おどけ

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498741749.html 【富士の風    松尾芭蕉】 より

富士の風や扇にのせて江戸土産     松尾芭蕉

(ふじのかぜや おうぎにのせて えどみやげ)

この句は最近見つけ、いい句だ、と思った。一句に清々しさが満ちている。

「扇」は夏の季語であるから、この富士は「夏富士」である。

その富士より涼気を含んだ風がひろびろと吹き渡っている。

その風を扇にのせ、これを江戸の土産としよう、と言っている。

もちろんおどけているのだ。だが、この「おどけ」が実にいい。夏の涼気に通い合っているのだ。この句は芭蕉三十三歳の時、故郷の伊賀へと旅をし、そこで披露された。

当時の江戸はよほどきれいに富士が見えたのだろう。

勝手に伊賀での光景を想像してみる。

芭蕉を訪ねた客人に、芭蕉はその扇を開き、煽いでやる。

「どうです、涼しいでしょう」

「いや、芭蕉先生にそんなことをしていただいてはもったいない」

「これは富士山の風ですよ」

「富士…ですか?」

「富士の風をこの扇に乗せ、江戸の土産として持ってきました。そう思えば格別の涼しさでしょう」

「それはありがたいことで、ではほんのしばし、富士の風をいただきましょうか。」

夏のじりじりとする庵の畳でそんな会話が繰り広げられている。

もちろん、これは連句の座で挨拶句として披露されたもので、実際、こういうことをしたかどうか…。

ただ、そんなことはどうでもよくて、この句を披露した芭蕉の心持はそういうものであっただろう。

故郷にあっての懐かしい心、地元の人々との気安い交流、そういう芭蕉のくつろいだ心持が感じられる。

またこの場合、切れ字の「や」がいい。

字余りにしても「や」と大きく切ることで大きな呼吸が生まれる。

それは富士の風を浴び、大きく息を吸っているかのようでもある。

まことに俳諧の「めでたさ」を感じる一句。


https://haikustock.com/edit/rekisi.html 【意外と知らない俳句の歴史!?】 より

俳句の「俳」って、なに?

突然ですが、「俳」の付く二字熟語、あなたはいくつ思いつきますか。俳句、俳画、俳写、俳号‥‥などなど、いろいろあります。ざっと調べたところでは、全部で25ありました。「俳〇」と頭に付くものだけで25。「〇俳」と後ろに付く熟語はないようです、たぶんない。

そこでクイズです。

俳句に関連する言葉を除外すると、「俳」の付く二字熟語は一体いくつ残るでしょうか?

正解は、「俳優」の1つだけです。

ちょっと驚きでしょう? そうでもありませんか?

「俳」という言葉には、①おどけ・こっけい、②人前で芸をする人、③あちこち歩きまわる、という3つの意味があります(「岩波国語辞典」より)。つまり、俳句の「俳」は上記①の『おどけ・こっけい』という意味。

ちなみに、うろうろと動き回る「徘徊(はいかい)」(←ぎょうにんべん)は「俳徊」(←にんべん)とも書くそうですが、今はまず使わないので除外。「俳倡(はいしょう)」という言葉もありますが、意味は俳優と同じです。これも日常的にまず使わない言葉ですし、一般的な国語辞典にも掲載されていないので、勘定には入れませんでした。

辞書も見ずにこの2つのことに気付くとしたら、すごい、まさに漢字博士です。

ちょっと脱線してしまいましたが、では「俳句」とは以上を踏まえて、どういう意味の言葉なのでしょうか。

「俳句」は江戸時代に盛り上がった「俳諧(はいかい)の発句(ほっく)」の前後を取って略した言葉だと、考えられています。明治時代になり正岡子規(まさおか・しき)の起こした「俳句革新運動」によって広く知られるようになりました。

「俳諧の発句」は、たんに「発句」とも呼ばれます。乱暴に言ってしまえば、江戸時代に活躍した松尾芭蕉(まつお・ばしょう)や与謝蕪村(よさ・ぶそん)、小林一茶(こばやし・いっさ)の作品がそれです。

