神仏交渉における神観念の変遷 ②

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3仏教的神道の展開

平安中期頃から始まった本地垂遊説は、鎌倉時代に入りますと、仏教者の側から見た神道の理解ともいうべき、仏教的神道を展開させていきます。その完成は概ね鎌倉後期ですが、すでに平安末期には後の真言神道、ならびに反本地垂迫説である伊勢神道・吉田神道に、かなりの影響を与えた「中臣祓訓解」が成立しております。

この書は真言密教の立場から「中臣祓」、すなわち「大祓詞」を解説したもので、三重県度会郡にございました伊勢神宮の荘園の一つ、吉津の御厨の仙宮神社神宮寺の院主の手になるもののようであります。久保田収氏の『中世神道の研究』によりますと、「中臣祓」を真言の陀羅尼のごとき密呪とみなし、罪障消滅・攘災招福のためには清浄が必要だと強調して、一切の妄念を断ち、神と一体になってこの祓を唱えることを求めております。また、万物の根源ともいうべき神を立てて大元尊神・虚空神などと呼び、「神は是れ天然不動の理、即ち法性の身也」といい、この本源の神が天照大神と豊受大神として現れたのだとします。そして「日ll倫は即ち天照皇太神、月輪は即ち豊受皇太神、両部二っならざる也」とも申し、2神を胎蔵界・金剛界の大日如来の垂述だと示唆するごとく見受けられます。この点は後に真言神道が明確に教説化したところでありました。また、ごく断片的ながら「惟うに吾国は神国也」としたり、「伊勢両宮は諸仏諸神の最貴(最も尊いもの)、天下の諸社と異なる者也]と申したりして、国家的自覚めいたものを見せた箇所もございました。

剛真言神道

仏教的神道の主な流れは、真言神道(別名を両部神道)と天台神道の2っであります。まず、真言神道ですが、前述の「中臣祓訓解」は鎌倉初期に伊勢神宮、特に外宮の神職度会氏に強い刺激を与えまして、伊勢神道の発生を促し、その後伊勢神道と真言神道は相互に影響し合いつつ、教説を展開させていきました。

真言神道は伊勢周辺の仏教者の間に起こり、密教思想によって神仏一体を主張しながら、伊勢の内・外両宮の鎮座と信仰を説いております。その完成は鎌倉後期で、真言宗における宇宙万物の本体たる大日如来を両宮の御祭神の本地とし、内宮は胎蔵界の大日如来、外宮は金剛界の大日如来を祀るものといたしました。この流れのうち、大和の室生寺を経て展開したものを、室町時代から御流神道(または大子流神道)と呼んでおります。伊勢からの真言神道はまた、大和の三輪山を神体山として大物主神を祀る大神神社周辺にも波及しました。三輪山の北側の麓、大御輪寺などを中心に展開した三輪流神道がそれです。目下のところ、その存在を示す最も古い史料は、叡尊の『三輪大明神縁起』でございまして、文保2年(1318年)の著作ですから、後醍醐天皇の即位された年にあたります。このグループの間では、大神の御祭神以外に、天照大神への信仰が加わりまして、伊勢三輪同体説が説かれています。その論拠は、共に大日如来の垂迫だから、剔ム交渉における神観念の変遷という点にありました。そして、三種神器に象徴される徳性(例えば鏡は正直、玉は慈悲、剣は智徳)を体認し、自分自身の持つ神|生(神的な本質)を自覚すべきことが強調されました。

真言神道の流れにはもう一つ、雲伝神道(別名を葛城神道)があります。これは時代が降りまして、江戸中期に河内の高貴寺の真言僧、飲光慈雲が創めたものであります。この人はそれまでの伊勢の内・外両宮に金胎両部の大日如来を習合せしめる教説を批判し、神道の根本は赤心(まごころ)にあり、密教と本旨は一つであって、両部の密教をもって神を祀り、善を行い徳を積むところに、人生の意義があると説きました。

