旅の終わりは旅の始まり
https://lifeskills.amebaownd.com/posts/12307848 【また...旅が始まる】
http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/ogkaa01.htm 【大垣】より
<大垣>(おおがき)岐阜県大垣市
大垣は戸田氏十万石の城下町。また陸路(美濃路)と水路(水門川)が通じる物資の集散地であり、西濃地方最大の都市として繁栄しました。
芭蕉は八月二十一日(陽暦10月4日)頃に大垣に到着。芭蕉にとって大垣は幾度か訪れたことのある地。未知の地を巡る旅であった「奥の細道」の旅も、ここ大垣が結びの地ということになりました。
駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曽良も伊勢よりかけ合ひ、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入り集まる。
<現代語訳>馬に(乗って徒歩の苦労を)助けられて、大垣の町に入ると(折から)曽良も伊勢から来合わせ、越人も馬を走らせてきて、如行の家に(みんな)入り集まる。
前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其外(そのほか)したしき人々、日夜とぶらひて、ふたたび蘇生のものにあふがごとく、且(かつ)よろこび、且(かつ)いたわる。
<現代語訳>前川子、荊口父子(をはじめ)、そのほか親しい人々が昼も夜も訪ね来て、まるで生き返った人に会うかのように(私の無事を)喜んだり疲れをいたわったりしてくれる。
大垣では、多くの門人・知人から温かいもてなしを受けました。病気治療のため加賀の山中で別れた曽良とも無事再会を果たします。
「奥の細道」の旅はとりあえずここまで。しかし芭蕉の旅はまだまだ続きます。大垣には半月ほど逗留し、九月六日(陽暦10月18日)には、はやくも次の目的地、伊勢へと向けて旅立つのでした。大垣は新たな旅の出発の地になります。木因(ぼくいん)らの見送りを受け、舟に乗り込みます。
旅のもの憂さも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと又ふねに乗りて
<現代語訳>長旅の疲れの重い気分もまだ抜けきっていないうちに、九月六日(陽暦10月18日)になったので、伊勢神宮の遷座式(せんざしき)を拝もうと思い、再び舟に乗って…
<芭蕉の句>
蛤の ふたみに別 行秋ぞ(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
<句意>
蛤の(離れがたい)ふたと身とが別れるように尽きぬ名残を惜しみつつ、(私は伊勢の二見ガ浦へと出発することになったけれども)秋もまた去ろうとしている。
三省堂・新明解シリーズ「奥の細道」(桑原博史監修)より
https://setuoh.web.fc2.com/ohogaki/ohogaki.html 【奥のほそ道結びの地 大垣を訪ねる】より
露通も此みなとまで出むかひて、みのゝの國へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (おくのほそ道)
敦賀の色の浜まで出迎えた路通を連れて、馬に乗って大垣に入ると、木因や如行などの多くの親しい友人や門人などに歓待される。長らく芭蕉に同行していた曾良も駆けつける。芭蕉の旅は二週間後にはさらに伊勢へと続くが、おくのほそ道はここで結んでいる。元禄2年(1689)3月27日(新暦5月16日)に深川の採荼庵を発って以来、元禄2年(1689)年8月21日(新暦10月4日)頃大垣に到るまでの600里(2400km)の長旅を終える。それにしても芭蕉の健脚ぶりには驚かされるばかりだ。
初めて訪ねた大垣は、人口16万の岐阜県第二の都市。
