http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/oinokobumi/oino16.htm 【笈の小文
(伊勢山田)】より
伊勢山田
何の木の花とはしらず匂哉(なにのきの はなとはしらず においかな)
裸にはまだ衣更着の嵐哉(はだかには まだきさらぎの あらしかな)
何の木の花とはしらず匂哉
西行の歌「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」『山家集』を花に託してデフォルメした句。ここで芭蕉は、花の匂いと木の名を照合しようとしなかったとかいう問題ではない。西行の歌を俳諧化することにのみ主眼が置かれている。
貞亨5年2月4日、伊勢神宮外宮参拝の折りの作であることは『杉風宛書簡』から分る。
伊勢市霊祭講社の句碑(牛久市森田武さん提供)
裸にはまだ衣更着の嵐哉
『泊船集』の前書には、「2月17日神路山<かみじやま>を出るとて、西行の涙をしたひ、増賀の信をかなしむ」とある。
神路山は三重県伊勢市宇治にある山域で、五十鈴川上流域の流域の総称。『撰集抄』には、増賀上人は、伊勢神宮を参拝した折、私欲を捨てろという示現を得て、着ていたものを全部脱いで門前の乞食に与えてしまった、という話が載っている。この句はこの故事をもとに作られている。増賀上人のように裸になるには未だ二月の寒風の中じゃ無理だ。如月<きさらぎ>を更に衣を着る季節としゃれた句である。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12504699672.html 【「おくのほそ道」をいろいろ考える~芭蕉は伊勢神宮遷座式に参加していた?】 より
【原 文】
旅のものうさもいまだやまざるに、長月(ながつき)六日(むいか)になれば、伊勢の遷宮(せんぐう)拝まんと、また舟に乗りて、 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
【意 訳】
長旅の疲れもまだ抜けきらないのに、九月六日となり、伊勢神宮の遷宮を拝もうと、また舟に乗り、蛤のふたみに 別れ行く秋ぞ
松尾芭蕉「おくのほそ道」は岐阜大垣から舟に乗り、伊勢へと向かうところで終了する。
この最後の文章を、これまでなにげなく読み流していたのだが、この、九月六日となり、伊勢神宮の遷宮を拝もうと…という文章は結構重要な場面ではないか…、とふと思った。
ご承知の通り、伊勢神宮は20年に1度遷座する。
調べてみると、元禄2年(1689)は、伊勢神宮遷座の年で、9月10日 内宮遷座式9月13日 外宮遷座式となっている。
芭蕉はただ単に伊勢神宮を参拝するだけではなく、「遷座式」を見ようとしていた、と考えてよく、それに合わせて大垣を旅立った、と考えていい。
元禄2年9月15日、岐阜大垣の木因(もくいん)への書簡には、拙者も寛々遷宮奉拝、大悦に存候と書かれてある。
意訳すると、わたくしもゆるゆると遷宮を拝謁、大きな喜びでした。と述べている。
注釈(『芭蕉書簡大成』今榮蔵)では、ここで、外宮遷宮式を奉拝したこととある。
なぜ内宮遷座式ではなく、「外宮遷座」と限定しているのかはわからない。
ここだけ見ると、内宮遷座はわからないが、外宮遷宮式には参加出来たようだ。
ここでふと「疑問」が湧く。
芭蕉の『野ざらし紀行』の「伊勢」の場面でこういう箇所があった。
我(われ)僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属(ぞく)にたぐへて、神前に入(いる)事をゆるさず。暮(くれ)て外宮に詣で侍りけるに…とある。
意訳すると、
私は僧侶ではないが、僧侶の部類とされ、内宮神前に入ることを許されなかった。
暮れて外宮に詣でて…となる。
これを読んで推量すると、伊勢神宮内宮は坊さんの参拝を許さなかった。
芭蕉は坊さんと判断され、内宮に参拝出来なかった。
外宮は坊さんの参拝を認めていて、芭蕉も参拝出来た。ということである。
「野ざらし紀行」は貞享元年(1684)であるから、「おくのほそ道」の5年前である。
今回はどうなったんだろう、ちゃんと伊勢内宮に入れたのだろうか、内宮遷座式を見れたのだろうか…、と考える。
