ほととぎすの鳴き声

https://ameblo.jp/mt-tokko/entry-12597431317.html 【ほととぎすはなんて鳴く】yori

  ほととぎすが鳴いているころですが、もう鳴き声を聞きましたか。初鰹と時鳥を詠んだ江戸時代の川柳があります。「聞いたかと問へば喰ったかと答へる」(柳多留)。「おれはもう時鳥の初音を聞いたがお前はどうだい」という問いに、「おれは初鰹を喰った。おまえはまだだろう」といったやりとりです。これほど人は、より早く時鳥の声を聞きたかったのですね。

  近くの子供自然公園で聞けるのですが、コロナに関係なく巣ごもり状態が続いているため今年も聞くことができそうにありません。ところでほととぎすの鳴き声を聞いたことがありますか。聞いたことのない方は下の動画で聞いてみてください。

どのように聞こえますか。♪トッキョキョカキョク、♪テッペンハゲタカと聞こえる人もいるようですが、私には♪キョッキョ、キョキョキョキョと聞こえますが。

  ほととぎすは夏の到来を知らせる鳥、その最初の一声を初音として待ちわびる。これはほととぎすの本意です。芭蕉が詠んだほととぎすの一句から、ほととぎすが「鳴く」ことを「名のる」ということを知りました。

           戸の口に宿札なのれほととぎす      芭蕉

 戸の口とは猪苗代湖の西北岸にある地名ですが、また旅宿で高貴な宿泊人の名を記した宿札を掲げる場所でもあります。ほととぎすよお前も高らかに自分の名前を名のれ、と芭蕉は言っています。ここで気になり古語辞典で「名告(なの)る」を調べて見ましら、面白いことが記されていました。「枕草子」の例。

 ①ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげになのりて顔のほどに飛びありき

 ②夕暮れのほどに、ほととぎすのなのりて渡るも、すべていみじき。

とあります。蚊は耳元まで来て、「カーンです」と自分の名前を告げ、また、ほととぎすも、やはり自分の名前を「ほととぎす」と鳴いて渡ってゆくのである。ほととぎすの「す」は「きぎす」「からす」などと共通の接尾語。本来は、「ほととぎ」が鳴き声。

 「名のる」のは初対面の時ですから、蚊も、その年にはじめて出てきたのが、「カでございます、どうぞよろしく」とにくにくしくあいさつしたという意味であろうし、ほととぎすも、やはり待ち焦がれた夏のおとずれをつげる鳴き声とみた方がよい。たびたび顔を合わせているのに、名のることはしない。蚊やホトトギスは、羽音や鳴き声がそのまま名前になっているから名のるのであって、「うぐいす」や「すずむし」が名のったりした例を見出されない。ブラウニングの詩の一節を、「あげ雲雀(ひばり)名のりいで」と翻訳(上田敏)したりするのは、こういう用法を誤解したものである。(三省堂例解古語辞典より)

 「ほととぎ」がほととぎすの鳴き声だったのには驚きましたね。古代人には「ほととぎ、ほととぎ」と聞こえたのでしょうか。雁(カリ)も、以下に示すように名のると言い、鳴き声だったのですね。

   ぬばたまの夜渡る雁はおほほしく幾夜を経てかおのが名を告る  万葉集作者未詳


https://ameblo.jp/mt-tokko/entry-12598146421.html 【ほととぎす声横たふや水の上】より  

 芭蕉の「ほととぎす」の句を読んでいます。芭蕉は生涯24句もの「ほととぎす」の句を詠みましたが、私が、今回、一番好いと感じたのは次の一句です。

 ほととぎす声横たふや水の上    芭蕉(ほととぎすこえよことうやみずのうえ)

詠まれた背景

 元禄六年(1693)四月作。芭蕉49歳。江戸芭蕉庵。

 芭蕉はこの三月、手許に引き取っていた甥の桃印を、長患いの末に亡くし、心身くたびれ果てていました。すると芭蕉を慰めようと弟子の杉風・曾良などがやって来て、芭蕉の気分を引き立てようと、「水辺のほととぎす」という題での作句を勧められました。その時に詠んだ句。同時に、「一声の江に横ふやほととぎす」とも詠みましたが、芭蕉はどちらにしようかと人々の判定乞いましたが、決着はついていないようです。

 この句は蘇東坡の「前赤壁賦」の「白露横江、水光接天」(はくろこうによこたわり、すいこうてんにせっす)という詩句に拠っています。ここで「白露」とは霞のことでシラツユと訓読すればはかない命の象徴となります。

 この句をどのように読みましょうか。どこを切って読むかによって詠んでいる内容が変わってしまいます。

     ㋑ ほととぎす声横たふや。水の上

     ㋺ ほととぎす。声横たふや水の上

 ㋑の場合は、「や」は切れ字。「ほととぎす声横たふや」と「水の上」の現実どうしの取り合わせになり、「ほととぎすが一声鋭く鳴き、その声が水の上をただよっている」という意味になります。 

 ㋺の場合は、「ほととぎす」の後が切れ。この場合の横たふにつく「や」は疑問の終助詞だと思います。「ほととぎす」(現実)と「声横たふや水の上」(芭蕉の心象風景)との取り合わせになります。「ほととぎすが一声鋭く鳴いた。桃印の声が水の上に漂っているのだろうか」という意味になります。つまりこの句は、㋑と㋺の両方の意味を合わせもっているのではないでしょうか。つまり、「ほととぎすの声の余韻と桃印の幻影が水の上にただよっている」と言っているのだと思います。 

 一句の中に二つ事柄を詠む高等テクニックにびっくりしますが、芭蕉にはこれと似たような句があります。

       病雁の夜寒に落ちて旅ねかな      芭蕉

      (びょうがんのよさむにおちてたびねかな)

 「秋も深まり寒さの身にしむ夜、病んだ一羽の雁が列から落後し、どこか湖上で休んで寝ている。私も病んでここで床についている」という意。

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