https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12228957610.html 【徳川家の出自と松平一族について(19)】 より
長野善光寺と秦氏との関係について、大和岩雄の「親版信濃古代史考(大和書房)(以下「大和論文③」という)によれば、おおむね以下のとおりである。
長野善光寺の本尊は河内国から信濃国に運ばれてきたと伝えられている。
善光寺関係で最も古い文献である平安時代後期の11世紀頃の「扶桑略記」では、「或記伝。信濃国善光寺阿弥陀仏像則此仏也。小治田天皇御時、壬成年四月八日、令秦巨瀬太夫奉請送信之国。伝々」と、善光寺仏を信濃国に持ってきたのは秦氏と書いている。
次に古い文献である12世紀頃の「色葉字類抄」では、善光寺仏は「信濃国若麻績東人」が信濃国に運んだと書かれており、鎌倉時代中期頃の成立とされている「平家物語」の諸本では、「信濃国住人」の「本田善光」が運んだと書かれている。
長野善光寺に善光寺仏が運ばれる前に置かれていたという元善光寺は、河内国に2つ、信濃国に2つの計4つあると伝えられているが、河内国にある元善光寺は、大阪府八尾市垣内にある垣内元善光寺と藤井寺市小山にある小山元善光寺で、信濃国にある元善光寺は伊奈郡にある伊奈元善光寺と諏訪郡にあった諏訪元善光寺である。
垣内元善光寺のある高安郡は大県遺跡に係わっていた河内秦氏の本拠地であり、垣内善光寺がある垣内の隣に教興寺村があるが、教興寺村にある教興寺は秦寺といわれ秦氏が創建した寺であり、近隣には秦氏が奉斎していた天照大神高座神社がある。
ここから、垣内元善光寺は、河内秦氏が創建した寺であると考えられる。
伊奈元善光寺は、伊那郡の郡衛所在地にあるが、伊那郡の名は猪名部氏が移住して来たことによる。
猪名部氏は船を製造する職人の船大工として造船に従事した秦氏の部民であり、猪名川流域の摂津国猪名郡を本拠地としたが伊勢国員弁郡にも拠点があって、そこから東進して三河国宝飯郡の伊奈に上陸し、さらにそこから豊川を遡上して信濃国に入り伊奈郡に定住した。
信濃国伊奈郡は、伊勢国員弁郡と同じように、猪名部郡である。
また、猪名部氏のうちで宝飯郡伊奈から東進した人たちは、伊豆半島の西海岸の松崎付近に伊奈の地名があり、そこに上陸して定住した。
こうした猪名部氏の移動は、船材に使用する良質な木材を求めるためであるが、山林から木材を切り出すためには鉄製の工具が必要なので、猪名部氏はそれらを自作したため、猪名部氏は鍛冶氏族でもあった。
ここから、伊奈元善光寺は秦氏が係わって創建された寺であると考えられる。
伊奈善光寺があるのは信濃国伊奈郡麻績郷であるが、麻績郷は伊勢国多気郡 恵濯の後を継いだ恵隠は、浄土三部経の-つで後に浄土教の根本経典となっている「無量寿経」を留学先の唐から日本にもたらした人であり、阿弥陀信仰は無量寿経によるが、長野善光寺や小山元善光寺の本尊は阿弥陀三尊といわれる。
小山元善光寺がある河内国志紀郡長野郷の付近には、百済系の渡来氏族の葛井氏の氏寺の葛井寺や葛井氏が奉斎していた韓郷神社があり、河内国志紀郡長野郷には高句麗系の渡来系氏族の長野氏がいた。
なお、葛井寺から藤井寺の地名ができた。
長野善光寺は信濃国水内郡芋井郷の長野にあるが、水内郡にも長野氏がいた。
長野氏は、「司空王昶」を祖としているが、「司空」とは土木工事に係わる官職であり、長野氏は志紀県主の下で古市大溝の掘削などの河川の水利開発や用水管理を行った技術者集団であったと考えられる。
信濃国造は多氏の同族の金刺氏であったので、6世紀ごろに志紀県主と金刺氏との関係で長野氏が水内郡に移住して、周辺の水田開発や牧場経営のために水内郡南半部の据花川水系の用水工事を行った、と考えられる。
葛井氏や長野氏は小山元善光寺で百済系の阿弥陀仏を信仰していたが、その後、その阿弥陀仏を信濃国水内郡に運び、諏訪大社別社の境内の草堂に安置されていた新羅仏と一緒にして、草堂を本格的な寺院として長野善光寺を創建した。
だから、善光寺仏の信濃国への移動は2回あり、1回目は7世紀初頭で、2回目は7世紀末だと考えられる。
小山元善光寺がある小山の近隣に誉田御廟山古墳が築造された誉田がある。
「平家物語」の諸本で善光寺仏を運んできたとされる「信濃国住人」の「本田善光」の「本田」は、河内国古市郡誉田の「誉田」から取ったもので、「善光」は、阿弥陀信仰の無量寿経の中の「善因光果」から取ったものである。
