神仏交渉における神観念の変遷 ①

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1古神道の神信仰

2仏教の伝来と神仏習合の三段階

3仏教的神道の展開

4自主的神道説の発生

5儒家神道

6復古神道

7時代を超えて一貫する神信仰の特質

平井直房

本日はこのような晴れがましい場で講演の機会を与えられ、誠に光栄に存じます。

只今からの私の話の内容は、日本人の古い神観念はいかなるものであり、それが外来の思想や信仰、特に仏教との接触・交渉の間に、どのような理解や宗教的実践を生み出しつつ変化したか、また、それにもかかわらず古代から現代まで、神道の歴史を一貫して変わらない信仰内容はどんなことであるかを、時間の許す限り概観しようとするものです。

1古神道の神信仰

はじめに、古神道の時代ですが、ここに古神道と申しますのは有史以前から、およそ西暦8世紀の前半まで、仏教の影響がまだあまり顕著でなかった頃の神道のことです。

日本人は、周囲民族の複合体といわれ、日本の神話や信仰には部分的に周囲民族のそれと類似のものも見られますが、有史以前のこの国の宗教はまだあまり明らかになってはおりません。ただ、最近の考古学は、すでに縄文式文化の時代における稲作の開始を立証しておりますので、弥生式文化の頃ともなりますと、農耕儀礼の存在が推察されます。また私は、古代日本の小国家群が、皇室の祖先を中心に統合されますのは、4世紀後期の大陸側の金石文その他から見まして、4世紀中期より以前のことであり、それに伴って何ほどか、後世の国家儀礼の原型となった祭も、展開を始めたのではないかと推察しております。

神仏交渉における神観念の変遷

しかしながら、申すまでもなく、古神道における神観念の実態がある程度判明いたしますのは、ご承知の、奈良時代の『古事記』(712年>『日本書紀』(720年)をはじめとする神道古典の出現によってであります。それらによれば、霊的な存在を示す言葉には、タマ・モノ・チ・ミなどもございますが、代表的な言い方はもちろんカミでした。本居宣長は、カミの語源や意味についての先学の諸説に全く賛同できませんで、多年にわたり、実証的に考察を続けましたが、自らの新しい説の提示はついに断念し、ただ古代国語でカミと呼ばれたものの内容を解説するに止まっています。その要点は、カミとは「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏き物」ということでした。すなわちそれは、人間に対して威力を振るい、人々の畏怖または畏敬の対象となる、神秘で超自然的な存在だということでした。そうしたカミの中には、身近な家の神や民間信仰の対象もありましたが、国民統合の中心となった皇室や大氏族の祀る神々も含まれておりました。

すぐれた神道史学者であった宮地直一氏や村岡典嗣氏によりますと、古神道における神々には大きく自然神・人回神・観念神の3種類が見られると申します。自然神とは、自然物や自然現象に宿り、これを支配する神で、大山津見神・綿津見神などがこれに入りましょう。人間神というのは、英雄・長上・偉人などを没後に神と崇めたもので、日本武尊や大国主神などがこれに入るのではないかと思われます。観念神とは話に出てまいります腕力の強い本神話のみならず平安初期の『あめのいわと的な力や観念を司る神で、天岩戸開きの神おのかみおもいかねのかみや、智能に優れた思兼神、あるいは日などに頻出いたします産霊(すなわち物事が生まれ育つことの背後に働く神秘な霊力)の神などがこれに属するといえるでしょう。ただ、これを別の視白ミから見ますと、最も重要な神は、当時の社会生活の単位でございました氏族の守り神、すなわち氏神でありました。

氏神には前述の3種類の神のどれかが選ばれ、その中には意外に多くの産霊神なども含まれていました。そして、時代が降るに従いまして、元は必ずしも血縁的でなかった氏神まで、祖神と仰がれるようになる傾向も生じてまいります。氏神祭は一般に年2回、春は旧暦2月または4月、秋は11月に、氏族の統率者たる氏ノ上を責任者として行われ、氏人たちは神との共同飲食を通じて、守り神の恵みや生命力をわが身に頂くのでした。

