http://intweb.co.jp/miura/myhaiku/basyou_nozarasi/nozarasi02.htm 【「野ざらし紀行」 2】より
腰間に寸鉄をおびず。襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(さずさ)ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗にして髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと 僧侶のこと)の属にたぐへて、神前に入る事をゆるされず。
伊勢神宮
芭蕉は神道に篤い思いを持っていて何度か伊勢神宮参りをしているが、僧の格好をしているため、境内には入れなかったとある。伊勢神宮が芭蕉の時代、僧の格好をしている人が本当に「神前に入ることをゆるされ」なかったのかどうなのかはわからない。
「襟(えり)に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(さずさ)ふ。僧に似て塵有」。数珠を持ち僧の格好はしているが俗世間の塵(ちり)にまみれているよ、と謙遜している。なぜ、芭蕉は俳諧師なのに僧の格好をしているのか。俳諧師には、士農工商の身分制を離れたところで生きて仕事をしているという自負があるのだろうが、その格好しか世間が許さなかったからなのかも知れない。
「俗にして髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと 僧侶のこと)の属にたぐへて」。世俗に生きてはいるが髪はない。僧にして僧にあらず、士農工商の身分からは自由だが、格好だけはなぜか僧。もちろん刀などは挿していない。俳諧の宗匠という芭蕉なりの生き方の形である。「桑門の乞食」(こじきぼうず?)を自認しているのだから、これはこれで仕方がない。
「 俗にして髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと 僧侶のこと)の属にたぐへて、神前に入る事をゆるされず。」伊勢神宮に僧形は入れないということはなかったようだが、芭蕉はそう感じたのだろう。
「非僧非俗」(僧に非ず、俗に非ず)は親鸞の越後(直江津)配流の頃の言葉(「歎異抄」の後ろに続く付録)か。この頃、親鸞は自分のことを「愚禿(ぐとく)親鸞」と書いている。「愚禿」とは愚かなはげ頭(愚かな僧)、ならず者といった意味か。最も信仰に生きた親鸞が、時の政治・宗教権力との拮抗の中で、越後配流という境遇を甘受せざるをえなかった自分のことを「非僧非俗」といい「愚禿」という。芭蕉の「桑門乞食」の思いは、親鸞のこの思いと重なるが、その境遇は比べるまでもない。
「もろうて食らい、こうて食らい」と自嘲する芭蕉の思いとは何か。深川草庵での孤独な生活の中から、「桑門乞食」の思いを胸に芭蕉は行動を開始する。ここに芭蕉の生涯の旅が始まる。「野ざらし」漂泊の旅である。「風雅のまこと」、この一筋しかない。
芭蕉翁生家
伊賀上野、赤坂町の芭蕉翁生家。芭蕉は正保元年(1644年)、この地で生まれた。
長月の初め故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯れ果てて、今は跡だになし。何事も昔にかはりて、はらからの鬢白く、眉皺よりて、たゞ命有りてとのみ言ひて言葉はなきに、兄(このかみ)の守袋をほどきて、母の白髮をがめよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやゝ老いたりと、しばらく泣きて、
手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜
伊賀上野で芭蕉の足跡をたずねた。まず、赤坂町の芭蕉翁生家。芭蕉は正保元年(1644年)、この地で生まれた。
「釣月庵」(ちょうげつあん)
芭蕉生家の裏庭にある「釣月庵」(ちょうげつあん)
芭蕉が生まれた生家は通りに面し、表は格子構えの古い町家で、玄関から奥まで通り土間となっている。上の写真は芭蕉生家(赤坂町)。左は「釣月庵」(ちょうげつあん)。もちろん当時の建物ではない。芭蕉はここで初めての句集「貝おほい」を書いたという。建物の左側に芭蕉の葉が大きく茂っていた。
「古里や臍(へそ)のをに泣としのくれ」の石碑がある。
芭蕉は前年に他界した母の葬儀にはなぜか立ち会わなかった。だが、母の白髪や自分の臍の緒を見て芭蕉は熱い涙を流し、その慟哭を句にしている。
生家は「うえのし」駅から徒歩10分くらいで、通りに面している。
不破の関跡
岐阜県不破郡関ヶ原町松尾。「不破の関跡」がある。関が原の合戦跡とは国道21号線をはさんですぐ近く。
