早春賦

Facebook近藤裕子さん投稿記事2月24日☘️余寒お見舞い申し上げます☘️

「早春賦」 そうしゅんふ

毎年今頃になると口ずさみたくなるのがこの歌「早春賦」です。

「早春賦」は、1913年(大正2年)に発表されました。吉丸一昌 作詞、中田章 作曲の日本の唱歌です。

「賦」は「敷」に通じ、広く敷きのべる・頒布する意味があり  朗詠や詩作を意味します。

つまり「賦」とは心に感じたことや事物をありのままに述べたもの、という意味です。従って、早春の様子を述べた詩です。

♪春は名のみの 風の寒さや  谷の鶯 歌は思えど  時にあらずと 声も立てず

時にあらずと 声も立てず

♪氷解け去り 葦は角ぐむ  さては時ぞと 思うあやにく  今日も昨日も 雪の空

今日も昨日も 雪の空

♪春と聞かねば 知らでありしを  聞けば急かるる 胸の思いを  いかにせよとの この頃か

いかにせよとの この頃か

こんなに今の季節を上手く表現している歌はありません。余寒。春寒。

立春が過ぎてからの寒さを言う言葉です。北国はまだまだ積雪の中。どうぞお風邪召されませんように。

https://www.youtube.com/watch?v=v0k0IB6faXY

https://note.com/kashiragi_box/n/n0df686c0a84d 【11/23追記 新刊が出ました‼️ 『カフカ俳句』 】より                  頭木弘樹

今朝の読売新聞の「編集手帳」で、『カフカ俳句』(中央公論新社)を引用していただきました!ありがたく、嬉しいことです!

カフカ俳句 -フランツ・カフカ 著/頭木弘樹 編訳|単行本|中央公論新社

カフカの一行が、俳句に変身する。「ときおり体が八つ裂きになりそうな不幸を感じる」「家族のなかで、他人よりももっと他人のよう

www.chuko.co.jp

葉の上の小さな露に、周囲の大きな世界が映っているように、カフカの言葉は、小さいけれど大きいです。不思議なことに、小さなかけらであるほど、大きく響きます。

ぜひご堪能ください。

◉11月14日 カフカ俳句とは???新刊『カフカ俳句』なんだそれは???と思われた方も多いでしょう。カフカの創作ノートや日記には、「鳥籠が鳥を探しにいった」などの、たった1行だけの言葉があちこちにあります。それらの断片がとっても好きで、自由律の俳句のようだなあと思っていました。

たとえば、まつすぐな道でさみしい 山頭火   咳をしても一人 尾崎放哉 みたいな。

また、カフカの日記や手紙の長い文章の中にも、たとえば、「道は遠く、力は小さく」

(フェリーツェへの手紙)というような、とてもひきつけられる言葉が出てきます。

でも、長い文章の中だと、さっと読み流してしまいがちです。

そこで、そこだけ取り出して、俳句して味わってみては、と思いました。

というわけで、そうしたカフカの言葉たちを、創作ノート、日記、手紙、断片、メモ、小説などから選び出し、集めてみました。全集以外では、出合えない言葉も多いです。

なお、五七五に訳すようなことはしていません。あくまで、カフカの言葉そのままを、俳句として味わってみるという趣向です。

出版社のサイトはこちらです。

『カフカ俳句』フランツ・カフカ 著 頭木弘樹 編訳 中央公論新社

カフカの一行が、俳句に変身する。「ときおり体が八つ裂きになりそうな不幸を感じる」「家族のなかで、他人よりももっと他人のよう

"カフカの短い断片は俳句のようだ"と言い出してから10年以上……ついに本になりました!(略)


https://note.com/hiumaminakata/n/nc65822937747 【豈忘年句会に参加してきた】より

11月某日、同人誌「豈」の忘年句会に誘って頂き、参加してきました。当日は、攝津幸彦記念賞の授賞式も兼ねており、今回准賞を受賞された太代祐一さんも参加されていました。

同人誌「豈」といえば、攝津幸彦らによって創刊された同人誌。ちょうど、先日まで「攝津幸彦選集を読む」の記事を載せていたので、気になっていた同人誌でした。今回の参加の経緯も、この「攝津幸彦選集を読む」を読んでいただいた方から、誘っていただいて、noteを更新してみるものだなと思いました。改めて今回お誘い頂きまして、感謝申し上げます。

攝津幸彦選集を読む|南方日午/みなかたひうま|note

邑書林「攝津幸彦選集」を読んだまとめです

句会は2句出し。4句選。普段の句会ではなかなか見られない無季句や多行句があって、とても刺激を受けました。自分がだした句にも取っていただける方がいて、ちょっとホッとしました(笑)

普段なら句座をともにできないような方々と句座を共にできたのは、大変貴重な経験でした。

句会の後は引き続き忘年会へ。美味しい料理を食べつつ、気になっていたことをあれこれ伺って、また面白い扉が開きそうな感じに。私がこんなところにいていいのか、びっくりしっぱなしだったのですが、せっかく頂いた機会、次の展開に活かしていこうと思いました。


https://note.com/berklg/n/ne6dc5fecb514 【自在なる前衛の天才俳人攝津幸彦の世界!】より

星屋心一

☑攝津幸彦の俳句には「自在」というイメージがあります!

