https://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_1_30b.html 【芭蕉における元禄三年】より
秋ちかき 心の寄るや 四畳半
私の好きな句ですが、この句からどのような状況を思い浮かべられるでしょうか。
― 秋も近い晩夏の一日、心を許す仲間たちが行なった茶会の句でしょう。
― 秋の近づく気配のなかで、四畳半という限られた空間で心を寄せ合う茶会の句。
―「心の寄るや」は、心を寄せ合うというより、おのずと寄り合うという感じなのでは?
― そう、そこなんだよ。それが四畳半だからこそ意味があるんだ。ところでこれ、だれの句?
いや、皆さんの解釈、すばらしいですね。これは松尾芭蕉の句です。詞書によって元禄七年(1694)六月二十一日、大津の門人、医師望月氏の木節庵に俳友相集った時の句と知られるのですが、 茶会の句といって差し支えない。そこでわたくし流の評釈を試みてみました。
秋ちかき 心の寄るや 四畳半
すなわちここには人の心を寄せ合う時間と空間の果たす役割が巧みにうたい込まれており、 どの言葉も他に置き換えることができません。さりげない言葉遣いですが、磨き抜かれた用語であることに感歎します。
しかしこの句の眼目が四畳半にあることは確かです。この句には俳句に及ぼした四畳半に象徴される草庵茶の湯の影響が認められるのです。 茶会(における人間関係)のイメージが下敷きになっている、あるいは俳席と茶席のイメージが重層しているといってよい。
旅を好んだ芭蕉にとって草庵―質素な住宅は馴れ親しんだ場所と思われますが、四畳半はどうでしょう。四畳半が草庵茶の湯の空間だとすれば、「芭蕉における茶の湯」、あるいは「芭蕉における利休」を知る必要がありましょう。それというのも元禄三年(1690)は利休賜死百年に当り、この年をピークに利休回帰、利休憧憬が進んでいたからです。百年という歳月が人間の評価の上で大きな尺度となることを示す典型的な事例です。
芭蕉が利休の名をあげている文章として有名なのが、『笈の小文』(貞享四年十月~元禄元年八月の旅の紀行文)のなかの次の部分です。
……つゐに無能無芸にして只此(ただこの)一筋に繋(つなが)る。 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(かんどう)する者は一(いつ)なり。
この文は芭蕉が『奥の細道』の旅(元禄二年三月~九月)を通して到達した芸術観を示したものとして知られますが、そのことに利休の存在が無縁ではなかったのです。茶以外の世界で語られた芸術論のなかで利休が登場した最初ではないでしょうか。
『笈の小文』は元禄四年、芭蕉が嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に滞在中に書いていますが、先に引用した個所は、じつはその前年、石山寺近くの幻住庵に滞在中に書いた『幻住庵記』初稿本に出て来ます。元禄三年四月のことです。
芭蕉の作品のなかに利休の名が出てくる最初は、私の記憶に間違いがなければ、前述の『幻住庵記』初稿本執筆の前月、元禄三年の三月中旬から下旬にかけて近江の膳所(ぜぜ)滞在中に書いた『洒落堂記』においてです。門人浜田珍夕の住居につけた文章ですが、そこには茶室・茶庭がありました。
旦それ簡にして方丈なるもの二間、休(利休)、紹(紹鴎)二子の侘を次て、しかも其の則を見ず。木を植、石をならべて、かりのたはぶれをなす。
利休の侘をなお客観的に眺めている感はありますが、この辺りから利休に関心を持ちはじめ、やがて「利休が茶における―」が登場する。注目したいのは、それらの執筆が利休百年の元禄三、四年に集中していたことです。“芭蕉における元禄三年”といってよいのです。
最初に掲げた「秋」の句は、芭蕉が亡くなる二ヶ月前、最晩年の作ですが、これに勝る〝茶″の句を知りません
https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/af440dbf4ee67b1d4a8924411a41715d 【秋近し】 より
このところ、かなり大きな地震が続いている。今日も、石垣島近海を震源とするM6.8とM6.5の地震が起きている。マグニチュードが大きい割には、被害が全くないのは幸いである。
そういえば、10年前の今日、つまり1999年8月17日、トルコでM7.4の大地震があり、1万7千人を超える死者を出したことは、記憶に新しい。
秋近き心の寄りや四畳半 芭 蕉
寿貞(前々回「魂祭」参照)の訃報に接した直後の芭蕉が、弟子たちの寡黙なことばのうちに無限のいたわりを感じつつ、静かに座している姿が目に浮かぶようである。
