https://sengohaiku.blogspot.com/2024/02/219-002.html 【【抜粋】〈俳句四季12月号〉俳壇観測251 黒田杏子さんを偲ぶ会 ――『証言・昭和の俳句』の真実 筑紫磐井】より
偲ぶ会
9月17日(日)、東京千代田区の如水会館で、「黒田杏子さんを偲ぶ会」が開催された。黒田杏子がもう一つ深く関係していた「件の会」の偲ぶ会はすでに6月に行われており、今回は藍生の主催ということで圧倒的に藍生俳句会会員が多かったが、故人の交友の広さから俳壇他各界からつどい、主催者によれば400人近い参会者があったという。
午後1時から藍生会員岡崎弥保氏が司会を務め、主催者を代表して藍生会員の深津健司氏から挨拶があった。
来賓として、俳人の横澤放川氏、フリーライターの中野利子氏から挨拶があり、平凡社会長の下中美都氏による献杯の発声があった。
その後食事、懇談が進み、故人と親しかった者からのスピーチとして、ワシントンから来た藍生会員のアビゲール・フリードマン氏、筑紫磐井、エッセイストの下重暁子氏が壇上で黒田杏子の思い出を行った。
最後にご夫君の黒田勝雄氏が、言葉に詰まりながら感謝の言葉を述べられた。8年前脳梗塞で倒れて以来何処へ出かけるにしろ二人で行くことになり濃密な時間を過ごされたらしい。
黒田杏子がこれからどう評価されるかは難しいものがある。たとえ「藍生」の後継誌ができても、黒田杏子の活動の総てを引き継ぐことは難しいはずだ。「件」の会でも難しいかもしれない。その意味で黒田杏子の全活動を後世の人に知ってもらうためには、志を同じくする支援者が協力し合うことが必要だろう。少しそうした動きも出始めているとは聞くので期待したい。
『証言・昭和の俳句』
黒田杏子の生涯を振り返った時、多くの作品、様々な活動が万華鏡のように脳裏に浮かぶが、一代の事業として挙げられるのは、この『証言・昭和の俳句』(角川書店平成14年)をまとめたことに尽きるのではないか。『証言・昭和の俳句』は黒田杏子が金子兜太などの戦後派作家13人にインタビューした企画である。13人の顔ぶれは、桂信子・鈴木六林男・草間時彦・金子兜太・成田千空・古舘曹人・津田清子・古沢太穂・沢木欣一・佐藤鬼房・中村苑子・深見けん二・三橋敏雄であり、至極納得できる顔ぶれであった。あくまで杏子は聞き役に徹し、13人が思うがままに語ったオーラルヒストリーのようだが、戦後俳句を作り上げた13人の人選は杏子が行い、話の流れも杏子が作ったらしいから単にインタビュアーに止まらない。
この事業に自負を持った杏子は、絶版となったその本の復刻を20年後に企画し、さらにその対象となった作家たちを自分よりも若い世代に論じさせた付録をつけた『増補新装版 証言・昭和の俳句』(コールサック3年8月)として刊行し、戦後俳句への再発見を促したのだ。宇多喜代子・下重暁子・寺井谷子・坂本宮尾・山下知津子・中野利子・夏井いつき・対馬康子・恩田侑布子・神野紗希・宮坂静生・齋藤愼爾・井口時男・高野ムツオ・横澤放川・仁平勝・筑紫磐井・五十嵐秀彦・関悦史・星野高士である。これは自分の事業を拡散させたいという意図があったからであろう。
杏子の自分の事業への自負は、しかし発刊直後からあったようである。実は「藍生」15年3月号で、雑誌全体を使って特集を組んでいる。今回と同じように、多くの識者に批評を求めているのだが、この時執筆しているのは横沢と中野以外重複していない。20年間に知り合った多くの人に自分がまいてきた種子を配ったのだ。
(以下略)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/226082 【故・金子兜太さんの「聞き手」 黒田杏子さんが思い出語る】より
戦後を代表する俳人、金子兜太さんが2月20日、98歳で亡くなった。前衛俳句の巨匠だった金子さんが晩年、注目されたのは全身全霊で反戦を訴えたからだ。2015年安保法の反対運動が盛り上がったとき、「アベ政治を許さない」というプラカードが掲げられた。これを揮毫したのが金子さん。戦争体験を語り続けた金子さんの「聞き手」を務めてきた俳人の黒田杏子さんに思い出を伺った。
■アベ政治への危機感で「戦争の語り部」に
――2015年、流行語大賞トップテンに「アベ政治を許さない」が選ばれました。その前年に安倍政権は集団的自衛権に道を開く解釈改憲の閣議決定を行い、翌15年にいよいよ安保法案を出してきた。2015年の1月から東京新聞で「平和の俳句」が始まり、金子さんといとうせいこうさんが選者になりました。4月には金沢で開かれたNHK学園の俳句大会で黒田さんとご一緒されていますよね。ここで金子さんは戦争の語り部になることを宣言されたと聞きました。
そうです。金子さんは「私の人生、仮にあと10年くらいあるとしても大したことはできません。自分に何ができるのかを考えたとき、トラック島での生の体験を皆さんにわかりやすく話していきたい。戦争がいかに悲惨なものか、人間にとって平和以上の幸福はないのだということを伝えていきたい。それを俳人としての仕事としてゆきます」とおっしゃったんですね。600人ぐらいの聴衆がいましたが、拍手が鳴りやみませんでした。
――それはやはり、金子さんの安倍政治に対する危機感から?
