http://nihonshiki.sakura.ne.jp/kotoba/yuugen.html 【『日本式 言葉論』幽玄の章】 より
幽玄は、不思議な言葉です。「幽」は、かすかで奥深いことであり、「玄」は暗く奥深いことです。
もともとは中国の言葉であり、死後の世界や、老荘思想の境地を意味していました。老荘思想の境地における幽玄は、『老子』の〈玄之又玄〉を表す言葉だと言われています。また、中国仏教の『金剛般若経疏』に〈般若幽玄、微妙難測〉とあり、仏法が深遠奥妙にして窮知し難いものであることが語られています。
日本においては、最澄(767~822)の『一心金剛戒体秘決』に〈諸法幽玄之妙〉とあり、仏典から幽玄という言葉が使用されるようになりました。後に日本語として、和歌・連歌・能楽用語として独自の意味を獲得していきます。日本の幽玄は、日本美の情趣として、柔和さや上品さを伴う表現として確立しました。
第一節 和歌の幽玄
日本にける幽玄は、和歌・連歌・能楽において独自の意味を持つに至っています。
『古今和歌集』の[真名序]には、〈或いは事神異に関り、或いは興幽玄に入る(或事関神異、或興入幽玄)〉とあります。この時点では原義に近い意味で使用されていますが、これより後の和歌論では、日本美として独自の意味を備えて行きます。
壬生忠岑(860~920)の歌論『和歌体十種』では、優れた歌体である高情体について、〈詞は凡そ流たりと雖も、義は幽玄に入る、諸歌の上科と為す也(詞雖凡流義入幽玄、諸歌之為上科也)〉とあります。優れた歌が幽玄に入ることが示されています。
藤原基俊(1060~1142)の歌合の判詞には、〈言凡流をへだてて幽玄に入れり。まことに上科とすべし〉や、〈詞は古質の体に擬すと雖も、義は幽玄の境に通うに似たり〉とあります。やはり優れた歌は、幽玄に入るというのです。
藤原俊成(1114~1204)の歌合の判詞にも幽玄が評されています。西行の〈心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮〉に対して、〈こころ幽玄に姿および難し〉とあり、慈鎮和尚の〈冬がれの梢にあたる山風の又吹くたびは雪のあまぎる〉に対し、〈心、詞、幽玄の風体なり〉とあります。
藤原定家(1162~1241)の『毎月抄』には、和歌の十体として、「幽玄躰」や「有心躰」が示されています。定家は、〈いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず〉と述べ、有心体を和歌の本質と捉えています。そのため、〈宜しき歌と申し候は、歌毎に心の深きのみぞ申しためる〉と言い、〈常に心有る躰の歌を御心にかけてあそばし候べく候〉と語っています。幽玄についても、〈いづれの躰にても、ただ有心の体を存ずべきにて候〉とあるように、本質は有心体であるのです。〈幽玄の詞に鬼拉の詞などを列ねたらむは、いと見苦しからむにこそ〉とあり、強い鬼拉の詞を幽玄の詞につらねると見苦しいと語られています。
鴨長明(1155~1216)の歌論書『無名抄』には、〈いはむや、幽玄の体、まづ名を聞くより惑ひぬべし。みづからもいと心得ぬことなれば、定かにいかに申すべしとも覚え侍らねど、よく境に入れる人々の申されし趣は、詮はただ言葉に現れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし〉とあります。幽玄が、言葉に現れず姿に見えないものとして捉えられています。
兼好法師(1283~1352以後)の『徒然草』[第百二十二段]には、〈詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、やうやくおろかなるに似たり〉とあります。詩歌や音楽において能力があることは、幽玄なる道であり君臣ともに重んじるところですが、今の世ではこれらで政治を行なうことが不可能だというのです。