このとき会したのは、芭蕉・木節・支考・惟然の四人であった。
従来、中七は「心の寄るや」と読まれてきた。
ところが、『赤冊子草稿』は、「よるや」の「る」を消して「り」に改め、「是(これ)、直に聞く句なり。『初蟬』には、『心のよるや』と有り。『木節亭』と題を付けて出だす」と付記して収めている。
高弟の土芳が、芭蕉から直接に聞いたとして伝えているのであるから、中七は「心の寄りや」を正しい句形と認めなければならない。
文法的には、動詞と名詞の違いである。思うに、芭蕉は、心の交流という意味をはっきり出したかったのではないのか。淡々とした表現をとりながら、孤独を越えた深い心の通い合いをうつし出し、内なるゆらめきが直ちに句に匂い出ているところがあって、軽みの世界を示している。
また調べの上からも、「き」・「ち」・「き」・「り」の「イ音」が、清澄な感じを醸し出している。
ただし、『赤冊子草稿』以外の諸本は、「心のよるや」という形で伝えるものが多いので、それも一概に捨て去ることに、ためらいを覚える。だが、やはり芭蕉の直話によるという土芳説に従いたい。
この句は、元禄七年六月二十一日、大津の木節庵で詠まれた。
木節は、モクセツあるいはボクセツと読むのか不明。大津の蕉門で望月氏。医師で、芭蕉の最期をみとった人である。
季語は「秋近き」で夏。「秋近き」が「四畳半」という把握と相応じて、みごとにその季感の本質的なものを生かしている。これだけ確かな「秋近き」は、他に見たことがない。
「しのび寄る秋の気配の中に、連衆の心もしんみりとなごみあい、この四
畳半の部屋で静かな時をもちえて、この上ない幸せをかみしめている」
https://www.osakagas.co.jp/gasbuil/leaflet2/hito10.html 【芭蕉終焉後<御堂筋> ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授)】 より
もうずいぶん昔のことですが、大阪の適塾で司馬遼太郎さんと対談した後に、二人で御堂筋を歩きました。南御堂の前では、芭蕉翁終焉の地の石碑の傍らに立ち、松尾芭蕉がこの地で生涯を閉じたことやその後の時代の移り変わりについて語りました。
私が、長年の夢がかなって日本にやって来たのは、昭和二十八(一九五三)年のことです。京都に二年間留学し、近松門左衛門について博士論文を書きましたが、同じ元禄時代に生きた井原西鶴や松尾芭蕉にも、やはり深い関心をもっていました。
だからその後コロンビア大学で日本文学を講義するようになった際には、私は教材として芭蕉の『奥の細道』を用いました。その理由は、芭蕉は私にとって、時代や文化を超えて共感できる非常に近しい人間であるからです。
芭蕉は、51歳の人生を終える少し前、元禄七(1694)年9月に大坂を訪れました。
南御堂前、御堂筋の緑地帯に芭蕉翁終焉の地の碑が建つ。
南御堂前、御堂筋の緑地帯に芭蕉翁終焉の地の碑が建つ。
(ドナルド・キーン氏による芭蕉の句
の英訳)
(1)Along this road
There are no travellers ―
Nightfall in autumn.
(2)Autumn has deepened
I wonder what the man next door
Does for a living ?
(3)Stricken on a journey,
My dreams go wandering round
Withered fields.
此道や行人なしに秋の暮(1)
芭蕉のこの句には、孤独な旅人のなんとも言えないような気持ちがにじみ出ています。この道は自分の一生の道であり、俳句において自分が歩んできた道です。ところが、今はこの道を行く人はいない…。
しかし、その2日後には、またこう詠んでいます。
秋深き隣は何をする人ぞ(2)
宿の中で音が聞こえます。その人の顔は分からない。でもその音を聞いて、どういう人だろうかと考える。他人への興味の素朴な表明です。やはり芭蕉は世捨人ではなく社会の中に生きる人でした。そして…
旅に病で夢は枯野をかけ廻る(3)
突然の病に倒れた芭蕉の、これが最終吟です。病床でも彼の俳句への思いは未だとどまらないのです。しかし10月12日(陰暦)、南御堂に近い「花屋」の離れで、彼は門人たちに見守られながら亡くなります。
芭蕉の時代、大坂の俳句は、商人たちの趣味としての教養のひとつでした。そして大坂が天下の台所と言われたこの時代、どこの藩でも米の商いに大坂に行く人はみな「大坂弁」ができたそうです。いわば当時の「国際語」です。多分このおかげで、伊賀上野出身の芭蕉の言葉が、奥の細道でも通じたのでしょう。
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