かさねの作法 日本文化を読みかえる

https://1000ya.isis.ne.jp/1526.html 【かさねの作法 日本文化を読みかえる】 より

かねてよりぼくは、日本文化を支えてきた方法には必ずや「あわせ・かさね・きそい・そろい」が揃い踏みしていると断言してきた。

本書はその「かさね」に代表焦点をあて、そこから「くずし・やつし・ずらし・ちらし」を、「もじり・もどき・まぎれ」を、「あそぶ・すさぶ」を、「まねる・うつす」を、「うがち・かけあい」を、そして「寄せ・譬え・見立て」を解きほぐした。

その文芸遊芸な手法、あっぱれだ。少々ふくらませて、諸君にも提供しておこうと思う。

 いささか業を煮やして、今夜を千夜千冊する。「かさね」のこと、「あわせ・かさね・きそい・そろい」の一連のことについては、ずいぶん以前から「日本という方法」で最も重要な方法だと強調してきたのに、いっこうに理解が深まっていないのに呆れているからだ。

まあ、ぼくの喧伝力が貧しいということになるだろうが、どうもそれだけでもないとも感じている。いつのころからか、きっと高度成長に酔っているうちのことだろうが、「かさね・あわせ」における「元」と「子」の関係がわからなくなってしまっているのだ。これではまさに元も子もなくなる。

 現状日本のビョーキは、「元」を取り違え、わかりやすい「子」ばかり量産していることにあるのだから、これではかなりヤバイのだ。

 能『葵上』はワキツレが登場して、葵の上に取り憑いたもののけの療治のために貴僧高僧がいろいろ大法秘法を尽くしたがまったく効なく、そこで照日の巫女を呼んで「もののけの正体」をつかもうとしている、という場面から始まる。

 こんな話をすると、あれっ難しそうだなと思うかもしれないが、まあ、これは宮崎駿のアニメ・プロットのひとつに近いと思ってもらえばいい。

 巫女の祈祷によって六条御息所の生霊(いきりょう)がシテとしてあらわれると、この生霊は光源氏の愛を奪った葵の上に対する恨みを述べ、責め立てる。よく知られた「後妻(うわなり)打ち」だ。ここで横川の小聖が呼ばれて加持祈祷するのだが、生霊は鬼となってふたたびあらわれ、一進一退の攻防になる。それでも行者が念珠を突き付け、押し揉むので、ついにシテは力尽きて舞い収める。

 この『葵上』が狂言『くさびら』では、庭の茸をいくら取ってもはえてくるので山伏に祈祷してもらう場面になる。そこでは横川の小聖そっくりのセリフを言い、似た所作をする。話も登場人物もまったくちがうのだが、これは狂言が能をもじったのだ。

 これが日本の「かさね」というものなのである。

別の例でいえば、能『定家』をもじって同じセリフを重ねると、狂言『祐善』になる。また能『長柄』をもじってセリフを借りると、狂言『蛸』になる。あるいは名曲『頼政』は狂言『通円』に変わる。両者は互いに「かさね」の部分を共有する。

 能狂言にはこのような関係がいくつも成り立っている。能が正統だとしたら、狂言はその「もじり」であり、その「くずし」なのである。そこに「かさね」という方法が貫かれている。

 このような「かさね」の手法は伝統的芸能に溌剌していただけではない。記紀神話の記述にも、万葉歌謡にも、美術や工芸の意匠の工夫にも躍如した。

 とくによく知られているのは、「かさね」は早くから王朝文化の「襲」(かさね)の色目として愛用されてきたことだ。色の自他を突き合わせて重ねながらずらしていくことが、独特の日本的色彩をあらわした。十二単(じゅうにひとえ)はその格別なレパートリーだった。 

 「かさね」は単純ではない。「重ね」であって「襲ね」であり、「ずらし」であって「ちら見せ」なのだ。それは固定的でなく、動的だ。かつ手がこんでいた。色目の「襲」でいえば、平安末期には強装束が出てきて、重ねても下の色が透けなくなってきたのだが、そこで表地の周縁に裏地をのぞかせる「おめり」という手法が工夫された。二色ずらし、三色ずらしの「おめり」が装束になったのだ。

本書は、こうした「かさね」が主として日本の文芸にどのように多用されてきたかということを、目次順でいえば(1)くずす・やつす、(2)もじる・もどく、(3)あそぶ・たわける、(4)まねる・うつす、(5)うがつ・からかう、(6)譬える・見立てる、の6講で繙(ひもと)いてみせた。最終講の「かさね」論にいたるまで、執拗に案配解説している。

ぼくはかねてから、藤原成一という御仁には一目も二目も置いてきた。置碁なら五子ほど置かせてほしい。

 こういう“日本通”の御仁は、残念なことに唐木順三(85夜)・寺田透・広末保・松田修などを除いて、大学でふんぞりかえっているアカデミックな学者にはなかなかいない。

 多くの学者たちは個別の専門知識はあっても、当の「芸」や「味」がとんとわからない。鉄斎、会津八一、住太夫、下保昭、吉右衛門、ちあきなおみ、椎名林檎をちゃんと説明できない。ましてそれらにひそむ「方法」が採掘できない。ついつい史実で塗り込め、美術史で武装し、フランス仕込みの薄っぺらな表象論などを持ち出す。それでもわからないと武智鉄二(761夜)や白洲正子(893夜)にその技を頼ることになる。

