http://kouyaakiyosi.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-e73f.html【松尾芭蕉の俳聖光】
より
5・7・5と17拍(俗に『17文字』)になるように言葉を並べて、その中に季語を一つ入れて静かにひねり出すのが俳句だと思って、誰もが今までに二つぐらい名句を詠んだ経験があるはずだ。ただし、その名句は、自分以外は誰も認めてくれはしない。
[現在の俳句人口]は、約1000万人だといわれてから久しい。日本中のどの市町村でもマス・メディアが提供するカルチャーセンターが設立されていて、その中に[俳句教室]が必ずあった。一時期、そこに夫婦で入会した多数の人たちがいて、なかでも奥様連中は御主人より繊細な感情を持っているがゆえに俳句の道を突き進むことなる。毎回講師に褒められるのが奥様だけで、御主人はといえば、トイレの窓から北側の垣根のドウダンツツジの白い花を見て17文字で表現しようと低い唸り声を発したりして日々創作に励んでいるのに、一度として取り上げてはもらえない。奥様への対抗意識は頂点に達し、まだ薄暗い早朝に一人で30Kmもある県境の峠の頂上まで足を伸ばし、目に映る花鳥風月をカタッパシカラ吟じたてた。中には季語が2つ入ったものもできた。こんなことが2ケ月も続くと、誰にともなく無性にハラがたち「こんな単純なものは男のやるべきではない」と、複雑怪奇なパチンコホールに向かうようになり、そこでも、ついぞ勝った話は聞かれなかった。噂によると、今は場外馬券へも手を広げたという。ここでも彼は、たんまりとした自由にできる金を持っているくせに、本命だけに小額投票するだけで、本当の賭博の醍醐味を味わうことはできなかった。
1000万人の俳句人口は、後ろ足で砂をかけかけてやめていく者と、新たな身のほど知らずの参入組みとのバランスが保たれ、減りもしかれば増えもしない状況にある。全受講生の3分の2の人々に満遍なく「いいセンスを持っていますね」と商業的な賞賛の浴びた中には本当のセンスを持つ者が間違って混じっていて、僭越にも[俳人]の道に進む人が出てくることもある。その方々は長く続けた新聞・雑誌が主催の俳句欄への作品投稿は卒業し、割と力のある同人誌の会員になり発表の場を確保した。ここで一定の実績を手にして俳壇に受け入れられ、それとほぼ同じ数が老衰で他界する。[俳句年鑑]によると、新規参入組が足を踏み入れる世界には、以前からしがみついる古手の指導者タイプの俳人と交じり合い、全国に3800人も存在している。これらが所属する結社や俳誌が全国に830誌あるが、その中の実力ある130誌を調べてみると所属会員が200人未満が70%で、200人を超えるものは30%になる。しかし、後者のグループにおいても200人を大きく超えているわけでは決してない。
俳句結社の主宰者は多くの場合、活花や能楽や歌舞伎の世界同様の世襲制がほとんどで、主宰者が死ぬとか、頭がボ~としてきて午後2時に2回目の昼食の請求をし始めるころには、息子や娘に跡を譲る。したがって、宗匠本人の俳句がずば抜けて芸術性が高いわけではない。どうにもならないトップが出現することがあるが、組織には必ず本当に実力のある役員連が控えていて、折々に発表する句をぬかりなく準備しておくので心配には及ばない。
200人前後の会員数では月々1000円何がしかの会費を徴収しても上がりはしれたもので、到底飯の種にはならない。そこで彼らは新聞や雑誌の俳句欄の撰者になるために売り込み作戦をとる。これも複数のメデアからお声がかかるのは、俳句部門の文学賞受賞者や、全国紙の新聞、雑誌の撰者を安定継続している知名度の高い者に限られてくる。それらは他の団体季刊誌や企業会報の趣味の短歌・俳句の選者や指導の他に、講演や出版などの依頼が集中することになるので、他に本業を持たなくてもなんとこか食いつなぐことができるが、こんなのはほんの一握りだ。
現代の世知辛い俳壇のありさまを知ると風雅の世界だといわれた俳句にも興をそがれてしまうが、芭蕉が生きた江戸初期の俳諧の世界もまた経済的面では厳しい状況にあったようだ。
[松尾芭蕉]といいば紀行文[奥の細道]があまりにも知れ渡り、同じ本人が他の地方を旅した紀行文がお座なりになる場合が多い。芭蕉は[奥の細道]の紀行の前に4つの大きな旅をして、それぞれの紀行文を死後に出版している。旅の途上に歌枕の地に立ち寄り発句や連句を主体にしたものや、道中記風の漢文調や散文調の文書を主体として、その区切り区切りに発句を織り込んだものまで、様々なスタイルをとっている。ところで、芭蕉の年譜などを眼で追っていると様々な俳諧に関する用語が出てくる。それらの言葉の本意をつきつめると、あの時代にも夥しい出版物が溢れていたことを知る。版木に字句や絵を彫り込み、墨を塗って同じものを大量に印刷する技術が確立される前は、筆書きした原本から人の手で書き写す写本に頼っていた。向学心の旺盛な少年や青年は師の蔵書を許しを得て徹夜で写本したことだろう。また、写本を生業とする書道家も多くいたに違いない。俳諧の出版物もまた実力ある俳人が撰者になり、一門の人々が投稿した句を篩いにかけて選び一定の編集意図に則り写本を作って投稿者に確認した後に版元に依頼したのだろう。それらと異なる紀行文集のようなプライベートの書籍の場合は、出版を早急に推し進める必要もない。こんな書籍の場合には、思う存分に推敲を重ねて決定稿を作り、それを書道家の筆により和本として完成させたようである。これが、後には版元から出版されることがあったわけである。
芭蕉が追求した[俳諧]は江戸時代に栄えた文学形式で、正式には[俳諧連歌]と呼ぶ。、これは和歌の上の句(5・7・5)拍と下の句(7・7)拍を別々に詠む正式な連歌とは別に、5・7・5の発句と7・7付け句に、さらに5・7・5の三句と続け、延々と繋げて遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称をいうようだ。
