大野きゆう句集「沖うらゝ」

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【大野きゆう句集「沖うらゝ」(新刊)】より

昭和22年1月、当時、ホトトギス九州七傑のひとりだった同い年の大野きゆうの    訃報に驚いた高濱虚子は、疎開先の小諸から、急ぎ弔句を寄せたのでした。

           冬ぬくき五島の島と聞きつるに          虚  子

今も、歳時記のバイブルと称される虚子編「新歳時記」に、元禄期の芭蕉や明治の子規・昭和初期の虚子門の錚錚たる俳人の例句と並び、26句のきゆうの俳句が採録されただけではありません。

明治41年から終戦の春までの37年間に及ぶホトトギス入選句を、かの高濱虚子が二度に分けて、再度、厳選した現代俳句のアンソロジー(名句選集)と称される虚子選「ホトトギス雑詠選集」に、きゆう句は九州では屈指の37句が採録されました。

「九州に大野きゆう在り」。女流俳人の地・福岡県は別格として、その名は広く西日本に知れわたっていました。

きゆうの居る五島・きゆう庵を訪ねたい、と二度も遙か離島の地を訪れた虚子の高弟・俳人池内たけしをはじめ、各地から西の果ての「きゆう庵」をはるばる訪れる俳人も多かったのでした。

 只、28年前に、内海紀雄氏がホトトギス誌のバックナンバーをつぶさに調べて入選句242句を、「浜木綿」に寄稿されたのが唯一で、著名句以外は句稿がどこにあるのか?これまでその所在が判っていませんでした。

 昨年年明け、ようやく65年ぶりに北海道江別市のお孫さん宅に大事に保管されていることが判り、昭和初期の五島の俳人、ホトトギス同人・大野きゆう句集「沖うらゝ」を出版できました。   

評 伝   海と島に寄りそった生涯

       ホトトギス同人・大野きゆうの足跡をたどる   内 海 紀 雄 著   《句 集 の 帯》

   いぶし銀のような珠玉を残してくれた島の先達

 長い歳月を経ても、きゆう句は人びとの心を微風のように包み、和ませてくれる。まことに人間の魂が紡いだものは、いつまでもいぶし銀のような輝きを失わない。

             香雪美術館長(元朝日新聞社代表取締役専務)

                                                 内 海 紀 雄

   俳句に無理をさせない

平易で、一見、平凡な描写こそが極める修練の五七五の大景。ことばを詰め込んでいないゆえに余韻をひくきゆう俳句である。

 五島文化協会会長      筑 田 俊 夫

修練を極めた「きゆう俳句」のいくつか

  あの辺も五嶋の内や遠山火

  雲雀野やここら嶋とも思はれず

  水論の夫の後ろに十字切る

  沖うらゝ知れる汽船も通らずや


https://ameblo.jp/a-takeshita/entry-11711784080.html 【沖うらゝ知れる汽船も通らずや 大野きゆう (長崎県五島市・福江島下大津町)】  より

沖うらゝ知れる汽船も通らずや 大野きゆう (長崎県五島市・福江島下大津町)

五島出身の俳人・大野きゆうの句碑のある展望台。

ツーデーマーチの休憩所になっていて、きょうはじめて訪れました。

けっか、緑と青の混ざった海の色、島なみの遠景、行き交う汽船の軌跡、そして北東に浮く“はえんかぜ”。

どれも地元のひとにとっては当たり前なのかもしれませんが、この風景、五島らしくて好きです。

東京出張の際、「五島らしさとは何か?」ということについて考えました。

海も魚も教会も、確かにすばらしい。けれども、それらは他所にもある。

個人的には“五島”らしさは、もうその名のなかに答えがある。そう、5つの島を中心とした、あまたの島のつらなり、つながり。五島の強みはやっぱりそこにあると思う。


https://www.facebook.com/city.goto.rekishi/posts/949347968463295/ 【五島観光歴史資料館】 より ·

長崎新聞(7/20)の「新・偉人紀行 36」に五島の俳人 大野きゆうが取り上げられました。

 大野きゆう(1874~1947)は大正から昭和にかけて、俳句雑誌「ホトトギス」に240句あまりが入選し、高浜虚子からも高い評価を受けた人物です。

写真の直筆のハガキは高浜虚子が大野きゆうの訃報に際し詠んだ弔句です。

「冬ぬくき 五島の嶋と ききつるに 」高浜虚子 

次の句は大野きゆうの昭和18年「ホトトギス」入選句であり先の元句になります。

「冬ぬくき 嶋に老ゆ身の ありがたく」 大野きゆう

五島文化協会会長・筑田氏によると、大野きゆうは高浜虚子を師と仰ぎ尊敬しつつも親しく交流していたそうです。二人は同じ年で共に末っ子。武家の家系で母は江戸の生まれと、とても似た境遇にあったそうです。これも、より親しさを増す一因であったのでしょうと。そして、虚子が生涯で弔句を贈ったのは全国で20人、九州では大野きゆうが最初で他には1人のみだそうです。

虚子の弔句には、「五島は暖かい土地であると何度も聞いているのに、なぜ風邪をこじらせて亡くなってしまったのか」という無念の思いがこめられているそうです。

私たちの郷土にこんな素晴らしい才能を持った人物がいらしたとは、誇りですね。

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