http://www.kingchin.jp/1_J.html 【摩多羅神は何処から来たのか】より
序文 (Since 1997・4 初リリース)
紫式部は、日本書紀を、極めてわずかな部分しか記していない、物語にこそ神代からの世の事を記していると言い捨てている。新井白石は、手紙のなかで、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、日本紀には、真実らしいことは一つもないと言い放っている。
しかし、ユングがいう神話のモチーフが民族に類似した形で現れるという優れた洞察が、これからの書かれることのすべてを支えている。
言語、神社、シンボル、宗教、風俗、遺跡などから古代のバックボーンをあぶり出し、渡来民族の真相を探ることがコンセプトである。
「集合的無意識の原型は神話的モチーフの中に現れる。あらゆる時代、あらゆる民族に、同一ないし類似のやり方で現れるし、自然に現代人にも生じうる。」ユング
本文 第一章
大酒神社1
京都市 太秦 大酒神社(元名 大辟神社)
太秦明神・漢織神・呉織神の三神名が見える。
漢織神・呉織神(あやはとりのかみ・くれはとりのかみ)は中国の神仙の神
○謎の京都太秦 大酒神社の摩多羅神 (マタラシン or マタラジン)
京都右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある大酒神社(おおさけ)の牛祭は京都三奇祭の一つ。かつては神社祭であったが、現在は、広隆寺が行っている。そのため、広隆寺の「牛祭」と広く言われるようになってきている。十月十日(夜8:00頃)に奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。赤鬼、青鬼、二人づつ先導にして、広隆寺西門から出て行列をする。やがて、山門の前を通り、東門より境内に戻る。薬師堂の前の祭壇を牛に乗ったまま三周したあと、祭壇に登り、赤鬼・青鬼とともに祭文を読みはじめる。独特の節回しで長々と厄災退散を祈願する。その間も、祭の世話役や見物人などから、やじが飛ぶ。最後に、祭壇から薬師堂の中に駆け込んで終わりとなる。摩多羅神の祭りは、かつて「おどるもあり。はねるもあり。ひとえに百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)に異ならず。(太秦広隆寺祭文)」と言われ、昔は、かなり乱痴気な祭と言われているが、今は整然とした儀式である。摩多羅神のいでたちは白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、その頭巾には北斗七星を載いている。この奇相でおかしな摩多羅神、サンスクリットないし、インドの俗語であるといわれるも、その語彙は特定できない。また、仏教の守護神とされているが教典にも定かではな い。どちらかといえば道教神のようだ。しかし、この神名はどこを調べてもよくわからない。天台の学僧であった覚深(かくじん)は、将軍・徳川吉宗のころ(1738年)に、「天竺・支那・扶桑の神なりや、その義知りがたし。支那の神にあらず、また日本の神にもあらざれば、知らざる人疑いを起こす輩もあるべきことなり。」(摩多羅神私考)と述べている。摩多羅神の本性はすでに謎に包まれていたのである。
*広隆寺(TEL:075-86-1-1461)牛祭りは現在行っていません。
そこで、この摩多羅(マタラ)とは、摩(マ)と多羅(タラ)とに分けてみよう。すると、見えてくることがある。摩はマー(Ma)、多羅はターラー(Tara)。
○摩多羅神の語源は、ヘブル語でオシラー女神か
マ(Ma)はインド・ヨーロッパ諸語で母親を意味する基本的音節で、Ma・Maは母親の乳房をないし、母親を意味している。アイヌ語では女性を意味する語音である。シュメールのアッカドの太女神はママ、マミ、マミトゥという。*ヘブル語のばあい、「MA」は、液体=Mと、誕生=Aの意味で、聖なるしるし(メム-アフレ)として、霊験あらたかな護身の力があった。この二文字は紀元前9世紀の初めからユダヤ人の護符にされていた。MAは太母神の呪力をもっていたわけである。ペルシャ人は母性霊をムゥルダト-アメレタト(MA)と呼び、死と再生を司る。
○摩多羅神の語源はサンスクリット語?