 ところが、この藤原の御仁はすでに『仏教ごっこ日本』(法蔵館)では、日本にはインドや中国の仏教が本物仏教というならそんなものはなく、ただひたすら日本的仏教を編集しただけだと見抜いた仏教史を綴り、『風流の思想』(法蔵館)では、日本人の生き方なんて風流と遊ぶこと以外にいったい何があるんですかと、大いに嘯(うそぶ)いてくれた。

 長らく日大の芸術学部で教壇に立っておられたはずだが、いつのまにか湘南某所の「白虚庵」の庵主となっていた。ぼくより7歳ほどの年長だ。

 あらかじめ言っておくが、本書はぼくのこの案内だけで読んだつもりになってほしくない。ぜひとも手にとってその文芸的な戯れの文体に酔いながら、この「かさね、あそび、やつし、見立て」の醍醐味を実感してもらいたい。事例の多くは文芸的かつ遊芸的な引用だから、ちゃんと通読していけば、それなりのことが見えてくるはずだ。

 しかしとはいえ、おそらく能も文楽も、連歌にも狂歌にも、浦上玉堂にも山東京伝にも愛着のない諸君には、本書を「文芸」のうえで読んだだけでは、日本文化の奥に疼きまくっている「日本という方法」や「かさね」の真髄はわからないかもしれない。まして本書は芸能の「技」ではなくて「ことば」にこだわっているので(そこが不満でもある)、視覚性や触知性がつかみにくいかもしれない。

 そこで以下は、本書にもとづきつつも、ぼくなりに「かさね」語群のグルーピングを調整し、その意図や趣向を少々現代にも引きつけて「日本という方法」にふくらませた要約編集をしておいた。いささかJ文化っぽくしておいた。それを承知のうえで日本文化マニュアルの一端として参考にしてほしい。

 (1)やつし・くずし・ずらし・ちらし・わかち

 まず「やつし」がわからなければ、ワビ・サビも歌舞伎も新内も、日本文化のヒミツはことごとく解けないだろうから、そこから入ることにする。

 能『鉢の木』で北条時頼は「旅の僧」として登場する。水戸光圀は正体を隠して「黄門さま」として行脚する。『仮名手本忠臣蔵』の七段目では大星由良之助が本音を隠してくつろいでいる。これらが「やつし」なのである。

 『伊勢物語』の在原業平は「京」という都ぶりのセンターから東国というマージナルなところへ下る。この「東(あずま)下り」がやはり「やつし」なのだ。業平は「みやび」という正統から外れていったのだが、それがわかっていてあえて外れた「ひなび」な東国の方に向かって「やつし」をおこしてみせた。いや、あえてそういうふうに業平を扱って『伊勢』が綴られた。

 「やつし」には「やつれる」という意味が含まれている。けれども何かに疲れてやつれるのではない。あえて正体を隠しているのが「やつし」なのだ。

 ということは、諸君がよく知っている例でいえば、歌舞伎十八番の助六が曽我五郎の世を忍ぶ仮の姿になっているのが「やつし」なのである。

 お祭りに登場して見物客を笑わせる「ヒョットコ・おかめ」の踊りはたいていペアになっている。ヒョットコは「火男」(ひおとこ)が訛って「ひおっとこ」になった。このルーツはとことん行きつけばイザナギ・イザナミの男女二神にまでさかのぼるのだが、そこでヒョットコ・おかめは実は男神・女神の「やつし」のヴァージョンだったということになる。

男女二神の「やつし」の一種である。

 「やつし」を一般化すれば「変身・変装・仮装・擬装・異装」などというふうになろう。流行のコスプレや子供たちの「へんしーん!」でもあろう。ただし、「やつし」はたんに変装しているのではないことを、知るべきだ。目立ちたいわけでもない。「かわいい」だけではない。

 正体をあからさまにできないような場面で、あえて世間の目をはずしてみせるのが「やつし」なのだ。身分の高い者、つまり「やんごとなきもの」がそうなる場合は、それゆえ、たいていはあえてカジュアルになったり、みすぼらしくなったりする。

 わかりやすい例が案山子だ。案山子はたいてい蓑笠をつけているけれど、あれは神々の「やつし」なのである。スサノオが高天が原を追放されて葦原中つ国に降りてくるときも蓑笠をつけていた。助六も同様にかつては菰僧(こもそう)姿だった。その後の演出で江戸紫の鉢巻に天蓋をかぶって、さらに蛇の目傘をもって「やつしの華麗」を演じるようになった。

 ビートたけしは「やんごとなきかた」ではないけれど、身をもってどこで「やつし」をするかがわかっている。あれは、いい。それは「てれ」でもあったろうけれど、「てれ」は「照り」なのだから、そこは曇ってみせるのが上等なのだ。ただし、かつてはそれで「笑い」のウケをとりたいという助平根性が目立っていた。ついでに言うと、立川談志(837夜)やジュリー(沢田研二)にも「やつし」があった。最近の落語家やジャニーズ系にはそれがない。

 ついでながらテレビタレントの大半は目立てばそれですむという輩が多く、「やつし」とは無縁な連中だ。鶴瓶や太田光にはちょっと可能性があるかと期待していたが、モトになる本格の芸がない。