(2)天台神道

続いて天台神道に移ります。天台神道には、鎌倉時代に叡山を中心に展開した山王神道と、江戸初期の山王一実神道があり、また山王神道から分かれた日蓮宗系の法華神道があります。延暦寺では時代の推移と共に、出家した人々の間で鎮守、日吉山王への信仰が篤くなり、単にこれを諸天善神とだけ見るのでなく、仏・に至りましたが、さらに進んで鎌倉初期の天台座主慈円は「菩薩の垂迫とする日吉百首」(建暦2年=1212年の成立)の中で、「まことには神ぞ仏の道しるべ述を垂るとは何故かいふ」と詠んで、垂遊といわれた神こそが逆に仏の本地なのではないかと疑問を呈しております。

細かい説明は省きますが、山王神道の教説の完成は、鎌倉末期の『山家要略記』などに見られます。それらによれば、日吉神社の中心をなす大宮(すなわち大比叡)の祭神、大物主神は、天台宗の根本経典である法華経の教主釈迦如来の垂遊で、神道の諸神の中の最高であり、この神を祀る日吉山王は天下一の名社であること。天台密教の顕密一致論の立場から、釈迦仏を本地とする日吉の大宮の祭神と、大日如来を本地とする伊勢の天照大神は同体であること。山王という文字はそれぞれ、天台の根本的な教義である三諦即一と一心三観を示唆するもので、そうした山王の神の崇敬は深い意義を持つものであること、などが説かれました。儀礼の面では山内に点在する日吉二十一社の巡拝が、回峯行をはじめとする種々の行と結びついて行われているのはご承知の通りであります。

近世に入りますと、江戸幕府の政務にも参画した天海が、山王一実神道を唱えました。日光来照宮の創立を主導した彼は、来照大権現の本地を釈迦如来、あるいはその密教的仏格であります一字金輪としたようですが、天照大神と釈迦如来は一体だという従前の山王神道を踏まえながら、同時に天照大神は神仏の元神、人皇(すなわち天皇)の元祖だと説いております。そうなりますと、この説は、反本地垂遊説、いわゆる神本仏述説の一つになっていかざるを得ません。

続いて第三番目の法華神道に入ります。天台神道からの分かれであるこの流れは、中世末期から三十番神の信仰を中核として展開したものとされます。天台宗では、慈覚大師円仁が、天長6年(829年)から3年間、叡山の横川で法華経を書き写しましたとき、毎日その日その日を守ってくれる法華経守護の十二番神を勧請したのが始まりと伝えられます。それは、子の日は伊勢、丑の日は。ハ、幡、寅は賀茂、卯は松ノ尾(:京都にあります)、辰は大原野(春日の分社で、やはり京都です)、巳は春日、午は平野にれも京都で、朝鮮半島系の神を祀る社)、未は大比叡、申は小比叡、酉は聖真子、戌は住吉、亥の日は諏訪の神でありました。

のち、白河天皇の延久5年(1073年)、叡山の良正が同じく法華経守護のため、毎日輪番の三十善神を勧請し、三十番神と呼ばれて、平安末には広く世間に普及いたしました。その神々と申しますのは、十二番神を中心にして、これに二十二社など関西の有名大社のうちの若干、ならびに日吉の末社、それから近江地方の神々を加えたものでありました。

日蓮上人は正法擁護の善神たちを信じまして、特に天照大神とハ幡大菩薩の信仰が深かったのは、この人が安房の東条の御厨、すなわち伊勢神宮の荘園の出身であり、鶴岡ハ幡宮の鎮まる鎌倉を中心に活動したからと推察されます。

そしてご承知の通り、正法が行われないときは善神たちは論法の国を捨てて去り、行われるときは日本に戻ってこの国を守るという、神天上や守護善神の信仰が説かれるわけでありますが、天台の三十番神信仰が移入されますのは鎌倉末期、京都における日蓮宗の祖、日像によって三十番神が勧請されたことに始よるといわれます。この信仰は室町初頭頃までに関東の日蓮宗信者にも伝わり、やがて教団全体に広がってゆきますが、その中心地は何といっても京都でありまして、番神堂も建てられ、室町時代頃の起請文には盛んに三十番神の名が登場してまいります。