「平家物語」の諸本では、「麻績東人」と「本大書光」を同一人物としたり、「本田」「本太」に「麻績」「大海」を冠しているので、「本田善光」の名は「麻績東人」の別名として創作されたものであった、と考えられる。
信濃国には伊奈郡の猪名部氏や諏訪郡の秦氏の他にも秦氏が濃密に分布している。
諏訪から長野に行くルートは二つあるが、そのどちらも千曲市の秦神社がある地を通るが、この秦神社神主の秦能俊は土佐園長岡郡に移住して長曽我部氏となった。
以上のような大和論文③の指摘から、長野善光寺には多氏や秦氏の影響力が強かったことと、河内国から信濃国に渡来人が大きな部分を占める大規模な人の移動が、5世紀後半から7世紀にかけて、何度かあったことがわかる。
渡来人の移動ルートは、河内国から淀川を遡上して琵琶湖に出て近江国の山地を越えて伊勢国に出るルートと、河内国から大和川を遡上して大和国に入り、伊賀国を経由して伊勢国に出るルートが考えられ、伊勢国に出てからは、伊勢湾を南下して尾張国、三河国を経由して豊川を遡上して信濃国に入り、伊奈郡から諏訪郡、水内郡に至るというルートであったと考えられる。
このルートで信濃国に進出したのは多氏であったが、それと前後して秦氏も同じルートで拡散したと考えられる。
宝賀寿男の「三河の大河内氏とその同族」(以下「宝賀論文」という)によれば、三河の大河内氏は古代氏族の凡河内忌寸の後裔であったというが、河内国の有力氏族であった凡河内氏が三河国の有力氏族であったのは、河内国から信濃国への大規模な人の移動が三河国を経由したために、河内国と三河国との関係が形成されたので、凡河内氏が三河国に移住して来たと考えられる.
本多氏は本田氏と書くが、この本田は「新田」に対する「本田」という意味ではなく、河内国の誉田という地名から生まれた名で、凡河内氏とともに河内国から来た名であった、と考えられる。
だから、三河国の大河内氏の同族に本田氏がいるのである。
本多氏が藤原氏の公家の子孫で遠い豊後国の出身であるという伝承は、本田氏がその系譜を粉飾するために語られた伝承であり、尾張の本多氏は、封じられた所領の横根郷と粟飯原郷の位置が三河国との国境近くであることからも、三河国の出自であったと考えられる。
河内国から信濃国への移動経路にあった三河国は、その北部と西部は信濃国と同じ山林地域であり、山林からの木材の切り出しを行い、そのための道具を鍛冶で作成した猪名部氏などの秦氏は、三河国にも濃密に分布していた。
山城国愛宕郡で賀茂氏が従事したのは、平安京やその周辺の皇族や貴族等の邸宅や寺院、神社などの建設のための木材の供給であり、律令国家が建設されていく過程では、それらの建築物の建設や船の建造のための木材の供給は、全国的に必要となっていったので、賀茂氏は全国の山林に広がって木材の供給を行った。
これが、各地に加茂郡、賀茂郡や賀茂郷が存在する理由であったが、三河国にも賀茂郡や賀茂郷があり、賀茂氏が「鴨山守」として、山林から木材を切り出していた。
このように、三河国では、秦氏と賀茂氏と凡河内氏が接触し、それらの関係を深めていた。
賀茂神社の神紋の「葵」は松尾大社の神紋でもあり、「葵」紋は、賀茂氏から京都の秦氏に広がっていったが、京都の秦氏の主流は河内の秦氏が京都に移住したものなので、神紋の「葵」は河内秦氏にも広まっていた。
神紋の「葵」は賀茂神社や松尾神社から、秦氏によって河内国の秦氏に伝えられ、秦氏が信濃国に移住すると信濃国に伝えられ、長野善光寺の寺紋となったが秦氏が河内国から信濃国に移動する過程で、三河国にも伝えられた。
「浪合記」に書かれたように、南朝や後南朝の活動範囲は信濃国の伊奈郡と三河国の設楽郡や加茂郡であり、信濃国と三河国との交流は盛んであった。
神紋の「葵」が、どの時点で「立ち葵」紋となったのかは、よくはわからないが、葵紋を家紋とする武将は三河国の武将だけであるといわれているので、三河国で「立ち葵」紋がデザインされ信濃国に伝わったと考えられる。
これが、本多氏の家紋と長野善光寺の寺紋が同じ「立ち葵」紋となった理由であると考えられる。
そして、松平清康は、新しい世良田氏の家系の創造と一緒に、本多氏の「立ち葵」紋と酒井氏の「酢漿草」紋を組み合わせて「三つ葉葵」紋を創作したのだと考えられる。
だから、「葵紋」は松平氏の本来の家紋ではなかった。
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