https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011267/index.html 【津藩祖 藤堂高虎】 より
戦国を武勇と知略で切り開いた武将 津藩祖 藤堂高虎(とうどう たかとら)
藤堂高虎について
藤堂高虎は、弘治2年(1556)に、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に、郷士であった虎高の子として生まれました。高虎は、幼いころから人並み外れた大きな身体と勇猛果敢な性質で、初めて仕えた主君浅井長政のもとで、姉川の戦いに足軽として初めて戦いに参加しました。その後、主君を替えて渡り歩いたあと、羽柴(豊臣)秀長に見込まれて、300石で召し抱えられると、多くの合戦で顕著な戦功を挙げ、主君の全幅の信頼を得て活躍しました。秀長亡きあとは豊臣秀吉に仕え、秀吉亡きあとは徳川家康に仕え、武功で主君に信頼を得るとともに、築城技術の名手としても主君から全幅の信頼を得て、大いに活躍しました。中でも、徳川家康には側近として仕えて、常に家康に重用され、関ヶ原の戦いおよび大坂の陣において著しい戦功を挙げて家康の信託を決定的にしました。そのため、外様大名でありながら、徳川幕府を支える重鎮として、慶長13年(1608)に、家康から伊勢国の一部、伊賀国一円の領主として命ぜられて、初代津藩主となり、最終的に32万3,950石の大名に上り詰めました。以後、津藩は明治維新まで改易されることなく、260年間続きました。
その後、高虎は二代将軍 秀忠の末娘で、正室 江(お江与)の娘でもある和子を天皇家に嫁がせるなど幕府の体制整備に尽力し、老後にあっても自国にいる暇もなく東奔西走していましたが、さすがに病気には勝てず、寛永7年(1630)10月5日、江戸の藤堂藩邸でその生涯を終えました。享年75歳でした。
津城について
津城は、当初織田信長の弟・織田信包が、伊勢上野城主であったとき、安濃津の地に元亀2年(1571)から、安濃津城として築城を開始し、天正8年(1580)に、五層の天守を建てて完成しました。その間には、伊勢上野城で信包の世話になっていた信長の妹・お市とその娘・茶々、初、江の三人姉妹も、信包とともに安濃津城に移り、本能寺の変が起った天正10年(1582)まで、安濃津城で暮らしていたという説もあるほか、信包の生母・土田御前が、信包に引き取られて天正18年(1590)から病没する文禄3年(1594)まで、安濃津城で暮らしていたとも伝えられています。
その後、信包は近江国へ転封させられ、代って文禄4年(1595)に富田氏父子が安濃津城へ入城し、のちに富田信高が城主となりました。富田氏は秀吉に仕えていましたが、関ヶ原の戦いの前に徳川方へ就いたため、津城は、関ヶ原の戦いの直前に、毛利秀元を総大将とする約3万人の西軍勢に攻められました。それに対して城に立て籠って、津の住民も多数参加する籠城戦を行いましたが、信高は城を明け渡して、剃髪して専修寺に籠り合戦を終えました。その後、関ヶ原戦で東軍が勝利すると、信高は再び安濃津城主に返り咲きましたが、慶長13年(1608)に家康の命で、城主が藤堂高虎に代わり、以後、藤堂家が伊勢国の一部、伊賀国一円の領主となり、明治維新まで続きました。
現在の津城跡は、信包が築城した城郭を高虎が慶長16年(1611)に大改修したもので、明治維新後、建物はすべて取り壊され、城郭も外堀のすべてと内掘の大半が埋め立てられ、本丸と西の丸の石垣と郭が残り、内堀は北と西に当時の半分ほどの幅に狭められて残っています。
航空写真(津城跡)
現在の津城跡(東から撮影) 写真提供 三重県
津城跡は市の中心部にあり、市民の憩いの広場として親しまれています。現在は本丸と西之丸、内堀の一部が残り、お城公園として整備されています。平成17年3月、県指定史跡に指定されました。
「県指定史跡 津城跡」の詳細は、生涯学習課のページをご覧ください。