多羅は、通説的には多羅菩薩、Tara(ターラー)、つまりチベットの緑ターラーと白ターラー、神秘的で魅力的な観音(アボロキティ・シュバラー)で、衆生を苦しみから救う救度仏母として崇拝される。原語ターラーとは、眼、瞳(ひとみ)のことで、仏典では眼精・瞳子・妙目精などと訳された。
ターラーは、その瞳から大光明を放つ。
ターラーはまた、星という意味があり、この女尊はチベットのタンカ(タペストリー)に星の輝く夜空を背景に描かれる。タ-ラーは、めずらしい夜の女神である。
そもそも、太秦のこの牛祭は夜祭りであり、真っ暗になってからはじまる。この太秦の摩多羅神は唐模様の頭巾をかぶっておられ、その頭巾に北斗七星が描かれる。
ターラーにとっては夜こそふさわしい。
ターラーは救いと夜空に輝く星の意味を併せ持った境界神である。
偉大なる女神ターラー(TARA)にはサンスクリット語で語源的には川を横切る、運ぶ、超越するなど、また、解放する、逃れるなどの意味がある。
そして、ターラーが救度菩薩といわれるのも冥界との境界においてこの女神が援助の手をさしのべてくれると信じられているからである。その意味で、ターラーは純粋な「境界神」であり、両性を併せもつ「超性」の菩薩である。
ラテン語のTER-MINUSは境界、制限、終局、限界などの意味があり、ローマ神話ではテルミヌスの神の語源となった。また、TARAはサンスクリット語のSTRIに由来しており、「まき散らす、拡大する、拡散する」などの意味があり、英語ではSTARになった。星とターラは切ることが難しいのである。
牛に乗ってお出ましになる摩多羅神どこかユーモラスな摩多羅神のお面
摩多羅はシュメール・インド・中国秦山をへてやってきた牛母女神?
広隆寺では摩咤羅神の字が当てられ、「まだら」と読み下されている。
一方、北斗七星があるということは道教に習合されて日本に来たことになるのだろうか。烏帽子には、北斗七星(北極星)が描かれている。なぜ北斗七星があるのか・・実はきわめて重要なことなのである。北斗七星太一を象徴し、神々の神、万物をすべる神を意味し、皇帝の位を意味するからである。北斗七星の意味はすこぶる大きいことが後に分かってくる。
慈覚大師円仁(えんにん)が唐からこの摩多羅神を持帰ったという伝承がある。この伝えによると、円仁(794-964)が、唐から日本に帰る船の中に念仏の守護神として現れたとされる。「渓嵐拾葉集」では、摩多羅神は「吾は障礙神である。吾を祀らなければ、往生の願いは達せられないであろう」と告げたという。帰朝した円仁は、その後、常行三昧堂の念仏の守護神として祀った。確かに、中国から渡来した神名であることだけは確かなようだ。そもそも、入唐八家といわれる円仁はサンスクリットの音韻を中国語を通して音読できた。悉曇学(しったん学)の祖というべき貴重な人物だった。
そこで摩多羅が円仁が招来したと言われることから、この摩多羅はどうしてもサンスクリットの音韻を踏んだものだろう。サンスクリット語で「Matr」は、「MatrーVeda(Vedaは神)」というと、これが「神母」となる。Matrは、そもそも雌牛の意味を持っている。そして、さらに母という意味を合わせて持つ。なんと、Veda、神と連結させると、神母(地母神)になる。
「Matr」は、5母音を踏む日本語に転化するとマータラになる。マータラ・ヴェーダ。それにしても、あまりにも見事な訳語がたち現れて来た。一語で、雌牛という意味と母という意味がある。その両義性がなんとこの「Matr」一語で出てくる。まさに、なにゆえに「牛祭」と呼ばれるようになったのか、そしてMATARAがなにゆえに神名なのか、もうこれ以上言う必要もだろう。
*円仁(794-964) 延暦寺第三世の坐主になって、慈覚大師と称された。
『武宗は堂塔を廃却し、聖教を焼き払い、僧尼を環俗させた。長安に滞在していた円仁は役人に追われ市中の堂に逃げ込こみ、仏像の間に身を隠した。そして、不動明王を心中に念じて、難を逃れようと動かないで、じっとしていた。役人は堂内をくまなく探したが、円仁は見つからなかった。探しあぐねた役人はふと新しい不動明王があるのに気がつき、不審に思い抱きおろして見ると、それは円仁に姿を変えた。円仁は元の姿に戻っていた。驚いた役人は出来事を武宗に報告したところ、武宗は「他国の聖(ひじり)である。速やかに追い払うべし」と命じ、円仁は郊外に逃れることができた。(慈覚大師伝)』