というわけで、つまり「やつし」は「くずし」や「てれ」や「くもる」を含むわけである。

 では「くずし」とは何か。「くずし」は「崩す」の名詞形で、崩壊や毀損や崩落のイメージがある。ふつうの語義なら「こなごなにする、ばらばらにする」というニュアンスになるだろうが、そこをちょっと深く考えたい。

 そうなのだ。コンビニで1万円紙幣を「くずしてください」と言い、美容院で髪形を「もう少しくずしてほしい」などと言うように、「くずす」には実は「扱いやすくする」とか「あえて整えない」とか「大きいサイズのままではいかない」という用法がある。ここが注目だ。

 日本文化では、フォーマルあるいは定型というものからちょっと外れることが「くずし」であり「やつし」なのである。そこには「整えきっているのは、やりきれない」という感覚がある。談志やビートたけしには、それがあった。

 もっとも、フォーマルや定型を身につけない「やつし」「くずし」は、たんなる反抗か身持ちくずしか、あるいはウケ狙いか恥知らずにすぎない。「型」がなければ、「くずしの美」も「やつしの美」もおこらない。型があるから「型破り」が芸になる。

 いずれもあえてくずすことで、整えきらない感覚を演出する。

 最も代表的な「くずし」は、中国からやってきた漢字を万葉仮名にし、さらには仮名にくずしていったことだ。

 チャイニーズ・フォーマルな漢字が真名(まな)で、くずしたほうがジャパニーズ・カジュアルな仮名になった。仮名には「仮の」というニュアンスがある。つまりカジュアルというニュアンスがこもっている。漢字が「真」(フォーマル)の文字で真名ならば、くずしの文字は「仮」(カジュアル)の仮名なのだ。

 万葉仮名から平仮名へ。「波」をくずして「は」となって、「安」をくずして「あ」にしてみせた。そこで、この仮名まじりの歌を筆で料紙にさらさらと書くときは「分かち書き」になり、これを屏風や扇面に書くときは「散らし書き」になった。こうして、「くずし」から「ちらし」と「わかち」の美学が派生した。ここには、あとでも説明するが、中国離れということもおこっていた。

 いずれにしても、整えられたフォーマルをカジュアルにする。そのために、日本文化は「くずす、散らす、分かつ」をおもしろがり、さらには「やつし」の手法として磨き上げたのである。

 このこと、もうちょっとわかりやすくするには身近な例を見ればいいだろう。たとえば「ちらし寿司」だ。

 あのお椀や丼に盛られた「ちらし寿司」は「にぎり」の寿司がフォーマルだとすると、これをネタだけはがして酢ごはんの上に散らしている。それが「ちらし」だ。新聞にはさまっている折り込み「チラシ」だって、そうなっている。ポスターやパンフレットがフォーマルだとすれば、その中身とフォームをくずして、散らしたものがビラだったのだ。これを落ち葉に見立てて、あられや干菓子の切片を散らして飾ったものを、風流にも「吹き寄せ」などとも言った。

 同様なことが茶の湯にもあてはまる。

 中国からやってきた茶は「真」という唐物(からもの)のものだったのだが、侘茶はこれを「草」(そう)に「やつし」て「くずし」ていった。侘茶を「草の茶」と、そのための茶室を「草庵」というのはこのためだ。ここに真行草の日本的ヴァージョンがある。

 これを総じて「ずらし」の手法というふうにも言う。聞けばリクルートという会社の創業以来の商法には「ずらし」があるという。そうであるなら、この日本的手法は「かさねのJビジネス」なのだから、自信をもって海外にも喧伝してほしい。

 (2)もどき・もじり・まがい・まぎれ・にせもの

 日本の芸能や遊芸が「やつし」を構想してきたのは、その奥に「もどき」という方法があったからだった。冒頭で能の『頼政』は狂言の『通円』に変わると書いたけれど、あれは「やつし」であって「もどき」だったのだ。

 「もどき」は「擬き」と綴る。擬態や擬似の「擬」だ。動詞では「もどく・擬く」というふうに言う。つまり「擬する」ということだ。いったい「擬する」とはどういう意味なのか。

 平易には、何かをモトにしてそれを擬くことをいう。それに似せることをいう。何かを真似ることをいう。ただし、何でもイミテートすればいいわけではない。桜や紅葉をプラスチックの造花にして商店街を飾ることや、木の根っこに似せた擬木を公園のあちこちに置くのは、「もどき」ではない。たんなる「ものまね」パレードが「もどき」なのではない。ストレートな模造ではなく、本来の何かを継承したいための模倣が「もどき」なのだ。

 おでんのタネの「がんも」は、ガンモドキという。高級な雁(がん)の肉の味に似せて作ったからだ。イミテートするのだが、そのイミテートがとても重要なことを伝えていること、それが本来の「もどき」なのである。外見だけ似せているわけではないのだ。

 世阿弥(118夜)が芸能の本質を「物学」(ものまね)にあるとみなしたのは、そこに大事や大切の「もどき」を投影したかったからだった。だからこそ世阿弥の芸能は神や翁のもどき芸となって今日に伝わった。

 折口信夫(143夜)がマレビトの芸能としてとりあげた冬の祭りに、「新野(にいの)の雪まつり」があった。長野伊那郡の祭りだ。「さいほう」の次に「もどき」と呼ばれる仮面の舞い手が登場する。