野に咲く小さな花も誰にも知られずに刻一刻と存在を更新している。こんなテンションの高い認識を、まるで写生句のような実在の感触とともに描いた俳句です!  咲いている1本の花がゆっくりとからだを変化させるさまを描いている俳句です。ディズニーアニメのように動かないものを動かすファンタスティックな魅力と、写生的に現実を描写したような落ち着いたたたずまいと、生命の神秘にふれるような哲学味のブレンドと形容したくなる、自在な印象をかもしていると思います!(『鳥屋』所収、『攝津幸彦全句集』(1997年、沖積社)p203から引用)☑それは気づくと俳句がギャグをはじめているような自在さです!

アニメのタイムボカンシリーズでも有名な語呂「驚き桃の木山椒の木」をもじったもの。びっくり仰天する桃の木に存在感があります! 句意は「驚いたなあ、桃の木が黄泉(よみ)の木とまじっている」というところ。語呂あわせで黄泉の木とまじってしまった哀れな桃の木の姿を想像させて秀逸な一句です(あと『コォォォォォォオッ』とかウロが人面で叫んでいそうな黄泉の木も想像します)。ギャグもゴスも猟奇も奇想もまとめて軽々と詠んでしまうような自在さは攝津幸彦の特徴でしょう。(『與野情話』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p100から引用)☑また、ギャグなのかいい話なのか不明なこともしばしばです!

千手観音の普段づかいの手の動きを想像させるシュールな一句。どこか吉田戦車の漫画にも似た印象と、ありがたい説話を聞くような印象とが同時に感じられて素敵です! 千手観音が「普通」という時点でギャグな気もしますが、沐浴を行うことの中に仏教的な悟りも感じるし、やすらぎの時間が流れていることも想像します。とはいえやっぱり、多すぎる手を使いからだを洗う千手観音のイメージは面白すぎるように思います!(『鸚母集』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p284から引用)

☑かと思うと、キバツですが不思議なほど美しい句を発見します!

情景は奇抜ですが宇宙とセットで咲く「冬の梅」が美しい一句。「はみでて」なので、前ヘ出る感じの美しさです! なんで梅の花がはみでたのかは不明でシュールですが(宇宙からはみでているなんてどういう状況でしょう!)、『AKIRA』『彼女の想いで』の漫画家大友克洋に描いてほしいような、宇宙的な美と日本的な季節感を感じさせる情景とも感じられます!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p215から引用)

☑考えれば不可解な美しさが攝津幸彦の俳句の特徴かもしれません!

句意は「誰かが輪廻をしているその瞬刻、いまだ現世にとどまる腰が美しい」というすごい感じ。「ゝ」の踊り字が輪廻する腰と見えるという、読みたどる文字さえ転生させるすご技が炸裂しています! 何が描かれているのかはよく分かりませんが、T・S・エリオットの『四つの四重奏』の冒頭のような存在のハイテンションな運動っぷりが美しい俳句です。「つ」音がつづきながら文字のかたちを変えていくさまが印象的。攝津幸彦は、俳人が一生のうちに5~6句読めるかという名句がそなえたレベルの「文字自体も句意と渾然一体となっている」境地を、意図的な頻度で発表していた俳人と評することができるかもしれません。(『鸚母集』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p298から引用)

句意は「ある感情の高まりがある、海を泳いでいた少年は陸地へ上がった」という感じ。青春のやるせないドラマを推察させる内容ですが、少年と海だけでできている感情のセカイが美しいと思います! 「感情」「少年」「海」のそのほか一切が不明でもなぜか美しいと感じさせる俳句です。ところで、俳句では切れ字を用いる場合特に「上5=中7下5」という構造をもつので、この俳句は「少年が海から上がった、それが感情というものである」という含意をあわせもつでしょう!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p179から引用)

☑攝津幸彦の代表句は2つだけ紹介します!