以上は武宗の会昌の廃仏に遭遇したときの逸話。45歳から54歳の9年間、唐に滞在し、この間の日記が「入唐求法巡礼記」で、故ライシャワー博士の研究テーマとなった。世界三大紀行の一つと評価されている。
始まりは、そもそも摩多羅という神名がストレートにルーツ(本地)が見いだせないことだった。このために、Ma-Taraといったん置き換えてみると、母なるターラーが浮かび上がった。しかし、Mata-Raと音節を変えて分けてみたらどうだろう。そこで、Mata-Raとわけてみると、サンスクリットでは摩多(マーター)は母を意味し、羅(ラ)は火、ないし太陽を意味する。ここでは、「母なる太陽」、なんと「アマテラス」の意味になる。さらに、Matrでは、雌牛と母神の意味が出てきた。円仁が懲りに凝った神名だろう。それにしても、この漢訳神名は驚くほど完璧で美しい。
*摩多羅神が読み上げる祭文は叡山の高僧・恵心僧都(えしんそうず)の作とされる。そもそも牛祭の由来は、恵心僧都が900年前に念仏守護の神として勧請して、国家安全、五穀豊穣、魔障退散のご祈祷法会を行ったのが起りとされる。明治維新後、しばらく中断していたが、富岡鉄斎画伯が明治二十年、この祭事の廃絶を惜しんで、復興に尽力した。「世に神事祭礼多しといえども、古雅奇異なるはこの祭を第一とす」、「これは世間尋常祭礼を行うと同視すべきにあらず」と高唱し、「牛祭」を再興した。以後、しばしば中断される年もあったが、多くの京都市民によって今なお、支えられている。
○ギリシャ アテネのタラマタの祭り
さて、そこで、前説のTARA・タラについてさらに深く知るには、じつにアリアン民族の深層に古来からある女神信仰にふれなければならない。
毎年、ギリシャのアテネで開かれていた古代の祭で、タラマタ(Taramata)の祭(母なるタラの祭)があった。きわめて放縦な乱行の風習のため「どんちゃん騒ぎ」-Riotingの異名をとったといわれている。 タラマタが「TARAの祭り」であり、ターラー女神を祀ったお祭りだったことになる。
意外なことにインドから中東、ヨーロッパ、アイルランド、また、中国、日本にいたるまで、原初の太地女神タラがおられる。アリアン民族に共通に見いだせる原初の大地女神の名、「テラ」は、ラテン語では「テラ・マーテル」、ヘブライ語では「テラー」、ゴール語では「タラニス」、エストリア語では「テュラン」。すべて、タラと語源が同じであり、これらの全地域で最初で最古の、もっとも偉大なものとされた。日本神話の神アマ・テラも「テラ」の文字が見えるのは偶然だろうか。これは、うそのような話だが、鎌倉・室町時代には摩多羅神と天照大神と同根視する密教の信仰があった。後節に述べることにする。
○チベットのターラー
タラはインドでは、ヴェーダ以前の古い女神のなかで、「最高の崇敬を受けるもの」と呼ばれた。
チベットではラダック・アルチ寺のスシュムク講堂の初層に「緑ターラー」が美しく描かれている。チベットでは最も人気のある慈悲を具現化する観音、母なるターラーに次のような祈りを捧げる。ターラーはマンダラでは、多羅菩薩として伝真言院胎蔵界曼陀羅の蓮華部院の中に描かれている。
「万歳、緑なすターラーよ! あらゆる存在の救世主よ! 願わくば、汝のすべての従者たち、すなわち神々、巨人たち、解放者たちを引き連れて、汝の天の館より、この地ポタラに降りたまえ! 我は汝の蓮の足下にうやうやしくひれ伏さん!我らをすべての苦悩から解き放ちたまえ! おお、聖なる母よ! 我らは熱き心で迎えん! おお、かたじけなくも崇高なターラーよ! 汝はあまねく国々の、かつ、現代、過去、未来の、すべての王や君主の崇敬の的なり。」
以上の、「マ」と「ターラー」に分けるとこの摩多羅神がインドでは地母神、シャクティの最高神、「ターラー」、チベットでは観音菩薩であることは隠しようがないだろう。しかも、音写が非常に直裁で明快だ。不思議なことに、「マタ」と「ラ」に分けても、母なる太陽、太地母神と同義となる。
○摩多羅神はどこから来たのか?