津城 本丸・西之丸復元模型(100 分の1)について
津城 本丸・西之丸復元模型(100 分の1)の画像
この模型は、津城の本丸と西之丸を100分の1のスケールで復元したものです。
詳細は、津城 本丸・西之丸復元模型(PDF/306KB)をご覧ください。
津城丑寅三重櫓構造模型(10分の1について)
津城丑寅三重櫓構造模型(10分の1)の画像
この構造模型は、津城の丑寅三重櫓を10分の1のスケールで制作したものです。
詳細は、津城丑寅三重櫓構造模型(PDF/293KB)をご覧ください。
津城修築400年記念 しろをしろう!講演会を開催しました
藤堂高虎公が津城の大改修を行い、津城の拡張整備と城下町の整備に着手したのは1611年で、現在の津市中心部の街並みの基礎を築き、その骨格がほぼ完成した年と言われています。
しろうをしろう!講演会は、藤堂高虎公の偉業を広く知っていただき、城について考えるきっかけとして開催しました。(主催:津市 後援:NHK津放送局)
https://www.homemate-research-castle.com/useful/16986_tour_067/ 【刀剣ワールド 城日本の城と戦国武将藤堂高虎】より
「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、1556年(弘治2年)1月6日~1630年(寛永7年)10月5日に生きた戦国武将です。現在の滋賀県に生まれ、津藩の初代藩主となって津の再興に尽力しただけでなく、生涯に亘って多くの城づくりに携わりました。そんな藤堂高虎の生涯と、彼がその生涯でかかわった城を紹介します。
藤堂高虎の生涯
藤堂高虎は、近江国藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)で生まれました。藤堂家は貧しい暮らしをしていたのですが、藤堂高虎は大きく育ち、一説によると身長6尺2寸(約190cm)の大男だったと言われています。
そんな藤堂高虎が戦国大名「浅井長政」(あざいながまさ)の家臣として仕え、初陣を果たしたのは1570年(元亀元年)の織田・徳川連合軍と対峙した「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)です。足軽としての参戦でしたが見事に武功を上げます。
さらに、1576年(天正4年)には「羽柴秀長」(はしばひでなが)の家臣となり、その後も中国攻めや「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)、四国攻めや紀州征伐と言った、豊臣秀吉のかかわった、いくつもの合戦に出陣。数々の功績を残し、1万石の大名となりました。
その後、藤堂高虎は粉河(こかわ)2万石の大名となるも、主家断絶で豊臣秀吉の家臣になります。そして、豊臣秀吉に仕える一方で、藤堂高虎は徳川家康との親交を深めていきました。1599年(慶長4年)、徳川家康が藤堂高虎邸に宿泊した日に「石田三成」(いしだみつなり)の急襲を受けるという目に遭いますが、これを藤堂高虎は阻止したのです。
そして、1600年(慶長5年)9月に始まった「関ヶ原の戦い」では東軍として出陣。ここでの功績が認められたことにより伊予(現在の愛媛県)20万石を与えられ、今治に城を築きます。その後、1608年(慶長13年)には「徳川秀忠」(とくがわひでただ)から伊賀、伊勢に加増移封(いほう:国替えのこと)され、22万石の津藩主となりました。さらに、「大坂夏の陣」では多くの兵を失いますが、徳川方の勝利へ寄与した軍功が認められ、1617年(元和3年)には32万3千石となります。32万石あまりの石高は、藤堂高虎亡きあとも引き継がれ、幕末まで変わることはありませんでした。
しかし、そこまで武功を上げた藤堂高虎も晩年には失明し、1630年(寛永7年)10月5日に柳原にある江戸藩邸内で死去したのです。
「7度も主君変えした」藤堂高虎の評価とは?
