http://www.asahi.com/area/mie/articles/MTW20130605250920001.html 【芭蕉を引き寄せた西行】 より
41歳、4回目の伊勢参りだった。
松尾芭蕉は「野ざらし紀行」に自らの姿をこう書いている。
脇差しを帯びず、襟にずだ袋、手には数珠。頭も剃髪(ていはつ)した僧侶のような姿だったため、神宮の神職に参拝を許されなかった、ともある。
神宮は「死」を遠ざけた。「死」に立ち会う僧や尼は明治初期まで正殿前での参拝が認められず、五十鈴川の対岸から拝まされた。江戸時代には、かつらをかぶれば見逃してもらえたため宇治橋前に貸しかつら屋ができた、との笑い話に似た光景もあったという。
それにしても、何が芭蕉を伊勢に引き寄せたのだろうか。
その一つに平安時代末期の歌人、西行の存在があった。芭蕉翁顕彰会専務理事の稲沢義夫さん(60)は言う。「西行を尊敬し、その歌枕を訪ねることも目的だったはずです」
元々、武士だった西行は23歳で出家。歌を詠みながら奥州や熊野などを行脚した。晩年の一時期は伊勢の草庵(そうあん)で暮らしたという。芭蕉は西行を尊敬し慕うあまり、姿形も僧らしくして旅をしていたのではなかろうか。
「野ざらし紀行」の旅で芭蕉は、内宮に近い西行谷のふもとにも足を運んだ。そこで女たちが芋を洗うのを見て詠んだ句にも西行の存在がちらつく。
芋洗ふ女(め) 西行ならば 歌詠まむ
新古今和歌集に最も多い94首が入る西行に近づき、迫ろうとして、芭蕉は伊勢参りを繰り返したのかもしれない。(中村尚徳)
http://www.asahi.com/area/mie/articles/MTW20130529250920001.html 【「奥の細道」たどり終え】 より
松尾芭蕉(1644~94)が伊勢神宮の46回式年遷宮を詠(よ)んだ俳句がある。
尊さに 皆おしあひぬ 御遷宮
その句を刻んだ石碑が4月14日、三重県の伊勢市駅前に建てられた。324年の歳月を経て俳聖の一句に光が当たったのも、この地で遷宮が繰り返されてきた歴史があるからこそだろう。
「皆おしあひぬ」は、少しでも前で見たいという庶民的な好奇心を動きのある情景として描き、遷宮を祝う浮き立った明るい気分も表している、と「松尾芭蕉集」の解説にある。ちなみに「御遷宮」は晩秋の季語といい、これ以外にも「御遷宮」を詠んだ句はあるらしい。
この時の芭蕉のお伊勢参りは6回目。生涯最後となったが、有名な「奥の細道」の延長ともいえる旅だった。 遷宮があった1689(元禄2)年3月に江戸を発ち、陸前(宮城県)、越後(新潟県)などを経て約2400キロを歩いた。8月21日ごろにたどり着いた美濃の大垣で紀行文は終わるが、9月6日に伊勢に向かったという。
芭蕉翁顕彰会専務理事の稲沢義夫さん(60)は想像する。「大垣に着く前から伊勢に行くつもりだったのではないでしょうか」
「奥の細道」では、日光東照宮をはじめ、各地の主だった神社に参拝するなど、芭蕉は信心深かった。「遷宮を見たい、という気持ちとともに、長旅の無事を報告し、感謝したかったのもしれません」(中村尚徳)
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00152/ 【伊勢神宮「式年遷宮」の営みが伝えるもの~せんぐう館を訪ねて】 より
2000年の歴史がある伊勢神宮と1300年の伝統をもつ式年遷宮
2013年10月、伊勢神宮で第62回式年遷宮の遷御の儀が行われたことは記憶に新しい。2014年は、式年遷宮を機に伊勢の地をおとずれ、気持ちも新たにお参りをされた方も多いと思う。
ちなみに、私たちが"伊勢神宮"というと天照大神がおまつりされている内宮(正式名称は皇大神宮)と、豊受大神がおまつりされている外宮(正式名称は豊受大神宮)の二つを考えがちである。しかし、この二つの正宮には、別宮、摂社、末社、所管社が所属しており、全てで125の宮社を数え、これらの宮社を含めた総称が神宮であるそうだ。