これより先、国家的統一が進行する中で、有力な諸氏族の守り神が氏神としての機能を保ちつつ、同時に国の守り神に編入されていきました。後世の学者たちが神祇制度と呼ぶものがこれにあたります。神々には毎年国から、国民と国家の平和や繁栄を祈って捧げ物が供えられ、祭が行われました。この制度の存在は、大化の改新(645年)頃からとされますが、服属した地方豪族たちに中央政権の神々の信仰が強制されるようなことはなく、逆に地方豪族たちの神々が国から祭られ、手厚く待遇されて国民の統合に寄与している点、いかにも日本的なあり方として注目されます。

2仏教の伝来と神仏習合の三段階

仏教の日本伝来は、プライベートな形では5世紀頃から、大陸からの帰化人によって始まる様子でありますが、公的な伝来についてはご承知の通り552年と538年の2説があり、現在、仏教史学者の間では後者のほうが定説であると伺っております。そして、その受入れをめぐって、物部・中臣の両氏と、蘇我氏との間の対立が伝えられますが、やがて仏教は、蘇我氏による物部氏の滅亡などを経て都で行われ、推古天皇の12年、「憲法十七条」に「篤く三宝を敬え」とありますように、皇室の保護下に次第に各地で興隆の道を歩むことになります。

ただ注目しておきたいのは、それから3年後の15年2月の詔勅に、国家行事としての神まつりの厳修が強調されております。これもまた、摂政であった聖徳太子の指導によるもので、聖徳太子は決して仏教だけの保護者ではなく、神仏の共存を早い時期から計られていたと、解することができるかと思います。

続いて、神仏習合に入ります。神道と仏教の折衷・混合ともいうべき神仏習合は、8世紀前期頃から顕在化の途を歩みます。仏教の公伝から約200年、各地に氏族その他により寺院が建立され、優美な仏像や荘厳な儀礼、仏具や堂塔建築の芸術性などに心を奪われていた人々の間に、少しずつ仏教の教説も浸透し始めました。殊に天武天皇の頃から仏教儀礼は国の行事として盛んになり、官寺制が整備され、鎮護国家の精神的支柱の一っともなるに及んで、古くから社会的に広く行われておりました神道の神々を、いかに理解し、またそれに対応するかということが、仏教者たちの間で試みられてまいります。

(1)“神々の解脱”

神仏習合には、およそ3つほどの段階が指摘されるようであります。その第一は8世紀の前期に始まり、後期にかけてでありまして、神社の境内かその近くに、神々の修行のため寺を建て、神前で読経することが行われました。この段階を仮に “神々の解脱 ”と呼ぶことにします。その背景にはどなたもご存知の、仏教における「存在の十種(十界)」がありました。

申すまでもなく、仏教はインド人の厭世観を踏まえ、死後もこの世に生まれ変わって苦しみを繰り返すという輪廻転生の悪循環から脱却するため、解脱を説いたわけでありますが、いわゆる「存在の十種(ないし十界)」は高楠順次郎氏によれば、それぞれ人の心の状態をいうもののようでございまして、仏・菩薩・縁覚・声聞はすでに悟りを開いた存在でありますけれども、天以下の六道は迷いの世界です。その最上位の天(すなわちDeva)には、インドや中国においては、仏教の守り神とされたバラモン教や道教の神々があてられてまいりました。そうした大陸における仏教守護神の伝統を受けまして、8世紀前期頃わが国の僧侶たちは、神社に祀られる神々は天なのだと考え、今は宿業により神々の位置にあるけれども、輪廻の苦しみから逃れようとして名二悩が甚だしいという神託があった、と説きました。そこで神々の解脱を助けるため、特別な神社には神宮寺・神願寺など呼ばれる寺を建て、神前で読経することが行われました。

神宮寺造営の早い例として、辻善之助氏は文武天皇2年(698年)に「多気太神宮寺を度合郡に遷す」という『続口本紀』の記事に注目しました。多気太神宮とは伊勢神宮の外宮(そこには豊受大神が祀られております)の古い名称ですが、この記事は明治30年、経済雑誌社版『国史大系』の頭注に出ていた文言で、豊宮崎文庫本にだけ見えるものですが、寺という字が誤写であった可能性が高く、現在の新訂増補『国史大系』では除外されております。従って7世紀末に伊勢神宮に神宮寺があったという説は、少々無理のように思われます。しかし「藤原武智麻呂伝」は霊亀元年(715年)の気比神宮寺の建立を伝え、『類

