https://moon.ap.teacup.com/isuzu/49.html 【9.至高の和歌・連歌 俳句】 より
仏法を修行して、まことの仏の教えを探り求めたり、歌道を一心に精進努力して、その奥義をきわめるにしても、どのような形をまことの仏、どういう風体を至極の和歌・連歌と決めてよいのか、はっきり判らないのですが……。
この世のすべての存在には、きまった姿や形というものはない。
ただ折々の時節により、あるいは、さまざまな縁の働きかけに応じて、立ち現れた心が徳、すなわち、姿なき真の姿、声なき真の声を明らかにして、真実の智慧を得させるだけなのである。
つまり、天地が森羅万象を現し、法身の如来が、思いのままに無限の形相に変化を現すような、縁起自在の境地である。その境地が縁に従い、さまざまな形として現れるのである。これを等流身(とうるしん)の仏とも言う。
その法身仏にしても等流身の如来にしても、きまった形などまったくない。
ただ、一ヶ所に留まることなく、行雲流水の境地に立つ作者だけが、真理を体現しつつ変化続ける存在を、正しく見通すことが出来るのである。
古人が「いかなるが、これ、仏」と問うたところ、僧は「庭前の栢樹子」と答えた。そのわけを弟子に尋ねると、「師は何もおっしゃらなかった。どうぞ悪しからず」と言った。
森羅万象即法身 是故我礼一切塵
(宇宙に存在するあらゆるもの一切は、即ち、法身仏そのものである)
(だから自分は、取るに足りない塵のようなものでも、仏として崇め奉る)
仏教でも、智門の目標は、菩提を望み求めるので高く、悲門の目標は、衆生を救おうと志すので低いのが妙理である。
歌道においても、ただ単に歌を作るだけの、悲門に属する作者がいる。念仏のみにすがる、念仏宗徒のようなものであろう。無知愚鈍の輩が、学問修行の苦行を忘れ、ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えて信仰する類である。
智門に属する歌人は、天台止観などを実践する、修行者に当たるであろう。
悲門の、低級で愚鈍な教えといえども、仏法の真実である点では、智門となんら変わりはない。
たとえて言えば、寒い夜に、綾錦のりっぱな着物を着ても、また、粗末な麻の綴れや、紙の衾を重ねても、寝入った後はどちらも同じである。
かたよらず、こだわらず、とらわれない、人間本来持っている純粋な心は、それ自身清浄であり、一切空無の涅槃真如の境地に等しい。
西方浄土無為楽 畢竟逍遥離有無
(西方の極楽浄土には、寂静無為の楽しみがあり)
(そこに心を遊ばせ、悩みや迷いから解き放たれる)
さまざまの、対象をめぐる分別や対象にとらわれた誤った想念が、心に波風を立ち騒がせるのは、第八識の世界までのことである。
十識の真心に到達してこそ、善悪の判断に惑わされない不動の心が得られるのだ。
この世の現象は、塵芥にまみれた人間のなせる業と、神仏の通力のなせる業であると見抜く叡智を起こし、幻化にとらわれていた妄染から次第に離れることによって、ついには対象へのとらわれがなくなり、主客の相対も超越され、一体となった主客がただ真実として存在するようになるという。
平等無差別の仏の慈悲心で、空の境地に向かって働きかけるのみ。
夢幻のこの世の現実の是非は、ことごとく非である。開悟寸前の者の有無の判断は、つまるところ無である、と。
有為報仏夢中権果 無作三身覚前実仏
(さまざまな因縁により生じた報身仏は、夢幻に生じた仮初めの因)
(不生不滅の存在である三身仏は、開悟直前の実仏)
(「ささめごと」・至極の歌連歌)
「どのような形をまことの仏、どういう風体を至極の和歌・連歌というのか」という問いに対し、心敬は、「この世のすべての存在には、きまった姿や形はない」と答えております。般若心経で有名な「色即是空 空即是色」の、あの「空」である、と言うのです。
「空」は、からっぽということではありません。私たちの身の周りの一切のものが、縁という、細い細い糸をたどり、偶然を重ねて、われわれのところにやってくる、ということです。すべてのものは実体を持たず、「空」ですけれども、それは縁をつむぐ「空」でもあるのです。