臨済宗の歌僧である正徹(1381~1459)の『正徹物語』においても、幽玄が語られています。正徹は『新古今和歌集』[恋四・一三○○]の〈あはれなる心長さのゆくゑともみしよの夢をたれかさだめん〉という歌に対し、〈極まれる幽玄の歌なり〉と評しています。〈幽玄体の事、まさしくその位に乗り居て納得すべき事にや〉とあるように、幽玄体は、幽玄の和歌を詠める段階に達して初めて理解できるというのです。
また、〈さけば散る夜のまの花の夢のうちにやがてまぎれぬ峯の白雲〉という歌に対しても、〈幽玄体の歌なり〉と評しています。その上で、〈幽玄といふ物は、心にありて詞にいはれぬ物なり〉と語られています。もう少し詳細に見ると、〈月に薄雲のおほひたるや、山の紅葉に秋の霧のかかれる風情を、幽玄の姿とするなり〉とあり、〈幽玄といふは、更にいづくが面白しとも、妙なりともいはれぬところなり〉と語られています。
幽玄の根拠は、結局は心に求められているのです。〈これもいづくが幽玄なるぞといふ事、面々の心の内にあるべきなり。更に詞にいひ出だし、心に明らかに思ひわくべき事にはあらぬにや〉とあるように、幽玄は各人の心の中にあるというのです。ですから、ことさら言語で表したり、心中で明確に分別したりするようなことではないというのです。
第二節 連歌の幽玄
連歌においても、幽玄が示されています。
二条良基(1320~1388)の『筑波問答』には、〈春の花のあたりに霞のたなびき、垣根の梅に鶯の鳴きなどしたる景気・風情の添ひたるをぞ、歌にも褒められたれば、連歌の道もまたかくこそ侍らめ。かまへてかまへて、数奇の人々は、まづ幽玄の境に入りて後、ともかくもし給ふべきなり〉とあります。美しい景色の描写が和歌では褒められているので、連歌でもそのようにあるべきだというのです。詩歌の道においては、幽玄の境地を体得してから、あれこれの工夫をなすべきだとされています。
心敬(1406~1475)の『心敬僧都庭訓』には、〈幽玄というものは心にありて詞にいはれぬものなり〉とあります。やはり幽玄は心の中にはありますが、言葉では言えないものだというのです。また、『さゞめこと』には、〈此道は感情・面影・余情を旨として、いかにもいひ残しことはりなき所に幽玄・哀はあるべしと也〉とあります。幽玄とは、言葉で言い尽くしたときに、言葉では言い尽くせぬところにあるものだと考えられています。また、〈いかにも道を高く思ひ、幽玄をむねとして執心の人此みちの最用なるべしと也〉と語られています。幽玄を抱く人は、連歌の道において大事な人だというのです。
宗祇(1421~1502)の『長六文』には、〈ただ連歌は幽玄に長高く有心なるを本意とは心にかけらるべきなり〉とあります。幽玄においては、心有ることを心掛けるべきだと語られています。
第三節 能楽(猿楽)の幽玄
能楽(猿楽)においても、幽玄は示されています。
世阿弥(1363~1443)の『花鏡』には、〈幽玄の風体の事。諸道・諸事において、幽玄なるを以て上果とせり〉とあります。諸々の芸道において幽玄を第一としています。幽玄の定義については、〈ただ美しく、柔和なる躰、幽玄の本躰なり〉とあります。具体的には、〈人に於いては女御、更衣、又は優女、好色、美男、草木には花の類、か様の數々は、その形、幽玄のものなり〉とあります。
『至花道』には、〈幽玄雅びたるよしかかりは、女体の用風より出で〉とあります。幽玄で美しい風姿は、女体の応用から生れるとされています。
『風姿花伝』には、〈ただ、言葉卑しからずして、姿幽玄ならんを、享けたる達人とは申すべきや〉とあり、〈よき能と申すは、本説正しく、めづらしき風体にて、詰め所ありて、かかり幽玄ならんを、第一とすべし〉とあります。達人と呼ばれるのも、よき能だと評されるのも、幽玄という要素が重要視されていることが分かります。
第四節 日本の幽玄
日本の幽玄は、姿に見えない余情や景色、言葉で言い表せない柔和さや上品さを示す、心有る日本美の言葉です。
各務支考(1665~1731)の『俳諧十論』には、〈幽玄にあそぶを風雅といふ〉とあります。高尚な美の趣を表す風雅とは、幽玄の境に遊ぶことだというのです。