「不破の関」は、越前(福井県)の「愛発」(あらち)、伊勢(三重県)の「鈴鹿」とともに古代律令制下の日本三関のひとつ。 大宝元年(701)に制定された大宝律令で定められた。
「人住まぬ不破の関屋の板びさし あれにし後はただ秋の風」(藤原良基)など古来より歌に詠まれた名所である。
芭蕉はここで「秋風や藪(やぶ)も畠も不破の関」と詠んでいる。
芭蕉の時代には、関所はとうの昔に廃止されており、関屋の跡もなかった。「藪(やぶ)も畠も」の吹っ切れた表現は実感だったのだろう。
左上の写真は関所跡で、それは下の写真の門の中、個人の家の中にあった。家の人に断って入ろうとしたが返事が返ってこなかったのでそのまま入った。
すぐ前の「不破関資料館」に入ってみると、出土品のほか関の関連施設模型などがあった。このあたりいったいに不破関の建物があったということがわかる。現在は、辺りには藪も畑もなく、民家が立ち並んでいるばかり。「藪も畑も」の風情がどこにもない。仕方なく、一句。
夏の日や不破の関いずこ汗流る
小西行長の陣跡
写真の道の突き当りが、西軍の本陣跡。小西行長の陣があり、「開戦地」の碑がたっている。東軍の福島正則が宇喜田隊に攻撃をかけたのが端緒だったという。すぐ横のグランドで少年少女たちが野球をやっていて、時の声がしていた。
関が原決戦地。 石田三成は奮戦したが、松尾山の小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなった。秀秋は3年後に21歳の若さで狂い死にしたという。
家康の勝利は歴史の流れだとしても、人はどうしても判官びいきになってしまう。東軍74,000、西軍84,000の軍勢がぶつかり殺し合った。この狭い盆地に立つと戦いのリアリティに戦慄せずにはおれない。
戦いの後始末に、地元の農民らが男女数百人が動員され、死体を洗ったり埋葬を手伝わされたという。
芭蕉の興味は不破の関にむかっているが、関が原は政治問題、風流なしとして避けたのだろうか。
駄句ひとつ。
関が原 少年野球の 時の声
吉野山
独り吉野の奥にたどりけるに、まことに山深く白雲峯に重なり、煙雨(えんう)谷を埋んで、山賤(やまがつ)の家所々にちひさく、西に木を伐る音東に響き、院々の鐘の声心の底にこたふ。昔より此の山に入りて世を忘れたる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土の廬山(ろざん)といはんもまたむべならずや。
ある坊に一夜をかりて
砧打て我に聞せよや坊が妻
夏8月、上千本から吉野山を望む。4月には馬の背の山がヒンク色に染まる。
ようやくたどりついた金峯神社(きんぷじんじゃ)の右側の石畳の山道をさらに登っていくと、いくつかの分岐があり案内に従って山道を上り下りしていく。
左の写真のすぐ右に岩清水がある。左下の道を下ると100m程で西行庵に着く。
「露とくとく」の苔清水水量が少なくなってきている。
西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町ばかり分け入るほど、柴人(しばびと)の通ふ道のみわづかに有りて、さがしき谷を隔てたる、いとたふとし。かのとくとくの清水は昔にかはらずと見えて、今もとくとくと雫落ちける。
露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや
もしこれ扶桑(ふそう)に伯夷あらば、必ず口をすすがん。もしこれ許由に告げば、耳を洗はん。
清水の右。ほとんど読めない「露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや」。
「春雨の木下につたふ清水哉」
清水の左。かなり古そうな「春雨の木下につたふ清水哉」。
西行庵跡
写真クリックで拡大。 西行庵のロケーションがすばらしい。西行り世界にしたれそう。
やがて「露とくとく」の清水の場に出る。まさしく苔清水で、滴る水を手ですくい口にしてみる。杉と苔の匂いがあった。ここ数年、雨が少ないせいか清水が涸れかかっているらしい。清水の左右に句碑がある。
露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや
春雨の木下につたふ清水哉 (左の写真 笈の小文より)
清水からなだらかな道を100mほど下ったところに西行庵跡がある。ロケーションもよく風情のある庵である。まことに、いととうとし西行庵。庵の前にたたずんで、句を詠もうとするが何も出てこない。なぜ、こんな山奥に世を倦んで3年も住まなければならなかったのか。あまりにも時代がちがい、また、西行という人もよくわからない。生活には不自由しない由緒ある武士だったようだが、「昔より此の山に入りて世を忘れたる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る」芭蕉好みの人だった。芭蕉は、とくとくの清水で憂き世をすすぎたいものだとやや大きく詠んでいるが、西行の思いに重ねたものか。
