http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken1108/ 【伊能忠敬が歩いた道】より
その精密さと美しさで海外でも高い評価を受けた「伊能図」。文化9年から10年にかけて、長崎各地を測量した伊能忠敬の足跡を、彼が記した『測量日記』を元に辿る。当時、彼らが目にした長崎の風景、町の様子、地元の人との交流とは? シーボルト事件にも関与?
ズバリ!今回のテーマは「長崎を隅々まで歩いた男の結晶の話」なのだ
日本地図の基礎を築いた伊能忠敬という人物60歳越えての長崎歩き
伊能忠敬(いのうただたか)。その名を知らない人はそうはいないことだろう。忠敬は、江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による『伊能図』と呼ばれる日本地図を完成。明治以降国内の基本図の一翼を担い日本史にその名を残す、幕末日本の偉人の一人だ。
お察しの通り、ナガジン!で取り上げるからには、忠敬は長崎を訪れている。いやいや、「測量隊として上陸した」という方が適当な表現かもしれない。
忠敬らの測量は、1800年~1816年までの間、実測日数で3736日という長い歳月をかけて行なわれた(第1次測量~第10次測量)。その距離は、実に地球一周を超えるもので、欧米人の力を借りずに自国の正しい地図を作ったのは、当時アジアでは日本だけだったという。
『伊能図』には、1821年完成の『大日本沿海輿地全図』(大図214枚縮尺1/36,000、中図8枚縮尺1/216,000、小図3枚縮尺1 /432,000)のほか、測量ごとに作った地図や名勝地を描いたものなど約400種類もあるが、その大きな特徴は、どの地図も実際の測量に基づいているため、とても正確であるとともに、芸術的な美しさを備えていることだ。
手書きで作成されたその地図は、描画、彩色ともに丁寧かつ美しく、文字も巧緻を極めている。
忠敬がはじめて長崎に足を踏み入れたのは、文化8~11年(1811~14)の第8次測量で、いわゆる九州第2次測量。すでに66~69歳の高齢だった。文化8年11月25日江戸を出発。この時の随行者は忠敬が最も信頼を寄せた測量旅には欠かせない坂部貞兵衛(さかべていべえ)ほか全部で19名。その中には、後に子爵となる幕末の幕臣 榎本武楊の父にあたる箱田良助もいた。
離島を含め、伊能隊が巡った長崎ルートは以下の通り。
3月13日(文化9年)壱岐に向かう途中に二神島を実測。
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壱岐郷の浦に着泊(全島の沿岸街道や属島等を実測)。
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壱岐勝本で順風を待つこと4日、3月28日出帆、対馬厳原着
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3月29日より測量を開始し、全島実測。
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5月22日府中出帆宇久島に赴く。
7月29日を以って五島の測量終了(7月晦日福江を出発し九州本土に向かう)。
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途中、平島大島等を測る。
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8月8日彼杵半島に帰航(北端より起測)。
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西海岸を南進し8月17日長崎に到着(長崎の主要道路を測量)。
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9月3日長崎を出立。(沿海測進野母崎回り、4月15日矢上村付近にて昨年の島原方面よりの終測点に連接。九州全海岸線測量完結。