その関係性をざっくりとまとめてみました。

●「現代俳句」が生まれるまで

現代俳句誕生までの図

「連歌」は、「俳句」のもとのもと

「れんか」ではなく、「れんが」と読みます。「俳諧の発句」の説明の前に、まずは俳句のもとのもと、となった連歌の説明からさせてください。その方が混乱しないかと思います。

「連歌」とは、和歌を五七五(上の句)と七七(下の句)の2つに分けて、2人以上で完成させる言葉遊びです。通常は10人くらいで、五七五・七七、五七五・七七と繰り返しながら全体で百句になるまでつくり続けます。連歌は五七五と七七をそれぞれ一句と数えるため、和歌として換算した場合は五十首となります(俳句の数え方は、一句、二句‥‥。和歌や短歌の数え方は、一首、二首‥‥です)。

一句目となる発句は、あいさつ句とも呼ばれ、連歌会が行われる場所や季節感を上手に歌の中に盛り込む必要があります。それを受けて別の人が七七の二句目を続けます。さらに次の人が三句目以降を五七五、七七、五七五、七七とどんどんつなげて行きます。だから、連歌、連なる歌といいます。

●連歌のイメージ

連歌のイメージ図

言葉遊びといってもルールが複雑で、さらに雅言葉が基本のため、かなり高尚なものです。戦国時代には武将が戦勝祈願のために数日間こもって連歌会を開き、完成した百句(「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」)をわざわざ神社に奉納したほどです。かの大逆賊(?)、明智光秀も「本能寺の変」に出陣する際に連歌会を開催したとか。そういえば、2020年のNHK大河ドラマでは明智光秀が主人公なんですってね。どんな物語になるのか、いまから楽しみです。

「俳諧連歌」が、俳句の祖・芭蕉を生んだ!

高尚な連歌から派生したのが、こっけい味を旨とした「俳諧連歌」です。基本のルールは連歌と同じです。ただし、連歌とは異なり、もっとラフな言葉遊び(ダジャレなど)や品のない言葉も盛んに取り込みました。結果、武士や庶民を問わず、江戸時代になって大いに盛り上がります。この「俳諧連歌」から発句(一句目)のみを取り出し、自立した作品として磨きをかけたのが「俳諧の発句」です。

●「俳諧の発句」のイメージ

俳諧の発句のイメージ図

※俳諧連歌がはじまった当初は連歌と同じ百句が主流でしたが、芭蕉のころからは三六歌仙にちなんだ三六句の歌仙形式が多くなります。この歌仙形式を現在では連句と呼んでいます。

※発句を単独作品として創作・鑑賞する傾向は、室町時代からありました。

で、ここがちょっとややこしいのですが、一度は雅な世界から離れた「俳諧連歌」に、芭蕉は再び雅な世界観を取り込みました。でもそれは日常からかけ離れたものではなく、古典の美と自分の日常とを重ね合わせる、いわば詩的表現の追求といえるもの。芭蕉が「俳句の祖」と呼ばれる所以です。その影響を強く受け、蕪村、一茶がのちに続きます。といっても、江戸時代はずいぶんと長いので、一茶からみれば芭蕉は、現代人からみる明治時代の正岡子規のような存在だったのかもしれませんね。もうずっと遥か昔の偉人的存在。蕪村は蕪村であり、一茶はあくまでも一茶です。

松尾芭蕉(1644~1694)の名句

古池や蛙飛こむ水のおと

ふるいけや かわずとびこむ みずのおと

閑さや岩にしみ入蝉の声

しずかさや いわにしみいる せみのこえ

旅に病で夢は枯野をかけ廻る

たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる

与謝蕪村(1716~1784)の名句

春の海終日のたりのたりかな

はるのうみ ひねもすのたり のたりかな

菜の花や月は東に日は西に

なのはなや つきはひがしに ひはにしに

さみだれや大河を前に家二軒

さみだれや たいがをまえに いえにけん

※終日(ひねもす)=一日中のこと。雅語的な表現です。

小林一茶(1763~1828)の名句

我と来て遊べや親のない雀

われときて あそべやおやの ないすずめ

やれ打な蠅が手をすり足をする

やれうつな はえがてをすり あしをする

痩蛙まけるな一茶是に有

やせがえる まけるないっさ これにあり

どれも名句中の名句です。小・中学校のときの教科書にも載っていたのでは?

