芭蕉と其角

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/10719155   【其角と芭蕉と】


https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1966/30/1966_30_25/_article/-char/ja/ 【其角の芭蕉観から石川 八朗】  より

引用文献 (3)

(註1) 「芭蕉と其角」 (『芭蕉と門人』所収. P60-92)

(註2) 「萃」を「あつまる」と訓むことは. 『周易』の彖辞に. 「萃ハ聚也. 順ニメ以テ説ク. 剛中ニメ而メ応アリ. 故ニ聚アツマル也」と見え. 『周易伝義』の本義の説には. 「萃ハ聚也. 坤順兌説九五剛中ニメ而メ二応ス二之ニ. 又為下沢ノ上ル二於地ニ一万物萃聚之象ト上故ニ為スレ萃ト」と説かれている. しかし. 「一もとの薄の」云々の典拠はなお明らかにできない.

(註3) 其角が. 何によって. この語を理解していたかわからないが. 『周易伝義』の説をあげる. 伝に「角剛而居上之物上九以テレ剛ヲ居ス二卦ノ之極ニ一故ニ取テレ角ヲ為スレ象ト以テレ陽ヲ居スレ上ニ剛ノ之極ナリ也在ニ晉之上ニ一進ノ之ナリ極也. 」


https://plaza.rakuten.co.jp/iyomantenoyoru/diary/200905050001/ 【芭蕉と其角】yori

芭蕉は其角のことを「彼は定家の卿なり」と評したという。

 切られたる夢は誠か蚤の跡

これは夏の夜にばっさりと刀で斬りおとされる夢を見て、はっとして目を覚ましてみると斬られたあたりに蚤に食われた跡が残っているという出来事を、早速に句に詠んだものである。去来がこの句を知って「其角は誠に作者にて侍る」と感嘆したのに芭蕉が応えたものである。

歌作りの名人藤原定家と同様な「さしてもなき事をことごとしくいひつらねる」ことのできる独特な才能を其角にみたのである。

 草の戸に我は蓼食ふ蛍かな

これは其角23歳の時の処女撰集「虚栗」に俳人としての決意を「蛍」に託して詠んだ句である。「草の戸」は質素な草庵のこと、「蓼」も世間周知の諺「蓼食ふ虫も好きずき」をふまえて、世人の振り向かぬ俳諧のようなものを志している身を寓している。

けれども己は闇夜に光を放つ蛍としてあるという自負もこめられていよう。

芭蕉の「蓼食ふ蛍」の句に対するものが

 朝顔に我は飯食ふ男哉

である。この寓意は其角よ、自分は草庵にあっても世人と少しも変わらず、朝は早く起きて庭の朝顔を眺めながら飯を食うような、当たり前のくらしをしている男なのだと言い放って諭している。

「草の戸」にありつつ夜になれば「蓼」ならぬ「酒食」を求めて柳巷花街を徘徊する其角の「伊達風流」を危惧したともいえようか。

のちに其角の「雑談集」に「品かはる恋」という句に自ら付けた「百夜が中に雪の少将」(雪の夜も厭わず百夜の間小町の許に通い続けた深草の小将よ」の句のできばえを自賛していたところ、芭蕉が「猿蓑」の歌仙で、「さまざまに品かはりたる恋をして」という前句に対して「浮世の果ては皆小町なり」と付けていたことに深い感銘を受けたといわれる。

自案のいかにも作意あらわで気のききすぎた点に思い至ったのであろう。

自身の絢爛たる才の閃きに対して不安を覚えたことであろうか。

其角はのちの江戸俳壇にあって堂々点取り宗匠として君臨したが、芭蕉の「閑寂」とははなれ「伊達な洒落風」を形成し、当時の町人階級のスターとしてかれらの好尚におおいに迎えられた。

其角は芭蕉を評して「そもそも此の翁孤独貧窮にして、徳業にとめること無量なり」と。

旅と老いと病の生涯にあって多くの門人を集め、世俗に染まらぬ生き方を貫いたことに敬意を払って惜しまない。

享楽的なくらしの中にも其角は一種の反俗・反権力精神を失うことがなかったともいえよう。


https://squatyama.blog.ss-blog.jp/2012-11-12 【飯島耕一『虚栗』の時代~芭蕉と其角と西鶴と(1) [読書・言葉備忘録]】 より