すごくあったと思います。金子さんは、東大時代、俳句をやっていた先輩が拷問で爪をはがされ、「おまえも気をつけろ」と言われた経験がある。そんな金子さんがあのころ、「戦前の取り締まりと似てきた」とおっしゃっていましたから。
――東京新聞の「平和の俳句」(2015~17年)も“言論弾圧”への抵抗で始まったんですよね。
さいたま市の公民館が<梅雨空に「九条守れ」の女性デモ>という句を月報に載せなかったのがきっかけだったと聞いています。そんなに抑えつけるんなら、「抑えつけられる句を増やしちゃえ」ってことで始めたとか。金子さんは「戦後70年たって、まさか戦争反対の句の選者を自分がやるとは思わなかった」とおっしゃっていました。
――1年間のはずが3年間も続いた。最後の3カ月間を金子さんは黒田さんにバトンタッチされた。
金子さんは戦争体験を経て、知的野生ということを盛んに言われた。戦場で下っ端の工員、餓死寸前の人、下積みの人、そういう人たちが手りゅう弾の実験で背中がえぐれた仲間の遺体を懸命に運んだりするんですね。人間の本質、生の声に触れて、そういう存在者の生の魅力を俳句に持ち込まれたのが金子さんです。東京新聞の「平和の俳句」は俳句の巧拙より、とにかく、金子さんに自分たちの平和への思いを知ってほしい、金子さんに共感の意を表したい。そういう俳句が多くて、朝日俳壇、その他の俳壇にはない句が集まった。それが金子さんの琴線を揺さぶったのだと思うし、無二の体験を私にも経験させようと思われて最後に選者を譲って下さったのかなと思うんです。
■「嘘とか欺瞞で丸め込むな」
――平和への思い、政治への危機感、そうした生の声が俳句という形であふれてくるわけですね。
平和の俳句の中に天皇、皇后の慰霊の旅を取り上げた句がありました。その選評で金子さんは天皇、皇后の行動を評価され、さらに「好戦主義者恥を知れ」と書かれたんです。そんな選評は前代未聞でビックリしました。
――金子さんは「社会も政治もインチキだ」とも言われていたとか。
晩年はしばしば言われていましたね。嘘とか欺瞞ということをうまく丸め込んで体裁をつくっているのはおかしいと。
亡くなられて改めて存在感が増しました
――日刊ゲンダイのインタビューでも、安保法に対し、「安倍政権は9条には触らないで周辺をぐるぐるといじる。これが危ない」とおっしゃっていました。揮毫で「アベ政治とカタカナにしたのは、こんな政権に漢字を使うのはもったいないから」と斬り捨て、「戦争のにおいも嗅いだことのない連中が安保法のようなケチなものをつくる。そんな資格はない」と断じておられました。
そういう気持ちを多くの人が共有していたんですよ。だから、金沢の講演で「戦争の語り部になる」と宣言されたときも拍手喝采で、ロビーでは人があふれて、握手、写真攻めでした。金子さんは驚いたというか、感動されたんだと思います。その夜、お食事をご一緒させていただいたときに「この後、あんたが聞き手になって、自分の話を引き出してくれ」と頼まれたんです。
――以後あちこちへ?