4自主的神道説の発生

以上は極めて牲佀ながら、真言系・天台系の本地垂遊説と、それに関連する神信仰の一端ですが、こうした営みの刺激や影響のもとに、鎌倉初期から神社の内部に、利1職などによる神道のための教説が発生し始めました。自然発生的な民族宗教である神道にも、古代からもちろん、それなりの宗教意識や儀礼は存在し続けますが、信仰内容の理論化・体系化は、儒教・道教・仏教などの影響を受けて、ようやくこの時代から試みられてゆくわけであります。時間の制約がありますからごく簡単にいたしますが、その第一は伊勢神道でした。

(1)伊勢神道

伊勢神道は伊勢神宮の外宮の神職、度会氏を中心に、鎌倉初期から始まりました。そこでは日本神話や神宮の古伝承を基礎に、「中臣祓訓解」などの影響も受けながら、後世の学者から『神道五部書』と呼ばれる5種類の書物を含む、多くの著作を生み、鎌倉後期には体系化を完了させております。その背景には、高僧たちの神々や伊勢神宮への崇敬、社会変革による神宮経済の不安定と大神宮信仰の発展、元寇後の神国意識の高揚などが指摘されます。

伊勢神道を貫く教説として、第一に挙げられるべきものは、一元的本体ともいえる根源的な神の登場であります。『五部書』においては、これを『日本書紀』の冒頭の言葉を借りて、“渾沌”と名づけ、虚空神・大元神・国常立尊とも呼び、鎌倉後期の度会家行け機前 ”とも言い換えております。内宮・外宮の御祭神はこの本源神の顕れだとするのですから、これは明らかに真言神道、ことに「中臣祓訓解」の影響といわざるを得ません。関連して、中世に度会系の神職たちが、外宮の神学的地位の向上を計った論拠も、このあたりにありました。

第二のポイントは、本地垂迫説に対抗する神本仏述説の出現です。それは『五部書』の中では、神代の頃は人々は正直だったが、次第に人心が悪化したので、神に代わって仏が教えを垂れるようになったのだといい、仏の活動の奥に神が存在し、神が本体で仏はその働きであるとして、仏の背後に神の権威を説くことがなされました。

第三のポイン1ヽは清浄、すなわち古神道当時から重要視されました清めと清らかさの強調であります。特に伊勢神道では、これを “外清浄 ”(肉体の清め)どʻ内清浄”(内心の清め)に分け、神に近づくための要件としました。第四番目は、神と一体になり、そのお蔭を頂く方法としての “正直 ”ど祈り ”です。

中世の“正直”という言葉は、「正しき直きべヽ」・「明き浄き直き誠の心」・「まごころ」のことであります。『五部書』のうち、3種類ほどの書物には、有名な「神は垂るるに祈祷を以て先となし、冥は加うるに正直を以て本となす」という語加見えます。神の恵みを頂くには何よりもまず祈りが大切であるし、神の御加護を受けるには正直(まごころ)が根本的な条件である、という意味でございましょうが、現代にも立派に通用することではないかと思われます。

(2)吉田神道

この伊勢神道に続いて、室町時代の中期(15世紀後半)になりますと、京都の吉田神社でト部兼倶け435~1511年バこより吉田神道が大成されました。兼倶は家代々の学問に、伊勢神道・真言哲学・道教などを融合させておりますが、注目され・?ミ、点は、およそ次の通りであります。

第一は伊勢神道と同様、万物の根源神として太元尊神を立て、これを『日本書紀』に出てまいります最初の神、国常立尊のことだと申します。そしてこの神は無量無辺、無始無終の存在で、天地の間においては神社などに祀られる神々となり、万物においては霊(御霊ですね)、人間にあっては心となって現れると説いております。第二ぱ道 ”に関する論議です。世の中に存在する法則・法律・規範のような“道”は、すべて第一の根本神格からの派生であるとしながら、その中でたった一つ正しいのは自分の家に伝わる吉田神道なのだというのであります。関連して世に「三教枝葉花実根本説」といわれたものは、神・儒・仏の三つの教えは結局は一つなのであるけれども、これを1本の木に讐えるならば、枝や葉にあたるものは儒教、花や実に相当するものは仏教、幹や根にあたるのは神道であるとして、神本仏述が説かれました。第三は人間観になります。人は、形(すなわち肉体)は天地と同根で、死ねば土や空気に帰りますが、心は浄化されれば神明の舎(宿る場所)となる。我々にとっての理想は、心身浄化の修行の末、自分の心には神が宿っているという確信を得、毎日その神を祀りながら生きる、神秘主義的境地への到達にあるといたしました。吉田神道は現実の宗教活動の場では天照大神の信仰を強調し、神職養成にも努めて、江戸時代には神仏習合に関係のない神社の神職の大半を支配いたしました。