これも結局、推測になるが、注釈に「外宮」としか書いていないところを見ると、内宮遷座は参加出来なかったのではないか。
そもそも内宮遷座式を庶民が気軽(?)に見学出来るものだろうか、と考える。
このへんは調べてみないとわからない。
芭蕉は最初から、外宮遷座式のみの参加を目的としていた、とも考えられる。
いや、それならば、なぜ芭蕉は9月6日に大垣を出発したのだろう。
外宮遷座だけを見るなら10日くらいに出発しても十分間に合うはずである。
やはり、内宮遷座に合わせて出かけたのではないか。
そして、5年前に断られた経験があるのだから、今回は、例えば、地元の人に、神前に入れるように準備してもらっていたのではないか、とも考える。
ただ、まあ、結局は(現時点では)よくわからない。
ただ、「お伊勢参り」というのは江戸時代爆発的に流行したが、芭蕉にとっても「伊勢神宮」というのは特別なものだった…、と同じく推量する。
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/Q_A/detail.asp?record=126 【山田奉行所とその所在地】より
17 山田奉行所とその所在地
Q 江戸時代に伊勢国に設置された山田奉行所は、どのような仕事をした役所ですか。また、その役所は、どのあたりに置かれていたのですか。
(平成九年十一月 県内個人)
A 山田奉行所は、江戸時代に幕府が伊勢国に設置した遠国(おんごく)奉行の一つです。遠国奉行とは、江戸を離れて幕府直轄の要地に配置された奉行を中央の奉行と区別するため呼びならわしたもので、職制ではありませんが、大坂・伏見・京都・駿府などの町奉行や長崎・山田・日光・奈良・堺・佐渡・下田・浦賀・函館・新潟などの遠隔地に配置された諸奉行をいいます。
山田奉行所の任務は、伊勢神宮の警備・遷宮の監督・伊勢国幕府領の支配・鳥羽港の監視などでしたが、奉行所の創始については種々議論のあるところです。徳川家康が実権を掌握した慶長八年(一六〇三)十一月に長野内蔵允友秀を奉行に任命したときからと、よく言われますが、この長野内蔵允友秀や同じく奉行を務めた日向半兵衛政成は北伊勢の調停などにもその名が見え、当初は「伊勢国奉行」としての性格が強かったのではないかという学説があります。また、寛永八年(一六三一)の花房志摩守幸次の赴任を独立した山田奉行所の設置と見る説もあります。
奉行所の場所について、最初は、宮川の西、海岸沿いの度会郡有滝村(現伊勢市)にあった既設の有滝役所を本拠としていたようです。『三重の近世城郭』では、地元で「蔵屋敷」とか「広山(城山・殿前)」とか呼ばれる場所がその有滝役所跡に関係するのではないかとしていますが、決定には更に検討が必要です。
また、宮川の東、山田地内にも役所跡とか屋敷跡とか言われる場所が三ケ所あり、江戸時代後期の地誌『勢陽五鈴遺響』にもそれぞれ記述が見られます。いわゆる曽祢高柳役所(現曽根一丁目)・下中之郷役所(宮町一丁目)・一本木役所(吹上二丁目)で、これらは「公事裁許場」と考えられています。すなわち、有滝村から奉行たちが出張し裁断・処理に当たった役所です。設置時期も曽祢高柳役所が最初で、一本木役所は本拠が有滝村から小林村(現伊勢市御薗町)に移った寛永十二年以降も使用していたと伝えられています。
小林の役所は、宮川右岸の下流にあり、海運・造船の拠点であった大湊に近く、背後の伊勢神宮を警護する上でも格好の地で、そこに移転したと考えられます。小林の屋敷図・建物配置図などの絵図は、県庁や神宮文庫にいくつか残されており、概要を知ることができますが、弘化二年(一八四五)の火災に伴う再建後の建物配置の図が多いようです。
そして、江戸幕府の崩壊とともに、慶応四年(一八六八)七月、ここに度会府が設置され、長く続いた山田奉行所も廃止されてしまいました。その間、何代かにわたって奉行が赴任し、正徳二年(一七一二)~六年(一七一六)の四年間には大岡能登守(のち越前守)忠相が奉行として来ていたことは有名な話です。
参考文献
『宇治山田市史』上巻 昭和四年
『三重の近世城郭』 三重県教育委員会 昭和五十九年
『御薗村史』 平成元年
『三重県史』資料編(近世1) 平成五年
橋本石州『伊勢山田奉行沿革史』 昭和五十二年
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