駅前から伸びる広い通りは街路樹に覆われ、歩道の路端には様々な草花が植えられて、しっとりした感じだ。 市内を屈曲して通じる水門川の両岸は、遊歩道の「四季の道」として整備されて、「ミニ奥の細道」として22の句碑が並んでいる。無料のレンタサイクルで水門川を辿る。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」 立石寺) 「暑き日を海に入たる最上川」 (酒田)
「荒海や佐渡によこたふ天河」 出雲崎) 「一家に遊女も寝たり萩と月」 (市振)
「石山の石より白し秋の風」(那谷寺) 「さびしさやすまに勝ちたる濱の秋」(色の浜)
「折ゝに伊吹をみては冬こもり はせを」 八幡神社傍らに「大垣の湧水」の井戸があり、「おいしいかな」
大垣は地下水の自噴帯に位置していて、良質で豊富な地下水に恵まれ「水都」と呼ばれているそうだ。
「ふらすとも竹植る日はみのと笠 はせを」 馬場町
木因何某院居をとふ 隠家や菊と月とに田三反 はせを」 船町港跡
住吉橋。おくのほそ道結びの地の水門川の船町港跡に架かる。
「い勢にまかりけるひとの送りけれは 蛤のふたみに別行秋そ はせを」 船町港跡
「惜むひげ剃りたり窓に夏木立 白桜下木因」 船町港
「南いせくわなへ十りざいがうみち」 木因俳句道標
旅立つ芭蕉像。 船町港跡
芭蕉と見送る木因像。 この二人の距離は
水門川。桜の頃に、たらい舟で川下りができるとか。水質保全に様々な取り組みがされているそうだが……。
船町港跡から住吉橋を望む。「昭和初期には年間約1万もの船が行き来していた」そうだ。
住吉神社。海上交通安全の神様。船町港河畔に立つ。
「霧晴れぬ暫く岸に立給へ 如行」 船町港跡
住吉燈台。高さ約8mあり、岐阜県指定史跡。元禄年間頃に船町港の標識と夜間の目印として建てられた。船町港は、江戸から明治にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港。
秋の暮れ行く先々は苫屋哉 木因 秋に寝ようか萩に寝ようか 芭蕉
霧晴れぬ暫く岸に立給へ 如行 蛤のふたみに別行く秋ぞ 芭蕉
おくのほそ道結びの地の住吉公園一体は、「飛騨・美濃さくら三十三選の地」で、春の桜に秋の紅葉が美しい由。 道標。「左 江戸道」「右 京みち」。美濃路沿いにあったものの レプリカ。
おくのほそ道結びの地から1km程西に進むと、「芭蕉・木因遺跡」の標柱があり、そこに正覚寺という小さな寺がある。『俳聖松尾芭蕉の大垣来訪(4回)は俳友谷木因をはじめとした大垣俳人を訪ねてのことである。木因は芭蕉と同門で北村季吟に俳諧を学び、親交が深かった。大垣藩士近藤如行ら多くの俳人を芭蕉門下にした。元禄7年(1694)、芭蕉が浪華で病死すると、木因は深く悼み、「芭蕉翁」追悼碑を建てた。木因の死後、芭蕉、木因の因縁を偲び「芭蕉・木因遺跡とした。』 大垣市教育委員会
冷水山正覚寺本堂。
本堂前の墓地。大垣の俳人の句碑も並んでいる。
「 芭蕉翁」。左右に「元禄七戌年」「十月十二日」
あか/\と日はつれなくも秌のかぜ はせを翁』 木因墓。木因は船問屋を業とする富裕な商人。芭蕉を伊勢に運んだのも木因の舟だって。
大垣城は、関ヶ原合戦で西軍・石田三成の拠点となるが落城。その後、石川、松平、岡部、松平に続き寛永12年以降は、戸田十万石の城となる。現在の城は昭和34年に再建された。4層4階の珍しい天守閣を持つ。 昭和20年に戦災で焼失し、乾櫓を復興、天守、艮櫓などは外観復元してあるという。
大垣城旧柳口門。 艮隅櫓。天守閣は覆いがされて工事中。
柳口門から城内を見る。 戸田氏鉄騎馬像。18年にわたり藩政の基礎を築いた。
https://ameblo.jp/haiku17/entry-11787619327.html 【蛤のふたみに別れ行く秋ぞ(松尾芭蕉)】より
【蛤のふたみに別れ行く秋ぞ】(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)~おくのほそ道 結びの句/旅の終着・大垣(岐阜県)にて~
(訳)
蛤のふたと身とが別れるように、私は見送る人々と別れて、二見が浦(ふたみがうら)に出かけようとしている。ちょうど晩秋の季節がら、離別の寂しさがひとしお身にしみる。
(補足:元禄2年(1689年)春に江戸から始まった「おくのほそ道」の旅は、同年秋に大垣で終わります。