美は、真や善とは異なる様式を持つ価値基準です。美は、真のように実験で確かめることはできません。また美は、善に比べて言葉で追求することが困難です。美は、特にその美が高い位にある程、言葉で言い表すことが困難になります。そのため、言葉で表すことができない美についての、言葉による表現形式が生まれたのです。
つまり日本の幽玄は、心有るが故に言葉では言い表しきれない境地を察して、生まれたものなのです。言葉では言い表せないことを示そうとする境地において、幽玄という言葉は発せられてきたのです。
http://nihonshiki.sakura.ne.jp/kotoba/wabi.html 【『日本式 言葉論』わびの章】 より
わび(侘び)とは、貧相や不足において心の充足を見出す日本人の美意識の一つです。名詞では「侘び」であり、動詞では「侘ぶ」であり、形容詞では「侘しい」となります。
元来は、心細い・寂しい・貧しいなどを意味する言葉でしたが、徐々に肯定的な価値を持つようになります。
茶道や俳諧では、閑寂な趣や、簡素に宿る落ち着いた感じを意味します。
第一節 和歌のわび
和歌には、わびが詠われています。和歌においては、わびが否定的な意味で用いられている用例を数多く見ることができます。
『万葉集』[巻第四]には、〈さ夜中に友呼ぶ千鳥もの思ふとわびをる時に鳴きつつもとな〉という歌があります。夜更けに千鳥が、物思いに沈んだように寂しい時に鳴き続けるのが空しいというのです。同じく [巻第四]には、〈今は吾は侘びそしにける気の緒に思ひし君をゆるさく思へば〉という歌もあります。辛く気持ちが沈むのは、大切なあなたを遠ざかるにまかせると思うからだというのです。[巻第十五]には、〈塵泥の数にもあらぬわれ故に思ひわぶらむ妹が悲しさ〉という歌があります。塵や泥のように数える価値もない私のために、辛い思いをしているあなたが悲しいというのです。
『古今和歌集(905頃)』[巻第十八]には、〈わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ〉とあります。 私を尋ねてくる人がいたら、わびしく暮らしていると答えてくださいと詠われています。
『拾遺和歌集(1006頃)』[物名]には、〈古へは奢(おご)れりしかど侘びぬれば舎人(とねり)が衣も今は着つべし〉という歌があります。昔は奢っていたけれど、寂しく暮らす今は相応の服を着ているというのです。
『詞花和歌集(1151)』には、〈わびぬれば強ひて忘れんと思へども心弱くも落つる涙か〉と詠われています。想いわずらえば、忘れようとしても心が弱いので涙が落ちるというのです。
第二節 物語のわび
物語において、わびが否定的な言葉から肯定的な言葉に移り変わっているのが分かります。
平安初期に成立した『伊勢物語』[第五十九段]には、〈住みわびぬ今はかぎりと山里に 身を隠すべき宿求めてむ〉とあります。この世に住むのがすっかり嫌になったので、山里に身を隠せる家を探すというのです。ここでのわびは、否定的な意味です。
ですが、平安中期に成立した『宇津保物語』には、〈わび人は月日の數ぞ知られける明暮ひとり空をながめて〉とあります。侘びを知る人は、風流を解することが示されています。わびが肯定的な言葉として用いられています。
第三節 能楽(猿楽)のわび
能楽(猿楽)にも、わびが語られています。
観阿弥(1333~1384)の作を世阿弥(1363,64~1443,44)が改修したと考えられている能楽作品に、『松風』があります。作中に、〈ことさらこの須磨(すま)の浦に心あらん人は、わざとも佗びてこそ住むべけれ〉と語られています。心ある人は、意図してでも侘びた場所に住むべきだというのです。
第四節 徒然草のわび
兼好法師(1283頃~1352頃)の『徒然草』においても、わびが語られています。
[第七十五段]には、〈徒然わぶる人は、如何なる心ならむ。紛るる方なく、唯獨り在るのみこそよけれ〉とあります。徒然の境遇を苦にする人の気持ちに思いをはせ、心が紛れることのないように孤独でいることが語られています。
第五節 茶道のわび