正岡子規、登場!

江戸時代の3人の俳諧スターのあとに、彗星のごとく登場したのが、明治時代の正岡子規です。ここから「俳諧の発句」は「俳句」と呼び名を変えることになります。

子規は「俳諧連歌」など明治のうちに廃れてしまうだろうと考えていました。事実、「俳諧連歌」は明治の人々には人気がなく、すでに下火でした。文明開化の時代です。若い子規の目には風前の灯火のようにも見えたのかもしれませんね。ゆえに新聞記者だった子規は、めちゃくちゃに当時の「俳諧連歌」をコケ落し、思い切った『俳句革新運動』を新聞紙上で展開します。これにより「俳諧の発句」は「俳諧連歌」から完全に切り離され、「俳句」という独立したひとつの文芸として生まれ変わることとなりました。そして、芭蕉や蕪村などの過去の「俳諧の発句」が「俳句」として再び注目されるようになったのです。

ネーミングは大切です。現代でも名前を変えたことで、大ヒット・大ブレークした例はたくさんありますよね。ちょっと古いけれど、レナウンの「通勤快足」とか、伊藤園の「お~いお茶」とか。お笑いコンビの「くりぃむしちゅー」や「さまぁ~ず」、くまモンに代表される「ゆるキャラ」もそうだし、最近では日清食品の「カレーメシ」なんかが話題になりましたよね。あとなんだろう? いろいろあります。

正岡子規(1867~1902)の名句

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

かきくえば かねがなるなり ほうりゅうじ

いくたびも雪の深さを尋ねけり

いくたびも ゆきのふかさを たずねけり

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

へちまさいて たんのつまりし ほとけかな

芭蕉、蕪村、一茶、子規という希代の天才たちを経て、現代の「俳句」があります。

子規研究の第一人者として知られる俳人・坪内稔典(つぼうち・ねんてん)先生によると

古池や蛙飛こむ水のおと芭蕉

菜の花や月は東に日は西に蕪村

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺子規

の三句は、俳句の代表選手のような作品なのだとか。いずれの句にも、古き良き日本の「静けさ」と「懐かしさ」があります。理想的な日本の原風景でしょうか。

いろいろな観賞、感想、考え方はあるかとは思います。しかし名句の最大の条件は、たったひとつ(最大だからひとつなんだけど‥‥)。それは時代の風化に耐え、時代を超えること。ただ、それだけ、だと思う。

俳句は日本語さえ理解できれば、誰にでもつくれるものです。季語を入れて、五七五と整えるだけなら、さほどむずかしいことはありません。ある意味それでいいのでしょう。

でも、つくり手によっては、それは「詩」となり、趣味の範ちゅうを超えて「文芸」の域にまで達します。俳句って、じつに奥深いものなんです。

つい大風呂敷を広げてしまいましたが、もしも今、俳句をはじめてみたいと思っているならば「俳句入門」的な書籍がおすすめ。ちょっと検索すればいろいろ出てきますよ。お好みのものを。

ちなみに、私の座右の入門書は、「金子兜太の俳句入門」金子兜太著(角川ソフィア文庫/2012)です。人間の大きさ、懐の深さが、読んでいてとても心地よいです。

それでは!