秦族がなにゆえに秦始皇帝を大辟神社に祀ったかといえば、彼らが一族の風習=先祖を祀り崇拝する根底の意識=に従ったからに他ならない。それが、始皇帝であり、ダビデ王だった。その大辟神社が摩多羅神の祭り「牛祭」を行うようになったのはなぜだろうか。
秦氏一族がなぜ摩多羅神を招来する理由があったのか・・・・それが最大の謎でもある。
その謎は秦始皇帝が封禅(ほうぜん)の儀式を行った中国の霊山・泰山にある。新羅、山東省、出雲・大和のトライアングルにおいて秦族は互いに交流があったであろう。新羅の土着神もまた秦一族に祀られているのである。円仁「慈覚大師」が秦族の援助をうけて、摩多羅神と、赤山明神を護法の神として招来した。そこで、天台宗系はこの系譜に深くつながっている。円仁死後、円仁自身の遺命によって、赤山禅院(京都市左京区修学院)が建立され、天台延暦寺の別院として京都の表鬼門を護った。これとほぼ同じ頃に、大辟神社でも摩多羅神の祭儀が行われるようになった。
赤山禅院
○泰山府君は円仁が招来した!!!
赤山禅院で祀られている赤山明神は、泰山府君ともいう。源平盛衰記では、「赤山明神とは震旦(中国)の山の名なり。かの山に住む神なれば、赤山明神と申すや。本地は地蔵菩薩なり。泰山府君とぞ申す。」と、あり赤山は泰山のいわば分院だったのだろうか?
泰山は中国の山東省の霊山で、この山の神が泰山府君である。円仁の著「入唐求法巡礼記」では、838年入唐後、天台山で修業しようとしたところ許されず、揚州の開元寺で学ぶ。一年後に帰国する予定が、乗船した遣唐船は山東半島の登州に漂着、それからしばらく赤山法花院で学び、五台山、長安に遊学、再び新羅の商船で日本に帰った。その船は847年博多の鴻臚館(こうろかん)の浜辺に着いた。山東省の海辺には800年頃、新羅の居留地(新羅坊)があり、秦一族が定住していた。そこは新羅船(横揺れに強い外航行船)が行き交っていた。赤山法花院は新羅居留民(秦氏)と張 保皐(チャン・ボゴ)が寄進した寺院だった。円仁が唐の帰りに船の上で念仏の守護神として摩多羅神が現れたとする伝説の船とは新羅船だった。ここで、浮かび上がるのが日本~新羅~山東省(登州)という同祖同族ネットワークである。それは新羅のネットワークである。山東半島の港町・赤山(当時多くの新羅商人が居留する新羅坊だった)に赤山法華院を寄進したのはJang Bogo;張 保皐(チャン・ボゴ)である。790年頃 - 846年?)は、統一新羅時期に新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた大人物で、張宝高とも記される。朝鮮語ではどちらもチャン ボゴ(장 보고)と読む。張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)だった。『新唐書』巻220・新羅伝では、歓迎の宴の最中に閔哀王が殺されて国都が混乱していることを聞くや、張保皐が鄭年に兵5千を与えて「あなた(鄭年)でなくては、この禍難を収めることはできないだろう」といい、反乱者を討たせて新王を立てたこと、新王によって張保皐は宰相に取り立てられた。840年(承和7年)には日本との通交を拒否されたが、翌年には民間の交易が認められ、北九州の官人や入唐僧などと貿易を通じて深くかかわっていたことが記録されている。清海鎮大使から感義軍使を経て、鎮海将軍。9世紀前半、山東半島の港町・赤山は新羅の人が居留するところとなっていた。円仁は短期で帰国しなければならなかった。入唐請益僧円仁(慈覚大師:比叡山第三代法主)の長期不法在唐を実現(不法在留を決意した円仁のために地方役人と交渉して公験(旅行許可証)下付を取り付ける)したのを始め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。円仁の日本帰国時には張保皐自身はすでに暗殺されていたが、麾下の将張詠が円仁の帰国実現に尽力した。
ところが同院の本尊は財福を与えるという「赤山大明神」。とりわけ商人らが同院を頻繁に訪れるのはこのためだった。五十払い(ごとばらい)の商慣行もここからはじまった。本来毎月5日を意味する「いつかばらい」からはじまり、徐々に5、10、15日などを含む「五払い」の伝統につながったと言われる。。