主従関係の規律に厳しい儒教的思想が重んじられていた江戸時代。次々と主君を変えた藤堂高虎は不義理者という辛辣な評価を受けました。藤堂高虎ほどの聡明な人物なら、主君を変えることでどういった評価が下されるかは分かっていたことでしょう。それでも、7度も主君を変えざるを得なかった経緯について、説明していきます。
藤堂高虎が最初に仕えたのは、浅井長政です。しかし、初陣の姉川の戦いで戦功を上げるものの、不意のいさかいから同僚を殺害して逃走。主君を変えざるを得なくなりました。このように逃走して行方をくらましてしまうことを「出奔」(しゅっぽん)と言います。
2番目の主君は浅井家の重臣だった「阿閉貞征」(あつじさだゆき)。阿閉貞征は浅井家を裏切って織田信長と手を組むなど、非情な人物でした。それを知った藤堂高虎は、阿閉貞征にわずか1ヵ月ほどで見切りを付けます。
3番目の主君、「磯野員昌」(いそのかずまさ)は、姉川の戦いで本拠地の「佐和山城」(さわやまじょう)にて織田信長軍により降伏に追い込まれ織田信長軍の配下になるも、のちに出奔。藤堂高虎も磯野家を離れざるを得なくなります。
しかし、藤堂高虎は磯野員昌の息子である「磯野行信」(いそのゆきのぶ)を自分の配下に入れ面倒を見るなど、磯野家を離れてからも、仕えた主君の家を存続させ、子孫と良好な関係を築いていました。
4番目の主君は、織田信長の家臣である「津田信澄」(つだのぶすみ)。藤堂高虎は戦功を上げたのに禄(ろく:給与のこと)が加増されなかったことに不満を抱いて、出奔したのです
5番目の主君は豊臣秀吉の弟、羽柴秀長。藤堂高虎は羽柴秀長のことを大変慕っており、羽柴秀長の下で数々の功績を残しています。羽柴秀長の臣下であった時代は、朝廷からも従五位下佐渡守という官職を賜り、厚遇を受けました。
1591年(天正19年)に羽柴秀長が亡くなってからは、その跡継ぎである「豊臣秀保」(とよとみひでやす)を盛り立てるため奮闘するも、豊臣秀保が17歳で早逝して主家が断絶。主君2人を弔うため、藤堂高虎は武士の道を捨てて、出家して高野山に隠棲するほど、忠義を尽くしたのです。
その姿を知った豊臣秀吉が、藤堂高虎の功績を惜しんで還俗(げんぞく:出家した者が元の世俗の人に戻ること)させ、伊予宇和島(現在の愛媛県宇和島市)7万石を与えたことから、豊臣秀吉が藤堂高虎の6番目の主君となりました。豊臣秀吉の臣下として仕えた頃、再度の朝鮮出陣により(羽柴秀長の臣下の時代も出陣のため)、恩賞として1万石が与えられ、藤堂高虎の石高は8万石にまで増えます。
そして豊臣秀吉亡きあと、藤堂高虎が7番目の主君として選んだのは豊臣氏の敵方となった徳川家康。彼はこの最後の主君のために、粉骨砕身して尽くします。
例えば、徳川家康襲撃の企みがあるとの噂を聞きつけたときは、藤堂高虎が自ら徹夜で徳川家康の警護にあたりました。さらに、天下分け目の戦となった関ヶ原の戦いでは、徳川家康のために自分の弟を人質に差し出したり、西軍の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)らの東軍への寝返りを画策したりするなど、多くのエピソードが残されています。
当然、そんな藤堂高虎を快く思わない者も多く、「豊臣恩顧の大名でありながら、豊臣秀吉殿が亡くなるやいなや、徳川家康に尻尾を振るとは何事か」と、とがめられました。それに対して藤堂高虎は「己の立場を明確にできない者ほど、いざというときに頼りにならない」と答えたそうです。
戦国の乱世において、仕えるべき主君を見誤れば家族や家臣もろとも命を奪われてしまいます。そのことを誰よりも分かっていたからこそ、藤堂高虎は人の上に立つのにふさわしい力量と器を持つ主君を探しつづけたのでしょう。
そして、このような経緯を辿っていくと、藤堂高虎は決して「裏切りで主君を変えるようなことはなかった」ことが分かります。
