開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」と。] 一夜の風に吹き散ってしまうあの満開の山桜が、そのまま、不生不滅の堅固法身 の当体であるわいと示された。

 般若心経にも[色即是空・空即是色]とある。「不易即流行・流行即不易」は、た だ当り前のことを当り前に云っているにすぎないのだが、見性の眼がなければ容 易には見えない。「どこまでも流れて行こう、だが流されはしない!」この言葉は どこかで誰かに聞いたようだが、「不易流行」をサラリとうまく言っていると思う。 

(2)松のことは松に習え これは土芳の『三冊子』に見える。[松のことは松に習え、竹のことは竹に習え と師の言葉のありしも、私意を離れよということなり。この「習え」というとこ ろを己がままにとりて、ついに習わざるなり。習えというは、物に入りて、その - 59 - 微の顕れて、情感ずるや句となるところなり。たとえ物あらわに言い出でても、 その物より自然に出ずる情にあらざれば、物と我二つになりて、その情、誠に至 らず。私意のなす作為なり]と。 「松のことは松に」の言葉は易しいが、極めて深い芸術理論でもある。が、今は それに深入りせず、「私意を離れよ」というところに注目してみよう。禅の立場に 立てば、これは「俺が俺がという我慢我執を離れよ」ということである。換言す れば、「迷妄の自我を殺して、天地と我と同根・万物と我と一体、つまり大自然の 命と一如になれ」ということで、これも亦見性の世界の消息である。更に言えば、 松には松の姿、竹には竹の色、梅には梅の香りがある。こうした事々無礙の華厳 蔵世界にまで徹底すること、これこそが芭蕉の説いた「風雅の誠を責める」こと ではないかと考える。

 芭蕉と愛弟子丈草との話が『僧宝伝』にある。 [一日(芭蕉)幻住庵に在り。(幻住庵入庵は元禄3年 1690)門人丈草と俳諧を 話す。

正秀(近江の連衆)傍に在って之を聞く。一も其の意を解すること能わず。 正秀後に其の話を挙して丈草に問う。

草曰く、我が翁に問う所は、語言の俳諧に 非ずして禅の俳諧也。

秀曰く、什麼 な に をか禅の俳諧と謂う? 

草曰く、青山は唯青 山、白雲は自ずから白雲。芭蕉は実に達磨の髄を得たりと。]

 この丈草の「達磨の髄を得たり」は、達磨と二祖の伝法の場を踏まえていると 思われるが、そこまで言わずとも、青山は青山、白雲は白雲、姿も 用 はたら きも全く 別の個性を持ちながら、それぞれが独立独歩で、しかも相調和している、この言 語道断の世界に参入するためには、松のことは松に習い、竹のことは竹に習うし か方法はないのである。 芭蕉のこうした一見何ともない教えが、すんなりと弟子たちに理解されたとは、 とても思えない。その底には、深い禅の境涯が隠されているからである。 

(3)軽みと高悟帰俗 <行く春や鳥啼き魚の目は泪> <蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ> 「行く春」は奥の細道へ旅立ちの句、「蛤」は旅の終わりの句である。二句とも別 - 60 - れの句であるが、この二つを比べると「行く春」には、どこかまだ身がまえが感 じられるが、「蛤」の方は、つらい別れを淡々と水の流れのように詠っている。こ れこそ芭蕉がこの旅で見出した「軽み」の成果だった、と長谷川櫂氏は云う。(『奥 の細道を詠む』) 

元禄4年(1691)、蕉風俳諧の最高峰といわれる『猿蓑』が刊行されるが、芭 蕉はすでにこの境地にも腰を据えず、早くも次の「軽み」を目指して歩き始めて いる。 

元禄5年(1692)、其角と唱和した句を比べて見よう。 <声嗄れて猿の歯白し峰の月 其角> <塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚 芭蕉> 其角の句は、例の巴峡を下る旅人の腸を断つ、悲痛な猿の叫び声を詠んだ、いか にも其角好みの、歌舞伎役者が見得を切ったような場面を思わせるが、これに対 して芭蕉は、[<猿の歯白し峰の月>というは其角なり。<塩鯛の歯ぐき>はわが 老吟なり。下(の句)を<魚の棚>とただ云いたるも自句なり](『三冊子』)と其 角に向かって、自分の軽みの句を自讃している。