 よく見ると「もどき」は「さいほう」とよく似ているが、すべてがさかさまになっている。目尻の下がった穏やかな表情の「さいほう」に対して、「もどき」は目と眉が吊り上がっていて、怖い面をつけている。両手の採物(とりもの)も左右逆に持っている。足の撥ね上げ方などの動作も逆なのだ。

 子供や村人たちは、これを見て笑う。このように「もどき」は滑稽な真似をして「さいほう」を揶揄しているのであるが、その揶揄によって「さいほう」の慄然とした姿と立場が伝わってくるわけなのである。

 このような芸能の在り方が、いつしか「翁」(おきな)と「三番叟」(さんばそう)の関係として儀式化されたのだ。折口は、このような「もどき」の芸能には、「代わって再説する」という役割があると見た。

 というわけで、「ヒョットコ・おかめ」の踊りが神々のもどき芸だったのである。神楽や説経節の大半も「もどきの芸能」なのである。

翁の舞が天下泰平を祈るのに対し、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐとされる。

 もう少し広げていうと、「もどき」は「もじり」であり、また誤解をおそれずにいえば「まがいもの」や「にせもの」づくりでもある。このこと、誤解なく理解したい。

 中世、連歌が大いに発達した。これは一人で詠む和歌が王朝期の「歌合せ」に発展し、さらに何人かで一座建立して「詠み連ねる」ようになったものだ。連歌がどういうものかは739夜に案内した『連歌の世界』などを参照してほしい。「初折」「名残」「去嫌」(さりぎらい)など、たいへん精緻なルールでつくりあげた「座の文芸」だった。

 やがて連歌は二条良基や宗祇らによって『新撰菟玖波集』というすばらしい精華に結実した。また堂上連歌(貴族の連歌)に対する地下(じげ)連歌というものもあらわれて、民衆による花下連歌(はなのもとれんが)としても各地に派生していった。アンダーグラウンドなポップソングが広がったのだ。ところが、近世になるとこれをさらに「やつし」にしたい、「もどき」にしたいという連中が出てきた。

 ここに登場したのが寺山修司(413夜)や唐十郎めいた山崎宗鑑という男で、『新撰犬菟玖波集』をぶちあげた。『菟玖波集』の「もじり」だった。「みやび」がくずされ、もじられ、擬かれたのだ。

 宗鑑は浪人者で、当時のあぶれ者たち、犬侍、かぶき者、六法者たちに同情と関心があった。かれらは朱鞘の大太刀を腰に帯刀したり、昔のバサラ者に似て大袈裟な扇をもって衣裳を着飾る“too much”な連中でもあった。つまりはJコスプレをしたがる連中なのだ。

 「犬」とは差別用語のようでいて、そうではない。本当はサムライになりたいのに、そうはなれないでいる連中の身上と心情を卑下した(やつした)言葉だったのだ。スパイを揶揄する「犬」ではない。若松孝二の映画を想われたい。

 ともかくもこうして『犬菟玖波集』が世にあらわれた。いったんそうなると、これは流行にも風俗にもなる。「犬」ががんばるのだ。ただちに『枕草子』をもじった『犬枕』、『百人一首』もどきの『犬百人一首』、『徒然草』を揶揄してみせた『犬つれづれ』などが次々に出ていった。「犬もの」の流行だ。

 俳諧でも同様のことがおこる。もともとは紹巴や幽斎に正統な「型」を習った連歌師だった松永貞徳は、やがて『新増犬菟玖波集』『犬子集』を編集してみせ、しだいに貞門という一派を広げて、その門下に北村季吟らを輩出させた。

 この風潮はさらに飛び火する。伊勢物語に対する『仁勢物語』、古今和歌集に対するに石田未得の『吾吟我集』(ごぎんわがしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)の『古今馬鹿集』などというふうに。

 これらの方法の基本には、まず「あわせ」があり、ついで何重かの「かさね」がおこり、そこから「やつし」「もじり」「ずらし」があった。これがさらには「まがい」というふうになったわけである。その総体に「もどき」の芸能が息づていた。

 このことから「かさね」には「まぎれる」(紛れる)という手法が混在していることも見えてくる。これはむろん「まぎらわしさ」の自覚的混入で、したがってそこからは「まがい」「にせもの」が派生する。

 けれども、そのような方法による「にせもの」づくりは、社会や世間に対するクリティックであり、体制批判ともなった。西鶴の浮世草子が一世風靡していったのは、こうした虚実皮膜が超接近した時代背景によっていた。アンドレ・ジッド(865夜)の『贋金づくり』、島田雅彦(1376夜)の『悪貨』など読まれたい。

 ちなみに最近のサブカルタームでは、「もどき」のことを巧妙にも「インスパイヤ」と言っている。ウェブサイト「インスパイヤ」によると、どうやら次のように使われるらしい。

 「EXILE:ZOOとヤクザをインスパイヤしたもの」「キックボクシング:ムエタイを日本風にインスパイヤしたもの」「倉木真衣:宇多田ヒカルをインスパイヤしたもの」「冬ソナ:君が望む永遠を韓流にインスパイヤしたもの」「TUBE:サザンをビーイングにインスパイヤしたもの」「ヒュンダイのロゴマーク:ホンダのロゴマークをインスパイヤしたもの」というふうに。ふむふむ、なるほど。

 (3)あそぶ・すさぶ・まねる・うつす・うつろう

 これでだいたいの“筋”が見えてきただろうが、日本文化のなかでなぜこのような手法や作法や方法が重視されてきたのかということは、これだけではわかるまい。本書にも、そのあたりの説明がない。