主君と定めた人物には常に忠義を捧げ、天下人である豊臣秀吉や徳川家康にも信頼され、遂に貧しい家の生まれから伊勢、津32万石の大名にまで出世したのです。
戦国時代の築城名人でもあった藤堂高虎
藤堂高虎が出世したもうひとつの理由は、城郭建築の腕前です。「加藤清正」(かとうきよまさ)と並ぶ「戦国二大築城名人」とされており、「黒田如水」(くろだじょすい)を加えて「戦国三大築城名人」と言われることもあります。
藤堂高虎が羽柴秀長配下時代に築いた「赤木城」(あかぎじょう)。高い石垣と堅牢であることが特徴ですが、石垣は4m程度で、規模は決して大きいものではないものの、当時としては最先端技法であった「野面積み」(のづらづみ)という技法を取り入れていました。これは自然の石をそのまま積み上げる技法で、頑丈で排水性が良いことから、「大阪城」でものちに採用されています。
その後、羽柴秀長が亡くなり、豊臣秀吉に召し抱えられた藤堂高虎は、伊予の「板島丸串城」(いたじままるぐしじょう、のちの宇和島城)を与えられ、この城の大改修に取り掛かったのですが、その最中に朝鮮へ出兵しなくてはならなくなり、大改修は中止となりました。
のちに、帰国した藤堂高虎は、板島丸串城の改築を再開させ、朝鮮の城の特徴である総構えを取り入れます。
このように戦場での経験を活かし、かつ最先端の技術を取り入れ、築城の名人として知られるようになったのです。
藤堂高虎に関連する城
築城名人としても知られる藤堂高虎は、多くの城を築城・修築しています。生涯で築城に携わった数は20を超えるとも言われ、藤堂高虎の建築の腕は城だけに限らず、日光東照宮の大造替えにも活かされました。
なぜ、藤堂高虎がこれほど多くの築城や建築を任されることになったのでしょう。それは、藤堂高虎が築城を「戦の要」ととらえ、実戦に強いだけでなく、新しい構造を生み出すことで早く城が完成するようにしたためです。
藤堂高虎が何度も主君変えしたことからも分かるように、藤堂高虎が生きたのは多くの武将がせめぎ合った混沌とした時代。戦国の世において、こうした藤堂高虎の才能は重宝されました。
実際に、藤堂高虎はどのような築城をしていったのか、藤堂高虎が築城した代表的な城とその特徴を見ていきます。なお、以下の7つの城は藤堂高虎とかかわった年代が古い順に並べました。
赤木城(あかぎじょう):三重県熊野市
一揆鎮圧の拠点として築かれた赤城城跡
赤木川の北岸にある標高約230mの丘陵に築かれた、藤堂高虎が30代の頃に築いた城です。尾根を利用した中世山城の形式を引き継ぎながら、複雑な虎口(こぐち:城の出入り口)の形態、石垣の多用など、近世城郭の手法が採用されているため、中世から近世への移行段階の城と位置付けられています。
当時の熊野北山は、豊臣秀吉による検地への反発から大規模な一揆が頻発していました。豊臣秀吉から紀州を任された羽柴秀長配下の藤堂高虎は、1589年(天正17年)頃に、一揆鎮圧の拠点として、この「赤木城」を築いたのです。一揆を鎮めるためとは言え、交通の要所でもない山深い里に不釣り合いな立派な城を築いたのは、豊臣秀吉が熊野の豊富な森林資源に目を付けており、支配した領地を統治し、豊臣家の威光を示すためだったとも言われています。
1992年(平成4年)からは、13年かけて石垣の積み直しや遊歩道の設置など、復元整備を実施。修復された赤木城跡の主郭からは、美しい棚田や赤木の町が一望できます。
大洲城(おおずじょう):愛媛県大洲市
伊予国守護のために、1331年(元弘元年)、鎌倉時代の終わりに創建されました。200年以上宇都宮氏が居城していましたが、戦国時代末期に「大野直昌」(おおのなおしげ)へ、さらに豊臣秀吉の四国平定によって「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)へと城主が変わっていきます。
