宗祇法師

https://www.town.aridagawa.lg.jp/top/kanko/mokuteki/5/2985.html 【宗祇法師】 より

宗祇は西行、松尾芭蕉と並んで 放浪三代詩人と呼ばれるとともに、連歌を大成し、幅広く世に広めた連歌界の巨匠です。

宗祇法師は応永28年(1421)、紀伊国藤波荘(有田川町下津野)で生まれたと言われています。幼少期については明らかではありませんが、やがて京都に上り、本格的に連歌に取り組むようになりました。 そして、代表作である「三無瀬三吟百韻」(みなせさんぎんひゃくいん)をはじめ、文化価値の高い作品を次々と発表しました。

当時の連歌が単にことば遊びのおもしろ味を競い、賭博を伴ったものであったのに対し、宗祇は格調高い文学性と芸術性の高いものへと変化させていきました。

やがて彼の名は全国に広がり、時の将軍足利義尚から連歌師としては最高の役職である「連歌会所奉行」を、朝廷(後土御門天皇)からは「花の下」(はなのもと)という最高の称号を与えられ、連歌師最高の位にまで達しました。

漂泊の詩人とも呼ばれた宗祇は、諸国をめぐって連歌の普及に尽力しましたが、旅の途中に箱根湯本の早雲寺で82年にわたる生涯を終えました。その亡骸は弟子たちによって宗祇の愛した富士山に近い裾野の地の定輪寺に葬られました。

「連歌とは」

連歌とは、二人以上数人で歌を順番に詠む短歌遊びで、鎌倉時代から室町時代にかけて貴族や武士社会で盛んに行われました。 宗祇の連歌は命令表現や疑問・反語表現、願望表現など多様な表現が駆使されており、語彙には悲しむ、恨む、憂し、つらし等、心情的なものが多様されており、この2つが重なって叙情性の強いものとなっています。

このことが宗祗が「心の連歌師」と言われる所以で、「宗祇の前に宗祇なし」「宗祇の後に宗祇なし」と評されるほどの連歌界の巨匠なのです。


https://e-omi-muse.com/notohaku/acic/notogawa/sougi.htm  【[宗祗法師]と[連歌]】そうぎ・ほうし [1421~1502]

室町時代の連歌師に、宗祗という人がいます。俳句で有名な松尾芭蕉は「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」と『笈の小文』に述べているように、宗祗を自分の先を歩いた歌の大先輩として大変に尊敬しています。

能登川・伊庭氏の出身と判明。

宗祗の出生地については、近江説・紀伊説の二つがあり、江戸時代からはなぜか紀伊説が有力となっていました。しかし最近、広島大学名誉教授・文学博士の金子金治郎先生が、宗祗ハ江東ノ地ニ生マレ」と書かれている『種玉宗祗庵主肖像賛』や手紙などをもとにして、その生まれを近江守護・佐々木六角氏の重臣伊庭氏であると考究され、学会でも認められることとなりました。郷土の生ん偉大な文学者・宗祗法師について、いっそうの認識を深めるとともに、顕彰の運動を進めていきたいものです。

連歌は和歌から俳諧へ移る過渡期に生まれた文学で、二人以上の人が一つの歌を作ることを連歌(連句)といいます。室町時代に盛んとなりましたが、江戸時代に入ると、残念なことにさびれてしまいました。そして、俳諧・雑俳(川柳・冠句など)にとって代わられ、宗祗も一般の人々から忘れ去られてしまいました。


http://ufononatu.blog10.fc2.com/blog-date-20120110.html 【今日の辞世の句】 より

眺むる月にたちぞ浮かるる

宗祇の辞世の句。宗祇は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。若いころ京都相国寺に入り、30歳のころ連歌に志したという。宗砌、専順、心敬に 連歌を学び、東常縁に古今伝授を授けられた。文明5年(1473年)以後、公家や将軍、管領の居住する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、三条西実隆他の 公家や細川政元他の室町幕府の上級武士と交わった。応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が 見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表 現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。最期は文亀2年(1502年)弟子の宗長、宗碩らに 伴われて越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館で没し、駿河桃園(現:静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。

宗祇は日本の中世文学をやったら必ず出てくる人です。松尾芭蕉は『笈の小文』の中で「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵におけ る、利休が茶における、その貫通するもの一なり」と書いていますが、連歌においては古今無双の人物です。この句は下の句なので七・七で終わっている珍しい 辞世の句です。「眺める月にたって浮かれる」というのが、どのような状況なのかちょっと分かりにくいですが、死を前にして天に昇るような気持ちだったのでしょうか。


https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn001852.html 【(第208号) 古今伝授のまち三島(2) ~連歌師宗祇と古今伝授~】 より

 今年は、わが国最初の勅撰和歌集(ちょくせん)である古今和歌集(古今集)が成立してから千百年、新古今和歌集(新古今集)の成立から八百年という記念すべき年にあたります。