松尾芭蕉の登場により冒頭の発句の独立性が高まり、発句のみを鑑賞する事も多くなり、これが明治時代に成立した俳句の源流となった。
芭蕉の時代の[俳諧師]とは、専門的に俳諧に携わる人のことをいい、それを専業として生活の糧を得ている者を[業俳]と呼んだ。これとは別に俳諧師と交流を持つ文化人で、本業が別にあり趣味として俳諧を楽しむ人々を[遊俳]とよび俳諧師と区別していたようだ。
[点者]とは、当初、連歌や俳諧などを評点して良否を判定する権限を朝廷から与えられた者を指したが、後にその権限を持つ宗匠から点者を許されるようになると乱れに乱れた。俳諧師、宗匠は点者の別名になって、芭蕉の弟子の[其角(芭蕉第一の弟子)]のように冠里公(旧備中松山城主)の邸に出入りして遊俳連衆の機嫌取りに成り下がっていった。
芭蕉も其角もこの世を去っていた1726年前後の享保年間には、其角が提唱して弟子に引き継がれていた[江戸座(伊達好みで、快活洒脱な都会的ムードの誹風)]が幅を利かせていたが、安易に作られた点者の横行は俳諧全体の質を落とす結果となった。その後の俳諧点者はまた官庁の許可なしに点者の業に就くことが禁じられたが、やがて元の木阿弥に帰したばかりか、世間一般の風潮としては「ばくち打ちと俳諧師には宿を貸さない」というところまで落ちぶれた。当時、俳諧師風情と一緒にされたばくち打ち業界の人たちは深く傷ついたあまり、堅気に戻った例が少なくはなかった。
[点料]とは、判定をしたことに対する御礼の意味の料金で、芭蕉は[業俳(宗匠として自立し点者の資格を取得した者。)]ではなかったので点料はとらなかったが、[宝井其角(キカク=蕉門第一の高弟)]や[服部嵐雪(ランセツ=其角と並ぶ蕉門第二の高弟)]は確りと取った。
芭蕉の場合、日本橋で宗匠として恵まれた収入を得ていたが、門人でパトロンでもある[杉山杉風(サンプウ=幕府御用達の魚問屋)]所有の鯉の生簀そばにある[深川の『第一次芭蕉庵』]に引っ越してしまった。彼は俳諧指導、添削料などの収入のある点者の生活を捨て、誠に不安定な[喜捨(キシャ=他人の善意の寄進)]による[深川隠遁]を始めた一時期は点料を請求できなかったのだ。
其角門の[淡々(俳諧のセンスはいいのだが、やることがえげつなく化物と罵られていた)]などは、自分からは料金を決めないで興行の顔ぶれに合わせて適当に多めに請求していたが、いつしか百韻『銀1両(現・約10万円)』、50韻『2匁(?)』、歌仙『1銭目半(?)』が定着した。
点者制度が確立された当初は師弟間に相当の礼節があり、宗匠を会席に招くにしても終われば直ちに謝礼を露骨にさし出すのではなく、翌日宗匠宅に御礼の挨拶に行く形で一包を菓子折に載せて贈る慣わしであった。
時代が下がってくると点料を当座に提出しない人も出てきて、そのような基本的人権を無視するフトドキ者には、金利分を上乗せした額を書き送って催促するようなこともあった。どちらに取ってもまったく締まらない話で、宗匠の権威が地に堕ちたか師弟間の信頼感が事切れてしまったのか、現代でもよく聞く話である。そしてその組織は、見ているうちに消滅していく。そして、最後の会計担当者は草々に帳簿を焼却してしまい、残高については硬く口を閉ざした。
[俳諧師の収入]
芭蕉のような高名な俳諧師には裕福な商人、豪農、高級武士などの門人兼パトロンというべき後援者の存在があった。後援者が催す句会に招かれれば、相応の謝礼を得ることができ、芭蕉の各紀行は各地のこれらの後援者を訪ね歩いた旅ともいえる。
また[句合(クアワセ)]と呼ばれた俳句コンテストの点者料もかなりの収入になったはずである。
そして、一定量の句がそるった場合には、版元を決めて俳句集を出版し、旅をすれば紀行文の出版などもあったのだろう。その時代にも当然、印税(ロイヤルティー)に相当するものがあったはずなので、[おくのほそ道の屏風絵]のごとく、ボロをまとう必要はなかったはずだ。
芭蕉は実年齢より老けてはいたが、中肉中背で筋骨たくましい身体を持っていた。だが彼は40歳あたりから必要以上に年寄りに見せようとしていたふしがある。わざと前かがみに腰をおり、人の見ているときは動きを緩慢にして老人を演出していたのだろう。
『古池や蛙とびこむ水のおと』が、筋骨隆々で酒焼けした赤ら顔の駕籠かきが我慢できなくて溝池に気持ち好く立ち小便をしたときに傍らの草むらにいた蛙が池に逃げた状況を焼酎を飲みながら仲間に聞かせた句ではあれほど有名な句とはならなかっただろう。あの古池蛙は、
「もはや金を除くあらゆる欲望を超越して、一人遠き地にある病弱な親友からの手紙をくれななずむ残光のなかで読んでいるとき、なにに驚いたのか蛙が窓の直ぐそばにある池に飛び込んだ」という情景で初めて名句になるのだ。ただし、立ち小便を決して悪いといっているわけではない。終わった後の爽快感はなにものにかえがたい。
俳句に関する古典を覗くと、[歌仙を巻く]とか[連句]という言葉がたびたびでてくる。俳句が5・7・5(発句)で完結するのに対して、それに続いて7・7(脇句)と付ける。さらに5・7・5と第3句を付けて、4番目は7・7と付けて5番目が5・7・5続き、全体の一貫性を重視して36番目の[挙句(アゲク)]まで続けることを「[歌仙]を巻く」と表現するようだ。
『[奥の細道]の旅での福島県の須賀川の等躬宅での歌仙一巻』が、芭蕉歓迎の1689年(元禄2年)4月22日の句会に際して編まれている。[三吟歌仙]であるから、芭蕉が主賓で亭主役の等躬が脇を付け、曾良が第三句を付けることで始まり、36句が続けられた。その配列は、こんな塩梅である。
[[ 発句 風流の初めやおくの田植歌 芭蕉
