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【『空海ノート』補記 「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」】より
弘法大師空海の生涯には終始、東アジアの渡来系氏族との関係が色濃くあった。従来の空海伝(とくに仏教学系のもの)は、古代の日本と東アジアの文明交流史に関心が薄く、空海と東アジアの渡来系氏族のかかわりについてあまり言わないのだが、空海の出自から仏教修学や山林修行、さらに入唐留学や帰国後の活動、また高野山の造営や東寺の密教化や潅漑用水・港湾の修築まで、その生い立ちや行動のかげには、4~6世紀、朝鮮半島や中国などから渡来し、農耕・土木・養蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術で富を築き、経済力を背景にヤマト王権以降の朝廷や西日本各地の地方豪族に大きな影響力をもった渡来系氏族のサポートがあった。また空海には、彼らがもたらした宗教が日本化するかたちで陰に陽に影響を与えている。
空海と最も深いかかわりをもったのは渡来系氏族の代表格でもある秦(はた)氏であった。その秦氏とは、空海の時代、婚姻等を通じて親縁の関係にあった藤原氏、また秦氏と当初から深い結びつきのある和気氏、さらに空海の母の出自の阿刀(安斗、阿斗、安刀、安都、あと)氏、そして高野山麓の丹生(にう)氏などとの縁も無視できない。
以下、それぞれの概要と空海との関係、さらにその周辺について略記してみる。
◆秦氏
◇秦氏のルーツ
秦氏は、『日本書紀』によると、応神14年の条に、弓月君(ゆづきのきみ)という人が百済から120県の民を連れてきて帰化したことが記され、平安初期の古代氏族名鑑『新撰姓氏録』には、応神14年、秦始皇帝の5代あとの孫融通王(弓月王)が、127県の百姓を率いて帰化したことを伝えている。秦氏はこの弓月君をもって祖とするという。
秦氏のルーツには、中国春秋時代に滅んだ呉・越の流浪の民である(越出身の者は銅の生成に優れる)とか、秦始皇帝にさかのぼるなど諸説あるが、新羅あるいは加羅(百済と新羅の間にあった朝鮮半島南部の国、伽耶ともいう)だという説が有力といわれている。
秦氏のルーツ説に関して興味深いのは、かの「日ユ(日本・ユダヤ)同祖論」を提起した佐伯好郎博士の「弓月」国ルーツ説および秦氏=ユダヤ人景教徒説である。
「弓月」国は、中央アジア、今のカザフスタン東部にあるバルハシ湖の南方に、1~2世紀に存在したといわれる小さなキリスト教国で、中国語でクンユエといわれる。クンユエには「ヤマトゥ」(「神の民」の意)という地名があり、「ヤマトゥ」が「やまと」になったともいう。この「弓月」国の民が、実は景教徒、すなわち空海が留学先の長安で見聞したはずの大秦寺の、あるいは華厳・密典・サンスクリットの師般若三蔵に聞いたはずの、ネストリウス派キリスト教の信徒たちであったという。
ネストリウス派は、431年エフェソス公会議で異端とされ、ローマからシリア・ペルシャへ、そしてシルクロードを経て中国に流浪するのだが、ユダヤ教の色彩が濃く、「弓月」国の景教徒は古い頃イスラエルを追われた初期のユダヤ系キリスト教徒ではないかともいわれている。
空海は、このネストリウス派のキリスト教を長安の大秦寺(大秦寺の旧名は「波斯(経)寺」で、「波斯」とはペルシャを意味し、「大秦」はローマ帝国をいう)で見聞し、般若三蔵からその大秦寺の僧景浄(アダム)を紹介されていたはずである。般若は、その景浄と胡本(ソグド語版)の『六波羅蜜(多)経』を漢訳し、それが不備であったため、のちに梵本(サンスクリット版)から再度訳出した。空海はこの漢訳を般若三蔵の原本から書写したのであろう、長安から持ちかえって『御請来目録』に載せている(『大乗理趣六波羅蜜(多)経』)。
景浄は、唐の長安にネストリウス派のキリスト教が布教されていたことを石碑に書いて残している。空海がそれを見ていたかどうかは不明だが、今、西安市の碑林博物館に安置されている大秦景教流行碑がそれである。そしてそのレプリカが、明治時代、『弘法大師と景教の関係』を著したイギリス人のE・A・ゴルドン夫人によって高野山奥之院に建てられている。
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高野山奥之院、大秦景教流行碑レプリカとE.A.ゴルドン夫人の墓