 ぼくが思うには、ここにはそもそも「あそび」と「すさび」ということの二重性や多重性があったのである。

 アソビはいまでは「遊び」と綴るけれど、古来、「遊び」はスサビとも読んできた。スサビは「荒び」でもある。ところが、もともと「あそび」と「すさび」とは言葉の上でも意味の上でも同根なのだ。そのことは「手遊び」と綴って「手すさび」と、「口遊び」と綴って「口ずさみ」と音便で読むことでもわかるだろう。

 このようなアソビやスサビは、何かが過ぎることを暗示する。風が吹き過ぎることが「吹きすさぶ」であり、庭が荒れほうだいになることが「庭が荒(すさ)んでいる」なのだ。中世ではこれを「過差」とも「かぶく」(傾く)とも言った。

 ここにはアマテラスとスサノオの姉弟において、アマテラスの「和するもの」に対してスサノオの「荒ぶもの」という対比が成り立っていたことまでさかのぼるものがあるのだが(スサノオのスサも「すさび」のスサなのだが)、そしてまたここには「和霊」(にぎみたま)に対する荒霊(あらみたま)の対比がひそんでいるのだが、いまはそれは措く。とりあえずは歌舞伎に「和事」(わごと)に対する「荒事」(あらごと)があることを思ってもらえばいい。

 さて、このアソビ・スサビの感覚を、誰かが「何かを好んでいる」という状態や傾向にあてはめると、つまりは「好み」にあてはめると、何かに執着しているとか、何かに惚れこむとか、何かに徹して遊ぶという意味になる。

 これは一言でいうなら「数寄」ということである。つまりアソビ・スサビは、何かに執着してそこを遊びきること、それをはたから見ると“J too much”な「荒び」にさえ見えるということをあらわしている。そもそも数寄とはそういうことなのである。「好み」に徹するということだ。

 数寄は、すでにのべてきた「やつし」「ずらし」「もどき」を綜合する感覚だった。ときには「おまえ、やりすぎだよ」になるほどの感覚だ。しかし手法としては「かさね」の徹底ということだったのである。

マンガ『へうげもの』第一巻・第一席「君は”物”のために死ねるか!?」

この物語は、利休の弟子であり、数寄者として武家茶道を進化させた古田織部を主人公に展開される。

 ところで、日本文化がこのようなアソビ・スサビを伴うような数寄に徹するようになるには、つまりは「好み」を文化にするには、そこには「まねる」「うつす」ということができなければならない。

 そもそも「うつす」は「移す」であって、また「写す」「映す」「遷す」なのである。移りながら何かを反映しつづけること、何かにトランジットしながらミラーリングしつづけること、それが「うつす」や「うつし」なのだ。

 この「うつし」の多重な意味合いが、もともとは「ウツ」(空)や「ウツロ」「ウツホ」から出て、「ウツロイ」(移・写・映)をへて、「ウツツ」(現)にいたるプロセスのなかから、さまざまに生じていたことについては、『日本という方法』(NHKブックス)、『日本流』『日本数寄』(ちくま学芸文庫)、さらには『連塾・方法日本』全3巻(春秋社)などにさんざん説明しておいたので、ここでは省く。

利休が愛した楽長次郎の黒茶碗

一つの黒ではなく、うつろう黒を表現した。

 注目しておいてほしいのは、この「うつす」の感覚は見るからに映像的ではあろうが、日本文化ではつねに文芸的でもあったし、また工芸的でもあったということだ。

 つまり、和歌であれ連歌であれ、陶芸であれ、書道であれ舞踊であれ、日本においては何かを「まねる」ことが「移し」であって、それはもともと「写し」であったのだ。遊びは、この「うつし」から起動したのである。

 こうして、空海や貫之の書を写す、陶芸家が志野や織部を写す、宗達が王朝の絵を写す、狂言や歌舞伎が能を写すといったことが、日本文化を貫いてきたことになる。

 これらはたんなる「まね」ではない。まさに「生き写し」という言葉があるように、そこには何かを「生かす」「活かす」ということがなくてはならなかったのだ。いきいきした写生のことを「活写」と言ったり、立花を「いけばな」とも言うのは、そこなのである。

 またたとえば、書道では誰かの書を手本にしてまねて書くことを「臨模」とか「臨書」というのだが、こういう「まね」は実は「臨む」ことから始まるということにもなる。日本流の「うつし」や「まねび」は「のぞみ」なのである。

 (4)本歌どり・ゆかり・由緒・あやかる

 以上のことは、まとめていえば何らかのモトがあって、そこから「もどき」や「やつし」や「うつし」が生じるということでもある。これはいいかえれば「本歌どり」ということだ。

 本歌どりは、その歌にはモト歌があるということで、たとえば『新古今集』は冒頭からして、「春立つといふばかりらやみ吉野り山も霞みてけさは見ゆらむ」という『拾遺集』の歌を本歌として、「み吉野は山もかすみて白雲のふりにし里に春は来にけり」を置き、続いて『万葉集』の「ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも」を引いて、「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」を続けてみせた。

 本歌どりとは本歌に肖(あやか)った歌なのだ。「あやかり」という編集技法なのだ。「あやかる」は「肖る」で、そのプロフィールやフィギュアをずらしながらもってくることをいう。このこと、「すがた」(姿形)をうつす、とも言った。姿は「す・かた」(素・型)のことである。

