http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html 【花と月をこよなく愛した漂泊の歌人
【 あの人の人生を知ろう ~ 西行法師 】】 より
絵も銅像も古くて表情がよく分からないけど、若い頃はたいそう美形だったそうな
この山里が西行終焉の地 西行の歌「願はくは花の下にて春死なむ」を汲んで、墓の周辺に桜が千本植えられた
かろうじて「西行上人之墓」と読み取れる 晩年の西行が見つめた景色は今も変わらず あまりの自然の美しさに思わず合掌
本名佐藤義清(のりきよ)。生命を深く見つめ、花や月をこよなく愛した平安末期の大歌人。『新古今和歌集』には最多の94首が入選している。宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、山里の庵の孤独な暮らしの中から歌を詠んだ。
祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれ、幼い頃に亡くなった父の後を継ぎ17歳で兵衛尉(ひょうえのじょう、皇室の警護兵)となる。西行は御所の北側を警護する、院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいた。北面生活では歌会が頻繁に催され、そこで西行の歌は高く評価された。武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、公家&武士社会を代表するスポーツ「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。「北面」の採用にはルックスも重視されており、西行は容姿端麗だったと伝えられている。
武勇に秀で歌をよくした西行の名は、政界の中央まで聞こえていた。文武両道で美形。華やかな未来は約束されていた。しかし、西行は「北面」というエリート・コースを捨て、1140年、22歳の若さで出家する。出家の理由は複数あって、(1)仏に救済を求める心の強まり(2)急死した友人から人生の無常を悟った(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服したい(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋。彼は歌会などを通して仲を深めた鳥羽院の妃・待賢門院(崇徳天皇の母)と一夜の契りを交わしたが、「逢い続ければ人の噂にのぼります」とフラレた--等々、こうした様々な感情が絡み合った結果、妻子と別れて仏道に入ったようだ。阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」を法号とした。
西行は出家を前にこんな歌を詠んでいる。
『世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ』
(出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言えない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ)
“出家”という行為自体は珍しくないことだが、西行が官位を持っていたのにそれを捨てたこと、しかもまだ20歳過ぎで若かった点などから人の注目を集めたらしく、時の内大臣・藤原頼長(後に保元の乱で敗死)は日記に「西行は家が富み年も若いのに、何不自由ない生活を捨て仏道に入り遁世したという。人々はこの志を嘆美しあった」と記している。西行が延暦寺など大寺院に出家したのではなく、どの特定の宗派にも属さず地位や名声も求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い、和歌を通して悟りに至ろうとしたのも通常と異なっていた。
※西行を語る文献には、出家時のことを「妻子を捨てて出家した」とだけ書いているものが多い。これのみでは彼がとても冷たい男に見える。実際にはちゃんと弟に後の事を頼んでいるし、こんな後日談もある。出家の数年後、京を訪れた西行は、5歳になったはずの娘が気になって、こっそり弟の家の門外から中の様子をうかがった。ちょうど子どもが遊んでいて、髪が伸びて可愛らしく成長していたんだけれど、彼を見るなり「行きましょう。そこのお坊様が怖いから」と中に入ってしまった(これはツライ)。この娘は後に有力貴族九条家の娘・冷泉の養女になって西行も喜んだが、冷泉が嫁いだ時に相手の夫が自分の侍女にしてしまったので、「娘を養女に出したのは小間使いにさせる為ではない!」と西行は彼女を連れ出して妻の所に戻したという。西行は妻子のことをずっと見守っていたんだ。