茶道においては、侘び茶の文化が成熟しました。
『紹鴎侘の文』には、〈侘びといふ言葉は故人も色々に歌にも詠じけれ共、ちかくは、正直に愼しみ深くおごらぬさまを侘といふ〉とあります。侘びが明確に定義されています。また、〈天下の侘の根本は天照御神にて、日國の大主にて、金銀球玉をちりばめ、殿作り候へばとて、誰あつて叱るもの無之候に、かやぶき黑米の御供、其外何から何までも、つつしみ深くおこたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候〉ともあります。侘びが、日本独自の慎み深さから来ていることが語られています。
『紹鴎門弟への法度』には、〈淋敷は可然候、此道に叶へり、きれいにせんとすれば結構に弱く、侘敷せんとすればきたなくなり、二つともさばすあたれり、可慎事〉とあります。さびしい境地に立つことは、侘数奇の道に叶うことだというのです。侘びをきれいに表現しようとすると結構に傾いてひ弱さとなり、強いて侘びようとすれば汚くなると語られています。両方とも自然にさびたのではなく、人為的にしてしまうことだからです。
真松斎春渓の『分類草人木(1564)』には、〈大名富貴ノ人、数奇ハ侘タルガ面白シト云テ、座敷モ膳部モ貧賤ノマネ専トス。不可然。可有様コソ面目ナレ〉とあります。大名や富貴の人が、貧賤のまねをしても侘びの域には達しないというのです。富貴の人は、金持ちらしくふるまうのがよいというのです。侘びは、貧賤そのものの中にあるというのです。
久保利世(1571~1640)の『長闇堂記(1640)』には、〈佗びは佗びの心を持たでは茶湯はならぬものなり〉とあります。また、〈宗易(千利久)華美をひくまれしゆへか、わびのいましめのための狂歌よみひろめ畢〉とあり、侘びは華美とは反対ということが示されています。
山上宗二(1544年~1590)の『山上宗二記』には、〈侘び数寄というは一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条調うる者をいうなり〉とあります。侘び数奇の極意が示されています。また、〈古人のいわく、茶湯名人に成りての果ては、道具一種さえ楽しむは、弥(いよいよ)、侘び数寄が専らなり。心敬法師、連歌の語にいわく、連歌の仕様は、枯れかしけ寒かれという。この語を紹鴎、茶の湯の果てはかくの如くありたき物を、など常に申さるのよし、辻玄哉、語り伝え候〉とあります。侘び数奇においては、枯れるということや、寒いということが問題になるというのです。
『南方録(17C後)』は、千利休の茶の湯論を伝える茶書です。[覚書]では、〈紹鴎、わび茶の湯の心は、新古今集の中、定家朝臣の歌に 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ この歌の心にてこそあれと申されしとなり〉とあります。 [滅後]では、〈さてまた侘の本意は、清浄無垢の仏世界を表して、この露地草庵に至ては、塵芥を払却し、主客ともに直心の交なれば、規矩寸尺、式法等あながちに云ふべからず〉とあります。侘びは、仏の世界を表しているというのです。そのため、〈わびの心を何とぞ思ひ入れて、修行するやうにさへ仕立たらば、その中、十人廿人に一人も、道にさとき人は道に入べきか〉とあり、侘びの心を思って修行すべきことが語られています。また、〈老人などは、うるはしくうつくしき道具よし。わび過ては、さわやかになきものなり〉とあり、老人が使う道具がわび過ぎていることが戒められています。
寂庵宗沢の『禅茶録(1828)』には、〈佗の一字は、茶道において重じ用ひて、持戒となせり〉とあります。具体的には、〈それ佗とは、物足らずして一切我が意に任ぜず、蹉跎する意なり〉とあります。蹉跎するとは、衰えるという意味です。侘びに対する心得として、〈其不自由なるも、不自由なりとおもふ念を不生、不足も不足の念を起さず、不調も不調の念を抱かぬを、佗なりと心得べきなり〉と語られています。
第六節 俳句のわび
俳句においても、わびが語られています。