5儒家神道

ご承知の通り近世前期には、朱子学系・陽明学系など儒教の興隆が著しく、儒学者たちは仏教にかなり批判的でありました半面、神道に対しては好意的で、多くの神道研究書を書き、盛んに神儒一致を説きました。ここでは、いわゆる儒家神道のうち、その主流となった朱子学系の吉川神道と垂加神道につき、ごく簡単に申し上げます。

吉川神道の開祖、吉川匪足(1616~1694年)は、初め商業に従事いたしましたが、朱子学や和歌などの研究から次第に神道研究に転じまして、京都で吉田神道の奥義を究めました。その教説は武士や大名の間に多く行われ、祭祀や行法よりも、天下を治める道としての政治哲学に力点が置かれました。そこでは朱子学における究極の実在たる太極を国常立尊と同一視し、根源的な神と見なしている点が注目されます。人は生まれつき、心に国常立尊の理(万物の根元)を宿しているけれど、同時に持っている気(形而下的で冊l生を与えるもの)が浄化されなければ、欲望に妨げられて神の明智が発揮できない。そのため、本来の人間に帰るには修養に努め、心身の清めと祈りを通じて神との通交を計る必要がある、と説きます。国家統治の場におきましては、三種の神器に象徴される帝王の道は仁(思いやりの心)が中心であるとし、国民のあるべき姿として、皇室の擁護と忠を最高とする道徳が説かれました。

垂加神道の祖、山崎闇斎(1618~1682年)は、初め仏門に入り、25歳のとき還俗して朱子学と神道の研究にいそしみ、全国に数千人の門人を得ました。中年には吉川惟足を通して吉田神道を深く学び、別に伊勢神道にも精通いたしました。その教説は惟足の教えを更に展開させたものでして、牽強付会もありましたが、敬伲な態度で敬・まごころ・祈りなどを強調し、幕末の倒幕運動の一源流となりました。

6復古神道

近世後期の復古神道の大成者、本居宣長(1730~1801年)の教えは、現代神道においても多くの支持者を持っております。宣長は儒仏思想と結合したそれまでの神道説を批判いたしまして、日本古典の文献学的研究を通じて知り得られる、古神道の精神に帰るべきことを説きました。古代から信仰的には持続されながら、その名が忘れ去られていた産霊”の語を、神学の場に登場せしめたのは彼でした。中世以来の神道説に重視され続けた天照大神は、日本神話の中核をなす皇祖神として、新たな意味付けを得ました。物事は神々の意志により展開するものであり、すべてを神々に任せて、各自の職分を通じ、現世でなしうる努力をするところに、人生の道があるとしております。

その門人平田篤胤(1776~1843年)は、宣長説を多く祖述いたしましたが、中国で明代にゼスイット派のマテオ・リッチやジュリオ・アレーニ(ともにイタリア人)などが漢文で書いた布教書を読み、カトリック神学の影響も受けました。

神観念についていえば、『古事記』の冒頭に表れる天御中主神を万物の造り主とし、これに続く高皇産霊・神皇産霊の二神と合わせまして、三神一体的な造化神とするのは、キリスト教の三位一体説からの着想といわざるを得ません。これとは別に、篤胤の説いた来世観や祖先崇拝は、以後の神道に大きく影響いたしました。しかし、その造化神観は、中・近世の他の諸神道説に見られる根源的な神の場合と同様、多神教的な神道の伝統の中では、力を得ることはできませんでした。終戦後、神社本庁が、「特定の一神が一切の神の本質を併呑するが如き教義は、除外されること」という方針を発表しておりますのは、その一例であります。