其角も自分なら<塩鯛の歯ぐき も寒し老いの果>とか<年の暮>とか置きたいところだが、さらりと<魚の棚> と置かれたところに話語の妙を知った。幽玄深遠の句であると感じている。だが 一方で芭蕉は杉風宛ての手紙に「其角や嵐雪等が、新しい軽みの俳諧を非難して いるそうだが、取り合わぬよう、軽みの新風に早く追いつき、流行におくれて飯 の食いあげにならぬよう申して、一向におかまいなきように」などと書き送って いる。

 芭蕉は「軽み」について、[今思う体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心 ともに軽きなり]と云っているが、その真意は容易に伝わらず、現に「軽み」は 現代俳壇でも、長い間軽視されて来た。

「軽み」のような平凡淡白な詠みぶりは、 『猿蓑』に絶頂を極めた芭蕉が、年老いて創造力が枯渇したために、こうした軽 みの穴ぐらに陥ったのだと、長いこと考えられてきた。

だが実はそうではなくて、 これこそは芭蕉が最晩年に、その俳人としてのすべてを賭けて実現を目ざした境 地であった。(尾形仂『芭蕉の世界』) - 61 - 

芭蕉はこの軽みの精神を示すために「高悟帰俗」を説く。軽みの俳諧集『炭俵・ 別座舗』の在り方は、一歩誤れば直に低俗への堕落となる。それの救われている 唯一の道は、芭蕉の言う「高悟帰俗」の活体験の外ない。

常に風雅の誠をせめて せめ抜いた芸道上の、高い次元への実践を経ない限り、誰もが容易に達し得る境 地ではない。(上甲平谷『晩年の芭蕉』) 

古参の高弟達にも容易に追随できなかった芭蕉の「高く心を悟って俗に帰る」 この活体験とは一体何であったか。禅の修行の最終段階に「悟了同未悟」という 境涯がある。悟って悟り了って、まだ悟らぬ以前に帰る、「迷悟両忘」の境涯とも 云われる。

例えば、命がけで人跡未踏の山に登って氷雪の頂を極め、再びそこか ら下りて来て麓に住む人達と交わる。 芭蕉の説く「軽み」が、こうした高く深い禅の境涯から流露した俳諧であった とすれば、これが誰からもなかなか理解されず、芭蕉の没後は忽ちその精彩を失 って、やがて没落の一途を辿ったとことも、又むべなるかなと言わねばならない。 

(4)俳諧の底を抜く 芭蕉は日頃弟子達に、[俳諧地を、よくお続けなされ]、[もの知りにならんより は、心の俳諧肝要に御座候。句者は沢山御座候えども、心法を守る人はまれまれ なるものにて候]と云い続けた。 

「俳諧の心地(境涯)を相続せよ」と云い「心法を守って心の俳諧をやれ」と 云っているのは、禅に置きかえると、耕雲庵老大師が口ぐせのように云われた 「念々正念・歩々如是」の実践そのものではないか。 

[古より風雅に情ある人々は、うしろに笈をかけ、草鞋に足をいため、破笠に 霜露をいとうて、己が心をせめて(辛酸苦修して)物の実をしること(現象の世 界をぶち抜いて本質の世界に透入すること)をよろこべり。](『送許六辞』)

これ が、俳諧の底を抜くということであり、そのためには俳諧地を常に養わなければ ならない。これを又、造化(大自然・宇宙の命)にしたがい造化に帰ると云って もよい。これは、もはや俳論ではなくて、坐禅の修行そのものを説いていると云 えよう。 - 62 - 

終りに 芭蕉は前人未踏の俳諧の荒野を、たった一人で打ち拓かんとして、その途中で 斃れた。「孤峰不白」という公案がある。[雪、千山を覆う。何としてか孤峰不白 なる?]。芭蕉こそまさしく孤峰不白の人であった。 <この道や行く人なしに秋の暮> <秋深き隣は何をする人ぞ> <この秋は何で年よる雲に鳥> <旅に病んで夢は枯野をかけ廻る> 最晩年のこれらの句は、ただ諷詠して、その境涯に参入して、くり返しくり返し わが身に合点しつつ味わうしかない。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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