さらに式年遷宮は2015年1月現在、まだ別宮の遷宮が継続中であり、2015年3月に今回の式年遷宮は区切りを迎える。式年遷宮の営みは 1)社殿造営 2)御装束神宝の調製 3)遷御の儀などのおまつりの3つであり、1300年前から20年に一度行われている。
2012年に外宮のまがたま池のほとりに開館した式年遷宮記念「せんぐう館」には、式年遷宮の営みの数々がわかりやすく展示されている。社殿造営とともに建て替えられた社殿内を飾る奉飾品や服飾の「御装束」や、武具や楽器などの調度の品々である「神宝」も一新される(714種、1576点)。「御装束神宝の調製」にたずさわるのは人間国宝ら当代随一の名工、名匠であり、数年から十数年をかけて丹念に作り上げる様子や工程も展示品を通じて知ることができる。また、「遷御の儀」を再現した模型も展示してあり式年遷宮で最も重要な祭儀の様子を知ることができる。
今回、せんぐう館を訪ね、特に社殿の造営を中心に式年遷宮の営みが伝えるものを取材させていただいた。
社殿にみる日本の技と心
展示の中で圧巻なのが、外宮正殿の原寸大の再現模型(側面一部)である。およそ12mの高さをもつ正殿は、模型ではあるものの、その圧倒的に神々しい姿に心を打たれる。
正殿の様子について式年遷宮記念せんぐう館にて、伊勢神宮の学芸員 深田さんにお話を伺った。
「正宮は、皇室の方と神様にお仕えする神職しか入ることができないので、私たちは正殿を間近に目にすることができません。社殿が出来上がれば、宮大工も以降は触れることができないんです。この模型はすべて社殿に使われる本物の材料で、原寸大で、現役の宮大工の手で造られています。それには、普段目にすることができない正殿の様子の一部だけでも皆さんに見ていただきたいという思いと、脈々と続いてきた匠の技と心を、設計や建築、大工を目指す若い方々に知ってもらいたい、という思いがあります。」
正殿の建築様式は唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)といわれ、ヒノキの素木(しらき)を用い、切妻、平入の高床式の穀倉の形式を宮殿形式に発展させたもので、屋根は萱(かや)で葺き、柱は掘立となっている。材に使われているヒノキは適度に脂分を含み、防水防火の面で優れており、防虫効果も知られている。また、屋根の萱葺はこちらも軽く丈夫で太陽の輻射熱を防ぎ、幾層にも重ねることで断熱性を保ち、通気性に優れている。萱葺の素材であるススキは適度な油分も含んでいるため、撥水効果もあるという。
ヒノキの素木の中で輝きを放っているのは銅の上に金メッキが施された金物と、高欄の上に止められた居玉(すえたま)の宝石のような鮮やかさである。
「居玉は、青・黄・白・赤・黒と5色あります。あまりに美しいのでみなさん宝石かガラスかとお聞きになりますが、実はこれも金物であり銅の上に漆を何層も重ねたものです。居玉の色の順番は不規則で何故その順番で取り付けられているのかは伝わっていません。でも、わかっていることもあります。居玉も含め金物が取り付けられている所は木と木が組み合わされた部分であり、そこには雨などにより水や汚れで浸食の原因となる隙間があります。それを防ぐために付けられているのです。
次の式年遷宮までの20年間立ち入れないということは、メンテナンスも行えない、ということです。20年間神様のお住まいとしての尊厳とその美しさを保てるよう、腐食しないようにヒノキを使い、萱葺を何層も重ね、色彩はせず、台風や地震にも耐えうる構造となっているんです。すべては、機能的に優れており、理にかなった美しさなのだと頭が下がります。」
立ち入ることのできない御垣内の様子がわかる外宮殿舎配置模型(手前)と外宮正殿の原寸大模型(奥)
立ち入ることのできない御垣内の様子がわかる外宮殿舎配置模型(手前)と外宮正殿の原寸大模型(奥)
式年遷宮の社殿造営を支える“萱山の営み”