脇 覆盆(イチゴ)を折りて我もうけ草 等躬
第三 水せきて昼寝の石やなおすらん 曾良
4 びくに鰍(カジカ)の声生かす也 芭蕉
5 一葉して月に益なき川柳 等躬
6 雇にやねふく村ぞ秋なる 曾良
7 賤の女(シズノメ)が上総念仏に茶を汲みて 芭蕉
8~32 略
33 花遠き馬に遊行(ユギョウ)を導きて 曾良
34 酒のまよひのさむる春風 芭蕉
35 六十の後こそ人の正月(ムツキ)なれ 等躬
挙句 蚕飼(コガイ)する屋に小袖かさなる 曾良 ]]
芭蕉、等躬、曾良が巻いた[三吟歌仙]をこうして並べてみると、なんとなく俳諧をわかったような気がするから不思議だ。この句会の主賓[芭蕉]のことはあまりにも知り尽くされているので省くとして、芭蕉をもてなす側の亭主役[相良等躬]の人なりは以下のごとくである。
[相良等躬]は、1637年(寛永14年)に白河藩須賀川代官[初代相良貞次]の5男で分家した相良貞栄の長男として生まれている。本名を[相良伊左衛門]といい、幕府道中奉行支配下にあった問屋職と諸色問屋(ショシキトイヤ=米、油、綿、木綿、その他の様々な商品(諸色)を取り扱う問屋で、全国各地方の在地荷主から預かった資本で他地方の商品の買付けを代行する業務おこなう荷受問屋である。元禄期が終わると専門商品を取り扱う仕入れ問屋に席を譲り、この業務形態は消えていった)を職業としていた。また、今で言う市長にも相当する宿駅長の職にもあり、当時の須賀川財界のNO1の存在であった。
芭蕉の師の[北村季吟]と等躬の師の[石田未得]がともに[松永貞徳]門下のために、同門の孫弟子の関係で、俳諧では対等の間柄である。おそらく等躬が江戸にでた折にでも芭蕉との交流ができ「奥州においでのおりには是非にも当家にお立ち寄りください」と社交辞令ぐらいは申し上げたことだろう。
奥の細道の旅で芭蕉に随行した曾良については以下のごとくである。
[河合曽良(カワイ ソラ)]1649年(慶安2年)~1710年(宝永7年)5月22日。
曽良の職業である[巡遣使(ジュンケンシ=幕府の大名領内の調査員か?)]の随員日誌に曾良の没した記録が無いために正確な没月日は不明。
信濃国下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれたが、両親が亡くなってから伯母の養子となり[岩波庄右衛門正字]と名乗る。12歳のおり養父母が亡くなったため伊勢国長島の親類の家に引き取られた。
1668年(寛文8年=20歳)前後から長島藩主[松平康尚]に仕え[河合惣五郎]と名乗る。1681年(天和元年)に致仕(チシ=職を退く)し、江戸の[吉川惟足(ヨシカワコレタリ=江戸前期の神道家)]に吉川神道を習う。
1689年(元禄2年)に芭蕉の[奥の細道]に随行して[曾良旅日記(253後の昭和18年に所在判明)]を残した。
1709年(宝永6年)に幕府の巡遣使として九州を廻り、翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡遣途上に病没している。享年62。
芭蕉と一緒に陸奥と北陸への[奥の細道]の旅に出向くまでには、立ちよる予定の先々の[歌枕]や神社仏閣の所在と成り立ちや故事をなどを徹底して資料を揃えたと思われる。芭蕉はといえば、事前に資料の細部に眼を通し、シュミレーションを繰り返したことだろう。もしかしたら資料を観ながらこれから向かうことになっている先々の歌枕にある和歌などを読み返し、「ここでは、これを題材にした句をこのように詠めば、『さすがは芭蕉だ』と皆が感心するものが出来るだろう」などとうっすら笑みを浮かばたかもしれない。勿論、なんの根拠もない私の妄想なんだけれども。
松尾芭蕉の年譜をたどると、俳諧師になってからは、かなりの句会、句合が記録されていて、別の方面への旅をくりかえしては、行く先々で句会を数多く催し歌仙を巻いたり百韻を巻き神社に奉納したりしている。また芭蕉が詠んだ発句を撰して弟子がまとめたものを出版していた記録が多数あるので、そこから稿料に類するものも得ていたはずである。
[松尾芭蕉年譜]
1644年(正保元年=徳川家光が3代将軍に就いて21年後)に伊賀国阿拝郡(アベグン)小田郷上野赤坂(現・三重県上野市赤坂町)に生まれる。当時の上野は藤堂家32万3千石の支城地である。
芭蕉の本名は[松尾忠右衛門宗房]で、家族としては伊賀土豪の末裔の父[松尾与左衛門]、伊予宇和島(現・愛媛県宇和島市)生まれの母[桃地氏の女性]、兄[松尾半左衛門]、他に姉1人、妹2人で芭蕉は次男坊である。
1656年(明暦2年=徳川家綱4大将軍就5年後)芭蕉数え年13歳。
芭蕉の父死去。この年の後に、芭蕉の後の俳諧の師匠[北村季吟]が宗匠として独立している。
1662年(寛文2年)芭蕉19歳。
侍大将5千石藤堂新七郎良精の嫡子[主計良忠宗正(カズエヨシタダムネマサ=21歳)俳号『蝉吟(センギン)』]の料理人として出仕。
この年の歳暮吟としての芭蕉の句が、13年後に刊行された[千宜理記(チギリキ)]に所収される。最初の記録に残る芭蕉の句、
『春やこし年や行(ユキ)けん小晦日(コツゴモリ=大晦日の前日)-宗房(芭蕉の最初の俳号)』がある。
1664年(寛文4年)芭蕉21歳。
松江重頼(マツエシゲヨリ=京都の撰糸(センシ=絹織物の一種)商人、江戸初期俳人)撰の俳諧集[小夜中山集]に主人[蝉吟(センギン)]とともに芭蕉の句、
『月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿』を含めた2句入集(松尾宗房名で)される。
1665年(寛文5年)芭蕉22歳。
11月13日、主人[蝉吟(センギン)]主催の[貞徳(1640年代の俳人・歌人)13回忌追善5吟俳諧百韻]に宗房名で一座し付句18句。