さて、そんな忠敬の測量隊(伊能隊)の様子を後世に伝える重要な資料が『測量日記』。これは、忠敬が56歳から72歳までの16年間、日本全地を測量した際の日記で、清書されたものが28冊、伊能家に現存している。そのうち、第1冊から第26冊までは、すべて忠敬の手記によるもので、27、28冊の伊豆七島測量日記は、老いて同行できなかった忠敬に代わり、出張した門人が記した。
毎日毎日、測量した土地で書き記したこの『測量日記』から、長崎での様子がうかがえるものを抜粋してみよう。
十二月七日 (文化9年)
曇り風時々雪。同所に逗留して測る。同村字ミトセ鼻より初める。大小(ヲホコ)島の渡り口に大印 を残す。二町一十五間(245m)が沿海。瀬戸の巾五十六間(102m)。大小島は一周五町五間五尺五寸(556m)。 小島は一周二町(218m)ばかりで遠測する。又、地方の大印より初める。(中略)戸根原川尻に原印 を残す。沿海一里三町二十一間三尺五寸(4,294m)。原印より横切り、外 の海辺の字古屋敷に当四日に残した印に繋げる。横切り二十一町五十八間二尺五寸(2,397m)。枝戸根(長崎市琴海戸根町)日蓮宗自証寺で昼休み。
【キーワード1/自証寺】
測量隊一行の坂部部隊が昼休みをしたのは、現存する自証寺。この寺は、万治元年(1658)、大村藩の家老、浅田安昌により祖母、自證院(じしょういん)の菩提を弔うために建てられた。境内の大きな2本の銀杏の木が国道からの目印となっている。
※2008.6月 ナガジン!特集「爽快ドライブ3~自然美あふれる琴海ドライブ!~」参照
八月十二日 (手分け) (以後文化10年)
晴天。瀬戸村(西海市大瀬戸町瀬戸)に逗留して測る。六っ時後に乗船する。一里余り(約4㎞)で池島へ渡る。
彼杵郡大村領神浦村持ち池島は人家百十軒。…中略…大池は一周五六町(約600m)ある。池島は一周一里二十七間五尺(3,977.88m)。
この島より、およそ二十町(2,182m)ばかりに蟇島(大蟇島)。蟇島は一周二十一町一十六間(2,320m)。大村より出る真図を用いて遠測する。同属の満切り小島(小蟇島)は一周三町四十九間(416.36m)。同前。
池島より一里(約4㎞)ばかりで母子島へ渡る。神浦村持ち母子島は一周六町四十間四尺(728.48m)。
【キーワード2/池島】
忠敬ら測量隊一行は、角力灘に浮かぶかつての炭鉱の島、池島へも足を運んでいた。池島の周囲は、現代においても約4kmと表現される。一里二十七間五尺(3.977,88m)とは、お見事!
※2005.8月 ナガジン!特集「炭鉱の島・池島探検!」参照
八月十七日
朝は曇天。四っ半頃より晴れ曇り。六っ半頃に大村領福田村を出立した。
同村の内、字観音岩鼻に昨日打ち止めた音印より初めて、惣一手で沿海を順に測る。字観音崎。御料所の高木作右衛門支配、浦上村の内、淵村字小瀬戸郷(小瀬戸町)。又、浦ともいう。赤瀬。左山上に小瀬戸の遠見番がある。(中略)左神崎大明神。左見当塀。岩穴がある。一名クヒチガヒ。長崎入江口。一名を玉ノ浦、鶴ノ浦、深江浦、惣名を長崎浦という。神崎台場前にて打ち止める。淵村庄屋の志賀和一郎(親善)と散使の滝次郎(金子滝次郎)の案内。(中略)沿海二十一町五十一間(2,383.64m)。沿海合計三十四町四十四間三尺(3,790m)。外に島を測り四町三十八間一尺(505.76m)。惣測一里三町二十二間四尺(4,295.76m)。
それより乗船して御料所浦上淵村の内、稲佐郷へ八っ後に着く。止宿は本陣が庄屋志賀和一郎宅と別宿が忠蔵宅。この日、浦上山里村庄屋高谷重十郎と長崎村庄屋森田貞六が出て来る。
【キーワード3/神崎神社】
かつて西側を男神、東側を女神と呼んでいた長崎入江口の様子が、往時から変わっていないことがわかる。今も女神大橋が架かる長崎港口の一番狭い場所には神崎神社(こうざきじんじゃ)が祀られている。
最終版伊能大図/部分拡大・長崎
松浦史料博物館蔵
また、淵村庄屋の志賀和一郎や、浦上山里村庄屋高谷重十郎、長崎村庄屋森田貞六との接触も興味深い。止宿先や、測量作業を手伝う現地郷夫の手配など、土地の有力者の協力は欠かせないものだったのだろう。
