https://blog.goo.ne.jp/qq3r99k/e/e27c7bf8167c51cc9ef147e3ebde6c96 【禅と俳句の境地は同じ】 より
松尾芭蕉は確か禅のお坊さんと付き合いがあり、学んでいたように思うが俳句を作る境地は、禅に通じている気がする・・・あるがまま、という境地だろうか。
私の好きな俳句を少し、紹介してみたい。
「いくたびも雪の深さをたづねけり 子規」
この俳句をよむたび、自分が経験した雪の積もる夜のしんとした状況がよみがえってくる・・・大自然の雪が自分のこころに積もっていくようななんとも世の中の動きを抑え、時を止めていくような感じ。
正岡子規が病に倒れ、世話してくれている妹にふと聞いた瞬間なのだろうか。
何度も深さを聞いただけの表現のなかにこころを詰まらせるものがある。
「柿食えば鐘がなるなり法隆寺 子規」
この詩は私には、絵が見える。茶屋だろうか、個人の家だろうか。一息ついて柿をほうばったときにご~んと鐘がなった。私には、法隆寺の上に真っ青な空が広がっているのが見えた。柿の珠の色と空の青の色がこころに広がって
美しさを感じた。
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉」
この句は、私にはどうしても一匹の蝉に思えなくなる。強い一匹の蝉が岩にしみこむように鳴いているというのが普通の解釈だ。
私の場合、小さいときに田舎の森へ遊びに行ったときのことを考えると、森に入ると雨が降るように蝉がざーざーないていた。それが、静かな森の中でしみこむような不思議な気がしたものだ。この句を見るとそのときの体験がどうしてもでてくる・・・
「五月雨を集めて早し最上川 芭蕉」
これは、自分が川面を眺めている気がしてくる詩だ。最上川ではないが自分の経験のなかにある川の流れを見ていると水の勢いや、流れが筋になって自然の力を表しているすがたがあり、それをぼーっと眺めてしまう自分がいる。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 芭蕉」
彼の浮かんでは止まぬ俳句への想いが感じられる。晩年の句だと思ったが夢と枯野の組み合わせがこれまで生きてきた生き様が見えるようだ。
まだ、まだ、という想いが伝わってくる・・・
「すみれほどな小さき人に生まれたし 漱石」
なんとも純な気持ちを感じる。すみれの薄いむらさきの色も見えて。
自分の生きている人生でいろんな苦悩があり、ふとすみれをみてそっと咲く純粋ななにもしがらみのない無垢な自分になりたいと思ったのではないか・・・なにかさわやかな感じがする。
「水枕ガバリと寒い海がある 三鬼」
これは、やはり、自分の経験と重なるので感動した句だ。
水枕に頭を乗せると、ガバリと水の音がする。横に向いてもガバリと。これを西東三鬼は寒い海ととらえた。
見事だし、面白いと思う・・・
「分け入っても分け入っても青い山 山頭火」
「うしろすがたのしぐれてゆくか 山頭火」
「とうしようもないわたしが歩いてゐる 山頭火」
種田山頭火は彼の生き様を思い、読むと彼の気持ちが入ってくるようだ。放浪の旅をしながら、そのときの心境が自分も経験した山の姿と重なりながら、つかめない心はだれにでもあるな、とか、自己へのあきらめや、自然のなかの自分の存在の確認のようななぐさめを感じ、簡単な表現だが読んだとき、一瞬思いにふける。俳句はたくさんあり、もっと取り上げたいが印象に残っているものを思い出してみた。
俳句は絵画とつながっているような感じで、絵がでてくるものが私は、わかりやすくて好きだ。
いろいろな解釈、定番のものもあるが自分の経験とあわせたりして楽しむのがうれしい。
いい作品は禅の境地に達しているように自然や人間の生業を見事にとらえているように思う。今後も折りあるごとに鑑賞していきたい。
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