秦氏とユダヤ教・イスラエルの関係について、もう一つ興味深いのは、秦氏の根拠地となった山背国(山城、今の京都)の太秦に秦河勝が建てた氏寺広隆寺があり、それに隣接してある秦氏ゆかりの通称「蚕の社」(木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)境内の湧水「元糺の池」のなかに建つ「三柱鳥居」(みはしらとりい)の三角形がユダヤ教やユダヤ民族のシンボルである「ダビデの星」に同じで、しかもその三角形は広隆寺を中心に東南東の稲荷山(伏見稲荷大社)、西南の松尾山(松尾大社)、そして北の双ヶ丘を指している、という説がある。この三所はいずれも秦氏の重要な聖地である。
◇豊前の「秦王国」と水銀鉱脈
秦氏の祖先はおそらく、九州の筑前(那ノ津、今の博多)から入ったであろう。『隋書』倭国伝にいわれる「秦王国」(豊前(今の福岡県南部から大分県にまたがる地域)が有力)は最初に秦氏が定住していた地にちがいない。そこにはまた、中央構造線に沿うかたちで水銀の鉱脈が走っていて、同じ頃丹生氏も肥前からこの地に移住してきていたといわれている。
この「秦王国」にはまた、後述する八幡神や弥勒や虚空蔵の信仰など、新羅に発する諸信仰の事蹟がある。
その後、秦氏の一団は、四国の伊予・讃岐、中国の長門・周防・安芸・備前・播磨・摂津を経て畿内に入り、河内から山背(山城)に至って太秦に本拠を構え、さらに北陸の越前・越中や東海の尾張・伊勢・美濃、そして東国の上野・下野から出羽にまで進出した。
そのうち讃岐では、空海の出自である佐伯氏領する多度郡真野(まんの)の東方の中讃地域に居住した。この地は、空海の時代にはすでに水田開発に条里制が採り入れられていた。これもヤマト王権の時代この地に定着した秦氏の農業技術がもたらしたものであろう。讃岐平野は秦氏の潅漑技術、とりわけ農業用水を池に溜め、それを広く田畑に引きまわす農業土木術の恵みで古くから潤った。讃岐佐伯氏の本家筋にあたる佐伯直のいた播磨にも同様の水田開発がみられる。赤穂では製塩や船運が秦氏によってはじめられたという。
この讃岐の秦氏からは、空海の弟子で太秦広隆寺の中興となった道昌や、東寺の長者や仁和寺の別当などを歴任し空海のために弘法大師の号を奏上した観賢が出ている(観賢は大伴氏という説もある)。
◇秦氏の神「八幡神」
ところで、空海の母の「阿古屋(あこや)」を「玉依(たまより)姫」と尊称する。
「玉依(タマヨリ)」は神の名で、玉依毘売命・玉依日売命(タマヨリヒメノミコト)・活玉依毘売命(イキタマヨリヒメノミコト)であり、海神(ワタツミノカミ)の娘・豊玉姫命(トヨタマノヒメノミコト)の妹である。吉野の水分(みくまり)神社や京都の下鴨神社は祭神としてこの「玉依(姫)」を祀っている。
また「タマヨリ」は、「霊依(タマヨリ)」であり、「憑依」「魂憑」、すなわち神霊神威が依り憑くこと。「ヒメ」はその依り憑く巫女、あるいは乙女の意味である。
さらに「玉依(姫)」には子供を産む女性特有の能力が強く反映されている。神話の「海幸彦・山幸彦」に出てくる綿津見大神(海神、ワタツミノカミ)の娘の例はこの代表的な事例である。
「タマヨリ」の女性は神との婚姻による処女懐胎によって神の子を身ごもったり、選ばれて神の妻となったりする。そのような巫女的霊能のある女性を「玉依」と呼ぶことがある。
空海の母は、実家跡といわれる今の多度津町仏母院近くの八幡社に子宝授与を祈願して空海を身篭ったという(仏母院に伝わる空海誕生伝説)。この八幡社は、多度津町の海べりに鎮座し応神天皇と神功皇后・比売神を祀る熊手八幡宮の分社で、熊手八幡宮はおそらくこの地一帯の秦氏の産土神(うぶすなかみ)であった。秦氏の奉ずる八幡神(やはたのかみ)は、後に弓矢神すなわち武神・軍神となったが、その原初は銅や鉄を産する神だった。民俗学者柳田国男はこれを鍛冶の神と言ったが、熊手八幡宮の八幡神は秦氏の治めるこの土地の(領有の)神であるとともにお産の神(産神)であったと思われる。八幡宮はみな応神天皇を主祭神とし神功皇后(応神天皇の后)と比売神(ひめかみ、主祭神の娘等)をともに祀るのだが、神功皇后が応神天皇の母であることから母子神ともいわれる。
さて秦氏が奉じた八幡神についてである。八幡宮の総本社である宇佐神宮のある大分県宇佐市のあたりは昔の豊前すなわち「秦王国」で、渡来した秦氏の民が多く住むところであった。
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宇佐八幡宮 熊手八幡宮
ある説によれば、この土地に秦氏系の渡来氏族辛嶋(からしま)氏があって、新羅からきてこの地の河原に住んだという「香(鹿)春」(かはる、かわら)の神を奉じ、その神とともに宇佐郡に移って定着し、その「香春神」にヤマト王権の使いできた大神比義(おおみわ(九州では、おおが)のひぎ)が応神天皇の霊を付与して「ヤハタの神」(=香春八幡神)としたという。