出家直後は郊外の小倉山(嵯峨)や鞍馬山に庵を結び、次に秘境の霊場として知られた奈良・吉野山に移った。西行は長く煩悩に苦しんでおり、いわゆる「聖人」じゃなかった。彼は出家後の迷いや心の弱さを素直に歌に込めていく。
『いつの間に長き眠りの夢さめて 驚くことのあらんとすらむ』
(いつになれば長い迷いから覚めて、万事に不動の心を持つことができるのだろう)
『鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てて いかになりゆくわが身なるらむ』※伊勢に向かう途中で
(浮き世を振り捨てこうして鈴鹿山を越えているが、これから私はどうなっていくのだろう)
『世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり』
(世の中を捨てたはずなのに、都の思い出が煩悩となり私から離れない)
『花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に』※吉野で。10万本の桜がある。
(この世への執着を全て捨てたはずなのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろう)
1146年(28歳)、東北地方に歌枕(和歌の名所)を訪ねた。初めての長旅だ。平泉に本拠地がある奥州藤原氏は西行の一族。一冬を過ごし、過ぎ行く年の暮れに次の歌を詠む。
『常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる』
(いつもの年より心細く感じるなぁ。旅の空の下で年が暮れていくよ)
1149年(31歳)、旅から帰った後は真言霊場・高野山に入って庵を結ぶ。当時の高野山は落雷の火災で大きな被害を受けており、復興の為の寄付(勧進)を各地で集めて周る僧・高野聖(ひじり)が多く集まっていた。西行も彼らに加わり、出入りを繰り返しつつ約30年間を当地で過ごす。
《1156年(36歳)、都にて『保元の乱』が勃発!》※パス可。読まれる方は紙に相関図を書きつつ読むべし。
この時代の朝廷権力の流れは、白河(法皇)→堀河(白河の子)→鳥羽(堀河の子)→崇徳(実は白河の子)→近衛(鳥羽の子)→後白河(鳥羽の子)。天皇が退位すると「上皇」になり、上皇が出家すると「法皇」になる。
白河はトンデモ法皇で、老いてから若い養女(待賢門院)に手を出し、お腹に子(崇徳)を身篭らせたまま孫(鳥羽)と結婚させている。白河の次男・堀河天皇が22歳で早逝すると、5歳の鳥羽天皇を即位させ白河が後見人となる院政をスタート。鳥羽が19歳になって自己主張を始めると強制退位させて上皇(肩書きオンリー)にして、まだ5歳の崇徳を即位させ法皇自身が実権を握り続けた。
白河法皇が死んでから鳥羽上皇の巻き返しが始まる。鳥羽は白河と全く同じことをした。鳥羽は法皇となって白河の子である崇徳(当時22歳)を強制退位させて上皇にし、まだ3歳の実子・近衛を即位させ、近衛が早逝すると近衛の兄・後白河を擁立した。そして鳥羽法皇が死ぬと、崇徳上皇VS後白河天皇の「保元の乱」が勃発する。源氏の主力は崇徳側に、平家の主力は後白河側についた。戦は後白河の勝利となり、崇徳は讃岐に流される。続く平治の乱で源氏の残党を破った清盛は、平家全盛の時代を築いていく。この後、後白河は法皇となって5人の天皇を30年間背後で操り、同時に武家間の対立を煽って巧みに立ち回ったことから、源頼朝は「日本一の大天狗」と評した。
1168年(50歳)、保元の乱で讃岐に配流され、4年前に無念を叫びながら死に、朝廷にとって菅原道真と並ぶ大怨霊となった崇徳上皇(西行がフラレた妃の子)の鎮魂と空海の聖地探訪の為に四国を巡礼する。
『よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん』※崇徳上皇の墓(白峰陵)にて
(かつては天皇の身分とて、死後は誰もが平等ではありませんか。どうか安らかにお眠り下さい)
西行は四国から高野山に帰る前に、当地で暮らしていた庵の前に立つ松に歌った。
『久に経てわが後の世を問へよ松 跡しのぶべき人もなき身ぞ』※讃岐国善通寺にて
(松の木よ、長く生きて私の後生を弔っておくれ。私は崇徳上皇と違って偲んでくれる人もいない身なのだ)
さらに高野山で修行したのち、1177年(59歳)、伊勢二見浦へ移住。1180年(62歳)、源平の乱が勃発、全国各地を戦の炎が包み込む。翌年、平家の都落ち。西行は伊勢の海を見ながら「東西南北、どこでも戦いが起こり切れ目なく人が死んでいる。これは何事の争いか」と嘆き、この戦乱を詠む。
『死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ』