聚国史』は養老年間(717~24年)の若狭比古神社神宮寺の出来を記し、『続日本紀』は天平13年(741年)に政府が奉斎のため、宇佐ハ幡宮に三重塔その他を捧げたと述べております。こうした神宮寺はその後も大きな神社に出現いたしますが、神宮寺の有無にかかわらず神前読経の確かな記録ということになりますと、『類聚国史』に見える延暦13年(794年)3月の記事あたりが初見かと思われ、九州の宇佐八幡宮・宗像神社・阿蘇神社の3社において、都から派遣された僧官によりこれが行われております。

(2)“護法の神”

続いて第二の段階に移ります。第1期と重なる8世紀の、中頃から神道の神は仏法を守ってくれるという信仰が、はっきり見られるようになりました。このことを仮に “護法の神 ”と呼ばせていただきます。こうした信仰の素地は、日本人と仏教の双方にありました。

日本人は古くから氏族の氏神だけでなく、住む土地の神を産土神として祀ってまいりました。また、島国文化の常として、外来のものの受入れに熱心で、それについての精神的抵抗は少なく、仏教伝来に際しては仏を神の一種と考え、蕃神(『欽明紀』13年)とか他国ノ神(『元興寺縁起』)などと呼んだほどでした。仏教も身近に存在する宗教には極めておおらかでございまして、インドでは梵天・帝釈天など多くのバラモン教の神々を、仏法の守護神として抱え込んでまいりました。中国に入れば、例えば天台宗のように、その僧院が展開した天台山に祀られる道教の神、山王元弼真君を教団の守り神とし、やがて平安初期に最澄が比叡山延暦寺を開きますと、ずっと前から山の東の麓、大津に祀られていた日吉神社の神々を守護神とし、中国にならって日吉山王などと呼ぶよ引こなります。こうした護法の神の、わが国における早い確かな例は、東大寺八幡宮(すなわち現在の手向山神社)であります。この社は天平勝宝元年(749年)、奈良の大仏鋳造を守護するため大分県の宇佐から勧請されて東大寺の鎮守となり、今も深い関係を保ちながら、地域社会の氏神を兼ねております。寺院が守り神を持つことは、これと前後して法隆寺は創建以前から近くにありました竜田神社を、興福寺は春日神社を鎮守とするなど、広く全国各地に行われ、時には境内に鎮守の祠を祀ったりして、現在に至っております。

(3)本地垂述

神仏習合の第三段階は「本地垂述」と呼ばれ、8世紀の末頃から神を仏の仮の姿だとすることが始まりました。イムが神の本体(すなわち本地)であり、神は仏が衆生界に現れた姿(垂迫)だとしたものであります。関連して権現という言葉は、ご承知のように権の現れという意味で、白山権現・熊野権現などは本地垂遊説に基づく神号として、10世紀の前期には現れていたといわれます。

この段階での現象としては、神に菩薩号を奉り、神社に僧形の神像や本地仏を祀り、やがては本地垂述説という教説が説かれるようになります。神に菩薩号をつける早い例としては、伊勢の「多度神宮寺伽藍縁起資t廿帳」に僧満願が天平宝字7年(763年)、神託により多度神社に小さなお堂と神像を作り、多度大菩薩と号したとありますが、この「資財帳」の作成は延暦20年(801年)でありますので、それより40年近くも前に果たして菩薩の神号が使われたか、私川まいささか疑問に思われます。;神に対する菩薩号の確かな初見は、やはり辻善之助氏のいわれるように、官撰の書である『扶桑略記』の延暦2年(783年)5月の記事かと思われ、宇佐のハ幡大菩薩を「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と記しています。これに次ぐものとしては、『新抄格勅符抄』の延暦17年(798年)12月の太政官符に「ハ幡大菩薩」とあるのが挙げられるでありましょう。