※2008.3月 ナガジン!特集「越中先生と行く長崎八景の世界~江戸期の景勝地~」参照
八月十八日
晴天。六っ半頃に稲佐郷、又浦を出立。乗船して五っ時後に長崎町へ着く。
乙名の春野半兵衛と横瀬半三郎が出る。四っ半頃(午前11時頃)立山役所へ届け に出る。当時の御奉行遠山左衛門尉の用人の福田仁右衛門と手付の豊田源治左衛門に挨拶する。
長崎町の止宿、炉粕町の大同庵に一同で泊まる。
【キーワード4/大同庵】
炉粕町の大同庵とある伊能隊の止宿先は、明治に入って東彼杵郡上波佐見村中尾郷に移った皓台寺の末寺 大同山慈雲寺のこと。諏訪神社や長崎奉行立山役所にも程近いこの地に、伊能隊一同、市中を測量した8月18日~9月2日までの14日間、また、長崎街道、時津街道を測量した9月16日、17日の2日間宿泊した。
また、長崎奉行遠山左衛門尉とは、“遠山の金さん”として名高い江戸町奉行の父で、84代長崎奉行 遠山左衛門尉景晋のこと。
※2010.12月 ナガジン!特集「犯科帳が教える江戸期の長崎」参照
九月朔日
晴天。同前。
阿蘭陀出島館、並びに象を見。
【キーワード5/象】
オランダ船二艘の入港で長崎の町は大賑わい。さらに象が乗り込んでいるとなればなおのこと。享和13年にも一度、象は輸入され、見物人で沿道は行列をなした。この年下り立ったのはセイロン産の象1頭。しかし、時の長崎奉行 遠山左衛門尉景晋は小麦100俵を与えて積み戻させたという。オランダ商館長はヘンドリック・ドーフ。豪華メンバーの顔合わせだ。
唐館を見る。(忠敬の手紙によると、この日は唐船も見学に行っている)
※2010.12月 ナガジン!特集「犯科帳が教える江戸期の長崎」参照
このページは『伊能忠敬の長崎市測量』を参考にさせていただきました。
シーボルト事件の発端
持ち出そうとした地図こそ
伊能忠敬の『日本図』だった
文政元年(1818)、忠敬が73歳でこの世を去った3年後の文政4年(1821)、『大日本沿海実測録』という14巻から成る実測記録とともに、最終版伊能図は弟子達によって幕府に提出された。正式名は『大日本沿海輿地全図』(大図214枚・中図8枚・小図3枚)という。
出島商館医として来日。長崎の村はずれである“鳴滝”の地に蘭学を教える「鳴滝塾」を構え、数々の門弟を世に輩出し、日本の医学に多大な影響を与えた医師シーボルト。彼が起こした「シーボルト事件」の大きな要因となったのも、実は国防上の最高機密品であった『伊能図』の持ち出しだった。
「シーボルト事件」の顛末は、次の通り。
文政11年(1828)9月、オランダ商館医のシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方兼書物奉行の高橋景保ほか10数名が処分。シーボルト自身も出島に1年間軟禁の上、文政12年(1829)、国外追放の上、再渡航禁止の処分になったというものだ。
樺太東岸の資料を求めていた高橋景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保は、最終版伊能図『大日本沿海興地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとしたわけだ。
シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた『伊能図』を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋は学者らしいシーボルトのために写しを同意した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。
しかし、シーボルトは危険を予知し、大急ぎで自作し持ち出した『伊能図』の写しは、正しい日本の姿を現す『日本図』として全世界に発信された。
ちなみにシーボルト事件は伊能忠敬に測量技術を学び、享和3年(1803)に西蝦夷地を測量した間宮林蔵の密告によるものというのが有力説。間宮は、当時、長崎奉行を経て勘定奉行となった遠山左衛門尉景晋の部下となり、幕府の隠密として全国各地を調査していた。