1666年(寛文6年)芭蕉23歳。
4月15日、主人[蝉吟(センギン)]25歳で没。
遁世(トンセイ=隠棲)の志いだきて致仕(チシ=退職)を乞うも許されず7月主家を出奔し、京都東山山門近くに住し京都俳壇と交流。
1667年(寛文7年)芭蕉24歳。
北村湖春(キタムラコシュン=江戸前期から中期の俳人、歌人)撰[続山井]に伊賀上野[宗房]名で芭蕉の発句28句、付句3入集。
1672年(寛文12年)芭蕉29歳。
1月25日、伊賀上野天満宮に自判の30番発句合[貝おほい]に発句2入集し、『伊賀上野松尾氏宗房、釣月軒(チョウゲツケン=生家の裏にある庵)にしてみずから序す』と署名して奉納し、俳諧師として立つ決意を披露する。
1674年(延宝2年)芭蕉31歳
3月17日、北村季吟(キタムラキギン=江戸前期から中期の俳人、歌人)より連作秘書[埋木(俳諧の作法書)] の伝授を受ける。
1675年(延宝3年)芭蕉32歳。
この春、松尾甚四郎と改名し江戸に下る。5月、[西山宗因(ニシヤマソウイン=江戸前期の俳人、連歌師)を迎えて百韻興行]で桃青号で一座、
『時節嘸(サソ)伊賀の山ごえ華の雪-杉風』に『身は爰元(ココモト)に霞む武蔵野-桃青』を含む付句8。
宗匠として立つために、高野幽山(タカヤマユウザン=江戸前期の俳人)の執筆(シュヒツ=書記役)を勤めている。
1676年(延宝4年)芭蕉33歳。
2月、[素堂(ソドウ=信章)と両吟百韻]2巻を巻き天満宮に奉納し、これを[江戸両吟集]と題して板行に及ぶ。
[[ 『山口素堂(1682年~1716年)』は、甲斐国巨摩郡上教来石村(現・山梨県北杜(ホクト)市)に酒造業の家の長子に生まれ、幼少時に甲府に移る。20歳の時に家業を弟に譲り江戸に出て漢学を学び一時は仕官をしている。
俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された[伊勢踊]に句が入集されたのが初見。
1674年(延宝2年)、京都で北村季吟(芭蕉の師)と会吟し和歌や茶道、書道などを修める。
1675年(延宝3年)に初めて松尾芭蕉と一座して深川芭蕉庵の近くの上野不忍池付近に退隠し、芭蕉の門弟ではなく北村季吟同門の友人として交流した。『目に青葉山ほととぎす初鰹』の句は有名である。]]
1677年(延宝5年)芭蕉34歳。
本舟町に一戸を構え、生活のたずきに以後3年ほど神田上水の水役に任じられる。春に、[宗匠立机披露の万句興行]を行う。[信章(山口素堂の本名)]、[信徳(シントク=江戸前期の俳人で、京都の裕福な商家の出で、1673年江戸に出て芭蕉と交流を持つ)]と三吟百韻一巻を巻く。
1678年(延宝6年)芭蕉35歳。
春に前年に始めた信章・信徳と三吟百韻2巻を巻き、前年の1巻と合わせて[江戸3吟]として刊行。
1680年(延宝8年)芭蕉37歳。
4月に[桃青門弟独吟20歌仙]を刊行の当時は『桃青の園には一流ふかし』と語られ、杉風、卜尺、嵐蘭、揚水、嵐雪、其角ら優秀な門弟を擁し、江戸俳壇に一流を確立する。
江戸の下った芭蕉が弟子の杉風の別荘へ入り芭蕉庵と名づけた年であったが、綱吉が5代将軍になった年である。綱吉は幕府の制度儀礼の整備を行い、除封と減封合わせて46件の161万石にも及んだ。町人文化を横目で見た諸大名や武士にあっては、まさに恐慌時代であったのだ。
1681年(天和元年)芭蕉38歳。
春、李下から贈られた芭蕉の株を植え、芭蕉庵の庵号はこれにもとづく。
1682年(天和2年)芭蕉39歳。
2月、{谷木因(タニボクイン=美濃国(岐阜県)大垣で船問屋を営む商人。芭蕉と同じ北村季吟の門弟で、芭蕉の後援者の一人)}あての書簡に芭蕉と署名。12月28日、駒込大円寺に発した大火で芭蕉庵延焼、高山麋塒(タカヤマビジ=300石取りの武士)を頼って甲斐の谷村に避難した。
1683年(天和3年)芭蕉40歳。
甲斐逗留中に、滞留、麋塒、一晶との3吟歌仙なる。5月江戸に帰り船町に仮寓。其角撰[虚栗]に跋を草し芭蕉洞桃青と署名、李白、杜甫、西行の風流を追った新風の特色を宣示する。
9月、素堂の『芭蕉庵再建勧化簿』序がなり、門人らの寄金により芭蕉庵の再建がはかられ、冬に再建芭蕉庵に入庵する。
1684年(貞亨元年)芭蕉41歳。
8月、千里(チリ)と同行[野ざらし紀行]の旅に発足。9月8日帰郷し、大和、山城を経て9月末に美濃大垣に木因を訪ねる。
1685年(貞亨2年)芭蕉42歳。
将軍綱吉の悪名高い[生類憐みの令]が発布された。最初は犬猫が対象であった[生類憐みの令]は次第にエスカレートしてゆき、元禄7年には江戸中の金魚の数を正確に申し出なければならない[金魚の戸籍調べ]にまで及んだ。
2月、奈良に出て東大寺2月堂での[水取りの行事]を拝した後、京、湖南に滞在、秋風、任口に会う。
1686年(貞亨3年)芭蕉43歳。
正月、其角らと[初懐紙]百韻を巻く。
この春、『古池や蛙飛び込む水の音』を巻頭に衆議判[蛙合]を催す。『蛙合』とは芭蕉の『古池蛙』に対する[仙化(江戸の生まれの芭蕉の門人)]が『いたいけに蛙つくばふ浮葉哉』と返して、規定通り判定なしとして始まる。
2番から20番まで別の人が対決して20番目が規定通り判定なしとして終わる。この句合に判者を合わせて41人が参加したこになる。
秋、芭蕉は去来の[伊勢紀行]に跋(バツ=あとがき)を寄せる。
1687年(貞亨4年)芭蕉44歳。
正月に徳川綱吉が天下の悪法[生類憐みの令]公布。
10月25日[笈の小文]の旅に出足。鳴海、熱田、保美、名古屋で[吟席を重ね]12月下旬帰郷し伊賀上野で越年。
1688年(元禄元年)芭蕉45歳。
8月11日、越人と[更科紀行]の旅に出て、下旬江戸に帰る。
12月17日、[深川8貧]の句文できる。