神社の御神体は古来、鏡づ卜玉などが多く使われますが、8世紀末頃から仏像の影響を受けて、神像が本殿に祀られることが多少は行われました。神像は最初、菩薩像の形で始まり、やがて出家僧の姿のものが現れ、さらに松尾神社や熊野速玉神社のものに見られますように、男性の神は衣冠をつけた礼装の貴族の姿、女神も上代の貴婦人の和装で、十二単のものも出てまいります。特に平安後期には華麗な王朝風の色彩を反映したものが作られますが、鎌倉以降は振るわなくなりました。現存する最古の神像は、奈良薬師寺の僧形八幡・神功皇后・姫神の三体でありまして、平安初期のものといわれます。神社の本殿にはまた、通常の御神体の有無にかかわらず、本地イムの像を祀ることも行われました。ただ寺院の場合と違い、神社の本殿内は、昔から非公開でございますので、神像や本地仏は原則として、直接礼拝の対象とはなりませんでした。

神仏関係を示す本地垂述説の出現と展開につきましては、辻善之助氏に次のような「川央な解説があります。

一。本地垂述説は平安中期に入って漸くその説が形成せられ始めた。但し当時にはまだ漠然たる考であって、た辨中祇は仏の化現なりといふに過ぎぬ。

一。平安末期に入るに及んで、何々の神の本地は何々の仏であると、漸く定められるやうになった。

ただ、これによりますと、この説の出現は平安中期からとありますが、現在は『三代実録』に、平安前期の貞観元年(859年)、延暦寺の僧恵亮が賀茂・春日両社への度者を申請した上表文に、大士(すなわち菩薩)の垂泣か「或いは王、或いは神」であると述べていることが知られております。

そして、これに続く用例は、やはり平安中期になるようでありまして、承平7年(937年)の「太宰府牒」に見える「彼の宮此の宮其の地異なりと雖も、権現菩薩の垂述猶同じ」になります。これは伝教大師の発願で全国6ケ所に塔を建て、法華経1000部ずつを写経したのですが、1ケ所だけ宇佐の弥勒寺の分か、まだ終わっていなかった。そこで僧兼祐が加7崎の神宮寺でこれをやってよろしいか願い出て、許されたのです。その理由といたしましては、宇佐市の宇佐ハ幡宮と福岡市の筥丿崎宮は場所が違うけれども、権現であり菩薩の垂泣である点は同じなのだ、とするところにあったのでした。

ところが、平安後期に入りますと、例えば大江匡房(1041~1111年)の『続本朝往生伝』の真縁上人の条になりますと、ハ幡の神に関して、生身の仏はハ幡大菩薩、その本覚は西方無量寿如来(すなわち阿弥陀仏)であるとしております。また同じ匡房の『江談抄』によれば、熊野三所権現は伊勢大神宮であり、大神宮は救世観音の変身なのだ、とするのであります。「春日大明神本地注進」という資料は12世紀にこの社の御祭神の本地を注進したものですが、第一殿の武伫槌神は不空絹索観音、第二殿の斎主命は薬師如来、第三殿の天児屋根命は地蔵菩薩、第四殿の姫神は十一面観音、若宮は文殊菩薩の垂迫であるとしております。同じ12世紀の『梁塵秘抄』には、複合的な日吉二十一社のうち、例えば山王三所と呼ばれる大宮(大比叡と呼ばれて、御祭神は大物主神すなわち大国主神)の本地は釈迦如来、二の宮これは小比叡と呼ばれ、御祭神は大山咋神)の本地は薬師如来、聖笑子(宇佐。ノ八幡の神)は阿弥陀如来だと述べております。

このような神と仏の対応関係は全国的に行われ、神社によっては本地としての仏・菩薩の名が、時代ごとにかなり恣意的に変わる例もございました。また、山岳信仰系の神社をけじめ、各地の有力神社の中には、僧侶が実権を握りまして、別当・社僧などと呼ばれて、祭や日常の管理運営まで支配したところも多く、その状態は明治元年3月の神仏分離まで続きました。


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