また、この事件が起きたのは忠敬の死後10年経ってから。つまり忠敬はその顛末を知ることはなかった。
伊能忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町生まれ。青年時代を横芝光町で過ごし17歳で伊能家当主となった。佐原では家業のほか、村のため名主や村方後見として活躍。その後、家督を譲り隠居して勘解由(かげゆ)と名乗る。50歳で江戸に出て、前述したように、寛政12年(1800)、55歳から71歳まで10 回にわたり日本全地の測量を行なった。忠敬の測量は、当初(第一次測量~第四次測量までの761日間)私財を投げ打って行なわれていたが、それが極めて高度なものであったことから、徐々に幕府からの支援が増強され、国家的事業に育っていった。忠敬は、測量によって緯度1度がおよそ111km程度に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であることを推測。この値は現在計測されている数値と0.1%程度の誤差しかなく、当時の忠敬の測量の正確さがうかがえる。完成した地図『大日本沿海輿地全図』は、極めて精度が高く、ヨーロッパにおいても高く評価された。
最後に--。
江戸時代、おおよその距離と徒歩交通に必要な情報が入った絵図があればよかった時代に誕生した「伊能図」。忠敬の地図が庶民のものとなるのは、幕府に提出された50年も後の明治時代だった。幕府の閣僚が予見したこの地図の必要性。真面目な忠敬がコツコツ積み重ねて描いた「伊能図」は、閉ざした国の国防のためではなく、新しい時代を切り開く道標であったのかもしれない。
参考文献
『伊能忠敬の測量日記』藤田元春(日本放送出版協会)
『伊能忠敬の地図をよむ』渡辺一郎(河出書房新社)
『伊能忠敬測量隊』渡辺一郎(小学館)
https://blog.goo.ne.jp/peaceorange/e/0fb40abe4a8ddb7414da78b39c79a8c8 【長崎県五島市 ・ 宗念寺 「 坂部貞兵衛の墓 」】 より
宗念寺は、福江市街にある五島藩第22代藩主五島盛利の生母、芳春の菩提所として建てられた寺で、境内には、伊能忠敬に従った坂部貞兵衛惟道の墓がある。
坂部貞兵衛は本名を坂部惟道といい、数学にも長じていた。
初め暦局に出仕して高橋景保の手附下役となる。文化 2年(1805)以来、忠敬の測量に随行し、そのまじめな性格によって、忠敬や部下の信頼を得ていたという。
貞兵衛は現地測量だけでなく、測量結果の室内整理にも積極的に協力し、老齢であった忠敬を内に外に支えた。
忠敬の全国測量は享和 3年(1803)以降、大手分(け)といわれる本隊と支隊がかなり長期に渡って別個に測量を実施する方法によって効率的に実施していた。
幕府の事業化した第5次測量以降(1805)に参加した貞兵衛も、やがて支隊の隊長となり忠敬を補佐し、力を発揮していたが、文化10年(1813)6月14日、若松日ノ島に入ったが、連日無理な測量のため、長崎県五島西海岸の測量中に病に倒れ、7月15日、福江で駆けつけた忠敬に看取られて、43歳の生涯を終えた。
忠敬はそのときの様子を長女妙薫へ、次のように書き送って、非常に心を落としていたという。
「 御存の通り測量ニ付き候ては、年来の羽翼ニ御座候間、鳥の翼を落候と同様ニて、大ニ力を落、致愁傷候。天命致方無之・・・・、自今我等ハ大骨折ニ御座候 」 と。
さらに、隊員一同を福江に集め、亡骸を現福江市の芳春山宗念寺に葬り、七日間仕事を休み、弔意を表し善後策を練ったという。
そのとき五島藩では3日の間、城下の歌舞音曲を差し止め彼の死を悼んだという。
息子の八百次、本名弘道も父の後を受け、文化12年(1815)から13年にかけての伊豆七島、相武地方などの測量に参加したが、これも文政 3年(1820)に病死した。
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