京都で3代目建材会社を運営するイナガキ・トシヒコさんは「以前から毎月5日に取引の代金を精算する慣行を今でも守っている」と話す。この寺院の叡南俊照師は「日本人も起源をよく知らないこの商慣習の出発点は赤山禅院」とした後「毎月5日、赤山大明神の祭日に寺院を参拝すれば、事業が繁盛し、掛け金の収金が順調に進むという俗説からはじまったもの」と説明した。
このように日本人の暮らしの深くに痕跡(こんせき)を残した、財福をもたらす「赤山大明神」はいったい誰だろうか。その根を探ってみると、驚くことに新羅(B.C.57-A.D.935)時代の人物、張保皐(チャン・ボゴ)が登場する。歴史学者は「赤山大明神=新羅明神=張保皐」という等式で説明する。当時の日本人にとっては張保皐が巨商、巨富と認識されていた。張保皐と取引すれば金持ちになれる。赤山明神が商売繁盛の御利益があるとされるのもうなずける話である。張保皐の船団が頻繁に日本を行き来した。日本の貴族は張保皐の船団が持ってくる新羅・唐・西域の物を好んだ。高官は先を争って張保皐と取引し、利権をめぐり争うこともあった。張保皐船団が交易を行った福岡(当時の筑前国)の太守・文屋宮田麻呂は退任後も本家がある京都に戻らず、同地に残り、張保皐と取引をしたほどだという。何であれ、張保皐(チャン・ボゴ)が日本との取引を重視していたことが大きい。
◇赤山大明神と張保皐のつながり=赤山大明神の根を調べるためには、ひとまず京都北部の比叡山にある天台宗の総本山、延暦寺を訪れねばならない。この寺は日本天台宗の、第3世天台座主(ざす)に任ぜられた円仁(えんにん)は慈覚大師と贈り名をもった。慈覚大師が遺命して興隆の基礎を確立した所だ。平安初期の天台宗の僧、円仁は中国で新羅明神にたくさん助けられたと記述されてある。
赤山禅院内にある小さな赤山宮は次のように記述されている。「円仁は入堂、留学の際、中国の赤山で新羅明神を仏法研究の守護神として祭り…その功徳により10年間の修行が無事に終わり…」。 円仁を助けた人物は張保皐(チャン・ボゴ)である。そこで、赤山明神=新羅明神=張保皐の等式が成り立つ。
円仁は死ぬ前、弟子らに赤山宮とは別に新羅明神を祭る寺院を設けるように、という遺言を残した。弟子らは円仁の死去から24年後の888年に新羅明神のための寺を設けたが、それが赤山禅院だ。円仁が祭ることを命じた新羅明神が誰なのかは自明である。木浦(モクポ)大・姜鳳龍教授(カン・ボンリョン、歴史学)は「赤山大明神、つまり新羅明神が張保皐と関連性があるという認識に、歴史学者の間で隔たりがない」と話した。
慈覚大師がもたらした一方の神が赤山明神=新羅明神=張保皐であることを踏まえると、他方のマタラ神は牛頭大王だと比定できるが、はたして歴史上の人物に行き当たるであろうか。
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韓流ドラマ「海神」 해신 2004/11/24-2005/5/25(全51話)でドラマ化された。
*張保皐、日本で「財福を与える神」になった理由 <http://japanese.joins.com/article/383/121383.htm>
○霊山・泰山は始皇帝ゆかりの山
「赤山から東北のはるかかなたに青山という山がある。この山から秦の始皇帝が東に向かって蓬莱山(ほうらいさん)などの三神山(さんしんざん)をみていた」という故事を円仁は「入唐求法巡礼記」に残している。(山東地方の山でここから大海原が眺められる。海を見た事のなかった始皇帝はたいへん感動した)。始皇帝は政治には韓非などの法家に、後生を道教に求めた。なにしろ、焚書坑儒、儒教書をことごとく燃やし、儒者を生き埋めにした。始皇帝は根っからの実利主義でかつ道教好きという二面性があった。
東に船出したあの徐福は三神山の仙薬を求めて日本に来たことは、のちほど紹介する。山東の北部にあるこの山は道教の大霊山であり、最も東に位置するため*東岳・泰山(たいさん)とも云われる。秦始皇帝が天地の神を、ここに奉った。皇帝の先祖ををはじめ、もろもろの神々を祀っていた。泰山が太一神の住する山で、最高の霊山、聖地とされてきた。
○泰山府君の娘、碧霞元君が摩多羅神か?