(天寿を全うせず戦で命を奪われ、あの世への山を越えて行く人の流れが絶える事はないのだろうか。もう戦死者の話を何人も聞き及んでいる)
源平動乱の中で東大寺は大仏殿以下ことごとく焼失した。1186年(68歳)、復興に情熱を燃やす高僧・重源(ちょうげん)は西行を訪ね、「大仏を鍍金(ときん、メッキ)する為の砂金提供を約束してくれた奥州藤原氏に、早く送るよう伝えて欲しい」と頼んだ。西行と旧知の仲の奥州藤原秀衡はまだ存命であり、重源は西行=秀衡の繋がりを頼ったのだ。仏教界の頂点にいる重源に頭を下げられ、相手の心意気に惚れた西行は「分かりました、引き受けましょう」。彼は実に40年ぶりに東北へ向かう。
この時代、70歳になろうかという老人が、伊勢と岩手を往復するのは想像を絶するほど大変なことだ。本心から御仏の為という厚い信仰がなければ出発できなかっただろう。藤原秀衡は平泉までやって来た西行に感動し、すぐに砂金を奈良に送った。
『年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山』※奥州へ向かいつつ
(まさか年をとってから夜の中山道を再び越えるなんて思いもしなかった。これも命あってのことだなぁ)
実はこの奥州行きで、西行と征夷大将軍・源頼朝が対面している。1186年8月15日、鶴岡八幡宮に頼朝が参詣すると、鳥居の周辺を徘徊する老僧がいた。怪しんで家臣に名を尋ねさせるとこれが西行と分かり、驚いた頼朝は館に招いて、流鏑馬(やぶさめ)や歌道の事を詳しく聞いた。西行はヒョウヒョウとし「歌とは、花月を見て感動した時に、僅か三十一字を作るだけのこと。それ以上深いことは知りません」。流鏑馬のことは「すっかり忘れ果てました」とトボケていたが、頼朝が困惑するので馬上での弓の持ち方、矢の射り方をつぶさに語り始めた。頼朝はすぐに書記を呼んで書き留めさせたという。2人の会話は終夜続き、翌日も滞在を勧められたが、西行は振り切るように昼頃発った。頼朝は土産に高価な銀製の猫を贈ったが、西行は館の門を出るなり付近で遊んでいた子どもにあげてしまったという。(『吾妻鏡』)
※現在鎌倉の祭りで催されている「流鏑馬」は、西行がコツを伝授した翌年から行なわれるようになった。
※平泉まで義経を捕らえる為の関所を幾つも通る必要があったので、その通行証を求めに鎌倉へ寄ったとも言われている。
1187年(69歳)、このころ京都嵯峨の庵に住み子どもの遊びを題材に「たはぶれ歌」を詠む。
『竹馬を杖にもけふはたのむかな 童(わらは)遊びを思ひでつつ』
(子どもの頃に遊んだ竹馬は、今では杖として頼む身になってしまったなぁ)
『昔せし隠れ遊びになりなばや 片隅もとに寄り伏せりつつ』
(昔のように隠れんぼをまたやりたい。今もあちこちの片隅で子どもが伏せて隠れているよ)
1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。同年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。
西行は亡くなる十数年前に、遺言のような次の歌を詠んでいた。
『願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃』※如月の望月=2月15日。釈迦の命日。
(願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい)
西行が来世へ旅立ったのは2月16日。釈迦の後ろを一日遅れてついて行った。
他界から540年後の江戸中期(1732年)、西行を深く慕い弘川寺に移り住んだ広島の歌僧・似雲法師が、西行の墳墓を発見した。以降、似雲法師は西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、心からの弔いとした。墳墓上の老いた山桜を始め、今では1500本の桜が墓を抱く山を覆っている。
悟りの世界に強く憧れつつ、現世への執着を捨てきれず悶々とする中で、気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。同時代の藤原定家らのように技巧的な歌に走るのではなく、あくまでも素朴な口調で心境を吐露した。自然や人生を真っ直ぐに見つめ、内面の孤独や寂しさを飾らずに詠んだ西行の和歌は、どこまでも自然体だ。
宮廷の中ではなく山里で歌を詠み、ある時は森閑の静けさに癒され、ある時は孤独の侘しさに揺れ動きながら、源平動乱の混沌とした世界にいて、自分の美意識や人生観を最後まで描き出した。
500年後の芭蕉を始め、後世の多くの歌人たちが、西行の作品をその人生と合わせて敬慕してきた。鎌倉期には『新古今』に最多の作品が入選し、日本全国には146基も歌碑が建立されている。西行は800年の時を超え、今なお人々の心を捉えて離さない!