松尾芭蕉(1644~1694)の『奥の細道』[紙衾ノ記]には、〈なをも心のわびをつぎて、貧者の情をやぶる事なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ〉とあります。心の侘びが貧者の情と関連付けられて語られています。『武蔵曲』には、〈月をわび身をわび 拙きをわびて、わぶと答へむとすれど、問ふ人もなし。なおわびわびて、侘てすめ月侘斎が奈良茶歌〉と詠われています。『冬の日』には、〈笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける〉とあります。侘しい身の上にあはれを感じています。
服部土芳(1657~1730)の『三冊子』には、〈侘ぶといふは、至極なり。理に尽きたるものなり、といへり〉とあります。侘ぶは、ぎりぎりの限界を示すものであり、理屈もなにもない境地だというのです。
第七節 日本のわび
侘びとは、神道における正直さや清浄さの上に、時間の経過を示す「枯れ」や「衰え」や「寒さ」などが重なり、「貧困」や「不足」や「簡素」の型における、奢っていない閑寂な趣や、慎み深い落ち着いた感じを意味しています。
『北条重時家訓』には、〈たのしきを見ても、わびしきを見ても、無常の心を観ずべし。それについて、因果の理を思ふべし。生死無常を観ずべし〉とあります。侘びには、仏教の無常観も影響していると考えてよいと思われます。
鈴木大拙の『禅と日本文化』では、〈わびの真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物――富・力・名に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること――これがわびを本質的に組成するものである〉と説明されています。また、〈わびは通常、貧乏、不十分あるいは不完全を連想させる生活状態に適用される〉とも説明があります。
一般的には、侘びは茶の湯の理念として、寂びは芭蕉俳諧の理念として語られることが多いです。しかし、茶の湯にも芭蕉俳諧にも、侘びと寂びは両方言及されています。
あえて侘びと寂びの差異を述べるならば、侘びは寂びに比べ、心の外にある造型に関わると言えるでしょう。侘びとは、世界における侘しいものから感じる心の動きだからです。
http://nihonshiki.sakura.ne.jp/kotoba/sabi.html 【『日本式 言葉論』さびの章】より
さび(寂び)とは、閑寂や枯淡の味わい深い情趣を見出す日本人の美意識の一つです。名詞では「寂び」であり、動詞では「寂ぶ」であり、形容詞では「寂しい」となります。動詞「さぶ」は、ものの生気や活力が衰えて元の力がなくなることをいいます。元来は、否定的な意味で用いられていましたが、徐々に肯定的な価値を持つようになります。
芭蕉俳諧の用語では、閑寂の色あいにおける美的情趣をいいます。
第一節 和歌のさび
和歌には、さびが詠われています。初期の和歌では、さびが否定的な意味で用いられていましたが、藤原俊成(1114~1204)から肯定的な意味にも用いられるようになります。
『万葉集』[巻第四]には、〈まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつをらむ〉とあります。澄んだ鏡のように見飽きぬ君に後に残され、朝も夕もさびしく暮らしているというのです。
藤原俊成(1114~1204)は、歌合(うたあわせ)の判詞のなかでさびを美的なものとして評しています。
『広田社歌合』では、〈武庫(むこ)の海をなぎたる朝に見わたせば眉もみだれぬ阿波の島山〉という歌に対し、〈詞をいたはらずしてまたさびたる姿、一つの体に侍るめり〉と評されています。また、〈蘆の葉も霜枯れにけり難波潟玉藻刈り船ゆきかよふ見ゆ〉という歌に対しては、〈さびても侍れば〉と評されています。