明治維新を迎え、新政府は明治元年3月、神仏分離を命じました。これを現在、あたかも仏教の弾圧であるかの如く曲解する人がありますが、命令の対象はあくまでも神社なのでして、神社の中にあった仏教的要素を外に出し、神社を神仏習合以前の姿に戻すことが目的でありました。ただ、天領など一部の土地で、民衆運動たる“廃仏毀釈”に走る者がありましたので、同年4月、政府はこれを戒め、神仏分離の実施は慎重にと命じ、さらに同じく6月には、浄土真宗各派に、神仏分離ぱ廃仏毀釈 ”ではない旨の通達を出しております。また、寺院が対象ではありませんでしたから、寺院に鎮守の神を祀る伝統は今も続いておりますし、本地垂迫説け明治5年になっても、一部の寺院では説かれていたのでありました。

さて、神仏交渉を媒介として起こった神観念の変化は、既述のように種々の教説を生み出ました。その理論的展開のピークは中世でありましょうが、近世前期になりましても古川神道・垂加神道は、かなり伊勢・吉田両神道の影響を受けており、さらにその背後には仏教的神道の存在があることは言うまでもありません。そうしたあり方を批判しつつ、方法論の面でも業績の面でも、神道の教学的展開は、復古神道からようやく完全自立の道を歩み始めているわけであります。

7時代を超えて一貫する神信仰の特質

ただ、学者や文化人などは別として、神道の一般信仰者たちがこれまでの諸神道説にどこまで感化されたかと申しますと、明治初期から昭和20年に至るまでの復古神道の教育以外は、あまり見るべきものはなかったように思われます。

むしろ現実の信仰は、地域社会や家庭におけるライフ・オリエンテーションや、種々の祭・清め・j杏忌・年中行事などを通じて保たれてまいりました。そうした中で古代から、時代を超えて現代まで持続している神信仰の特質を挙げるならば、次のようなものがあると考えられます。

ほとんど項目だけにいたしますが、第一は多神教的で人格神的な神観念です。第二は神の恵み・働きとしての生命力や生産力の信仰です。第三は清らかさと清めの強調です。第四は皇室の尊重と天照大神の重視です。古代における統一国家の形成以来、皇室は神道と深ぃつながりを保ち、皇祖天照大神は日本神話の中核をなすだけでなく、現実の神道信仰や儀礼の中で、最大の敬意を受けてまいりました。第五はグループの守り神の信仰です。神道は1個の宗教として、個人と家庭の人間問題の解決や、人生の意味の探求に関わると同時に、同族団

のような血縁集団や、国家や地域社会といった地縁集団、あるいは種々の職業集団の守り神の信仰を、今も持ち伝えております。第六は現世中心的な生活態度です。このことは来世の信仰を否定するものではありません。神道は古代から、この現世こそ理想が達成されるべき価値ある場と考え、世の中には最初から完全なものはないけれども、人々の努力により次第に良くなるもの、良くしていくべきもの、神々もそうした営みを、守り給うと信じております。この現世中心的な思考は、民俗学を通じて見られます平均的日本人の、死後は霊的な

世界から、この世の発展と子孫の幸子を見守ろうとする願いと、深いところでつながっているように思われるのであります。どうも、ご清聴ありがとうございました。

◆この講演録は、第2回学術研究大会(平成13年11月17日)の内容の筆録をもとに

平井先生より加筆して頂いたものです。

参考文献

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村上修一著『神仏習合と日本文化』弘文堂、昭和17年。

村上修一著『本地垂述』吉川弘文館、昭和49年。

堀一郎著『宗教・習俗の生活規制』(「神仏習合に関する一考察」)未来社、昭和43年。

原田敏明著『日本宗教交渉史論』中央公論社、昭和麗年初版。

久保田収著『中世神道の研究』神道史学会、昭和34年。

久保田収著『神道史の研究』(「社寺における神仏関係」ほか)皇學館大學出版部、昭

和48年。

岩橋小弥太著『神道史叢説』(「法華神道」・「浄土教神道」など)吉川弘文館、昭和46

年。

國學院大學日本文化研究所編『神道事典』弘文堂、平成6年。

金岡秀友・柳川啓一監修『イム教文化事典』佼成出版社、平成元年。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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