回を重ねるごとに話の内容が深く豊かになり、聴衆との共感も高まりました。信州、松本でやった岩波講座には1700人、明治大学でやったときは1200人、会場いっぱいでした。東大安田講堂も500人くらいかしら。青森でやった東奥日報文化財団県俳句大会70周年は初めて満員札止めになりましたし、加賀乙彦さんが会長をなさっている「脱原発文学者の会」での講演も大好評でした。白寿に向かう俳人で、これだけ支持され、広く共感された方は他にいないのではないでしょうか。
■幻になった瀬戸内寂聴さんとの対談
――だからこそ、訃報も各紙で大きく掲載されました。
私は日経、東京新聞、共同通信から依頼されて追悼文を書きました。訃報、追悼文だけじゃなくて、全国紙の論説委員の方々が取り上げてくださった。私は日経俳壇の選者を長らく担当しているのですが、金子さんを偲ぶ句がどっと投稿されてきたんです。1週では載せきれないので、2週にわたって載せることになりました。
――<存在の巨星兜太の逝く二月>(日経3月24日、饗庭洋さん)が印象的でしたが、そうなると、金子ロスというか、今、とても危うい時代にいる日本において、精神的支柱、それもとてつもない巨木を失った寂寥感というものがあります。
いえ、私はそうは思いません。金子さんが亡くなられて、改めて先生の存在感が増した。こんなに愛されていたことが分かった。あれだけ思い切った発言をされ、俳句も見事に残されて、ますます注目されている。金子さんの句は難解だとか言われますが、定型だとか季語とかを超えて、広く受け入れられてゆく気がします。俳句の世界が広がりました。何より金子さんの句は翻訳されやすいし、実際、海外で人気が高いのです。長崎で詠んだ<彎曲し火傷し爆心地のマラソン>をはじめとしてね。現役大往生を果たされました。時代のニーズでしょうが、これだけ愛され、注目されて亡くなるのはめでたいことだと思いますね。
――忘れられない句はありますか?
正統派の山口青邨に師事していた私が金子さんの句に注目したのは60年安保で樺美智子さんが亡くなり、国民葬が行われた時でした。金子さんの句に打たれたんです。
<デモ流れるデモ犠牲者を階に寝かせ>
山口先生は伝統派の方でしたが「金子兜太という人をどう思いますか」と尋ねたところ、「あの人はあの人の道を行けばよい。彼はそれができる人だと思います」と。以後、金子兜太の研究をしようと決心したんです。<霧の村石を投らば父母散らん>も好きです。金子さんの故郷、秩父には12の句碑がありますが、訃報が伝わるや全句碑に花が捧げられていたそうです。
私が熊谷総合病院で最後にお会いしたのは2月18日です。すやすやと眠られていて、枕元には秩父音頭が流れていました。亡くなったのは20日の深夜11時47分。たまたま、金子さんとの初めての対談を予約していた瀬戸内寂聴さんと電話でお話をしている時刻でした。翌朝、亡くなったことを知らされました。瀬戸内さんからは「架空対談でもまとめてよ」と激励されています。
▽くろだ・ももこ 1938年8月10日生まれ。1990年俳誌「藍生」を創刊、主宰。2011年句集「日光月光」で蛇笏賞。日本経済新聞俳壇選者。「証言・昭和の俳句」(角川選書)、「存在者金子兜太」(藤原書店)など著書多数。
http://blog.livedoor.jp/momoka11/archives/51987300.html 【黒田杏子 『日光月光』】より
『日光月光』にっこうげっこう 黒田杏子(くろだ・ももこ)一九三八年生まれ。
山口青邨門。師没後、「夏草」終刊ののち、「藍生」を創刊主宰。「件」同人。日本経済新聞俳壇選者。『木の椅子』『水の扉』『一木一草』『花下草上』に次ぐ第五句集。
作者には、『証言・昭和の俳句 上・下』(平成十四年・角川書店)という、インタビューのすばらしい業績がある。これは平成十一年、十二年にかけて、角川書店の月刊総合誌『俳句』に連載したものに加筆訂正したもので、集中、この書に出てくる俳人と関わりのある句には、人並みならぬ思い入れがあるだろうと、構えてもみる。証言しているのは、桂信子、鈴木六林男、草間時彦、金子兜太、成田千空、古舘曹人、津田清子、古沢太穂、沢木欣一、佐藤鬼房、中村苑子、深見けん二、三橋敏雄の各氏。
「藍生」の仲間に捧ぐ、との扉の言葉で始まる句集は、平成十七年から二十二年までを一年ずつ纏めている。句から採られたタイトルはそれぞれ、「祈りつつ」(祈は旧字。以下同じ)「光の一字」「嵯峨の雨」「南部紫しぼり染」「湖の韻」「こゑの名残りを」であり、一ページに三句載せる。
最初のページに、 ばら色の富士立春の天にかな みんな過ぎふくろふの子の眼のふたつ
亀鳴くとこの世を過ぎてゆかれしか