在原業平が詠んだ、竜田川の紅葉を愛でた歌を「本歌取り」して、

流水に色付いた紅葉を散らした「竜田川文様」となった。

 かくして歌詠みたちは、つねに自分があやかるモト歌をあれこれ手元にアーカイブしておいて、そこにブラウジングするという愉しみを存分に発揮した。ウェブをスマホで引き出してくるのではない。自分でモト歌になりそうなものを探してアーカイブしておいたのだ。

 もっと正確なことをいえば、たんに引用しているのではなく、引用したものに自分の好みを重ねたのだ。そして、本歌と自分の好みを競わせたのだ。ここに方法日本の真骨頂である「アワセ・カサネ・キソイ」が生じ、そうしてつくられた作品は、つねにある種の「ソロイ」(揃い)として編集されていったのだ。

 ということは、日本文化は、あらかじめ後々の「そろい」を意識して競いあい、あらかじめ「きそい」を意識して重ね、その「かさね」を意識して当初の「Jあわせ」を始めていたということになる。

 これらは「歌合わせ」に始まり、貝合わせ、前栽(せんざい)合わせ、犬合わせ、茶合わせなどというふうに工夫が凝らされていった手法であった。これが日本流のベストマッチングの方法というものなのである。

似たものを合わせて遊ぶ「物合わせ」のひとつとして、平安時代に流行した。

香道では、縦5本の線を基本として構成される「源氏香の図」を手がかりに合わせる。

 歌だけに本歌どりがあったのではない。屏風絵にも着物の柄染めにも、芸能一般にも民謡や小唄など音曲にも本歌どりがおこなわれた。北原白秋(1048夜)や吉井勇(938夜)や安藤鶴夫(510夜)が、よくよく知っていたことだ。

 このような本歌どりや「あやかり」には、もうひとつ、きわめて重要な継承が動いていた。それは「由緒をいかす」ということだ。これを「ゆかり」とも呼んできた。仏教用語では「縁起」とも言った。

 何を由緒とし、何を「ゆかり」とするのかというと、「ゆかしい」ことを継承しようということである。これはもともとは寺社の縁起が神仏の「あやかり」をあらわすようになって広まったものだが、その後は歌枕や名所や名物を由緒にし、さらには『伊勢』や『源氏』に肖るという方法に転じていった。

 ここに「かさね」が「襲ね」であることが成立する。日本における文化の継承は単調なインヘリタンスではなくて、「ゆかり」「ゆかしさ」にもとづいた重合的なインヘリタンスだったのだ。わかりやすくは和菓子のネーミングや形姿や色合いのことを想えばいいだろう。「おくゆかしさ」とはこのことだ。

 ちなみに日本の伝統芸能では、よく知られているように家元や名取りが満を持して「襲名」するということがおこっているが、この襲名の「襲」もまた、「かさね」であって「ゆかり」であって「のぞみ」なのである。念のため。

 (5)とりまぜ・まぜこぜ・かけあい・うがち・からかい

 まあ、ここまでは基礎篇だ。ほんとうはもっと詳しく説明したいのだが、詳しくなるとわからなくなるというのが最近の〇×式やクイズ番組に慣れた日本病なので、あえてくだいてきた。

 しかし、ここからはちょっと手がこんでくる。とはいえロジカルシンキングに近くなるというのではない。日本文化は二元法や二分法などによるロジックで相手を攻めるというようなローコンテキストにはじっとしていられないので、うんとハイコンテキスト(暗示的)になって、「もどき」「もじり」を大前提に、ハイ&ローの両方にむかって「かさね」「あわせ」のアクロバティックな芸当になる。

 ただし、ここには基本の技がいる。

 その第一歩は歌語に遊べることにある。たとえば枕詞や懸詞(かけことば)や縁語に遊べるようにする。枕詞なら「くさまくら」といえば「旅」を、「ぬばたまの」からは「夜」のイメージを、「ひさかたの」で「光」や「空」を想定し、「たらちね」によって母なる想いに至ればよろしい。一種のパスワードを使うのだから、難しくはない。

 ついでは「沖」と「置き」をかさね、「大坂」を「逢う坂」に懸け、「ひとり立田山」というふうに連動させていくことに慣れておくことだ。ここまでは、いいだろうか。が、次に心得たいのは問答を感じるということだ。

 問答というのは、『枕草子』が見せたように、「すさまじきもの」「あてなるもの」と問うて、これに応じることをいう。たとえば「遠くて近きもの。極楽。船の路。人の仲」とか、「ありがたきもの。舅にほめらるる婿、毛のよく抜くる銀の毛抜。主をしらぬ従者。つゆの癖なき」とか。

 これは言ってみれば「笑点」の大喜利だ。そう思っていいだろう。ということは「謎かけ」なのだ。何々とかけて何と解く、という謎かけだ。ただし、その「かける」というところが、必ずやどこかで、係り結びの日本や懸詞の日本になっていく。また、能舞台に橋懸かりという「かかり」ができあがるところと連動する。