泰山府君は、「死人も生き返えす」と言われるほど、験(しるし)が強く、陰陽道(おんみょうどう)の祖と言われる安部晴明(あべのせいめい)は、とくにこれをあつく信仰していた。安部晴明は、「泰山府君の祭」を行い、重い病気を癒す効験をしばしば表わした。(今昔物語巻一九)
泰山府君は、生命を司るとされ、厄除け、福録長寿の神として日本中世においては、多くの人びとにたいへん人気があったのである。
泰山府君は、中国の名前のまま、日本で信仰されたという事では珍しい。
その本家本元の泰山は、標高1545㍍。さほど高い山ではないが、その頂上に行き着くには、7,412段の階段を上ることになっている。「天にかかる梯子」と呼ばれ、なんと約9000㍍も続く。この階段を登って泰山登頂を果たすと、永遠の命が得られることになっている。登りはじめてから降りるまで、たっぷり一日を要する。今は、南大門まで、ロープウェイが敷設されているが、利用すると御利益が薄くなる。いまは、世界遺産のひとつとなっている。
驚くことに山頂には、あの泰山府君よりも、盛大に奉られている神がいた。その名前を碧霞元君(へきかげんくん)という。
「碧」は純粋という意味と緑色をも意味する。「霞」は夕暮れを。「元」はもともとの。君は女性名にはよくつけられる尊称。この緑と純粋の意味をもつ「碧」は女性名にしか使われない文字である。東嶽大帝(とうがくたいてい)の娘ともされ、また、この碧霞元君、泰山娘娘(たいざんにゃんにゃん)、天仙聖母(てんせんせいぼ)、天仙玉女(ぎょくじょ)とも呼ばれ、慈悲深くあらゆる願いをかなえてくれる。また、人々の生活を占う霊籖を降す神でもある。あまりに多くの人々が参拝したため、明代には参拝者に入山税(香税)を課したほどであった。華北各地に碧霞元君の廟が建てられた。泰山信仰といえば、泰山娘娘(碧霞元君)を指すようになった。
観音菩薩(アボロキティシュバラー)は、中国に入って”観音娘娘”(くわんいん-にゃんにゃん)となり、台湾では、観音マ(くわんいん-ま)と呼ばれて、道神といっしょに中国民衆に愛され、広く分布されて信仰されていた。こうした道神、「娘娘」(にゃんにゃん)が、法華経第二五品の観世音菩薩普門品で説かれる観音菩薩であると言われている。道教に編入されたアボロキティシュバラーが観音娘娘”(くわんいん-にゃんにゃん)なのである。他方、法華教の普門品、そのものが原典には存在せず、中国で付け加えられたものと今日では考えられている。漢訳経典だけからは、こうしたことは知ることができない。
○摩多羅神は男女二根の一体神
さて、観音菩薩が女性であるのか、男性であるのかあいまいになっているのは両性という理由によるからである。菩薩は、男性、女性の区別といったカテゴリーに入らない特殊な”超性神”である。しかし、中国では女性であることがはっきりしている。「娘娘」(にゃんにゃん)とは、上海語で「おばさん」の意味になる。だいたい文字の旁(つくり)が、女偏であることで明快だろう。また、タントラでは、女性か男性かは、はっきり区別される傾向がある。
観音菩薩は、古代インドのヴィシュヌ神の貞節な妻、富と幸運の女神ラクシュミーなどに根ざしているとも言われている。インドの古代信仰の源流は地母神に根ざしているので、母神、女神の影響はすこぶる大きい。ヒンドゥーのシヴァ神信仰は、シャクティ(性エネルギー)が全宇宙の根源力だとする。言いかえると、この地球は(風と水)、いわばシャクティの”活動する子宮”なのである。