香春神とは辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)。「辛国」(からくに)は加羅の国。すなわち加羅から渡来した神である。辛国息長大姫大目命を祀る香春神社(辛国息長大姫大目神社)は、古来銅の産出で有名な香春岳の山麓にある。ほかに忍骨命(おしほねの)・豊比売命(とよひめのみこと)を祀る。息長大姫大目命・忍骨命・豊比売命について諸説あるが、ともに整合性のある説ではない。「香春」(かはる)はもともと「カル」。「カル」は、金属とくに銅のことである。
「辛嶋」(からしま)とは「日本の加羅(秦の国)」という意味になろう。その辛嶋氏の加羅の国にヤマト王権(蘇我馬子)の意を受けた大神比義が派遣され、渡来の神辛国息長大姫大目命を「ヤハタの神」(=香春八幡神)にチェンジさせたのである。
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香春神社 香春神社鳥居と香春岳 新羅国神の字が見える石碑
『八幡宇佐宮御託宣集』に、
辛国ノ城ニ、始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、
吾ハ日本ノ神トナレリ
とある。
大神比義の大神氏も辛嶋氏と同じルーツの渡来系氏族だといわれる。以後大神氏は、宇佐地域に居住するようになる(豊後大神氏)。辛嶋氏も香春の地から宇佐の地(豊後)に移っていた。
この「ヤハタの神」(=香春八幡神)が何度かの移座を経て神亀2年(725)、現在の宇佐小倉(椋)山に辛嶋勝波豆米の託宣によって遷座される。
ここには、この地の国造宇佐氏によって信仰されていた比売神三座が馬城峯(御許山)から移されていた。その社に応神天皇の霊を付与された「ヤハタの神」が主祭神として遷座されたのである。宇佐八幡のはじまりである。ここに「秦王国」に辛嶋氏によって奉じられた渡来の神が、辛嶋氏(と大神氏)によって日本の国神(くにがみ)「八幡神」となったのである。このことは同時に辛嶋氏つまり秦氏の日本同化策であった。事実、この半世紀前の「白村江の戦」に辛嶋氏は出兵させられている。
「ヤハタ」の意味には史家の間に諸説ある。しかし、「ヤ」(八)は「弥」で、数が多いこと、幾重にも重なる様のこと。「ハタ」(幡)は「幟」「旗」で、神々が降臨する依り代。つまり「ヤハタ」とは「数多くの幡(が幾重にも重なって風になびく)」の意味で、祭祀の際に降臨する神の依り代として何本も立てる幡、と考えるのが妥当だろう。韓国で祭祀の際に数多くの旗が並び立てられる例があるのに符合する。
◇秦氏のシャーマニズム、山岳信仰と弥勒信仰
ミルチア・エリアーデの言葉を借りるまでもなく、古代のシャーマンが鍛冶師と一体であることは多くの専門家が指摘しているところである。日本で言う「巫」の周辺では、氏族神の祭祀とともに鉱山・採鉱・精錬・合金・メッキ・薬品精製・医術といったサイエンスやテクノロジーが発達していた。
「秦王国」といわれていた豊前には、「秦氏の宗教」ともいうべき古代シャーマニズムと道教と仏教が混淆したハイブリッドな常世信仰があり、豊国奇巫(とよくにのくしかむなぎ)や豊国法師といったシャーマンが活躍していた。
『日本書紀』の用明天皇2年4月2日条には、用明天皇の病気に際し、皇弟皇子がこの豊国法師を呼んで内裏に入れたところ、物部守屋大連が反対して怒ったことが書かれている。
わが国への仏教公伝は、宣化天皇3年(538)と欽明天皇13年(552)の二説(538説が有力)あるが、崇仏派天皇だった用明天皇が三宝(仏・法・僧)への帰依を表明しつつも、周囲の薦めで秦氏系の法師(仏教僧ではない)が内裏に招き入れられた記述から、百済系の仏教を容認したヤマト王権(蘇我氏、用明・聖徳太子)がシャーマンのもつ病魔除け呪術や医薬品の効能に期待し、豊前(秦系・新羅系)の高度な文化や医術の情報をすでにキャッチしていたことが読みとれる。
その「秦王国」には、常世信仰や山岳信仰や弥勒信仰を含む新羅系仏教が伝わっていた。新羅には古くから、熊野信仰につながる擬死再生の常世信仰があった。太子や花郎(ふぁらん)と呼ばれる山岳修行者は神が降臨した依り代とみなされ、鉱脈を探索するために山に入り、洞窟(=穴)などに篭って斎戒修行を行った。そこに仏教の弥勒下生信仰が重なり、彼らに弥勒菩薩が降臨(憑依)することから、彼らは弥勒の化身だといわれるようになった。
豊前には英彦山という日本の代表的な修験の霊山がある。この英彦山には、弥勒菩薩の浄土(兜率天)内院の四十九院に付会した四十九窟がある。その英彦山と、英彦山で修行し「法医」とまでいわれた法蓮という僧(辛嶋氏系宇佐氏の氏寺・虚空蔵寺の座主や宇佐八幡宮の神宮寺・弥勒寺の別当)と、宇佐八幡宮の八幡大菩薩にかかわる弥勒信仰の伝承には、秦氏がもたらした新羅の仏教が大きく影を落としていた。
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