 さらには、その問答や応答がその後のモト(=モデル)になっていくところがもっと大事なところなのである。

能舞台の橋懸かり

鏡の間と本舞台をつなぐ通路。あの世とこの世を架橋するメタファーでもある。

1968年から続く長寿番組「笑点」

 なぜ問答などがモデルになりうるのかといえば、問答や応答はそもそもが記紀神話に始まっていた基本的な文法(話法)であって、たんなるQ&Aではないからだ。問うたもの、応えたもの、それぞれが互いにセットとなって、そのパターンが次の文化的な文脈に生かされていく。

 つまり問答・応答の交換そのものがJモデルとなって、次の「もどき」となりうるからなのである。

 すなわち日本文化の問答・応答は、Q&Aの正解など求めるものではなく、またツイッターのリツィートなどではなく、その応答のコンテクスチュアル・フォーマットそれ自体が継承されていくこと、そのことを重視した。どちらかといえばテニスや卓球のラリーに近い。「意図のラリー」だ。このラリーは、今夜は述べないが、日本の挨拶、本来の学習法、相撲の仕切り、贈答品の礼儀などにのこっていく。

 また「往来」「去来」「加減」「出入り」といった正負の用語、イン・アウトの用語にものこっていく。これらの用語は“文脈のフォーマット”でしか解釈できないものなのだ。プラスの意味の「いい加減」と、「いい加減にしなさい」の意味とは、その場の文脈(コンテクスチュアル・フォーマット)が決めるのだ。

 一方、次のことも言っておかなくてはならない。日本文化では「をかし」「おもしろし」を尊重するけれど、それは高級になるとか高度になるとか、ハイブローになることではなくて、実は「雅俗をまぜる」「和漢をとりまぜる」ということだということである。

 「みやび」と「ひなび」を分かたず、硬軟をとりまぜ、むこうとこちら、相手と主人をまたぎ、主客を呼吸の間合いで入れ替える。この「とりまぜ」「応答」におもしろみがあった。これはすでに記紀の文脈に「春と秋とはくらべようがない」とあり、漢風と和風を対立させずに和漢朗詠集や和漢貼り交ぜ屏風に仕立て、その後も和漢の「さかいをまぎらかす」(村田珠光)という方法が重視されたからであった。この手立てが行き着くところに、茶の湯の「主客一亭」の心得があった。

相撲の立合い

土俵の上の2本線と行司によって応答が仕切られる

 かくて、「あわせ」「かさね」は、他方においては「とりまぜ」「かけあい」というJパフォーマティブなものにまで及ぶことを知る。これはぼくが長らく強調してきたように、日本文化では「もてなは・しつらい・ふるまい」が三つで一つにつながっているということと共鳴する。

 ということは、日本の謎かけは「あわい」や「あいだ」に何かがひそむということにもなっていく。何がひそむかというと、こんな謎々がある。「二、くだもの。何ぞ」というものだ。

 お題は「二」だけ。ヒントは果物。これは何を意味しているのかというのだ。答えは「いちご」だ。「二は一のあと」だから、いちご。たんにそれだけだが、ここにはこの問答独特のちょっとしたあわいの味がある。

 もっと美しいものでは「つばき、葉おちて露となる。何ぞ」。「つばき」から葉が落ちたのだから、「つき」。それが「露となる」のだから「つ」が「ゆ」になって「雪」。答えは雪だが、これが椿、葉、露、雪というふうに雪月花するのだ。なんとも溜息が出る。

 もっとも、これらの雅俗をとりまぜた美しい成果は、やはりのこと時代がたてば「もじり」や「なぞり」の対象になり、江戸文化のなかでは「うがち」というものになっていく。川柳・狂歌・浮世絵が得意としたものだ。

 「うがち」はむろん「穿つ」からきているのだから、そのフォーマットや様式やモデルを穿つことで成立する遊びのことをいう。つまり「うがち」はそこに入りこんで、刳り抜いてくることである。木工細工のようなものだ。だから、けっこう技量がいる。しかし、江戸文化はこれをへいちゃらにこなしていった。西鶴も源内も一九も京伝も「うがち」の天才たちだった。

 このため、「うがち」は「滑稽」とも「通」とも「洒落」ともなった。いずれも江戸メディアの名称(滑稽本・洒落本など)にもなっている。それぞれ説明したいけれども、このへんも今夜は省いておこう。

ハサミに見立てられた男女の絵「切っても切れぬ仲」

宮武外骨は「滑稽新聞」など斬新なメディアを創り続けた。

錐彫り「宝尽くし文様」

穿ち(うがち)のテイストを模倣したさまざまな文様が生まれた。

 (6)寄せ・あしらい・なぞり・たとえ・見立て・こしらえ

 延喜13年3月13日、宇多天皇は亡くなった后の藤原温子の屋敷「亭子院」で、歌合わせを催した。その後の歌合わせのモデルとなった亭子院歌合だ。左方に赤色に桜襲ねの装束のチーム、右方に青色に柳襲ねの装束のチームが並び、そこへ、これまた左右の調子に着飾った太夫たちが音曲を奏しながら、洲浜をかついで入ってくる。

 あまり知られていないようだが、この洲浜がものすごい。浜辺の形の曲面に似せた台座に、木々・石組・花鳥などをあしらって拵(こしら)えたもので、金銀細工を凝らした盆景になっている。のちには山水見立てになって、山も川も鳥も船も載せられた。

 洲浜だけではない。村上天皇の天徳4年の天徳歌合わせでは、清涼殿から渡殿まで開放して、北面の壷に前栽を、南面には左に藤の花を右には山吹をあしらった。「あしらい」とは言っても造花をもってきたのではない。実際に植えたのである。このときは洲浜が入ってくるときに、その上を裾濃(すそご)の覆いがかぶっていて、打敷(うちしき)は縹(はなだ)色に染められていた。