『住吉社歌合』では、〈住吉の松吹く風の音たえてうらさびしくもすめる月かな〉という歌に対し、〈すがた、言葉いひしりて、さびてこそ見え侍れ〉と評されています。また、〈うちしぐれ物さびしかる蘆のやのこやの寝覚に都こひしも〉という歌に対しては、〈ものさびしかるとおき、みやここひしもなどいへるすがた、既幽玄之境に入る〉と評されています。
『御裳濯河歌合』は、西行(1118~1190)が詠み置いた歌を自ら三十六番につがえて、俊成に判を求めたものです。〈なが月の月のひかりの影ふけて裾野の原に牡鹿鳴くなり〉という歌に対し、〈裾野の原にといへる、心深くして姿さびたり〉と評されています。また、〈きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざからいゆく〉と、〈松の延ふまさきのかづら散りにけり外山の秋は風荒ぶらん〉という歌に対し、〈左右ともに姿さび、詞をかしく聞え侍り〉と評されています。
西行(1118~1190)の『聞書残集』には、〈この里は人すだきけんむかしもや さびたることはかはらざりけり〉とあります。『西行法師家集』には、〈さびしさは秋見し空にかはりけり 枯野を照らす有明の月〉とあります。
慈円(1155~1225)の『拾玉集』にも、さびしさを詠った歌があります。〈やどさびて人めも草もかれぬれば 袖にぞのこる秋のしらつゆ〉、〈やどさびて夏も人めはかれにけり なにしげるらむ庭のむらくさ〉、〈あさみどり春のながめも宿さびて ひとり暮れぬる山の端の空〉とあります。いずれも慈円の孤独な寂しさを、自然の景趣に託しています。その場となる宿が「さびて」と把握されているのです。
『新続古今和歌集(1438)』には、〈寂しさは色も光も更(ふ)け果てゝ枯野の霜にありあけの月〉という歌があります。
第二節 物語のさび
紫式部(973頃~1014頃)の『源氏物語』においても、さびという言葉が用いられています。
[若紫]には、〈文やり給ふに書くべき言葉も例ならねば、筆うちおきつゝすさび居給へり〉とあります。文章を作るも書くべき言葉が例にならないので、筆を置いてぐずついているというのです。
[葵]には、〈心のすさびにまかせて、かくすきわざするは、いと世のもどき負ひぬべき事なり〉と書かれています。遊び半分で浮気するなら、世間から非難を受けなければならないというのです。
[蓬生]には、〈はかなきふるうた物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住居をも思ひなぐさむるわざなめれ、さやうのことにも心おそくものし給ふ〉とあります。昔の歌や物語などの慰みごとこそ、もてあます時間を紛らわせ、生活を慰めるものですが、そんなことには心が鈍いというのです。
第三節 能楽(猿楽)のさび
能楽(猿楽)にも、さびが語られています。
世阿弥(1363,64~1443,44)の『花鏡』には、〈さびさびとしたる内に、何とやらん感心のある所あり。これを、冷えたる曲とも申すなり〉とあります。物さびた趣の中に、人の心を感動させるところがあるとされています。これを「冷えたる曲」とも呼ぶというのです。
室町時代末期に編纂された能楽伝書『花伝書(八帖花伝書)』には、〈心より出来る能とは、無上の上手の、申楽に物數の後、二曲も物眞似も切もさして無き能の、寂々としたる中に、何とやらん感心のある所あり〉とあります。寂々とした中に、感心するところがあるというのです。
第四節 徒然草のさび
兼好法師(1283頃~1352頃)の『徒然草』においても、さびが語られています。
[十九段]には〈おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず〉とあります。思っていることを言わないのは腹の立つことですから、筆にまかせていますが、つまらない慰めのためのものに過ぎず、破り捨てるべきものなので、誰も見る人はいないというのです。
[二十九段]には〈亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、ただその折のここちすれ〉とあります。故人が戯れに書いた文字や絵を見ると、そのときに戻ったような気がするというのです。