あなたの俳句ライフに幸あらんことを!


https://www.22art.net/breeding/matsuobasyotoyoukyoku/ 【『俳句』は、素晴らしい『遊び』なのだ。】 より

松尾芭蕉と謡曲: 斜めから見た芭蕉 深澤 力/著

考えてみれば、「遊び」というのは奥深いもので、人生にとって極めて大事なものだと言えよう。言葉を五七五に並べて、それが深い世界を表現できるという俳句は、素晴らしい「遊び」じゃないかと筆者は思う。

正岡子規の俳句は結構ユーモアの感覚に優れているようである。子規といえば、いつも咳(せき)ばかりして「痛い痛い」と言って六畳一間に寝た切り、というイメージが湧くが、しかしそんなことは無く、子規の俳句は非常にユーモア感覚に溢れているように見える。

 たとえば「糸瓜(へちま)咲いて痰(たん)のつまりし仏かな」という句がある。子規が亡くなる数日前の句である。庭に糸瓜(へちま)が植わっていて、花が咲いて実が成ったら水を取り出す。水は痰を切るのに効くといわれているからである。一人の男がその水を待ちかねて仏になってしまった、という意味の句である。もちろん一人の男とは子規自身のことで、子規は死に臨んでも自分を客観視している。本当のユーモアとはこうしたものであろう。

考えてみれば「俳諧」という言葉は「俳句」の源(もと)をなしていて、「俳」という字は「冗談」とか「おどけ」という意味で「諧」という字も同じである。だから「俳諧」というのは、どちらの語をとっても「ふざけ」とか「おどけ」ということで、生真面目なものではないということになる。

 短歌はどちらかといえば「まじめ」なものだったのに対して、俳句はむしろ庶民のユーモラスな目で世の中を見る、人間を見るということだった。ということは、俳句はもともとユーモア感覚とは切っても切り離すことが出来ないということであろう。そういう訳で現代俳句にも、本来備わっているユーモアの精神をもっと生かした句があってもよいのではなかろうか。


http://0209ko.sakura.ne.jp/haiku/basyou.htm 【 芭蕉を捨てよう】 より                                          

 芭蕉は昔から俳聖として崇められてきた。芭蕉のような句を詠むことが理想とされ、多くの俳人が芭蕉を目標としてきた。芭蕉の句には深みがあり、人生の詠嘆があり、感動があり、理想があり、深い哀しみがあり、大人の文学であるとされてきた。私もそう感じていた。そして真似ようとした。しかし、並才が真似のできるものではなく、あのような天才は一人なのである。また一人でよいのである。天才を崇めてもよいが、天才の真似をしてはいけないということに気がついたのである。

 芭蕉以前の俳諧としての句はだめなものとして明治以降の俳人たちによって軽視されてきた。だが俳句の原点は俳諧である。俳諧から俳句は始まったのである。俳諧にはおどけ、たわむれ、滑稽などの意味があり、江戸の庶民には長くもてはやされたのである。それを文学ではないと明治の俳人はあっさりと切り捨て、芭蕉を理想としてしまったのである。明治の重々しい理想からすればそれはそれで正しかったのかも知れない。だが明治は遠く過ぎ去り、軽さの似合う平成の時代である。重苦しいべートーベンも平成の時代には流行らないのである。芭蕉の句はベートーベンの音楽に似ており、重々しすぎるのである。芭蕉のような天才を現在の一般大衆が真似ることに無理があるのである。重々しい句の死骸だけが出来上がるのである。

 芭蕉を捨てよう。芭蕉を目標とすることをやめよう。何と心が軽くなるではないか。何と心が楽しくなるではないか。さあ、長い間文芸の隅の方に置かれた俳諧を楽しもう。江戸庶民のように心を軽くして俳句を楽しもうではないか。俳諧は俳句の原点である。原点はどのような領域においても大切にすべきものである。そうすれば若者にも俳句は受け入れられるようになるかも知れない。若者が見向きもしない俳句はやはり低迷しているのである。俳句は大人の文学として若者にそれほど期待をかけてはいない傾向にあるが、改革は若さにあるのである。若者に俳句への関心をもってもらうためにも軽さが大切ではなかろうか。重さは今の時代には合わない。歴史は繰り返すというが、江戸庶民の明日の金は持たぬという軽さが平成の世に復活してもよいであろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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