名月や池をめぐりて夜もすがら

https://haiku-textbook.com/meigetsuya/ 【【名月や池をめぐりて夜もすがら】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!】 より

古くより受け継がれてきた「俳句」の世界には、いまもなお人々を魅了する有名な句が数多くあります。

名句と聞けば、「松尾芭蕉」の作品を思い浮かべる方も多いでしょう。

自然の美を好んだ芭蕉ですが、とりわけ「月」への思いが強く、月を詠んだ句がいくつも残されています。

今回は、そんな松尾芭蕉の数ある名句の中から【名月や池をめぐりて夜もすがら】という句をご紹介します。

名月や池をめぐりて夜もすがら‥‥ 芭蕉

私にはそれほどの熱心さは無いな‥‥。

松尾芭蕉は江戸時代前期の俳人で、日本至上最高の俳諧師として、「俳聖」とも称されるほどの人物。

自然の美しさや人々の生活を豊かに表現し、蕉風と呼ばれる俳諧に高い芸術性を加えた句風を確立しました。

また芭蕉は「人生は旅である」ととらえ、旅に生きた人としても知られています。

代表作『奥の細道』など数々の旅行記を残し、日本各地へ趣き日本の風景や侘び寂びを詠みました。

季語

この句に含まれている季語は「名月」で、季節は「秋」を表します。

しかし月は四季を通じて一年中見られるものですが、なぜ秋の季語となるのでしょうか?

それは、秋は空が澄み渡り、月がことさら美しく輝く季節だからです。

特に旧暦8月15日(新暦では9月中旬から下旬)の月は「中秋の名月」といい、古来よりこの日の月を特別なものとして愛でてきました。

旧暦の秋にあたる7月・8月・9月の中で、その真ん中にあたる8月を「中秋」と呼びます。

意味と解釈

こちらの俳句を現代語訳すると・・・

「名月を眺めながら池の周りを歩いていたら、いつの間にか夜が明けてしまった」

という意味になります。夜もすがらとは、「夜どおし・一晩中」を意味します。

しかし、じつはこの句には以下の2つの解釈があります。

❶「中秋の名月の夜、池の水面に映る月に感動し、池の周りをそぞろ歩いて趣を楽しんでいたところ、いつのまにか夜が明けてしまった」

❷「明るく照らす中秋の名月を眺めながら、池の周りをそぞろ歩いて趣を楽しんでいたところ、いつのまにか夜が明けてしまった」

上記のように、名月とは池に映る月なのか、もしくは空に輝く月を指すのかで解釈が分かれています。

この句では月と池が並んでいることから、「池に映る月」を連想されるため、前者❶が定説とされています。

しかしせっかく一年で最も月が美しく見える夜ならば、水面に揺らめく月よりも直接見るほうが自然にも感じます。

じつはもう一つ解釈がある

他にも、池の周りを回っているのは「芭蕉」ではなく、夜空に輝く「月」を表しているという解釈もあります。

旅をこよなく愛した芭蕉なら一晩中歩くことはたやすいことかもしれませんが、いくら月に感動したからといっても疲れ果ててしまいますよね。

池の周りを月が回っていくと解釈するならば、

「佇む芭蕉の頭上を、中秋の名月が池の周りをめぐっていき、その美しさに感動しているといつの間にか夜が明けてしまっていた」

となります。

一晩かけてゆっくりと月が動いていく様子から、時の移ろいをしみじみと表しています。

その上、たった十七文字の世界のから、どこか宇宙に繋がるようなスケールの大きささえ感じてしまいます。

このように読み手の解釈によってさまざまな楽しみ方ができるのも俳句の魅力だといえますね。

この句が詠まれた背景

この句は芭蕉が43歳の頃の作とされています。

東京の深川にある芭蕉庵にて、宝井其角・仙化ら門弟達が集まり、月見の会を催した席で詠まれた句です。

余談ですが、句の中で出てくる「池」は、かの有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」の句でも詠まれた古池だといわれています。

「名月や池をめぐりて夜もすがら」の表現技法

切れ字「や」

こちらの句は、「名月や」の「や」の部分が切れ字に当たります。

切れ字とは句の切れ目に用いられ、強調や余韻を表す語です。

「や」は間投助詞で、「詠嘆・感動」を意味し現代語訳では「ああ,~であるなあ。」と訳されます。

つまり「名月や」は「名月であることだ・・・」を意味し、作者の感動の中心が「名月」にあると詠みとれます。

また切れ字には俳句にリズムを持たせるために使います。この句では「めいげつ」に「や」をつけることで、五音から成る心地よいリズムを作りだしています。

「名月や池をめぐりて夜もすがら」の鑑賞文

「夜もすがら」という言葉から、名月に見惚れて恍惚とする作者の様子が伺えますね。

気がつけば夜が明けるまで歩いてしまうほどの月の美しさとは、一体どれほどだったのでしょうか?