[百七段]には〈もし賢女あらば、それもものうとく、すさまじかりなん〉とあります。もし賢い女性がいるなら、親しみにくいので興ざめだというのです。
第五節 茶道のさび
茶道においても、さびが語られています。
『南方録(17C後)』[覚書]には、〈とまやのさびすましたる所は見立たれ。これ茶の本心なりといはれしなり〉と書かれています。さびすましたる所が、茶の本心として示されています。[滅後]には、〈名物の花入、さなくても賞玩の花入には、花はいかにも少(すこし)、さびてあしらいてよし。花入に相応する花、心得べし〉とあります。花は少しならさびても良いというのです。
近世初期の茶人片桐石州(1605~1673)の『宗閑公自筆案詞』には、〈茶の湯さびたるは吉(よし)、さばしたるは悪敷と申す〉とあります。同じく五世藪内紹智(1678~1745)の『源流茶話』にも、〈利休の云ク、さびたるはよし。さばしたるは悪し〉とあります。自然のさびが「さびたる」であり、人為的にさびめかしたものが「さばしたる」と使い分けられています。
第六節 連歌のさび
連歌れんがは、複数の人間によって上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を詠み連ねる詩歌の一種です。連歌においても、さびが語られています。
心敬(1406~1475)の『さゞめこと』には、〈いはぬ所に心をかけ、ひえさびたるかたをさとりしれ〉とあります。言わぬところを心に思い、さびを知るべきことが語られています。
『心敬僧都庭訓』には、〈哀なることを哀といひ。さびしきことをさびしきといひ。閑なることをしづかといふ。曲なき事なり。心にふくむべきにて候〉とあります。寂しきを寂しいと感じるように、ありのままの感情を思うべきことが語られています。
『所々返答』には、〈古賢云、常にけだかく寒き名歌、おなじく秀逸の詩聯句をならべて詠吟修行して、心をさび高くもてと也〉とあります。気高い寒さの歌を習い覚え、心にさびを持つことが語られています。
『百首和歌』では、〈江月 ふけにけりをとせぬ月に水さび江のたなゝし小舟ひとりながれて〉という歌に対し、〈ひとへに、さびふけたる風躰也。音せぬとは、人のさしすてたる也。ふけたる月に、船の心とたゞよひ侍る也〉と評されています。寂び老けたる歌だというのです。
宗祇(1421~1502)の『白髪集』には、〈初学の時、ひえさびたる姿抔(など)こひねがひ給はゞ、あかる事をそかるべし。此姿なども境に入至極の人の心がくべき道也〉とあります。冷え寂びの姿は、年を取った人が至る境地だというのです。
第七節 俳句のさび
芭蕉俳諧において、さびの精神が成熟しました。
元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉(1644~1694)が四十六歳のときの作に、〈月さびよ明智が妻の咄しせむ〉があります。月の「さび」とは、有明月のことを指しています。夜明け過ぎに残っている月が、その光を弱めている状態を詠んでいるのです。弱い月の光の下で、問わず語りに明智の妻の咄しをしたいというのです。
向井去来(1651~1704)の『去来抄』では、〈夕ぐれは鐘をちからや寺の秋〉という歌に対し、去来が〈さびしき事の頂上なり〉と評しています。さびの定義については、〈さびは句の色なり。閑寂なる句をいふにあらず〉とあります。さびは句全体の色合い(美的情趣)についての言葉であり、必ずしも閑寂な句をいうわけではないというのです。〈たとへば老人の甲冑を帯し戦場に働き、錦繍をかがり御宴に侍りても、老の姿有るが如し。賑かなる句にも、静かなる句にも有るものなり〉と語られています。閑寂な句とは、全てが閑寂で統一された句のことです。しかし、俳諧のさびは、色としてそこはかとなく漂うため、必ずしも全てを閑寂一色にする必要はないのです。
また、去来が詠んだ〈花守や白きかしらをつき合はせ〉という歌に対し、芭蕉が〈さび色よくあらはれ、悦び候ふ〉と述べ、さびの句だと評しています。