西行には有名な「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」や「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」などの歌がある。この吉野でも、
「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなき住居かな」
と詠んだといわれ、芭蕉の句はこの歌をうけている。西行が苔清水の側に庵を結び、芭蕉が「露とくとく」と愛でて、今また1000年の時を経てその清水を眼前にすることができる。西行の跡を芭蕉が慕い、芭蕉の跡を、単なるやじ馬の私が追っかける。時を経て、人は変わり、人は変わらない。仕事や生活が生きる時間のほとんどを占めている私には、西行の花と月の風情は解っても、その生き方は遠い。
西行庵には西行の像が安置してある。西行はここで奥吉野の四季を生きたのだろうか。だが、西行がいつ頃この吉野の奥に庵を結んだのかははっきりしないようだ。この場所に本当に西行庵といわれるものがあったのかどうかも確かではないようだ。だが、この場所のたたずむと、さもありなんと誰もが納得するのではないか。
西行庵の中に西行像が安置されている。
西行庵の前を行ったり来たりしながら、「春ごとの花に心をなぐさめて六十(むそじ)あまりの年を経にける」。
西行がなぜ吉野の山に遁世したのか、その理由はわからないが、ここで詠んだといわれる歌をさがしてみた。西行の吉野遁世の心に、これを味わうことでいくらか触れることができるものかどうか。
①花にそむ心のいかで残りけむ 捨てはててきと思うわが身に
②世の中を思へばなべて散る花の 我が身をさてもいずちかもせむ
③よし野山こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき
④あくがるるこころはさてもやまざくら ちりなむのちや身にかへるべき
⑤うかれいづる心は身にもかなはねば いかなりとてもいかにかはせむ
⑥吉野山花の散りにしこのもとに とめし心はわれを待つらむ
⑦霞しく吉野の里にすむ人は 峰の花にや心かくらむ
⑧春ごとの花に心をなぐさめて 六十(むそじ)あまりの年を経にける
⑨さかりなるこの山桜思ひおきて いづちこころのまた浮かるらむ
⑩吉野山去年の枝折の道かへて まだ見ぬ方の花をたずねん
無謀にも簡訳
①世を捨てて来た我が身ではあるが、花に執着する心がどうしても残ってしまうようだ。
②世の中はやがて散ってしまうはかない桜のようなものだが、さて我が身はどうしようか。
③吉野の桜を見てから、我が心は身体から浮かれ出てしまったようだ。
④桜にあこがれる心は、山桜が散ってしまったら、元の身にもどってくるのだろうか。
⑤浮かれ出てしまう心は、もうどうしようもないではないか。
⑥吉野の桜は散ってしまったが、花にとどめた心は次もまた私をまっているだろうか。
⑦霞に煙る吉野の里の人は、峰に咲く桜を見て心がさわぐこともあるだろうか。
⑧春こどの桜に心を慰められて、はや60歳を越えてしまった。
⑨吉野の桜を思うと、我が心はまたも浮かれてくるのであった。
⑩去年の道しるべとは違った道をたどり、見たこともない花を訪ねてみよう。
やがて駄句。すみません。
奥吉野 なに世を厭う 西行庵 花に新緑 紅葉に雪の 奥吉野
夏もみじ 木漏れ日揺れる 西行像
4月、桜の季節に吉野を訪ねるのは、仕事をもつ身には無理。いつの日か吉野の桜に出会いたいものだ。
西行は何度も吉野に通ったそうだが、花の吉野は実はそれほど魅力的な場所だったのではないか。西行庵からの帰り道は別のルートをたどってみた。山腹のやや平らな場所にはあっちこっちにお堂の跡があった。かっては修験道の行者たちのお堂が立ち並んでいたらしい。
左の写真は、金峯神社(きんぷじんじゃ)の横から東の山々を見たもの。
奥吉野では、桜の季節だけでなく、四季折々に自然が満喫できる。西行にとっても、なかなかに遁世の庵を結ぶ場所としては満足していたのではないか。
芭蕉と木因
大垣に泊まりける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心におもひて旅立ちければ、しにもせぬ旅寝の果てよ秋の暮