[[ 『深川8貧』への参加者は、芭蕉を筆頭に依水(イスイ)、苔水(タイスイ)、泥芹(デイキン)、路通、曾良、友五(ユウゴ)、夕菊(ユウギク)で、中国は晋代の『竹林の七賢人』を想起して、『それに比べた我々は、さしずめ深川の8貧乏人』だろうと構えたようだ。この『貧』を主題にした句会は、出席者それぞれが『薪買い』、『水汲み』、『飯炊き』、『酒買い』、『炭買い』、『茶かい』、『豆腐買い』、『米買い』などをするというつもりで句を読んだ。
『米買ひに雪の袋や投頭巾』 芭蕉は「米を買いに行こうと思ったら雪が降ってきた。そこにある飴売りがかぶる頭巾を借りていってくる」と詠んだのだろう。 ]]
1689年(元禄2年)芭蕉46歳。
閏1月下旬に[猿雖]に、2月15日[桐葉]に、2月16日に[宗無]のそれぞれに書簡を送り、陸奥・北国旅行の意図を告げる。芭蕉庵を平右衛門なる人物に譲り、杉風の下屋敷に移る。
3月27日、曽良を同伴して[奥のほそ道]の旅に発足。陸奥・北陸を旅し同年9月大垣に至り奥のほそ道の旅を終える。
元禄2年9月13日、大垣を出達し伊勢に下る。
1690年(元禄3年)芭蕉47歳。
前年より越年した膳所を正月3日に発足し伊賀に帰る。4月義仲寺の草庵に入るも、奥のほそ道の旅の疲れから健康の衰えを覚える。
1691年(元禄4年)芭蕉48歳。
正月上旬に伊賀に帰り、4月18日より5月5日まで京都嵯峨[落柿舎(ラクシシャ=京都嵯峨野にある弟子の向井去来の別荘)]に滞在、この間の日記[嵯峨日記]を編む。7月3日[猿蓑]を刊し蕉風の円熟境を示す。
1692年(元禄5年)芭蕉49歳。
5月中旬、杉風や枳風の好意で新築されれた芭蕉庵に移る。健康とみに衰えを見せた反面、中秋以後諸門人との往来しげく、身辺多忙をきわめる。
1693年(元禄6年)芭蕉50歳。
1月下旬[洒堂]芭蕉庵を辞去する。3月[猶子桃印(30歳)]芭蕉庵で病没。同年10月下旬より、体調不良により諸門人との会吟激減する。
1694年(元禄7年)芭蕉51歳。
10月12日午後4時ごろ没。
14日、膳所(ゼゼ=滋賀県大津市の一地区)の義仲寺に埋葬。
[芭蕉の紀行文]
俳諧師が定期的に各方面に旅をするのは単なる物見遊山だけのためではなく、旅の先々にある弟子や俳壇内の友人である[遊俳(本業が別にあり趣味として俳諧を楽しむ人々)]を訪ね、句会を開いて同席した者より[点料]頂戴するためでもある。いい換えるなら「商売としての売上増進」が重要な目的の一つである。
[野ざらし紀行]
1684年(天和4年、貞亨元年)8月~1685年(天和5年)4月末までの旅。
弟子[粕谷千里(カスヤチリ=本名粕谷甚四郎)1647年~1716年7月18日69歳で没]を同行した芭蕉が故郷の伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文である。この旅の第一の目的は前年の1684年に他界した[母の墓参]のためであるが、江戸から東海道を伊勢(現・三重県伊勢市豊川)に向い、故郷の伊賀上野(現・三重県伊賀市)で墓参しをしてから大和国(現・奈良県御所市(ゴセシ)を中心とした律令制当時の一国)から美濃(岐阜県南部)の大垣(現・岐阜県大垣市、当時・戸田家大垣藩の城下町)により、さらに名古屋に寄って伊賀に戻り越年している。次の年の1685年は京都など上方を旅して熱田に滞在するなどして、甲斐国(現・山梨県)を経て江戸に帰った。
[野ざらし紀行]の『野ざらし』は「髑髏」とか「しゃれこうべ」とか「白骨死体」等の意味で、縁起の良い言葉ではないが、芭蕉の旅発ちの句が、
『野ざらしを心に風のしむ身かな』なので、なんともしょうがない。この句の前の本文のスタートには、
[[ 千里を旅立て、路粮(ロリョウ)を包まず。「三更月下無何に入る」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋8月、江上の破屋を出ずる程、風の声そぞろ寒気也。]]とある。中国の故事や、中国の高名な禅僧の詩歌の一片を引用した芭蕉の見識豊かな文章だというが、私にはさっぱりわからん。
この部分の解説を苦労して見つけだした。
「荘子は、千里を旅する者は、3ケ月も前から食料を用意するといっているが、わたしは道中食を持たずに、ただ「夜更けの月明かりのもと、俗世間を離れ仙境に入る」という古人の言葉をよりどころにして、貞亨元年の秋8月、いよいよ隅田川のあばら屋を旅立つ。荒れ野を通り抜けていく風の音を聞くと、つい、薄ら寒い思いに駆られることがある」と云っているらしい。俳諧を嗜む富裕層は高度の素養を持っている人々に限られていたようだが、芭蕉の弟子の中には、素養は別として人間的な規格外れの弟子も相当混じっていることが証明されている。端的にいえば、犯罪者なども芭蕉の庇護下にいた形跡がある。
「[野ざらし紀行]は発句が中心となって文章はその前書き程度で[詞書(コトバガキ=和歌や俳句の前書きとして、その作品の動機や主題を記したもの)]としての性格が色濃い。そして文章に重きを置いた[笈(オイ)の小文]を経て、文に重きを置き句が融合したかに見える[奥の細道]へと発展するのだ」などという人がいるが、かなり怪しいところもある。
この旅の箱根越えに詠んだ句は、
『霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き』(芭蕉)で、
「あいにくの霧で富士山は見えないが、霧の向こうにそびえる名峰を思い描くことも一興である」との解説文が載っている。本当にこれだけの意味を盛り込んでいるのなら、俳句とはすごい文学である。句だけを見て、そこまで読み取る人がどのくらいいるものなのだろう。
『深川や芭蕉を富士に預行』(千里)
「深川からかなりの距離を歩いて富士山の麓まできてしまったが、芭蕉庵での師の今までの暮らしぶりをこの山に預かってもらって、この先に進むことにしよう」という同行者[千里(チリ)]の句である。