長旅の疲れがまだとれない芭蕉翁でしたが、このあとすぐ伊勢神宮の遷宮を拝観しようと、また舟に乗りこみます。
この結びの句は、その時につくられたものになります。ここで、「おくのほそ道」は幕を閉じますが、ふたたび舟に乗りこむ芭蕉翁の姿は、「旅の終わりはまた、新たなる旅の始まり」という永遠の旅を続ける芭蕉翁の生き方を鮮明にあらわしているのではないでしょうか。
*次回以降はあらためて、おくのほそ道の旅のはじめ頃に戻り、俳句を中心に旅の順にご紹介していきたいと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【(超訳☆想像)芭蕉翁から現代人へのアドバイス】~こころとカラダの美的エッセンス~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
旅は一度終わるからこそ、また新鮮な旅の始まり(の感覚)を味わえるのです。
もし人生において、(あるいは)目標達成などにおいて、なかなか達成感が味わえなかったり、次のステージに進めず挫折感を抱くことが多い場合には、一つ一つの旅(目標)を短く(細分化)してみましょう。
つまり、一気に大きな目標達成を狙うのではなく小さな目標をつくり、それをクリアしていくことで、ワクワク(自己肯定感を育み)しながら、結果的に大きな目標を成し遂げる。
そうすることにより、より速く旅(目標)を終える(達成する)ことができたりもするのです。
狙う結果は同じですが、プロセスの中で抱く感情をよりワクワクしたものにできるように工夫していきましょう♪
------------------------------------------
「 当ページをお読みくださっているみなさまにとっては、本日の松尾芭蕉翁のことばから、
どのような学び(アドバイス)が得られますか・・・
イマジネーションの中での(芭蕉翁との)対話により、現代社会に適応させるための「超訳」(想像解釈)を独自におつくりになってみませんか? 」
------------------------------------------
時も、人生も、永遠の旅人也~素敵な旅(人生)を☆
https://wabisabi-nihon.com/archives/18529 【松尾芭蕉「奥の細道」の旅・終着「大垣」の俳句はハマグリだった!?】 より
この記事を読むのに必要な時間は約 7 分です。
こんにちは、このかです。
今日は、松芭蕉の『奥の細道』の最後の句(結句)について、お伝えします。
芭蕉は、1689年(元禄2年)3月に江戸を出発し、『奥の細道』の東北の旅に出ました。そして、その旅のゴールは、岐阜県の大垣です!
3月から8月、約150日間もの長旅でしたよ。
そこで彼は、前もって出迎えに来ていた、たくさんの弟子たちに大歓迎されます。
さすが、人気ものですね!
今回は、『奥の細道』の終着地、大垣での芭蕉の様子と結句(俳句)をお伝えします。
『奥の細道』旅のフィナーレは岐阜県の「大垣」!
今回の旅のゴールは、美濃国(岐阜県)の「大垣」です。
ついに、芭蕉が旅の終着地に着くという知らせをうけとった、蕉風グループの多くの門人たちは、喜び勇んで美濃国(岐阜県)大垣に迎えに行きました。
敦賀の港には、まず「露通(ろつう)」が迎えに来ていました。
露通は、この『奥の細道』の旅の道連れ候補だった人なのです。彼は、素晴らしい俳句を作る人なんですけど、めっちゃいい加減な性格をしていたのです。
それで、彼にはマネージャー役はとても務まらないだろうということで、しっかり者の曾良に決まったのでした。
その曾良は、この旅の途中、山中温泉でお腹を壊して、芭蕉と別れてしまいます。養生するため、一足先に伊勢の親類のもとに行ったのでした。
曾良と別れるとき、芭蕉はすっかり落ち込んで心細い思いをしたようですよ。
芭蕉は、露通と共にそのまま大垣に着き、元大垣藩士の武士で、もう隠居している門人「如行(じょこう)」の家に温かく迎えられます。
本当に、全国各地に門人や芭蕉ファンがいたとわかりますね~。さすが、有名人です♪
曾良も大垣で待っていました!