大垣に来て、芭蕉は再度「野ざらし」の生きざまを句にしている。野ざらしを心に思って旅をしてきたが、死にもせずまだ生きているよ。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」からスタートし、「しにもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」 はまだ旅の途中の感慨。
水門川の住吉燈台
大垣の住吉燈台。元禄年間に建てられたものらしい。
木因は、大垣で川舟を使った運送業を営んでおり、大垣の俳壇の有力な先覚者だった。左の写真は、水門川の住吉燈台。「おくのほそ道」でも木因は芭蕉を出迎えている(写真左上)が、「おくのほそ道」にはその記述がない。木因が後に芭蕉から離れていったことが原因のようだ。木因にとって俳諧は趣味であり遊びだったが、芭蕉にとって俳諧はそれ以上のものであり、生き方そのものだった。俳諧ははたして趣味・道楽か芸術・人生か。芭蕉はもちろん、これ一筋、これより他に生きる道なし。
桑名
「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出でて、明けぼのやしら魚しろきこと一寸」
海くれて鴨の声ほのかに白し
「狂句こがらしの」の詞書
笠は長途(ちょうと)の雨にほころび、帋子(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘びつくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士、此国にたどりし事を、不図(ふと)おもひ出して申し侍る。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
熱田
名護屋に入る道のほど風吟す
狂句木枯らしの身は竹斎に似たる哉
海辺に日暮して
海くれて鴨の声ほのかに白し
爰(ここ)に草鞋(わらじ)をとき、かしこに杖をすてて、旅寝ながらに年のくれければ、
年くれぬ笠(かさ)きて草鞋(わらじ)はきながら
桑門(そうもん)の乞食姿で野ざらしの旅。一所不住、芭蕉の覚悟よし。
竹斎は、名古屋の医師だが、狂歌を詠みながら諸国を行脚、放浪した藪医者で、名古屋に流れ着いて開業していた。狂歌の才子ではあったが、身なりは乞食然としていたようで、その格好のまま治療に当たっていたという伝説がある。
芭蕉は、木枯らしに吹かれて俳句を詠んで放浪している自分の姿はほとんど竹斎だなあ、というのだ。
その竹斎の格好のまま、年末になってもまだ笠や草鞋の旅装束で暮らしている。そんな自分を風狂の狂句に詠んでいる。
芭蕉が本当に竹斎のような格好をしていたとは思われないが、気分は「侘びつくしたるわび人」竹斎というところか。左のような俳文がある。
いざともに穂麦喰はん草枕
名古屋・奈良・大津
奈良に出る道のほど
春なれや名もなき山の薄霞
大津に出る道、山路をこえて
山路来てなにやらゆかしすみれ草
いざともに穂麦喰はん草枕
「風狂の心」を精神とした「景情一味の写実」、これが芭蕉の俳諧の道。自然の造化にしたがい、四季の移り変わりを友とする。ここに「風雅の誠」があるとする確信と自信。芭蕉俳諧はここに完成する。
蓑虫庵
深川の芭蕉庵
卯月の末、庵に帰りて旅のつかれをはらすほどに、
夏衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず
写真は伊賀上野の「蓑虫庵」だが、深川の芭蕉庵のイメージに最も近いのではないか。
旅が終わっても、いまだ衣のしらみさえとりつくしていない、気持ちは野ざらしのまま、漂白俳諧の旅の興奮を引きずっている。それほど野ざらし俳諧の旅は収穫が多かった、後まで余韻が残るということか。
峠から西伊豆を望む
「野ざらし紀行絵巻」の跋(ばつ:あとがきのこと)に、芭蕉の次の一文がある。
「此の一巻は必ず紀行の式にもあらず。ただ山橋野店(さんきょうやてん)の風景、一念一動をしるすのみ。・・・他見恥づべきものなり。
たび寝して我句をしれや秋の風」
芭蕉の旅は、あくまでも「我句を知」るための旅。
風景に対する「一念一動(そのつど心を動かした感動)をしるすのみ」としているが、むしろ俳諧の道の修行の旅に近い。あくまでも、「風流の誠」を追い求める旅だった。
草庵隠遁の生き方から乞食行脚の旅へ。「造化にしたがい、四時を友とする」生き方を野ざらしの旅に出ることで体現しようとした。芭蕉は、深川隠遁の出口のない暗い孤独な生活と作句から、旅に出ることで「我句を知」り新しい句境を切り開いていった。
「たび寝して我句をしれ」とは何か。旅のひとつでもして、風物に人情に「一念一動」する己自身を知れということか。自分はそういう旅をしてきたのだと芭蕉はいう。
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