其角、英一蝶、芭蕉登場の小説『大江戸釣客伝』を読んだので、飯島耕一の表題書を読んだ。幸田露伴『芭蕉と其角』、今泉準一『其角と芭蕉と』を意識し、副題を『芭蕉と其角と西鶴と』。芭蕉と其角に井原西鶴を加えたところがミソ。以下私流解釈メモ。

 ①『虚栗』(天和三年、1683年刊の其角撰集)周辺の芭蕉と其角のあれこれ。まず『虚栗』以前の二人。其角は14歳で芭蕉の門を叩き<十五から酒をのみ出てけふの月>と詠んだ。十七歳からの号は螺舎(らしゃ)。二十歳の螺舎と三十七歳桃青(芭蕉)の句の比較。そして其角五十句(ねりまの農夫VSかさいの野人)を芭蕉が判定・判詞を書いた『田舎の句合』。仲のいい師弟ならではの句遊び。よぅやるねぇ。

 其角二十一歳、天和二年の歌仙「むさしふり」「花にうき世」「我や来ぬ」などを紹介。同年に井原西鶴『好色一代男』刊。同年は綱吉・生類憐令の五年前で、この国の詩と小説が同時期に盛り上がった黄金時と記す。西鶴の若き日の俳諧と放蕩を探り、同年の歌仙「錦どる」参加の暁雲(多賀朝湖、英一蝶)の句にも言及。

 ②天和元年に戻って桃青、其角などによる歌仙「次韻」の桃青<はしたなりける女房の声更て> 発情情景に其角<血摺のねまき夜や忍ふらん> 今日の俳句とは別種の句の光景が展開で、それが当時の新風胎動だと解説。

 ここで改めて井原西鶴の出自から青年期を森銑三『井原西鶴』からひく。西鶴は芭蕉と同世代。其角と同じ十五歳から俳諧を始めた。『好色一代男』は放蕩、俳諧、一日一夜独吟千六百句などの矢数俳諧で鍛えた文体、味の誌的小説だと解説。

 ③再び「錦どる」で「英一蝶」に言及。「荷風の小説にも出てくるこの画家は」とあるが「はて、どの小説か」。再び西鶴に戻る。彼は延宝三年(1675)34歳で25歳の妻を亡くし、名跡を手代にゆずって剃髪して江戸に下った。『好色一代男』の深川、築地、本所など各巻に江戸岡場所が出てくるのを解説。著者の其角らしき幻が出てくる短編現代小説『神田滅多町の女』は同巻三に江戸滅多町が出てくる故とネタを明かしている。(続く


https://squatyama.blog.ss-blog.jp/2012-11-14 【飯島耕一『虚栗』の時代~芭蕉と其角と西鶴と(2) [読書・言葉備忘録]】より

(1)に続くが、長くなるので私的解釈メモ。 ④京の俳人は『虚栗』刊前後にしばしば江戸に下って、芭蕉や其角と交わっていた。⑤幸田露伴『井原西鶴』と『芭蕉と其角』について。⑥今泉準一『元禄俳人宝井其角』、加藤郁乎『江戸の風流人』、柴田宵曲『蕉門の人々』、「日本古典文学全集」の『井原西鶴』の暉峻康隆校注に言及。

 ⑦「早稲田文学」での自身と加藤郁乎との対談をひき、乾裕幸『井原西鶴~全句集』へ。⑧著者が名付けた「虚栗の時代」(天保元年、二年、三年、貞享元年あたりの世情と事件調べ。

 ⑨西鶴『好色五人女』 『好色一代男』考察。 ⑩は旅がテーマ。『好色一代男』は色道修行の旅。世之介の寺泊の廓の物語から、『おくのほそ道』も旅で<一家に遊女もねたり萩と月>を並べひく。芭蕉と西鶴は水と油だが、色と情では合うのではと結ぶ。

 ⑪『虚栗』の其角句を紹介。⑫大阪天王寺の西鶴の墓へ。著者は感傷的になって亡くなった友を次々に記し、其角の芭蕉三回忌の句<しぐるゝや此も舟路を墓参り> ⑬『虚栗』の芭蕉と其角の歌仙全句。

 同署はみすず書房、1998年刊。併せて飯島耕一『詩の両岸をそぞろ歩きする』(清流出版、2004年刊)を読む。其角関連エッセイは「笑顔・種村季弘素描~其角は西鶴より二十の年下だったが」、「芭蕉と其角とは本当にどんな師弟だったのか」、「其角と芭蕉の深い因縁」があった。



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