人を喜ばすものも、悩ませるものも、人を取り巻く一切のものは「空」なのです。
奈良・薬師寺の前管長、故高田好胤師は、
「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、広く、ひろく、もっと広く、これが般若心経‘空’の心なり」と、説いておられます。
かたよったり、こだわったり、とらわれたりしているうちは、「まことの仏、至極の和歌・連歌」は、わからない、と心敬は言っているのです。
水は、行く手を阻む大きな岩があっても、なんなく流れていきます。こだわりなく、とらわれることなく海に向かって……。
水にきまった形はありません。丸いものに入れられれば丸く収まり、四角いものに入れられれば四角に収まりますが、固まったわけではありません。
大空に浮かぶ雲も、きまった形などありません。形を変え、姿を変え、一ヶ所に留まることなく、自由にどこまでも流れて行きます。
このように自由で、なにものにも束縛されないことを、「行雲流水」といいます。
心敬は、行雲流水の境地に立つ作者だけが、物事を正しく見通すことが出来る、と言うのです。「庭前の栢樹子」は、庭さきにある栢の木、という意味ですが、有名な禅問答のひとつです。仏法の究極を尋ねる僧に、趙州(じょうしゅう)和尚が、「庭前の栢樹子」と答えたのです。
趙州和尚の意図はどこにあるのでしょうか。
メーテルリンクの『青い鳥』と同じように、崇高なるものを自己の外に求めようとする態度そのものを否定し、日々の生活における知覚そのものが、《仏法の究極》であることに気づかせるところにあるのだと思います。
けれども、心敬の意図は、すこし違うようです。
「庭前の栢樹子」のすぐあとに、、「森羅万象即法身 是故我礼一切塵」とありますので、「庭先の栢の木も仏、お前さんも仏。この世に存在するものすべてが仏。つまり、仏というきまった形はないのだ」と言いたいのでしょう。
仏門に、智門と悲門の二つがあるといいます。
智門は、自ら悟りに至ろうとする自力門を指し、他力門である悲門と対になる仏教語です。
歌道においても、ただ歌を詠むことが目的の歌詠と、学問修行を重んじる歌詠とが、他力の念仏門と、自力の観心門とに配されています。
心敬は、和歌を詠むことを、勘案と単なる詠吟とに分け、これを観心と口ずさみとに理解し、はやよみの傾向を批判する中で、観心なき詠吟を念仏に相当させながら排斥しています。
つまり、心敬にとって和歌・連歌は観心修行(自己の心を観察することによって心を練磨し、真理に到達しようとする観法)そのものであり、その中で、理想の境地を悟りの境地に見出すと同時に、その境地から生まれる和歌・連歌を、綺語(きご=巧みに飾って美しく表現したことば)ではない真言としてとらえていたのです。
さらに心敬は、究極の心と歌との関係を明確に述べます。
「さまざまの、対象をめぐる分別や対象にとらわれた誤った想念が、心に波風を立ち騒がせるのは、第八識の世界までのことである。十識の真心に到達してこそ、善悪の判断に惑わされない不動の心が得られるのだ」と。
八識というのは、具体的な個物を直感的に知覚する五種の感覚機能(眼・耳・鼻・舌・身の五識)、五識に伴ってはたらき、五識の知覚した内容を概念化して判断を下し、また五識から独立してはたらいて、さまざまな思考をめぐらす(意識)、無意識的な自我執着心である(末那識・まなしき)、自己の心や肉体、さらには自然界を生み出す根元的な心である(阿頼耶識・あらやしき)の八つをいいます。
この八識までの心の状態でいるから、是非妄想が起こり、安心立命(あんじんりゅうめい=心を安らかにし身を天命に任せ、どんな場合にも動じないこと)の世界に入れないのです。修行を重ねて、心を十識まで高めれば、不動の心、つまり安心立命の世界に遊ぶことが出来る、というのです。
心敬は第九識については触れていません。けれども、第八識と第十識の間に第九識が置かれていることは、「十識の真心に到達してこそ」とあるので、明らかです。
