(1007-1072)廬陵の人。謚は文忠、酔翁・六一居士と号する。枢密副使、参政知事として声名が高かったばかりでなく、北宋時代の詩文革新運動の主導者として、王安石・蘇軾らの人材をその門下から出した。文峯寺古運河沿いにそびえる、高さ40mの塔。1582年に創建された八角七層の荘厳な塔です、長距離バスターミナルの近くにある。この古運河から長江へ抜けられる。鑑真が日本へ出発したところでもある。東門から続く主要道路であった。只今復元中です。上級官吏が多く住んでいたようだ。唐代には長安(西安)、洛陽、に次ぐ大きな街で城壁に囲まれていた。表側のみで横から見ると中身がありません。アヘン戦争の時、長江を上って来る英国軍を迎え撃った。昔の城壁を表した模型遺跡のみで現存していません。「法のためである。たとえ渺漫たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。お前たちが行かないなら私が行くことにしよう」と、井上靖は「天平の甍」の中で、鑑真にそう言わしめている。https://loungecafe2004.com/historical/inoue-yasushi-tenpyou-no-iraka 【井上靖の「天平の甍」を読んだ感想とあらすじ(面白い!)】 より昔は留学することは、まさに命がけであった。まず、渡り切ることができるか分からなかった。そして、渡りきっても帰ってくることができるかどうか分からなかった。むしろ、帰ってこられないで、海の藻屑と消える確率の方が遥かに高かった。留学して、勉強に励み、そしてせっかく得た知識を国に帰って役立てようと思っても、その志を遂げられなかった優秀な人物がどれくらいいたことか。奈良時代とはそうした時代であった。そういう時代の中で、本作品の主人公・普照と同僚の栄叡が成し遂げた偉業は、歴史に名を残すにふさわしいものであったろうと思う。そして、仏教が伝来して日の浅い日本に、ちゃんとした仏教を広めたい、高僧を唐から招きたい。そんな当時の仏教界の強い意志というものが、この様な奇跡を後押ししたのだろうと思う。鑑真の来日という事実は歴史上の一つの結果でしかない。しかし、そのことを実現するために、国としての日本が払ってきた犠牲は、国を担うはずの優秀な留学生の命と留学僧の頭脳であり、船を操っていた船員達の命である。国はこの様な犠牲が生じるのが分かっていても遣唐使を派遣することは止めなかった。そこに国としての意思があり、覚悟が伺える。そして、それらの重責を留学生も留学僧も分かっていたはずである。だからこそ、留学生や留学僧は運良く帰国することができたら国を支える中枢にいることができたのだろうと思う。こういう犠牲があるのを分かってこそ、はじめて国を支えることができるものであることを再認識させてくれる小説である。「歴史小説の周囲」の「天平の甍」に関する井上靖氏のエッセーも興味深い。内容/あらすじ/ネタバレ第九遣唐使派遣が決まったのは聖武天皇の天平四年(西暦七三二年)のことだった。この第九遣唐使に留学僧として普照、栄叡が選ばれた。まだ日本には戒律が備わっておらず、適当な伝戒の師を請じて日本に戒律を施行したい。ついてはその伝戒の師を師を連れてくるようにというのが二人に課せられた仕事であった。船が出発するにあたり、二人の他に戒融、玄朗という二人の留学僧も加わった。船は波浪にもてあそばれ、船酔で苦しむものが続出した。だが、難破することなく蘇州へと漂着することができた。一行は、そこから洛陽へと向かった。当時の朝廷は長安ではなく洛陽にあったからである。時の皇帝は玄宗であった。留学僧の四人は洛陽の大福先寺に入れられた。ようやくにして留学の生活が始まった。ある日普照は業行という先輩留学僧に会った。業行はまだ日本にない仏典を写経しており、その数は膨大なものに上った。それらの中には密教の仏典もあった。普照が業行とあってからの後のこと。戒融が出奔した。都が再び長安に移るにつれ、三人も長安へと移った。長安に移ってから、日本の仏教界の話が洩れ聞こえてきた。その話を聞き、栄叡は留学にあたって、戒師を連れ帰るという仕事を早く進めなければならないと思い始めた。また、業行も自身の写経がほぼ終わり、日本に教典を持ち帰りたいと思っていた。栄叡は戒師として、名高い鑑真の弟子を何人か連れ帰りたいと考えていた。その旨を鑑真にお願いしに行くと、あらんことか鑑真本人が日本へ行くというではないか。栄叡は感激してしまった。これより、栄叡は鑑真を日本へ連れて行くための準備に入る。そして普照も手伝うことになった。だが、日本への渡航は困難を極めた。最初は出航することすらできずに失敗、そして次は船が難破してしまう。">