逢坂関

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/ousaka_u.html 【歌枕紀行 逢坂―あふさか―】より

 相坂・合坂などとも書く。山城・近江国境の峠道。畿内の北限とされ、関が設けられていた。ここを越えれば東国であった。「逢ふ」という語を含みながら、人との間を隔てる関であるというパラドックスが王朝人に好まれ、さかんに歌に詠まれた。

 現在も幹線道路や鉄道が狭隘な谷間を並行して走る、交通の要衝である。

これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも相坂の関(蝉丸「後撰集」)

夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ(清少納言「後拾遺集」)

逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(紀貫之「拾遺集」)

逢坂の関の岩かどふみならし山たちいづる桐原の駒(藤原高遠「拾遺集」)

鴬の鳴けどもいまだ降る雪に杉の葉白き逢坂の山(後鳥羽院)

逢坂や梢の花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら(宮内卿「新古今集」)


https://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/a069d857abc0dac3ec46379db3447993 【「山路来て、何やらゆかし、すみれ草(芭蕉)/心臓破りの丘と逢坂関」】

貞享元年(西暦およそ1684年)の8月から翌年4月にかけて、芭蕉は前年に死んだ母親の墓参り目的で江戸から故郷の伊賀上野への旅をした。その往復間の紀行は、「野ざらし紀行」あるいは「甲子吟行」と呼ばれてる。

この中の句でもっとも著名なのが、[山路来て、何やらゆかし、すみれ草]である。芭蕉は、この旅の帰途、熱田の法持寺に参詣した際に催された三人連歌の会で、[何とはなしに、何やら床し、菫草]という発句を詠んだ。この会に参加した一人で芭蕉の弟子だった林桐葉(はやし・とうよう)の娘で早世した佐与(さよ)を想定して詠んだということである。

これを元にして、江戸に帰還してから芭蕉は[山路来て、何やらゆかし、すみれ草]としたのである。これを、北村湖春(きたむら・こしゅん)は、

<菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧みなりといへども、歌学なきの過ちなり>と批判した。対して、芭蕉の弟子向井去来(むかい・きょらい)は、<山路に菫をよみたる証歌多し。湖春は地下の歌道者なり。いかでかくは難じられけん。おぼつかなし>と反論した。が、そのような論議は不毛である。

和歌ではスミレを山と一緒に詠まなかったかもしれないが、芭蕉は俳句である。歌の伝統を守るよりむしろ型を破るのがその芸風ともいえる。

(以下はドシロウトの私の見解である)

この「山路でスミレ」は想像上のものである。

「幽蘭集」に収められてる この"野ざらし紀行時の貞亨2年3月の尾張あたりでの句に、

[思ひ立つ、木曽や四月の、桜狩り]というものがある。

桜狩りとは3月のものなのだが、"高地"である木曽路では4月でも桜が咲いてることを期待して

こう詠んだのである。そして実際、中山道(木曽路)に歩を進めたのである。だから、逢阪の関を越える際の句としたことは実態とは異なるとはいえ、[山路来て、何やらゆかし、すみれ草]

の拙大意はこうなる。

「木曽路という山路を進みたかったことである。が、それ以前に逢うという名のごとく、人々が行き交う逢坂の関を通った私は、母の死のみならず、この世での出逢い、そして別れはまた、人の定めなことであるをあらためて実感した。

桜も野なら4月には見れないが、 山路なら見れる。

世の中とはそうした巡り合わせなものである。そして、今は山路にあるからこそ時節遅れの桜は見ることができたが、逆に野辺に咲くスミレは見ることができない。

こうして桜を堪能しながらそのいっぽうで、野に咲くスミレが見たいとなぜかしみじみと思うことであるなぁ」


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