こうして、タントラは宇宙の生成、発展を性的結合に見いだしている。シヴァ神は、美しい妃パールヴァティと神々の歴で百年間、交わってばかりいた。あきれた神々が中止を申し入れると、パールヴァティは神々に喰ってかかった。シヴァとパールヴァティの両質の合体によって、とりまく一切の創造と破壊が生じている。パールヴァティはいろいろと変身(アヴァアタラー)する。あるときは、ドゥルガーと呼ばれる戦士、あるときは、カーリーと呼ばれる残忍な復讐の女神に化身した。このパールヴァティの化身、ドゥルガーは念怒相の”馬頭観音”に似ているとも言われる。カーリーの拳族に、チベットと日本で意外と影響力を持っていたダーキニがいる。ダキーニは恐ろしい姿をしているが、チベットでは内火(内光)を点火するためにダキーニを観想する。内火は、シャクティ(女蛇)のエネルギーそのものだとされているからだ。
なんであれ、歓喜仏とつながるパールヴァティはシャクティー派の絶大な信仰を得ている。また、興味を引くのは、シヴァと、パールヴァティの乗り物は聖牛ナンディンである。牛に坐す神は”牛祭”の様式の原図となっているとも言えよう。(すでに紹介したが、焔摩天もまた水牛に乗っている。)
シヴァと神妃が左右半分合体したアルダナーリシュヴァラ像
後ろにたっている聖牛がナンディン
神々から10の武器を与えられて戦う女神 ドゥルガー神
○アニマとアニムス
ユングは男性に潜む女性性を「アニマ」、女性にある男性性を「アニムス」と呼んだ。(ラテン語)
男は女を、女は男を互いに求めあうようになったのは、完全無欠なミュトス(プラトン・饗宴)に戻りたいという衝動である。わたしたちの心の内側に「永遠の全母」と、「永遠の全父」が閉ざされている。
内なる心の声がどう響いているのか、これを黙殺すると本当の恋は成就しない。無意識の領域の「アニマ」、「アニムス」が相手を受け入れないと、その恋愛は真の祝福と喜びにならない。ところで、Androgyny(雌雄同体)になるとは、まったく一つの魂になることであって、それは、合体したアルダナーリシュヴァラ像のように一つであることを意味する。それが完全無欠な(真実の)結婚ということだ。
○ヒンドゥー教と牛
ヒンドゥー教徒にとって、牛はもっとも神聖な動物とされる。インドでは牛肉を食べることはタブーであり、公道を牛が寝そべっていても乱暴に追い払おうとはしない。あらゆる牛の祖はスラビ(Surabhi)と呼ばれ、牝牛(めうし)である。神話では、スラビと仙人カシュヤパとの間に生まれたのが、シヴァの乗り物である牡牛・ナンディン(Nandin)である。シヴァを祀る寺院には必ずナンディンが門番のように立っている。ナンディンの名前は「幸せな者」と意味している。
碧霞元君は、ターラを本地とし、碧(みどり)から緑ターラが習合したと考えられる。冥界を渡るとき、ターラーは橋渡しを手助けする境界神である。まさに霊山にこそふさわしい。サンスクリット語の音が読み取れた円仁は碧霞元君を、梵音MATRと読み替え、更に漢字、摩多羅と置き換えたのではないだろうか。すると、摩多羅神はこの泰山からすべての謎が始まっていることになる。
円仁が泰山に登った形跡はないが、円仁が泰山府君だけ招来し、より盛大に奉られている碧霞元君・泰山娘娘を無視したとは考えにくいのである。円仁も泰山府君と碧霞元君をペアーと考えたに違いない。そして、泰山府君は焔摩天の拳族であるから、牛に乗っている。従って、泰山娘娘も牛に乗ることもまったく矛盾しない。そこで、秦一族が祭る理由として隠されていた秘密は、どうやら泰山と、その神であった。摩多羅神は、スワノヲと同一視されたこともあるが、(泰山府君=スサノヲ=摩多羅神)=焔摩天であることが共通である。
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