まだ電気やガスも普及していない江戸時代では、日が沈むとあたりは夜の闇に包まれ、月光は今よりもまぶしく感じたはずです。

中秋の名月ともなると、ことさら明るく輝いて見えたことでしょう。

さらに、芭蕉は『更科紀行』の中で「三更月下入無我 (さんこうげっかむがにいる)」と記しています。

現代語訳すると、「真夜中、月の光の下で無我無心の境地に入る」となるのですが、この句でも月に魅入るあまり時の経過を忘れてしまう、無我無心の境地に至ったのでしょうか。

自然が生み出す神秘的な光景を前に、芭蕉の重んじた「侘び寂び」の世界観が見事に表現された味わいのある名句です。

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)

松尾芭蕉(1644~1694年)は本名を松尾宗房(むねふさ)といい、名前の芭蕉は俳句を作る人が名乗る「俳号」と呼ばれるものでした。

伊賀国(現在の三重県)に生まれ、10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし俳諧を始めました。

芭蕉の最初に詠んだ俳句は「春や来し 年や行けん 小晦日」といわれており、これが俳人生活の始まりの句となりました。

28歳になる頃には、北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されます。若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積みました。

33歳で俳諧師の免許皆伝となった芭蕉ですが、俳諧の指導だけでは生活が苦しく、水道工事の事務をして生活していました。

45歳であった芭蕉は弟子の河合會良とともに「奥の細道」の旅に出ます。約150日間をかけて東北・北陸を巡り、約2400kmもの距離を歩いたと言われています。

高齢にも関わらずこれだけの距離を歩くのは尋常ではないということと、芭蕉の出身地が忍びの里として有名な伊賀であることから、実は忍者だったのではないかという説もあるようです。

大阪への旅の最中に体調を崩した芭蕉は、50歳の生涯を閉じました。亡くなる4日前、病の床で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を残しています。


https://wabisabi-nihon.com/archives/18754  【松尾芭蕉の「名月」といえばこの俳句!「名月や池をめぐりて夜もすがら」】 より

秋はお月見の季節、月が美しい季節ですね~♪

ああ、でも、私は暗くなってから外出することはまずないので、ほとんど月を見ることはないんです。家の中では、カーテンばっちり閉めてますし。

そもそも、現代の都会で見る月は、そんなに存在感はありません。

でも、電灯がなかった江戸時代は、月明かりはとても明るく美しく、灯りの代わりとして大切なものだったでしょうね。

松尾芭蕉は、名月を鑑賞するために、2つの旅に出て紀行文を書いています。

今回は、中秋の名月を詠んだ芭蕉の名句を、ご紹介します。

名月や 池をめぐりて 夜もすがら

もう、芭蕉の「名月」の俳諧といえば、コレですよ!寂びの雰囲気満点です♪

これは、芭蕉が43歳のとき、『笈の小文』の旅に出る前年の秋に、江戸で詠んだ俳句なのでした。芭蕉庵で「月見の会」をしたとき、隅田川に舟を浮かべて詠んだといわれます。風流ですね~。

まだ電気のない江戸時代の夜は、今よりずっと闇が深かったでしょう。そんな夜空にこうこうと輝く月は、明るく美しかったでしょう。

中秋の名月は、陰暦8月15日の夜の月のことです。

現代の暦では9月から10月初めでに当たるのですが、ここで問題です。

池の周りを回っているのは、人(芭蕉)でしょうか?それとも、名月でしょうか?

また、名月は、夜空に輝く月でしょうか?それとも、水面に映る名月なのでしょうか?

俳句は、いろんな解釈ができて、おもしろいです。

定説は、「芭蕉が、池に映る名月の美しさに感動して、無心の境地で一晩中池の周りをまわっていた」でしょう。「月」と「池」があると、「池に映る月」と連想するのが自然だからです。でも、実際は、夜空に輝く月を直接見るほうが美しいですよね。もしかしたら、そちらかもしれませんよ。

私は、こういう静かな寂れた空間に独り佇む、芭蕉の「寂び」の俳句が大好きです。難しいことは分かりませんが、室町時代から続く「侘び寂び」の世界観を、17の文字に見事に紡ぎだしているなあと思えるのです。

芭蕉は、この俳諧をどういう意味で詠んだのかなと、いろいろ思いめぐらすと楽しいです。芭蕉は、『更級紀行』の冒頭近くに「三更月下入無我(さんこうげっかむがにいる)」と表しています。この漢詩は「真夜中に、月の光の下で無我無心の境地に入る」という意味なのですが、この俳句もこの境地で詠んだのでしょう。

名月と池という美しい天地の自然物の中で、「禅」の無我無心の境地にいる奥深さを感じます。

一晩中、池の周りをぐるぐる回っていても、考え事をしていたわけではないということですよ。

松尾芭蕉は「名月」を愛でる旅にでた

芭蕉は、『奥の細道』の前に4つの紀行文を書いています。

そのうちの2つ、『鹿島詣』と『更級紀行』は、「名月」を鑑賞するための旅でした。

『鹿島詣』の旅に際して、芭蕉は「このあきかしまの山の月見んとおもひたつ事あり」と記しています。また、『更級紀行』には、「三更月下入無我(さんこうげっかむがにいる)」という漢詩を引用しています。

でも、なぜ、月を見るためにわざわざ茨城や長野まで行ったの?と思いますね。

実は、どちらも、古代からよく和歌に詠まれたロマンあふれる「歌枕の地」だったのです。

特に、更級には「姥捨山伝説」があり、その話の展開の中で「名月」がキーワードとして出てくるのでした。

更級は、姥捨て山と名月がセットで連歌される歌枕なのです。

芭蕉も、ここでそんな俳諧を作っていますよ。

俤(おもかげ)や 姨ひとりなく 月の友

物悲しさが伝わりますね。

芭蕉は、これより5年前に母親を亡くしています。「姨(うば)ひとりなく」から、母親を思い出していたのだなあと思えます。

また、この俳諧を読んだ江戸の人々は、「更級」という言葉に、なかなか自分では行くことのできない、ロマンチックで神秘的な地を想像したのです。

それが「歌枕」の力ですね。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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