森川許六(1656~1715)の『俳諧雅楽抄』には、〈当流発句案ジ方ノ大事ト云ハ、第一サビ・ホソミ。是ハ正風体幽玄ノ所也〉とあります。さびやほそみは、幽玄の場所にある言葉だというのです。
去来と許六との論争書『俳諧問答(1697)』には、〈老の来るにしたがひ、さびしほりたる句、おのづからもとめずしていづべし〉とあります。年を重ねるにつれ、自分から求めなくても自然とさびやしほりの句が詠めるようになるというのです。
与謝蕪村(1716~1783) の『雪の薄(すすき)』には、〈他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨絵のごとくにすべし。折にふれては、彩色なきにしもあらず。心、他門にかわりて、さびしほりを第一とす〉とあります。墨絵のような句によって、さびやしほりを表すというのです。
第八節 俳句の位・しほり・ほそみ
芭門の俳句では、「さび」とともに「位」・「しをり」・「細み」も重視されていることが『去来抄』に示されています。
「位」については、〈卯の花のたえまたたかん闇の門〉という句に対し、芭蕉が〈句の位、尋常ならず〉と評しています。ただし去来は、〈この句、位ただ尋常ならざるのみなり。高位の句とはいひがたし。畢竟、句位は格の高きにあり〉と述べています。句の位というものは品格の高さにあるというのです。
「しをり」と「細み」については、〈しをりは憐れなる句にあらず。細みは便りなき句にあらず。しをりは句の姿にあり。細みは句意にあり〉とあります。しおりは憐れさのある句のことではなく、句の姿に表れるものだというのです。細みは頼りない感じの句のことではなく、句の心にくみとれるものだというのです。芭蕉は、〈鳥共も寝入つて居るか余吾の海〉という句に対し、〈この句、細みあり〉と評しています。一方、〈十団子も小粒になりぬ秋の風〉という句に対しては、〈この句、しをりあり〉と評しています。
それぞれの言葉に対し、〈惣じて、さび・位・細み・しをりの事は、言語筆頭にいひおほせがたし〉とあります。言葉や文章では十分に説明しがたいというのです。
同じく去来の『俳諧問答』[答許子問難弁]にも、〈しほり・さびは、趣向・言葉・器の閑寂なるを云にあらず。さびとさびしき句は異也。しほりは、趣向・詞・器の哀憐なるを云べからず。しほりと憐なる句は別也。たゞ内に根ざして、外にあらはるゝもの也。言語筆頭を以てわかちがたからん。強て此をいはば、さびは句のいろに有、しほりは句の余勢に有〉とあります。さびは句の色、しほりは句の余勢であり、ともに心の内に根ざして、外へ表れ出てくるものだというのです。
第九節 日本のさび
寂びとは、人生の経過を示す「老い」や「冷え」などを重ね、孤独や閑寂の色を自然に情景へと託して醸し出すことを意味しています。
芭門においては、さび、しをり、細みのいずれもが、一句における余情としての美を表現しています。芭門におけるさびとは、句における孤独さや閑寂さを浮かび上がらせる色合い(美的情趣)のことです。しをりとは、憐れさや余勢を句における姿として表すことです。細みとは、繊細さを句において意図することです。
鈴木大拙の『禅と日本文化』では、〈さびは鄙びた無虚飾や古拙な不完全に存する、見た目の単純さや無造作な仕事ぶりに存する、豊富な歴史的な連想(かならずしも現存しなくてもよい)に存する〉と説明されています。また、〈さびは文字の上からいえば「孤絶」とか「孤独」とかを意味する〉とか、〈さびはいっぱんに個々の事物や環境に〉適用されると説明があります。
一般的には、侘びは茶の湯の理念として、寂びは芭蕉俳諧の理念として語られることが多いです。しかし、茶の湯にも芭蕉俳諧にも、侘びと寂びは両方言及されています。
あえて侘びと寂びの差異を述べるならば、寂びは侘びに比べ、心に根ざした感情に関わると言えるでしょう。寂びとは、心における寂しさを、自然な情景の趣へ託する心の動きだからです。
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