明るく始まったと思った第一部であるが、三句並ぶと、諸行無常の趣だ。人を悼んだ句に前書きの無い場合、その名を特定することは難しいが、三句目は
亀鳴くを聞きたくて長生きをせり 桂 信子
が思い浮かぶ。平成十六年十二月十六日に八十九歳で亡くなった。翌年二月十七日に「桂信子をしのぶ会」挙行。『証言・昭和の俳句 上』の第1章は桂信子であり、信子に俳句への熱い思いを語らせたことは、当時大いに話題となった。それは今でも、俳人の在りようについて考えるときに、思い出すことだ。
「蒼天熱風五所川原炎熱忌」から「往還と呼ぶ炎ゆる道終戦日」のなかに、
この國にあり炎熱忌原爆忌 師やかなし白炎天の弟子かなし
と続く。炎熱忌は中村草田男の忌日で八月五日。「炎熱や勝利の如き地の明るさ 草田男」がある。原爆忌(広島)は八月六日。五日に五所川原の立佞武多を観賞し、翌六日朝には原爆慰霊祭の放送にあわせて黙�偃されたのであろう。佞武多祭は灯籠流しでもあり、彼の地の幾度もの歴史上の戦に死んでいった者を悼むものでもある。「いくさ」から「戦争」と呼び方は変わっているが、大勢の犠牲の上にある平和を思う心は、ここに来て、
往還と呼ぶ炎ゆる道終戦日 「終戦日」と記す。
師と弟子の句では、同じく第4章「金子兜太」を是非ご参照いただきたい。兜太は草田男に学んでいた時期があり、現代俳句協会からの俳人協会の分離独立にも関わる仲である。作者は佞武多を見て、文学上の戦いをも思うのだ。この章では、年経て兜太が草田男を改めて尊敬している発言が重要だ。言ってみれば、草田男という先人の「求めたるところを求め」てもいる兜太がいる。生涯の代表句として、「水脈の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」を上げる兜太の一貫した生き方と、(兜太の発言による、草田男の)「自分に即して彼が一貫して考えていたウル(原(もと)のもの)を見極めていくという、その姿勢」は共振している。加藤楸邨への態度とは別にある、こころの柱ともいえよう。この「師やかなし白炎天の弟子かなし」の「かなし」は、漢字にすると「愛し」かもしれない。
全国を桜行脚した作者が、
祈りつつ急くな嘆くなさくら咲く
と詠い、タイトルを「祈りつつ」とした章である。章全体が連作であろうか。
こう読み進めてきて、何か普通の句集と違うものを感じた。
昭和十三年生れの作者にとって、幼少時の戦争体験は、ずっと付いて回った記憶に違いない。それを考えると、信子にしても『月光抄』は戦火を逃れたものだし、草田男、兜太そして『証言・昭和の俳句 上・下』の人々は皆、そうだ。そもそもこの企画は、学徒出陣世代の俳人を中心に、本格的な聞き書きを残しておかねばとの作者の思いから出たものであり、作者は、俳句が俳人の生き様を映してきたことを確信していたに違いない。言い換えれば、俳句が文学である証しを残したいと思ったのではないか。なお読み進むと、中程近くに「冴返る昭和の俳句証言者」という句があった。作者はその人達がだんだん還ってゆくのを弔いつつ詠っている面もある。祈りつつとはこの章だけでなく、この句集全体に通底することなのだ。それは収録の証言者達についてだけではない。小田実(まこと)もその一人だ。
月に棲む俳句少年小田実
平成十九年七月三十日没。そして、挨拶句としてさまざまな人や地が詠われている。その流れの中からも、作者の目線がわかる(自選句との重複を除く)。
目薬さす八月八溝(やみぞ)山頂に 奥の院まで月光の涅槃雪
曝書して官製はがき石垣りん 松山に行かな子規の忌一遍忌
返り咲く草木いろいろ青邨忌 信州信濃の山奥の花と冷ゆ
雲巌寺さまに棲みつく三光鳥 園城寺より義仲寺へ月の道
月を待つ會津八一を筆写して 島梟あれは谷川健一氏
みやこどり帰る阿部完先生も 夜祭の神馬を還す武甲山
螢とびはじめましたと山廬より
さて、自選十二句は、
初夢の向うから来る我に逢ふ 花満ちてゆく鈴の音の湧くやうに
山姥と夏蚕のかほと相似たり 夏終る柩に睡る大男
なほしばしこの世をめぐる花行脚 どの谷のいずれの花となく舞へる
ほたる待つ還らぬひとを待つやうに 三井寺の鐘が鳴ります原爆忌
両神山や暁の寒満月寂と こゑの名残りを天心に梅雨の月
盆の月樺美智子の母のこと 十六夜の雲割つて飛ぶ一遍忌
さいごの句は巻末の句でもある。日本の信仰におおきな関わりのある富士山への日光に始まり、全国行脚した一遍の月光の句で終っている。句集題名の意図はここからも諾える。俳句と行を通して、ひたすら生を、平和を考えてきた人の句集だと思った。
読みはじむ三教指帰(さんがうしいき)文庫版
まだまだ深く読み込める句集であると思う。
(平成二十二年・角川学芸出版)
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