山中温泉で腹痛のため衰弱してしまった曾良は、芭蕉と別れて療養するために伊勢に向かいました。芭蕉の足手まといになってはいけないので、伊勢の縁者の所へ行ってゆっくり体を治すことにしたのです。
芭蕉がとうとうゴールすると聞いた「曾良(そら)」は、伊勢から大垣へやって来て、待っていたのでした。
さらに、門人の「越人(えつじん)」も、馬を走らせて会いに来ました。
次々とお祝いに門人たちが駆けつけます。
芭蕉は、そのときの様子を、「まるで生き返った人間でもあるかのように」、みんな再会を喜んでくれたと記しています。うれしかったでしょうね~♪
このときの雰囲気から、蕉風グループの温かさと団結力が、伝わります。これも芭蕉の人徳でしょうか。
【結句】蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
大垣で数日過ごすと、芭蕉は、もう次の旅に出ますよ。
10日に行われる伊勢神宮の遷座式に間に合うようにと、9月6日、再び舟に乗ったのでした。
そして、ここで、この旅の最後の一句(結句)を詠みます。
蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行(ゆく)秋ぞ
(伊勢のハマグリの「ふた」と「み」がなかなか切り離せないような、離れがたい思いを振り切って、私はこの懐かしい人々に別れを告げ、二見浦のほうに向かって、新たな旅の一歩を踏み出す。秋が行き、冬に向かうこの時節に。)
ハマグリの「蓋と身」向かう伊勢の「二見ヶ浦」(地名)を掛けていますね。
あとは、この結句の「行秋ぞ(ゆく秋ぞ)」と、旅の始めの旅立ちの句「行春や(ゆく春や)」を呼応させています。春に旅立ち秋に旅が終わったと、強調させているとわかりますよ。
呼応させているという「旅立ちの句」は、これです。
↓
行春や 鳥啼魚の 目は泪(ゆくはるや とりなきうをの、めはなみだ)
そして、松尾芭蕉はこの結句を、西行の次の和歌を意識して作ったのは、明らかだと思われます。
今ぞ知る 二見の浦の はまぐりを 貝あはせてと おほふなりけり(by西行)
おわりに
『奥の細道』の最後の地・大垣に、芭蕉は15日間ほど滞在したようです。
そこでたくさんの門人たちに祝福され、また、次の旅に出たのでした。
奥州路の旅は終わりましたが、これからも芭蕉の「旅を住処(すみか)」とする日々は、続くのですねー♪
https://yeahscars.com/kuhi/hamaguri/ 【蛤のふたみにわかれ行秋ぞ】 より
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ松尾芭蕉、1689年(元禄2年)の「おくのほそ道」の最後を彩る句。9月6日(新暦10月18日)、伊勢神宮の遷宮を拝もうとして、大垣の舟町から伊勢長島へと舟を出した時の句。その時の情景は、「大垣」の項にある。
露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
内宮の9月10日の遷座には間に合わず、9月13日の外宮の遷座式に芭蕉は参列している。
この句の「蛤」は、伊勢名物。「ふたみ」は伊勢の「二見浦」と貝の「蓋」「身」に掛かる。「旅立」項に「行春」で詠まれた「行春や鳥啼魚の目は泪」に対応した句である。
なお、元禄二年九月二十二日付の杉風宛の書簡には、以下のようにある。
木因舟に而送り、如行其外連衆舟に乗りて三里ばかりしたひ候。
秋の暮行先ゝは苫屋哉 木因
萩にねようか荻にねようか はせを
霧晴ぬ暫ク岸に立玉へ 如行
蛤のふたみへ別行秋ぞ 愚句
二見
硯かと拾ふやくぼき石の露
先如此に候。以上
九月廿二日 はせを
ここでは、「蛤のふたみへ別行秋ぞ」とある。これが初案か。
https://nihonsi-jiten.com/okunohosomichi/ 【【奥の細道とは】簡単にわかりやすく解説!!内容やルート・俳句の意味・作者について】 より
奥の細道とは?
奥の細道とは、江戸時代の俳人『松尾芭蕉』が、尊敬する西行の五百年忌にあたる1689年(元禄2年)に江戸を出発し、東北から北陸地方を実際に旅し、それぞれの地の様子などを文章や俳句でまとめた旅行記、所謂『紀行文』のことです。
奥の細道が書かれた当時の時代
“奥の細道”がまとめられたのは、どのような時代だったのでしょうか。
①元禄の世
元禄時代は、有名な五代将軍徳川綱吉の時代ですね。
江戸初期の様々な混乱も落ち着き・・・政治は文治政治へ転換
新田開発などにより農業生産力がUP 海運業も盛んになり商品流通が発達
貨幣経済も発展して京都大阪などの上方を中心とした町人文化である元禄文化が栄えた時期
となります。
武力ではなく、学問や教育によって国を治める文治政治。 徳川幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍家継の時代まで行われました。 今回はそんな『文治政治』について簡単にわかりやすく解説していきます。 文治政治とは 文治政治(ぶんちせいじ)とは、武力ではなく学問や教育によって国を治める政治のことです...
江戸時代の文化の隆盛期は江戸前期の元禄年間(1688年~1704年)と江戸時代後期の文化・文政年間(1804年~1830年)です。 これらの時期に発展した文化は、それぞれ元禄文化、化政文化と呼ばれます。 今回は江戸時代前期に栄えた元禄文化の詳しい内容を、わかりやすく説明していきます。 元...