箱根を越えると、[富士川]、[大井川]、[小夜の中山]、[伊勢神宮]、[伊賀上野]、[竹内]、[二上山]、[吉野山]、[不破の関]、[大垣]、[桑名]、[熱田]、[名古屋]、[伊賀上野]、[奈良]、[京都]、[大津]、[唐崎]、[水口]、[熱田]、[甲斐山中]とたどり[芭蕉庵]へは1685年(天和5年)4月末になる約9ケ月にも及ぶ旅であった。
[鹿島紀行]
1687年(貞亨4年)8月に[曾良]、[宗波(ソウハ=隠遁の僧侶で深川芭蕉庵の近くで隠棲している)]が同行して、常陸鹿島(現・茨城県鹿嶋市)へ[月見]にいったときの紀行文である。
『野ざらし紀行』の2年後の44歳になった芭蕉のもとに、鹿島[根本寺]に戻った[仏頂和尚(和尚が住んだことのある江戸の芭蕉庵の近くの[臨川庵]に出向いた芭蕉が和尚から禅の手ほどきを受け、芭蕉が和尚に俳諧の手ほどきをした間柄)]から「月見にいらっしゃい」の誘いの手紙を貰ってお言葉に甘えた旅だった。
三人は8月14日に芭蕉庵を舟で出て、[小名木川(旧中川と隅田川を結ぶ運河)]を通って[行徳(千葉県市川市南部)]へ、[八幡(千葉県市川市中北部)]、[鎌ヶ谷(千葉県)]を通って[布佐(千葉県我孫子市)]から[利根川(群馬県の大水上山から茨城県銚子)]を舟で下った。さらに[佐原(千葉県香取市)]から[潮来(茨城県南東部)]を経て[大船津(茨城県鹿島市内)]で下船した
電車もバスも車もなかった当時は、小舟が通れる水路がいたるところに開削されていたようだ。上のコースを現代の地図上で辿ってみると、大きな川と川との間に大きな沼があったり、川と川の距離が極端に狭まっていたりしている。平地であれ山頂であれ、城という木造高層建造物をたちあげる土木建設技術を持つ当時の専門家なら、水位の同じ異なる水系を水路開削してつなぐことなど造作のない工事だった違いない。
8月15日鹿島[根本寺]に仏頂和尚を訪ねて観月にのぞむも曇り後雨。
『をりおりにかわらぬ空の月かげも ちぢのながめは雲のまにまに』 (和尚)
『つき早し梢は雨を持ちながら』 (芭蕉)
『雨に寝て竹起かえるつきみかな』 (曾良)
『月さびし堂の軒端の雨しずく』 (宗波)
この人達は、月が出なかろうが雨が降ろうが決められた月見をして、渋い句を捻り出さずにはいられない人種らしい。
[笈(オイ)の小文]
1687年(貞亨4年)10月25日~貞亨5年4月23日。伊賀への4度目の帰郷に際して詠んだ作品を集めて一巻としたものだが、この旅行とその後に芭蕉自身が書いた真蹟短冊や書簡を、芭蕉の死後に大津蕉門の重鎮[川井乙州(カワイオトクニ)]が編集したものである。
[笈の小文]の内容は最後の紀行文となった[奥の細道]に匹敵するほどの出来で、芭蕉が細道の旅以後も詞書などの句文等に推敲を重ねていたことが伺われる。この旅の名目は亡父の33回忌法要参列のためとあっが、当時の売っ子[芭蕉]にとって名古屋、大垣などの門人からの招請を断りきれず、彼らの要求に従った面がある。芭蕉の自信と希望に満ちた思いが次の句に溢れている。
『旅人とわが名呼ばれん初しぐれ』
[野ざらし記行]の出立に詠んだ、
『野ざらし(野に置き去りの白骨死体)の心に風のしむ身かな』は特別しても、陰気くさい彼の俳句のなかでは一番明るい部類であろう。
この[笈の小文]への旅でも他の旅でもそうだが、旅立ちに際して門弟が催す[餞別の句会]がとりおこなわれる。名目はともかく、句会に集まった富裕門人が師の旅費の足しにと、ある程度の金員を贈るのだろう。こうした句会は各旅先の宿場に住む芭蕉ゆかりの者や、知名度の高い神社仏閣の管理者が催す句会が準備されていて、そこまで旅の途中に詠んだ発句を披露をすると共に、句会に出席した複数の俳人による俳諧興行が行われている。
[更科紀行]
[笈の小文]で美濃まで行っていたが、1688年(元禄元年)8月11日、[越智越人(オチエツジン=尾張蕉門の門人)]を連れた芭蕉は美濃を発って帰路は木曽路をたどることになる。更科(現・長野県千曲市南部)までの旅なので[更科紀行]とした。ここは有名な伝説の[姨捨山]があり、ここに2人が着いたのが8月15日で、4泊5日の旅となる。
[[ 更科の里、姨捨山(オバステヤマ)の月見んと、しきりにすすむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂(クルオ)すもの又ひとり、越人(エツジン)といふ。木曽路は山深く道さがしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子(カケイシ=医者で尾張蕉門の俳人、最後の『子(シ)』はその人物に敬意を表わす語)が奴僕(ヌボク=使用人)をして送らす。おのおの心ざし尽すといへども、羇旅(キリョ=馬をともにした旅)のこと心得ぬさまにて、ともにおぼつかなく、ものごとにしどろにあとさきなるも、なかなかにおかしき事のみ多し。 ]] は、[更科紀行]の出だしの文である。
[野ざらし紀行]が漢文を見るようにガチガチに硬い文体だが、[鹿島紀行]、[笈の小文]を経て[奥の細道]への旅立ちの[更科紀行]ではかなり文体の角がとれている。[奥の細道]の華麗な文体まであと一歩というところだろう。
[更科紀行]の終点の[姥捨山]で詠んだ2人の句は、味わい深いものである。
『ひょろひょろと猶露(ナオツユ)けしや女郎花(オミナヘシ)』(芭蕉)
『更科や三(ミ)よさの月見雲もなし』(越人)
[奥の細道]
1689年(元禄2年)3月27日~同年8月21日の約6ケ月、140日間に、芭蕉と曾良が踏破したこの旅は日本人の大部分の知るところである。知らなくても、別に日常の生活に支障が出るわけではないが、中学3年生の国語の中で古典文学として[奥の細道]が取り上げられているようである。