藤堂高虎が「大洲城」の城主となったのは、1595年(文禄4年)のこと。小早川隆景が九州に封ぜられたのちに城主となっていた「戸田勝隆」(とだかつたか)の朝鮮出兵中の病死がきっかけでした。藤堂高虎は大洲城を得ると、改修を行ない自身の居城とします。
大洲城周辺には川があったことから、藤堂高虎は天然の堀にして、地形をうまく使った大改修を実施するなど、中世からの城郭を近世城郭へと生まれ変わらせました。
その後藤堂高虎は、関ヶ原の戦いで新たに得た恩賞により、改修した大洲城を養子の「藤堂高吉」(とうどうたかよし)へ譲ります。のちに、城主は藤堂家から脇坂安治へ引継ぐことになりました。
現代に入り幾度もの復元工事などを経て、江戸時代の姿を忠実に再現した天守が復元。解体されていない台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓は、国の重要文化財に指定されています。
宇和島城(うわじまじょう):愛媛県宇和島市
もとは鎌倉時代に造られた板島丸串城という城で、1596年(慶長元年)に藤堂高虎の手によって改築が始まりました。この城の大きな特徴が、不均等の5角形をした外郭(がいかく:城などの周囲にある囲い)です。
特徴的な外郭は上から見れば5角あることが分かりますが、地上から見ると四角形のように見えます。隠密が城の形を見破れないという逸話が残るほど、実に巧妙に作られた城でした。
このように一見すると四角形に見える外郭を藤堂高虎が作ったのは、有事の際に血路を開くためだったと言います。他にも海に面した地形を活かすなど藤堂高虎の築城の手腕が発揮され、そのあとも引き継がれていきました。
しかし、宇和島城築城もつかの間、藤堂高虎はすぐに今治城築城のために去ってしまいます。のちに宇和島城は、仙台伊達家の分家が代々住む城となりました。
今治城(いまばりじょう):愛媛県今治市
藤堂高虎が創始した層塔型の今治城
1602年(慶長7年)に築城。関ヶ原の戦いの戦功により、伊予半国20万石を拝領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた平城で、豊臣家を慕う西国大名を監視する役割を担っていました。
広大な水堀と反りのない直線的な石垣、脆弱な地盤を安定させるための幅広い犬走り(いぬばしり:石垣の下の道)、侵入者の方向感覚を失わせ、能率的な都市経営を目指した升目状の城下町設計など、最新の技術とアイデアを盛り込んで築かれており、藤堂高虎の代表作とも評されています。
築城当時は、海水を引き入れた三重の堀に囲まれ、海から堀へ直接船で出入りできるなど、海上交通の要所であることの利を最大限に活かした構造になっていました。
さらに本丸には、五重塔に似た構造の、日本初とも言われる「層塔型」の五重天守が築かれます。
これまでは、「安土城」の天守に代表されるような「望楼型」(ぼうろうがた:物見櫓を乗せた上層と下層が別々の構造を持った型)の天守が主流でしたが、藤堂高虎が層塔型を創始。それ以降、規格を統一することで工期を短縮できるという利点があることから、一気に層塔型の五重天守が主流になっていきました。
明治時代に建物のほとんどが取り壊され、内掘と主郭部の石垣を残すのみとなってしまった今治城ですが、主郭は城跡として整備されています。
江戸城(えどじょう):東京都千代田区
天下平定の後、江戸城改修を任された
室町時代「太田道灌」(おおたどうかん)によって築かれ、1590年(天正18年)年に徳川家康が入府し、居城としました。徳川家康が天下平定をしたのち、時の権力者にふさわしい城に改修するため、天下普請(てんかぶしん:江戸幕府が全国の大名に命じた公共工事)が繰り返されますが、本格的な工事が開始されたのは、徳川家康が将軍職を息子の徳川秀忠に譲った1604年(慶長9年)頃と言われています。新しい「江戸城」の縄張りは、築城の名人である藤堂高虎に任されました。
