芭蕉の俳句 古池や… その意味はどこに?太宰・子規・漱石に聞く

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11403112?categoryIds=3430400 【心象の表現・自己表現としての俳句】

下記記事は「事象の写実から、心の内面も描く象徴詩的な芸術に進化」した句だと記しています。

https://lifeskills.amebaownd.com/posts/10331923  【芭蕉の「古池や」とゴーギャンの絵の象徴世界】

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/13504419  【象徴主義移入期の芭蕉再評価】

https://rhinoos.xyz/archives/17663.html 【芭蕉の俳句 古池や… その意味はどこに?太宰・子規・漱石に聞く】 より

いきなりで失礼しました、サイ象です。さてこれ、もちろんご存じですよね、かの”俳聖”松尾芭蕉の、あまりにも有名な一句です。

明治20年代、大学生だった正岡子規が試みたのを皮切りに、国内外の30人以上の詩人・学者によって英訳され、また英語以外でも数知れない言語に翻訳されてきた世界的傑作!

ちなみに子規の英訳はこうでした。

The old mere!

A frog jumping in

The sound of water

だからつまり「古びた池があって、そのほとりにいたら、蛙がそこへ飛び込んで、水の音が聞こえた」とそれだけのことですね。

🐸 世界的傑作!…でもどこが?

でも、でも……とひそかに首をひねる人も、ほんとはいるんじゃないでしょうか。一体どこがそんなに素晴らしいのか、と。もしそう突っ込まれたら、あなた、きちんと説明できます?できる人は少ないと思うんですよね。

そこで本日は、はばかりながら、この「古池」の句について、その意味の解説を試みたいと思うんです。

でもサイ象がでまかせに書くことなんかおよそ信用されないでしょうから、ここはすでにご登場ねがった”近代”俳句の大成者正岡子規と、その子規に俳句を鍛えられた夏目漱石と高浜虚子らの所説を紹介します。

それから俳句はまったくのシロウトながら、一家言をもっていたらしい太宰治にも特別主演をお願いしてあるんですよ~

(前座ですが;^^💦)

🐸 太宰治の「古池」解釈 というわけで、まず太宰治です。

自伝的というか紀行文的な作品『津軽』(1944)で、青森県金木の生家(現在は「太宰治記念館『斜陽館』」〔重要文化財〕として保存)に立ち寄った「私」は、雨の中傘をさして庭を歩きます。

池のほとりに立つてゐたら、チヤボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。この時まであの句の「どこがいいのか、さつぱり見当もつかなかつた」が、「それは私の受けた教育が悪かつたせゐであつた」と気づいたと言うんですね。

「古池の句」について学校で与えられていた説明はこうだった、と太宰。

森閑たる昼なほ暗きところに蒼然たる古池があつて、そこに、どぶうんと(大川へ身投げぢやあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々(じょうじょう)、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教へられてゐたのである。

この理解に立って「いやみつたらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん」とこの句を敬遠してきたけれども、今「いや、さうぢやないと思ひ直した」と言うのです。

余韻も何も無い。ただの、チヤボリだ。謂はば世の中のほんの片隅の、実にまづしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあつたのだ。

〔中略〕

月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まづしいものの、まづしい命だけだ。  (四 津軽平野)    

なるほどね。

「余韻嫋々」も「一鳥蹄きて山さらに静かなり」も、へったくれもない。

その、何もないところにこそ、この句の革新的な芸術性があった、というわけですね。 

ただ、太宰の説明で気になるのは「芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあつたのだ」という部分。

もしそれ(わが身につまされるもの)があつたのだとするなら、その時点で、もはや何もないとは言えない……この意味では、太宰の「古池」解釈は不徹底というべきなのではないか……という疑問が湧かないでもありません。

このあたり、明治以降の俳句の流れに最大の影響力をもったともいえる正岡子規はどう考えていたのでしょう。

🐸 理想も何もなき句

子規は大学を中退して『日本』新聞に入り、俳句関係の記事を書き続けますが、「古池の句の弁」と題する文章(明治31年。文庫本『俳諧大要』で30ページ以上)を連載したほどですから、やはりこの句については言いたいことが多々ありました。

要は、この句をもって芭蕉の最高傑作のように見なすのは「誤解」で、これが人口に膾炙したのは、俳句の新しい流れを生み出した最初の作品として芭蕉自ら喧伝した結果にすぎない

として、次のように述べます。「作者の理想は閑寂(かんじゃく)を現はす」か「禅学上悟道の句」かなどと「穿鑿(せんさく)する」人がいるが、それはただそのままの理想も何もなき句と見るべし。

古池に蛙が飛びこんでキヤブンと音のしたのを芭蕉がしかく詠みしものなり。     
もし芭蕉が、太宰の考えたように「わが身につまされるもの」をこの句に詠み込んだのだとすれば、そこにはやはりある種の「理想」が吹き込まれたことになるのではないでしょうか。だとすると、「ただそのままの理想も何もなき句」とは言えなくなってきます。