②当時の有名人
松尾芭蕉とその「奥の細道」は元禄文化を代表するものですが、他にも・・・
浮世草子「日本永代蔵」の『井原西鶴』 浮世絵「見返り美人図」の『菱川師宣』
「紅白梅図屏風」の画家『尾形光琳』「曽根崎心中」の浮世絵作家『近松門左衛門』
など有名人が沢山います。
奥の細道の作者「松尾芭蕉」について
①日本史上最高の俳人
1644年三重県伊賀市で誕生した松尾芭蕉は、19歳から俳句をたしなみ『俳諧師』として身を立てるべく江戸へ移り、その才能を開花させます。
当時の俳諧の一派であった談林派の宗匠(和歌や連歌、文芸などの師匠)となりますが、後に蕉風俳諧を打ち立て、俳諧を単なる言葉遊びではなく、自然や庶民の情を含んだ表現豊かなものへと高めていきます。「俳聖」と呼ばれる芭蕉が俳諧へ与えた影響は大きいものでした。
②忍者?隠密?謎の人物
“奥の細道”の移動距離と行程を考えると、一日平均16㎞、最大50㎞近く歩いたとされ、健脚だったとは言え45歳の芭蕉には厳しかったと推測されます。
その為「芭蕉は忍者だった」という説もあります。伊賀出身だからでしょうか。
また、百姓出身であるにもかかわらず「松尾」姓をもらっていることから、幕府との繋がりがあり、旅自体が幕府の隠密行動だったとする説もあります。
これらの真偽は定かではありませんが、尊敬する平安期の歌人『西行法師』の足跡や古歌の名所・旧跡など【枕歌】を巡るための旅だったとするのが通説となっています。
奥の細道の内容
芭蕉が弟子の河合曾良(かわいそら)を連れて江戸を出発、東北~北陸をめぐり岐阜大垣に至るまでの全行程2400㎞、約150日間の旅の旅行記である“奥の細道”はその土地を文章で説明し、俳句を一つ詠むという形式でまとめられています。
①冒頭と序文
≪月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり(月日は永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、毎年来ては去る年もまた旅人のようなものである)≫で始まる冒頭は非常に有名ですね。その後の序文では船頭や馬方を例に出して「人生とは旅である」とする人生観を表しています。
②ルート
江戸の深川を出発し、栃木県の日光から松島、平泉にいき、日本海側の山形を通り新潟から金沢に入ります。その後福井を通り岐阜の大垣に到着。その後伊賀に出発するまでが“奥の細道”のルートになります。
奥の細道を巡る
旅の出発から終了までの色々なエピソード、有名な句をいくつかみてみましょう。
①旅立ち
1689年3月27日、芭蕉は曾良と共に出発します。旅立ちにあたりこの句を柱にかけて家との別れと新しい住民への挨拶としたそうです。
「草の戸も住み替わる代ぞ雛の家」(このわびしい草庵も隠者の住まいから世俗の人の住まいに代わり、雛人形など飾る楽しい家になることだろう)
また旅の最初に・・・
「行春や鳥啼魚(とりなきうお)の目に泪(なみだ)」(春が過ぎ去ろうとしているが、それを惜しみ鳥は鳴き、魚も目になみだを称えているようだ)
と詠み、親しい人々と別れる寂しさと共に、これからの旅への期待感を含ませていました。
②日光(茨城)~黒羽(栃木)
出発してから船に乗って千住に渡り、日光街道の草加を通って日光東照宮に詣でます。
その後、栃木の黒羽町では大歓迎を受け、旅の中でも長期滞在となりました。
滞在中には芭蕉の師である雲巖寺の仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)を訪ね、さらに九尾の狐伝説の『殺生石』、尊敬する西行法師が立ち寄ったとされる『遊行柳』を見学し、感無量だったようです。
殺生石は那須高原の史跡として今も見に行くことが出来ますので、安全に気を付けて訪れてはいかがでしょう。
③白河の関(福島)~松島(宮城)
黒羽からさらに北に進み、有名な【白河の関】へ到着します。
白河の関は東北の玄関口とされ、芭蕉は古歌や故事を偲ぶのに夢中で句を詠む余裕がなかったとされています。
その為、弟子の曾良が句を詠みました。