ススキの採取期間は1月から3月まで、1日100名ほどが従事して年間3~4,000束を採取している。1束は直径約40cm重さは約30kgになるという(写真提供:せんぐう館)
ススキの採取期間は1月から3月まで、1日100名ほどが従事して年間3~4,000束を採取している。1束は直径約40cm重さは約30kgになるという(写真提供:せんぐう館)
正殿の萱葺の屋根もその厚みに驚く。
美しく切りそろえられた屋根の端は1mもの厚さがあり、屋根勾配の中ほどの一番厚みがあるところは1m40cmもあるという。社殿の萱はススキを用いているが、式年遷宮で使用するススキの量は約2万3,000束になるという。
ススキは昔は、身のまわりでごく普通に見られたが今ではなかなか群生地を確保することが難しい。
そこでススキを採取するために管理された土地を設けている。神宮では、その土地を1943年から三重県度会町に「川口萱地」と呼ばれる専用の萱場を設けてススキを生産している。近年は、外来種のセイタカアワダチソウなど今までに見られなかった植物が萱場で生えてきたり、気候変動により夏の暑さや雪の影響などで採取前のススキに影響が出ることもあり、困難があったようだ。
それでも、今回の御料萱は約7年にわたり2.1mまで伸びたススキを、全てひとりひとりが鎌を用いて手作業で刈り取り、社殿造営に必要な数の2万3,000束を確保している。
「あたりまえ」であることが、「ありがたい」こと
今回、取材でお話をうかがった伊勢神宮の学芸員 深田さん
今回、取材でお話をうかがった伊勢神宮の学芸員 深田さん
社殿だからといって、手に入らない貴重なもので造られているわけではない。神宮社殿造営のすごいところは、すべてが現在でも手に入る“国産”だということだ。
「持続可能であることに意味があるのです。社殿に使われているヒノキは日本と台湾のみに分布する固有の樹で、ススキは一般に見られる草です。銅は、日本は数々の鉱山をもった、かつては輸出までしていた産出国でした。豊かな自然のお恵みがいただけたから、1300年続いてきたのだと思います。人々の心、技、そして自然と仕組み…すべてが普通に揃って調和することで式年遷宮は成立しているんです」と深田さん。
ここまで立派な社殿だと“建替えるのが、もったいないですね。部材はどうされるんですか”という質問も多いらしい。実は、正殿の棟持柱(むなもちばしら)は宇治橋の鳥居の柱としてその後20年使われ、さらにその後、昔の東海道の伊勢国の入口、関の追分と桑名七里の渡口の鳥居として、20年間再々利用する。ほかの古材についても、必要とする全国の神社にむだなく用いられ、建物の修復などに使われている。今回も東日本大震災の後、影響を受けた東北の神社の修復にも、この古材は使われるようだ。
20年ごとに行ってきた式年遷宮…その歴史の中でも、過去2回通常通りに行えなかったことがあったという。
「日本人が1300年の間、普通に行ってきている中で、式年遷宮が中断・延期されたことがありました。一度目は戦国時代…国が戦火に明け暮れ130年執り行われなかったんです。そして二度目は第二次世界大戦後…昭和天皇の思召しで世の中の状況を鑑みて延ばされました。伊勢神宮で学芸員という仕事をしていて、昔と変わらず普通に行える式年遷宮を通じて“生かされている”ことを感じざるを得ません。“あたりまえ”が“ありがたさ”に…せんぐう館は式年遷宮を通じてその行事だけでなく、日本人が普通に1300年行っていることが、わが国の美しさ・豊かさに通じ、それが如何に尊い事なのかも伝えていければと思っています」と深田さんは語る。
伊勢神宮にお参りをされたら、ぜひ「せんぐう館」にも立ち寄って欲しい。
普段見られない正殿の建物から感じる技と心、そして日本人がそれを普通に守り続けている尊さも一緒に感じてもらいたいと思う。
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