この意味で、太宰の解釈を子規がもし読めば、「誤解」と斬り捨てたのでは…とも思えます。

🐸 「古池」以前の句も見よう

その子規が「古池」の句になぜ30ページをも費やすのかといえば、もちろんその革新性

(どこが新しいのか)を説くためです。

それを解らせようと、「古池」出現以前の宗匠たちの「蛙」を詠んだ句を37句も並べて見せてくれているんですね。

そのいくつかを拾っておきます。

手をついて 歌申しあぐる 蛙かな 山崎宗鑑  詠みかねて 鳴くや蛙の 歌袋  失名

呪(まじな)ひの 歌か蛇見て 鳴く 氏利  赤蛙 いくさにたのめ平家蟹 椋梨一雪

要するに、「古池」以前の俳句(実際はまだ「俳句」とは呼ばれず「発句」ですが)とは、まあ、こんな感じでした。

これが打破されたのが、芭蕉が「古池や」という「未曾有の一句を得た」時だ、と。

このとき「日常平凡の事が直(ただち)に句となることを発明」した芭蕉は、ついに「自然の妙を悟りて工夫の卑しきを斥けた」と子規は説きます。

つまりこれを裏返すと、「古池」以前の句は「自然の妙」を見ず「工夫の卑しき」に走ったものばかりだったということですね。

自然とはいっても、山河や花鳥風月など目に見える風景などばかりを言うのではなく、それは芭蕉が「無分別」という語で表現したものと同じだ、と子規は指摘します。

つまり面白い句を作ろうという「工夫」すなわち「分別」をいったん忘れ去った境地……そこに「蕉風」(芭蕉流の俳句)がうぶ声を上げた、というわけです。

🐸 「禅理」を詠み込んだのなら「真の詩人」でない

ただ、ここでまた話が戻る可能性もあります。すなわち「理想も何もない」とか「無分別」とかを強調すると、それこそはまさに禅で唱えられる「無」の境地にほかならなず、さすれば「古池」の句はやはり「禅学上悟道の句」であったのではないか、と。

さあ、ここでご登場を願うのが、学生時代から親友の子規に鍛えられて俳人としても一家をなした夏目漱石です。

『文学論』の第三編第一章、詩歌の「寓意」や「象徴法」について解説した部分で、「例へば芭蕉の『古池や』に禅理ありと説く」類の解釈をこのように批判しています。

彼等若(も)し、かかる意味に於て詩を作りたるとせば、そは真の詩人ならざる証(あかし)なり。

凡そ文学に於ける象徴法は其(その)記号が代表する意義を思索の結果、読者に案じ出ださしむるにあらずして感情的に連想せしむるにあり。

この「感情的に連想せしむる」という部分が重要で、この条件こそ、”理屈屋”漱石が

「文学」と「文学でない文章」との間に引いた一線たっだのです。 

おそらく子規も賛成だったでしょう。

(『文学論』の元になった講義を漱石が東大でしたとき、子規はもうこの世の人ではありませんでしたが…)

だから、もし「無分別」、無「工夫」…と「無」を言挙げするなら、その「無」は禅でいう「無」をも含めて無化するものでなくてはならないはずなのです。

🐸 「工夫」の2段階

というようなわけで、ここで俳句における工夫というものについて、根本からおさらいしておきましょう。「古池」の句が忘れようとした工夫には2段階があったように思われます。

花鳥風月など古来、詩歌において愛でられてきた雅致のあるものを詠む。

桜 蝶Butterfly-Flower-s 滑稽さや洒落で笑いを誘う 美しくも可愛くもない「蛙」を詠んだ時点で

1.の工夫は捨てているわけですね。でも、初期の芭蕉がそうであったように、山崎宗鑑らの上に見たような行き方を続けるかぎり、2.の工夫は脱していない、ということになるでしょう。

この1.も2.ともどもに「工夫の卑しき」ものとして忘れ去ったところに、ふと偶然のように生まれたのが蕉風だ、というのが子規の見方だったわけです。

まあ「卑しき」という表現には語弊もあって、異論の余地もあるでしょうが、「古池」の句の意味をよく理解させてくれた点で、子規に感謝の拍手を送りたいですね。

🐸 まとめ

「古池」の句をめぐっては、子規の後継者と見られるの高浜虚子も、「そうたいした

いい句とも考えられない」としながら、「今後俳句の歩むべき正しい道」を芭蕉が

悟ったという「一紀元を画す」句として大きな意味を認めています。

(『俳句はかく解しかく味う』1918)さあ、これでもう大丈夫ですよね。

芭蕉の「古池や」の俳句ってどこがいいの?と突っ込まれた場合の対応法。

ともかく太宰・子規・漱石・虚子はこれだけのことを言っていますので、その中から気に入った部分だけつまみ食いして自分のものにしておけば、OKですよ。

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