徳川家康は、江戸城を公的には儀式の場、私的には居住空間にして、本丸を広くしようと考えましたが、藤堂高虎は、まだ実戦にも対応できる城にしておくべきであると進言。計画通りに改修したと言われています。徳川家康が天下を取り、征夷大将軍となるも、西には豊臣秀吉亡きあとの豊臣方が控えていたためです。
武家諸法度により江戸城以外の城は増改築や新築が叶わなくなったため、江戸時代以降幾度も増改築された唯一の日本の城となりました。三代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の時代まで、大規模な増改築があったと言います。工事期間は、30年余りでした。
その後、1968(昭和43)年には、東御苑として、本丸、二の丸、三の丸の一部が一般公開されています。
伊賀上野城(いがうえのじょう):三重県伊賀市
1585年(天正13年)に、近代郭城として「筒井定次」(つついさだつぐ)の手によって築城されました。それから時が過ぎ、1608年(慶長13年)に、藤堂高虎に徳川家康から伊賀10万石を含む22万石の恩賞が与えられ、さらに国替えが行なわれます。
そして、藤堂高虎は豊臣氏との戦に備えるために「伊賀上野城」の改修に取り掛かることになりました。これにより、およそ3倍もの面積に拡大。本丸も拡張され、10の櫓を建設、石垣は30mと高く積み上げられました。こうした藤堂高虎の大改修によって、伊賀上野城は守りの固い屈強な城へと大変身を遂げます。
しかし、伊賀上野城は未完成のまま築城は中断してしまいました。これは、本来の目的であった豊臣氏が滅んだためです。築城途中で暴風雨によって壊れてしまった5重の天守も、昭和に入って三重の天守として復元されるまで、建設が再開されることはありませんでした。
津城(つじょう):三重県津市
織田信長の弟である「織田信包」(おだのぶかね)が1580年(天正8年)に築城した城です。当時、城下町として栄え、低湿地に建てられた小規模な平城でありながらも、川の流れを外堀に入れるなどして、防御の堅い城でした。
1611年(慶長16年)、そんな「津城」へ国替えでやってきたのが藤堂高虎です。やってくるなり、藤堂高虎は石塁をより高くする、三重の櫓を作るなど、大規模な改修を始めました。さらに、藤堂高虎は築城だけにとどまらず、町人のための伊予町の整備、武家屋敷の整備も進めていきます。津城はまさに、藤堂高虎の築城技術が城だけでなく、町づくりにまで及んだ場所と言えるでしょう。
藤堂高虎のあとは、子の「藤堂高次」(とうどうたかつぎ)が津城を継ぎ、さらに城下を発展させ、明治時代に入るまで城下町としての機能を果たしました。
津城は、藤堂高虎とゆかりの深いことから、現在では馬に乗った藤堂高虎公の像が設置され、観光の目玉のひとつになっています。
藤堂高虎がかかわったその他の城
他にも、藤堂高虎の城づくりの真髄がよく分かるのが、「篠山城」(ささやまじょう:兵庫県丹波篠山市)です。篠山城は、関ヶ原の戦いのあとに、徳川氏が豊臣氏包囲の目的で藤堂高虎に築かせた水の上の城。豊臣氏のいる大阪に近く攻められる可能性もあったことから、石垣を高くするだけでなく、幾重もの門を築き、敵が侵入しにくいようにしました。
なかなか侵入できないとなれば、敵兵は遠距離に対応した武器で攻略していくしかありませんが、藤堂高虎はこうした外からの攻撃にも耐えられるよう堀を長くした城も築いています。当時は遠距離といえば弓の時代。弓の飛距離をも超える堀を作ることで、どうやっても攻めにくい城にしたのです。
他にも藤堂高虎は、「膳所城」(ぜぜじょう:滋賀県大津市)や「甘崎城」(あまざきじょう:愛媛県今治市)の築城、「伏見城」(ふしみじょう:京都市伏見区)、「丹波亀山城」(たんばかめやまじょう:京都府亀岡市)の改修に携わるなど、城づくりにおいて多大な信頼を得ていました。
0コメント