心敬は、煩悩を離れた自性清浄心(九識)を本来的な心と考え、その真如としての面を究極の到達点(十識)として希求する立場であると考えられます。
それでは、妄動する八識から不動の十識の真心に至るには、具体的にどうすればよいのでしょうか。
わかりやすく言えば、つぎのようなことだと思います。
禅語に「両忘」ということばがあります。
人は何かにつけ、良いとか悪いとか判断をします。判断しようとするから、悩み、迷います。
苦楽を忘れる。貧富を忘れる。生死を忘れる。このような二元的な考え方から抜け出せ、というのが「両忘」の教えだと思います。
禅僧が言います。
「生きているときに、死んだらどうしようなどと、くよくよ考えるな。生きることに徹せよ。さすれば、死を忘れることが出来る。さらに、死ぬことも生きていることも、両方とも忘れると、心に静寂が得られる」
さまざまな物事を対立させて見ていると、迷いに惑わされ、高い次元の絶対の境地に到達できません。
自他、左右、是非、善悪などというのは、われわれがが勝手に作った判断基準です。
全宇宙に自他も左右もなく、是非、善悪もありません。
末那識から脱却すれば、純粋な自分の心が見えてきます。
末那識から次第に離れることにより、ついには対象への執われがなくなります。執われがなくなれば、主客の相対も超越されます。
そして、もはや一体となった主客が、真実として存在する。それは「無縁慈悲心」であり、「無相の境」であります。また、「無差別平等の境」でもあります。
心敬は、明らかに心の清浄を目指しています。虚飾のない清らかな心を、すべてに優先する根源的なものとして据えています。
本来的な真心、すなわち自性清浄心を観心修行の行程において求めるのと一致します。
主体の澄みきった静かな心で、自然の景物に対峙することを志向していたのです。
究極において、詠作は観照でなければならないのです。
湧き水のように澄みきった心で、万象が無常であると観て、無常であるがゆえに「あはれ」と観えてくるような境地で、仏眼をもって自然を凝視し、対象と一体となり、対象になりきれたときに、思わずこぼれることば、これが「至高の俳句」だと思います。
山ふかし心におつる秋の水 心 敬
https://www.kadokawa.co.jp/product/200705000162/ 【神と仏の出逢う国 著者 鎌田 東二】 より
神は在るモノ、仏は成る者。
山川草木・花鳥風月の森羅万象に祈りを捧げる日本独自の神仏観は、いかにして形成されたのか? 日本文化の底流を成す神仏習合の歴史を見直し、不安に満ちた現代社会において日本的霊性が持つ可能性を探る。
〈目次〉
第一章 神と仏の原理的違いと習合化のメカニズム 神神習合から神仏習合への流れ
一 法螺貝から始まる
二 「神」と「仏」の出逢い
三 春日大社「おん祭」
四 「神=カミ」と「仏=ホトケ」の原理的違い
五 「神道」と「仏法」
六 『古事記』と『日本書記』と『風土記』
第二章 古代律令神道・律令仏教から中世神道・中世仏教へ
一 記紀神話の成立とその要点
二 「神道」とは何か
三 外来宗教としての仏教
四 七世紀の宗教改革
五 最澄と空海
六 霊的国防都市としての平安京
七 古代世界の崩壊と中世世界の始まり
第三章 中世における神と仏
一 伊勢神道の成立と特徴
二 吉田神道の確立と特徴
三 神国思想と豊臣秀吉および徳川家康の切支丹禁止政策と鎖国
第四章 国学(古学)と幕末維新期の神道と仏教
一 古代神話──調停的・分治的一者の確立
二 中世神話──根源的・個的一者の確立
三 近世神話──仮構的・内向的一者の確立
四 近代神話──退行的・外向的一者の確立
五 柳田國男と折口信夫の民俗学と「新国学」
第五章 神仏分離(判然)から神仏共働へ 新神仏習合の時代へ
一 五つの神話とその現代的意味
二 戦争と平和
三 戦後神話、柳田國男と折口信夫の新国学再論と霊性の立場
四 今日問われる日本的霊性
あとがき
参考文献
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