 以降の歌合わせもこれらにまさる「あしらい」と「こしらえ」で、つまりはその場の趣向にあわせた「見立て」が駆使された。

州浜(京菓子)

浜辺の風景を盆の上に再現した豪華な洲浜台のイメージが、

やがて洲浜紋となり、それに見立てた菓子が生まれた。

江戸に流行した「絵暦」

カレンダーが「見立て」で構成されている。

 いったい見立てとは何かというに、たんなる見かけの借景なのではなく、単純な比喩でも譬喩でもない。モトの光景から何かを捌き、必要な景物だけを抽出してくるものだ。きわめてエッセンシャルなスクリーニングをほどこすこと、それが「見立て」なのである。

 このとき「おもしろし」「わがものになす」「やはらげる」ということが心得られる。「やはらげる」とはソフィスティケーションということだ。橘俊綱の『作庭記』には、石立て(庭作り)のことが縷々述べられているのだが、とくに「国々の名所をおもひめぐらして、おもしろき所をわがものになして、おほすがたをそのところになずらへて、やはらげて立つべき也」としているのが、深い。

東福寺 方丈庭園西庭(重森三玲 1939年)

 ここには、これまで紹介してきた「かさね・あわせ」の数々の手法が集まっている。これを「寄せ」とも言う(あの「吹き寄せ」の寄せ)。

 日本の神々は寄り神で(つまり客神で)、どこからか寄ってきた神であるのだが、まさに風景や景物を縮めながら寄せること、これが「洲浜」であり「庭」なのだ。ちなみにのちの「寄席」という席亭も、もとはといえば神々の芸能にあたる「もどき芸」の寄せたるところなのである。

松岡正剛「百辞百物百景-コンセプト・ジャパン100」より

「寄(よせ)」(020/100)

 このように本来の見立てには、神々の寄って来たる原郷を見立てる気持ちが必要だ。それは見立てによって、その場が本来の由緒にもとづいたものとして立ち上がるからだった。

 かつてはそれを「村立て」とも言った。また、そのために高いところからその候補地を眺めることを「国見」とも言った。見立てによって、その場が地鎮され、それゆえそこが「ふるまい」や「しつらえ」や「もてなし」の可能な場所となったのである。

 日本各地の「名所」はこうした見立てによって確定された。また「名物」もここに派生した。総じては、これが日本の「景色」というもので、実は「景気」というものなのである。

 とくに「景気」がたんに経済の景気のことではなく、このように各地の景物・名所・名物の勢いが寄せられてきたことを、看過すべきではない。エコノミストたちが肝に銘ずることだ。すでに『花鳥風月の科学』(中公文庫)に書いたことだった。

『富士三保松原図屏風』(右隻)

和歌が広まり、歌枕にちなんだ風景画(名所絵)が屏風や障子絵として描かれた。

 いろいろ見当がついてきただろうと思うが、以上のことから今日なおピンとくるようなことがさまざまに説明できる。

 たとえば「とりよせ」だ。いまでも産地直送ものは「お取り寄せ」という。また「こしらえ」だ。馴染みの客が板前のおやじに「何か、拵えてよ」というのがその「こしらえ」だ。これはいまでは「見繕ってよ」というふうにもなっている。「見つくろう」とは、すでに冷蔵庫などに寄せてあるものから見立てて、それを繕ってほしいという意味だ。

 ぼくの家はしがない呉服屋だったけれど、注文の着物が仕上ると、必ず「拵」という墨文字が入った畳紙(たとう)に包んで収めたものだ。

 いずれにしても、これらの手法や作法がすこぶる編集的であること、言うまでもない。「日本する」とは「編集する」ということなのだ。

Yahooショッピングの「お取り寄せグルメ」

畳紙に綴られた「おあつらえ」

 さてところで、冒頭に、「いささか業を煮やして、今夜を千夜千冊する」と書いたのは、以上のこと、ぼくとしてはのべつ語ったり綴ったりしてきたことなのだが、昨今の日本はこうしたことをちっとも大切なこととして受け止めず、とんちんかんな日本自慢をするか、まったく日本を大事にしていないか、あるいは一知半解の日本でごまかしているか、そんな体たらくばかりが続いているのに業を煮やしているということだった。

 もはやグローバル日本は「日本のない日本」でいいんだという混乱なのだ。先だってシャネルのリシャール・コラスさんがこんなことを資生堂に向けて語っていた。「日本の企業がグローバルになりたいなら、“郷に入っては郷に従え”には、しないことです。日本は世界のどこでも日本を主張するべきです」。

 その通り。日本はナショナルな「国」よりも、パトリオットな「郷」をもって世界に向かうべきなのだ。企業だけではない。政治もサッカーも歌舞伎も、そのほうがいいに決まっている。それなのに経産省はクールジャパン予算で400億円をありきたりなシナリオでばらまこうとしているし、家庭雑誌たちは今年もまた「おせち」の特集で正月をごまかそうとするだろう。

 こんなことばかり続いているのは、いけません。そろそろ足腰を鍛え、“Jかさね”の方法日本を方法日本用語で解読できるようにするべきである。今夜の千夜千冊がその一助となれば、有難い


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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