元禄2年に北関東、陸奥、北陸の旅をしたわけだが、他に優先させるべき事が山積みになっていたのか、生涯で一番力を注いだ文章をねらったのか、その全容が整ったのが旅から5年を経過する元禄7年の春先である。[奥の細道]の本文やそこに載せるべき発句を何度も何度も推敲を重ねて完全に近づけたのだらう。
[奥の細道]の本来のタイトルは[おくのほそ道]である。芭蕉は自分の5つの紀行文を生前に板行するつもりはなかったようだ。細道の旅を終えて5年後1694年(元禄7年)に推敲を重ねて決定稿というべき自筆の[おくのほそ道]を、[池田利牛(リギュウ=若手江戸蕉門の一人で越後屋の手代)]が写本したものが河合曾良の手に渡り、[曾良本『おくのほそ道』]となる。正確には、河合曾良の手に渡った写本には芭蕉が原本を見て、その後も推敲を重ねた添削部分を芭蕉の指示で加筆と削除がびっしりと書き込まれている。
この[曾良本『おくのほそ道』]は曾良の手から能書家(ノウショカ=書道に優れ万般にわたる素養を備えている人)[柏木素龍]に清書させ和本として製本された2部の内の1部が帰郷の際の兄半左衛門への土産とした物である。芭蕉は生前に板行する意思がなかったので、兄への遺言で自分の死後に[向井去来(キョライ)]を通して版元の[井筒屋]から出版させるよう手配済みであった。[元禄版『おくのほそ道』]は1702年(元禄15年)に井筒屋で版木に彫られ大量に俳諧を嗜む者や、当時の文化人の手に渡ったことであろう。その後に井筒屋は、[明和版(1770年=明和7年)]、[寛政版(1789年=寛政1年)]を出している。
1694年(元禄7年)に芭蕉と曾良が推敲を重ねた[おくのほそ道]を柏木素龍(書道家)の手で2部清書され、一部が芭蕉の兄の手へ渡り、芭蕉死後にそれを元に版木にされ井筒屋から3度のわたり出版されている。そしてこの写本の原本は[向井去来]の元に返り、去来の叔父久米升顕(京都の医者)にわたり、さらに若狭小浜の吹田家に移り、吹田家の娘が西村家に嫁入りする際に結納として移っつたのが[西村本『おくのほそ道』]で、昭和9年7月18日に土蔵の奥から鼠の糞に混じって姿を現した。
[柿衛本(カキモリボン)『おくのほそ道』]は昭和35年10月4日に兵庫県伊丹市の大金持ち柿衛翁が自分が所持しているむねを朝日新聞に発表したことで存在が確認された。これは[曾良本『おくのほそ道』]は曾良の手から能書家(ノウショカ=書道に優れ万般にわたる素養を備えている人)[柏木素龍]に清書させ和本として製本され2部の内で、芭蕉が兄に渡した1部のほかの一部だと思われている。
いずれも偽物ではないが、芭蕉の[おくのほそ道]の原本としては[西村本『おくのほそ道』]の正当性が証明されている。落書きだらけの[曾良本『おくのほそ道』]が芭蕉研究の資料としては一級品だが、これが発見され出版されたのは[曾良旅日記]と同時の1947年(昭和18年)で、この曾良旅日記の一部分が現在本屋に並ぶ[奥の細道]の巻末付録の[曾良随行日記]である。
今から319年前に出版された松尾芭蕉の名著[奥の細道]の本格的研究がなされたのは、太平洋戦争の終戦2年前あたりからなのが、意外といいば意外なことである。
[奥の細道と芭蕉の死まで]
1694年(元禄7年)5月11日、51歳の芭蕉は江戸を出立し故郷の伊賀上野へ向かった。懐には書道の専門家[素龍]が清書した[奥の細道]が入っていた。故郷の松尾家を守る兄半左衛門に見せて意見を聞きたいと思ったのだ。この旅は兄の行ったことのない地方の紀行文で、[奥の細道]を見せれば老いた兄の慰めにもなろうと、思ったことであろう。
[奥の細道]は当時人気のあった[旅案内]の部類で、俳諧師が本業の芭蕉にとりあくまでも余技の部分である。そのために最後の句を、
[蛤のふたみに別れ行く秋ぞ]と半左衛門の好物『蛤』を題材としている。これなら、当時の世間で猛威をふるっていた悪法[生類憐みの令]にも抵触しないはずだ。また、この年の10月12日他界する芭蕉にとっては、結果的に兄との別離が暗示されているような巻末の一句である。
蛤の句(秋)は出発時の、
[行く春や鳥啼魚の目は泪(春)]と対句になっていて、そういった工夫の妙はいたるところに見られる。『鳥啼魚の目は泪』は、行く春の中での別離を悲しんで鳥は啼き魚も泪を流しているという感慨で、ここにも[生類憐みの令]が抜け目なく配慮されている。
『芭蕉は挨拶句の達人で、[奥の細道]でも幾多の知人門人に向かって誉めたたえる句を作っている。
[行く春や鳥啼魚の目は泪]は、幕府の[生類憐みの令]の政策へのおべんちゃらとともに、[杉風]こと[鯉屋市兵衛]という幕府御用達の魚屋(実は幕府の隠密)で、芭蕉庵の提供者である。彼は、憐れみの令では商いで苦労したはずで、涙を流す魚とは旅立つ芭蕉を見送る衫風のことである』と、俳句にも造詣ある嵐山光三郎先生はいう。
1694年(元禄7年)5月28日に伊賀上野に到着し、[奥の細道]を兄に渡した。そして、ここから死ぬまでの5ケ月間は芭蕉に取り特にあわただしい日々を送ることになる。
兄松尾半左衛門宅に滞在していても、伊賀上野俳壇の[土芳(ドホウ)]や[半残(ハンザン)]その他が間断なく顔を出す人々を、自分の別邸に招いて連日歌仙を巻いた。
こんなおり、大阪道修町(ドショウマチ)から弟子の[之道(シドウ)]が訪ね来て、『江戸帰りを鼻かけた同門の[洒堂(シャドウ)]が私の弟子を取ろうとしているので、何とかしてほしい』と泣きついてきたが、芭蕉は聞き流した。
芭蕉は大津、膳所(ゼゼ)とまわり京都落柿舎へ[去来]を訪ねた。芭蕉逗留を知り、ここにも京、大阪の弟子が次々と集結し落柿舎はさながら合宿所の賑わいとなる。
1694年(元禄7年)6月初めに江戸芭蕉庵にいる[寿貞(ジュテイ=芭蕉の妾)]の死の知らせを受けた。