前古今伝授について概略を紹介しましたので、今回は三島で古今伝授を受けた連歌師宗祇を中心に紹介したいと思います。

飯尾宗祇(いいおそうぎ/1421~1502)は室町後期の連歌師で、中世文芸の連歌を全国に広めました。連歌とは五七五・七七の和歌形式から派生したもので、五七五の発句(第一句)に七七の脇句(第二句)を付け、これに五七五の第三句、さらに七七の四句というように、上の句と下の句を交互に付け進めるものです。今日の俳句は連歌の発句が独立したもので、俳聖松尾芭蕉も宗祇を敬慕していました。

 宗祇の若い頃は不明な点が多く、生誕地に関しても近江説、紀州説などがあります。幼い頃から京の相国寺(しょうこくじ)で禅の修行を積み、三十代より連歌を志し、五十代半ば過ぎからは京に種玉庵(しゅぎょく)あんを開き、ここを拠点に連歌の指導や『源氏物語』など古典の講義を行い、将軍や朝廷との親交の中で宗匠(そうしょう)としての地位を確立していきました。

一方、宗祇は旅の歌人としても知られ、『白河紀行』等数々の著作が生まれています。

さて、三島で行われたといわれている東常縁(とうのつねより)から宗祇への古今伝授は、文明3年(1471)51歳の時、正月28日から4月8日迄と、同年6月12日から7月25日迄の二度に渡って行われました。二度の伝授のうち、少なくとも初度は三島で、二度目は三島あるいは常縁の本拠地郡上(ぐじょう/岐阜県)で行われたと考えられています。ちなみに東常縁は室町時代の美濃国郡上篠脇(しのわき)の領主で、著名な歌人でもありました。

 また、三島滞在中の3月27日、東常縁の息子である竹一丸の病気平癒を願い、独吟『三島千句』を三嶋大社に奉納しています。この頃、関東の古河公方が韮山の堀越公方に対し攻撃をしかけており、常縁は堀越方の武将として三島に陣を張っていました。

 発句「なべて世の風を治めよ神の春」は戦乱の緊迫の中で、単なる病気平癒を越え、世の平和を祈願する意思が強く感じられます。

 文亀2年(1502)越後にいた宗祇は、門人である宗長と駿河に向かう途中、病のため箱根湯本で急逝しました。遺骸は「富士をもいま一度見侍らん」と言った宗祇の願いどおりに、富士山の見える裾野市の定輪寺に葬られました。

(広報みしま 平成17年9月1日号掲載記事)


http://www.kokindenju.com/kokindenju.html 【古今伝授とは】 より

「古今伝授」とは、古今和歌集の解釈を中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を師から弟子へ「秘説相承」のかたちで伝授することです。伝授する方法は、口伝、切紙、抄物があります。

「古今伝授」が生じた背景

「古今和歌集」は、日本最初の勅撰和歌集です。勅撰とは、天皇の命令によって編さんされるという意味です。905年、醍醐天皇の命を受けた紀貫之ら4人の撰者により著されました。

しかし、成立後 100 年も経つと、歌の本文や解釈に疑問が生じ、さまざまな解釈が行われるようになりました。

「古今伝授」の成立

鎌倉~室町時代にかけて当地の領主であった東(とう)氏の9代目当主・東常縁(とうのつねより)は、「新古今和歌集」や「百人一首」で知られる藤原定家の流れを汲む御子左(のち二条流)の和歌の流れを受け継ぐとともに、正徹や尭孝といった当代きっての歌人に学びました。

やがて、切紙による伝授方法を取り入れ、古今和歌集や関連するいろいろな分野の学説を連歌師・宗祇に伝授しました。この切紙を中核とすることにより、「古今伝授」の形式が確立しました。これにより、東常縁は「古今伝授の祖」と言われています。

「古今伝授」の中核

「古今伝授」の中核は、古今和歌集の講釈と、「三木三鳥」などの秘説を、切紙で授けることです。流派により異なりますが、

三木は、おがたまの木、めどに削り花、かはなぐさ

三鳥は、よぶこどり、ももちどり、いなおほせどり

とされます。

ちなみに、三鳥は古今伝授の里フィールドミュージアムの店舗に、三木は道の駅古今伝授の里やまとの店舗の名前にそれぞれ使われています。

その後の「古今伝授」

東常縁が連歌師・宗祇に「古今伝授」を行って後、再び古今伝授はいくつかの流派に分かれます。

安土桃山時代から江戸時代へ移る慶長年間、細川幽斎は分かれた「古今伝授」を集大成します。 1600 年、幽斎は、智仁親王に「古今伝授」を始めます。おりしも関ケ原の戦いの直前で石田三成方と徳川方の対立の緊張が高まり、徳川方の幽斎は居城・田辺城へ帰ります。その城を、石田三成方が包囲します。ところが、「古今伝授」の断絶を恐れた後陽成天皇の勅命により、城の包囲が解かれることになりました。

東常縁が確立した「古今伝授」が、後々まで尊重されたことを物語るエピソードです。

現在の「古今伝授」研究

これまで封印されてきた古今伝授史料が公開されるなか、中古・中世から近世にかけての文芸一般、またその時代の社会思想や文学理念のありようを追求する手がかりとして、研究がなされ始めました。

こうした研究資料の一部は、古今伝授の里フィールドミュージアム短歌図書館大和文庫で無料で閲覧することができます。

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