※全2090首のうち恋の歌は約300首、桜の歌が約230首。勅撰集には265首が入撰している。55歳前後には家集『山家集』の原型が出来ていた。
※西行による崇徳上皇への墓参は、後に上田秋成が『雨月物語』の冒頭で描いている。
※伊勢神宮にお参りした西行法師いわく「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなくて涙こぼるる」。
※弘川寺の境内には西行記念館があり、西行直筆の掛け軸など多数の資料が展示されている。
※近鉄長野線「富田林」駅から金剛バス河内行終点下車。バスの本数が少ないので必ず帰りの時間を確かめること。
【西行12選~本文中に紹介できなかったオススメ短歌たち】
『ゆくへなく月に心のすみすみて 果てはいかにかならんとすらん』
(どこまでも月に心が澄んでいき、この果てに私の心はどうなってしまうのだろう)
『松風の音あはれなる山里に さびしさ添ふる蜩(ひぐらし)の声』
(松風の音が情緒のある山里に、寂しさを添えるヒグラシの声が聞こえるよ)
『荒れ渡る草の庵に洩る月を 袖にうつしてながめつるかな』
(荒れ果てたこの草庵に差し込む月光を、袖に映して眺めているよ)
『さびしさに堪へたる人のまたもあれな 庵ならべむ冬の山里』
(冬の山里で私と同じく寂しさに堪えている人がいれば、庵を並べて冬を乗り切るのに)
『霜冴ゆる庭の木の葉を踏み分けて 月は見るやと訪ふ人もがな』
(霜がはった庭の葉を踏み分け名月を見ていると、誰かと一緒に見たいなぁと思うのさ)
『谷の間にひとりぞ松も立てりける われのみ友はなきかと思へば』
(この地に友は誰もいないと思っていたら、谷間にひとり松も立っていた)
『心をば深き紅葉の色にそめて別れゆくや散るになるらむ』
(私の心を深紅の紅葉の色に染めて別れましょう。散るとはそういうことです)
『水の音はさびしき庵の友なれや 峰の嵐の絶え間絶え間に』
(峰から吹き付ける強風の中に、時々聞こえる川の音は寂しい庵の友なのだ)
『ひとり住む庵に月のさしこずは なにか山辺の友にならまし』
(独り寂しく住む庵に差す月の光は、まるで山里の友のようだ)
『花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける』
(桜の花を見ると、訳もなく胸の奥が苦しくなるのです)
『春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそぢ)あまりの年を経にける』
(思えば60年余り、春ごとに桜に心を慰められてきたんだなぁ)
『吉野山花の散りにし木の下に とめし心はわれを待つらむ』
(吉野山の散った桜の下に私の心は奪われたまま。あの桜は今年も私を待っているのだろう)
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