1694年(元禄7年)6月15日、膳所の義仲寺[無名庵]に移り7月5日まで滞在した。
盆には伊賀上野の兄の家に戻り、先祖の墓まいりをした。
1694年(元禄7年)8月15日、兄の家の裏庭に作った草庵で月見の宴を催した。かって藤堂家で料理番をしていた芭蕉は、料理に詳しい。芋煮しめ、煮物、吸い物、胡桃、肴(サカナ=にんじん、焼初茸)、吸い物、冷や飯・・・と出して、生類である魚は使わない用心深さだった。だが、芭蕉は茸を食べ過ぎで下痢をおこし、おまけに風邪をひき寿貞の夢を見てうなされた。
1694年(元禄7年)9月9日、食あたりと風邪の最悪の体調をおして、[之道(シドウ)]と[洒堂(シャドウ)]の喧嘩をさばくために大阪に行った。
江戸にあった[洒堂(シャドウ)]を大阪に送り込んだのは芭蕉本人である。
芭蕉のライバルは大阪に根付いていた天才[井原西鶴(俳諧師、浮世草子作者、浄瑠璃作家)]で芭蕉より2つ上である。井原西鶴は15歳から俳諧を志して、その後に談林派を代表する俳諧師となっている。当時一昼夜でどれだけの発句を読めるかを競う[矢数俳諧]というスタイルを考案し、西鶴の最高記録は[23,500句]というから、人間業ではない。多く作れば良いというものではないにしろ、どの句も水準に達していると別物になる。芭蕉が俳諧師をめざして当時の大都市に移り住む必要があったが、大阪に井原西鶴がいるために、そこを迂回して江戸まで出て住み着いたといういわくがある。
1693年(元禄6年)に西鶴は52歳で死亡した。西鶴亡き後の大阪に蕉風の地盤開拓しようと一番お気に入りの[洒堂(シャドウ=当時27歳)]を送り込んだのだが、それまで大阪蕉門を仕切っていた[之道(シドウ=37歳前後)]が面白いわけはなかった。それだけではなく1694年(元禄7年)6月に大阪で洒堂が刊行した[市の庵]の中に芭蕉の餞別句(読み方によっては、之道を挑発したような句)まで載せた。之道は当然「上等だ!目にものを見せてやる」となる。芭蕉も酒堂も之道をなめてかかったばかりに大事(芭蕉の衰弱死)になっていく。
そんな大阪でのある日、弟子の[園女]に招かれた句会の料理にあたって、体調不良の深刻度をさらに増した。薬を飲んでもなおらず、とうとう芭蕉は床に臥せってしまった。
芭蕉の危篤を聞いた幾人かの門弟が大阪花屋仁右衛門(ハナヤニエモン)の貸座敷に集まっていた。
前の日の1694年(元禄7年)10月11日の夜から芭蕉の様態は悪化の一途で、食事は口に寄せ付けなかったが、12日の日中は口を湿す程度に粥を少しだけ食べた。
芭蕉が臥す横の障子に蠅が飛んできてうるさがるため、門弟たちが鳥もちを竹に絡めて蠅獲りをしたが巧くとる人も下手なもの者もいて、寝床から見ていて芭蕉はそれを面白がった。そんなうち、芭蕉は口を利かなくなり、すーっと死んでいった。
芭蕉が死んだのは1694年(元禄7年)10月12日午後4時ごろで、一日中暖かな小春日和の日だった。
門人達は夜ひそかに芭蕉の遺体に着物を着せ、長櫃におさめて川舟に乗せた。
遺言により遺体は故郷の伊賀上野ではなく、粟津の義仲寺(ギチュウジ)へ納められることとなった。淀川を河舟に載せられた白木の棺はまず伏見まで運ばれ、1694年(元禄7年)10月13日の午後10時ごろ義仲寺に着いた。棺を護ってきた者は芭蕉一番弟子[其角]、[惟然]ら十数名である。
遺体は14日に粟津の義仲寺に安置され、知らせたわけではないのに会葬する人は300人となった。
生前の10月8日、門人にかきとめさせた句、
[旅に病んで夢は枯野をかけ廻る]が辞世の句となった。
元禄時代は、水稲栽培技術の発達により安定収穫が続き、庶民の米価は下がり気味のときでもあった。収入の基盤が米の量の石高である武士階級にとっては、農村経済が変化することにより幕府と諸藩の基盤が揺らぎ始めた。このような間隙の中に新たに商人が台頭してきた時期でもあった。そして、松尾芭蕉(俳諧師)、井原西鶴(俳諧師、浄瑠璃と浮世草子作者)、近松門左衛門(浄瑠璃、歌舞伎の作者)を生んだ文芸盛栄期が押し寄せてきている。
門人の総てではないにしても、芭蕉の周囲にはかなりの数の危険人物が集まっていた。時には芭蕉本人もかなりの違法行為に手を染めている。にもかかわらず俳聖とあがめられ、数百の研究書や評釈集もみな芭蕉を[求道の人]、[枯淡の人]、[侘び寂びの俳人]としている。俳人の多くが芭蕉を深読みし、深読みすればするほど芭蕉像は7色の虹に彩られていく。
芭蕉没後に芭蕉の弟子たちにより数多くの芭蕉仰慕(ギョウボ)の追善句会が興行され、芭蕉の画像や遺品が飾られ霊位として祀られた。やがて碑がそこかしこに作られ、浄財が募られ芭蕉堂がたてられ木像が安置されるにいたり、芭蕉は偶像化されて今に続いている。
芭蕉没(1694年)後、[蕪村(1742年27歳)]が出るまで俳諧は混乱して低迷を重ねた。
[蕪村]は、[其角(キカク)]の弟子の[早野巴人(ハヤノハジン)]に学んでいる。巴人は其角に師事しながらも江戸の洒落風になじまず孤高の生涯をすごし、[俳諧に門なし、ただ俳諧門というを以て門とす]といった。ここにきて蕉門は消滅したことになる。
土の中の芭蕉本人は、偶像視され木像を刻まれることを望んではいなかっただろう。
芭蕉が望むところは、李白や杜甫や西行のように1000年後の人々が自分の書きとめた発句を口ずさんで芭蕉の名を胸に刻んでくれることだけだった。
その目的のために晩年の芭蕉は、死後の自分を何重にも演出していた痕跡がうかがわれるのだ。
そして芭蕉の壮大な望みは、かなえられた。
[おくのほそ道(尾形仂現代語訳・角川文庫)]
[悪党芭蕉(嵐山光三郎著・新潮文庫)]
[日本史快刀乱麻(明石散人著・新潮新書)] から。
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