「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」(かつてこの白河の関を通るときに陸奥守が敬意を表して衣装を代えたというが、そこまでは出来ないけれどもせめて卯の花を頭上にかざして敬意をしめそう)
その後日本三景のひとつ松島に到着します。松島は旅の当初から“旅の目的“と言われている場所でした。
塩釜から舟で松島入りしたようで、この航路は現在も運行している人気航路のようです。
芭蕉は絶景を眺めた時には詩作を控えるという中国の文人達の姿勢に倣い、ここでも句は残していません。
④平泉(岩手)~出羽(秋田)
石巻を経て平泉に入りますが、ここは旅の折り返し地点でもありました。
ここでの句は非常に有名ですね。奥州藤原氏滅亡の地で、かつての戦いと悲劇の物語に思いをはせ
「夏草や兵どもが夢の跡」(ここはかつて源義経や藤原氏が栄華を夢見たところだけど、今はただ夏草が深く生い茂り、はかなく散った兵の事を哀れに感じる)
また、藤原氏の霊廟金色堂の姿を見て「五月雨の 降り残してや 光堂」(毎年降るはずの五月雨がこのお堂にだけは降らずに残していたのだろうか、光堂という名の通り輝いている)という句も残しています。
その後奥羽山脈を越えて出羽国で山寺(立石寺)に立ち寄った際に、「閑かさや岩にしみいる蝉の声」(あたりは静かで物音ひとつせず静まりかえっている。その中で蝉の声だけが岩にしみいるように聞こえて、静寂さをいっそう引き立てている)という有名な句が詠まれました。
⑤最上川~象潟(きさかた)
日本三大急流の一つである最上川を下り最北端の地、当時は松島にならぶ景勝地であった秋田の象潟に到着します。
ここでは表現が綺麗な句として「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」(象潟の海岸地にて雨でしおれたねむの花が咲いているが、まるで中国四大美女の一人西施がうつむいているようだね)と詠んでいますが、花の幻想的な美しさがとてもよく伝わります。
⑥北陸道~大垣
再び日本海沿いに南下し、佐渡島を臨んで悲しい佐渡の歴史を偲びつつ、日本海の荒波を詠みました。
「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」(荒く並立った海の向こうに佐渡島が見える、その上に天の川がかかって雄大な景色である)
その後山中温泉で、病気療養の為に伊勢に行く曾良と別れます。一人旅となった芭蕉は寂しげな句を残しています。
そして敦賀を通り最終着地である大垣に入り、ここでは多くの弟子たちがお出迎えをしてくれました。
曾良も療養から戻ってきていました。
そして、また再び大垣から伊勢神宮の遷宮を拝観しようと船に乗り、最後の句を詠んで“奥の細道”が終わります。
「蛤(はまぐり)のふたみに分かれ行く秋ぞ」(伊勢の蛤の「ふた」と「み」がなかなか切り離せないように離れがたい思いをふりきって、この親しい人々と別れを告げ、私はまた旅立とう、この秋が過ぎて冬に向かう季節に)
この句は旅立ちの最初の句(行春~)と(行秋~)で対になっており、諸行無常の観念を示していると言われています。
奥の細道から受けたもの
芭蕉はこれらの旅で自然の美しさや人との触れ合い、そして時には無常の世の流れ、古の想い等を受け取っていき、「俳句」の持つ伝える力に深みを与えていったのです。
そして【不易流行(ふえきりゅうこう)】という俳風を新しく考案します。
これは「いつまででも変わらない本質的なものの中にも新しい変化をもとめていく」という考え方になります。
まとめ
✔ “奥の細道”は松尾芭蕉が書いた紀行文のこと。
✔ 松尾芭蕉は江戸元禄期の有名な俳人。
✔ 芭蕉は45歳の時に弟子の曾良を連れて旅に出発した。
✔ “奥の細道”の旅は江戸の深川から日光、平泉、山形、新潟とめぐり大垣まで、全工程:距離2400km、約150日間の旅であった。
✔ 芭蕉は言葉遊びや滑稽が売りの『俳諧』に心情を入れ情緒豊かな文芸へと高め、芭蕉の俳諧は「蕉風俳諧」と言われた。
✔ 旅の後、新しい考え「不易流行」を俳風へ取り込んでいくようにした。
✔ “奥の細道”は芭蕉の死後まとめられた紀行文となるが、その伝える力で今日も日本国内のみならず海外でも人気が高い
0コメント