階段にさしてゆっくりと近寄る昼の日光を濡らすと捉えた句。あたりまえに毎日あるはずの光の到来を奇跡だと思う。こんな心さえ感じる魅力を備えた作品です! 濡らすがごとき光の昼が「階段を~来て」という擬人的表現で生きている俳句。階段をやってきてこちらに向かって昼が立っているような印象さえここには含まれるでしょう。光というものの妙なる個体化に成功したような魅力を感じます!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p182から引用)

仁平勝氏が漫画「ねじ式」とこの句の関連を指摘していてうなりました。建物の間に機関車が登場し、そして句の濡れるような夜や影がつげ義春氏の黒とすごく合うと思います! 私は縁日から連れてこられはじめて路地裏と遭遇した金魚が、ビニール越しにそれを見た光景としてこの句を愛唱しています。「露地裏を夜汽車と思ふ」の夜道のパースが機関車にみえるという奇想が素敵ですが、「金魚」も含め水イメージが1句に浸透していることもたまりません!(『陸々集』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p335から引用)

☑同じ前衛俳人たちの絶賛も少しだけ紹介させてください!

攝津幸彦が俳句を理解しているのは、それが五七五の音数律からなる定型詩だということだけである。その定型のルールを守りさえすれば、どんな言葉でも俳句形式に受け入れられる(『露地裏の散歩者』(仁平勝著、邑書林、2014)p12から引用)

あらゆる言葉を俳句にしてしまう攝津幸彦の自在さについて評論している箇所です。この『露地裏の散歩者』はすごく面白かったです!

作品に多少の出来不出来があるのは攝津幸彦とて例外ではなかろう

(『現代俳句文庫22 攝津幸彦句集』(ふらんす堂)p103、高原耕治「攝津幸彦、或いは誤解の万華鏡の誤解」)

このコメントは私にとって大共感の攝津幸彦論です。作品の完成のし方が不思議すぎて、彼の俳句の何が分かるのかと一瞬とまどいつつ、いやいや同じ人間だし目の前の俳句の善し悪しは分かるぞと思い直して攝津俳句と向き合うような感じに勝手に大共感です。ところで、このコメントが解説(の一部)の『攝津幸彦句集』は、このまとめで引用したほとんど全ての俳句が乗っている(「宇宙より~」を除く)格好の攝津俳句の入門です。ふらんす堂の再版を切に願う次第です!☑最後は大好きな句の紹介です!

句意は「サーカスをする子どもたちが横浜の雲となっている」という不思議な感じ。この横浜の空のおだやかさが本当に好きで、この句を見て心が和らぐことがあります! 高畑勲監督のアニメみたい! 好きすぎて冷静になれないですが、言葉のサーカスでひとつの風景をかたどる作品だと思います。「サーカスの」という華麗なナニカが開始されそうな上五から、「子等横浜」の中七の横棒の多い感じの自然な結合で子どもたちの変身を後押ししつつ、「雲」の下五で「子等横浜」という漢字の形象をほのかにイメージに定着させた言葉の空がここにあります。どことなく「青」のイメージがある横浜に子どもたちの白が加わって美しいです!(『鳥屋』所収、1997年沖積社の『攝津幸彦全句集』p200から引用)


https://weekly-haiku.blogspot.com/2007/12/blog-post_30.html 【堀本 吟もっと奔放な定型律があらわれてもいい】より

1)季語は環境デザインの装置

この雑誌(?)に出てくる作家の年齢は何歳ぐらいが多いのだろうか?(ときどきは著名な年配者を呼び出しバランスを取る心憎さを併せ持っている編集ぶりだが)。

今回は10句作品、数十句、かなりハード。工夫を凝らしてはいるが、オーソドックスな俳句が多い。おおむねおとなしいが、微妙な差異を見てほしいと主張している。

まずほとんどが当然のように季語を使用。多数者の安定感。とうぜん、心地よさがすこし物足りない。物足りない感覚と、一方ふつうであることの気楽さを、私はうまく言い止められるだろうか。冬の匂いを嗅ぎ取るたくさんの風景を前に、どういうところで個性を見分けたらいいのかな、などと逡巡する。

  暖房や私用電話のひつそりと     浜いぶき《冬の匂ひ》

  アイロンに水足しにけり冬うらら       同

お昼休みに上司は行きつけの食堂で天丼を食べに。午後の仕事の開始までにはまだすこし。チャンスである、久しぶりにあの人の声を聴きたい。公私混同もこのていどなら、と見逃してもらえる範囲を心得て、でもやはり遠慮してすこし声を低めてかけている。表情が見えるようだ。

アイロンの句は「冬うらら」を最後に持ってきたので手を休めて窓の外を見る仕草が活きる。

戸外には、さすがにいろんなものがある。「米軍基地」も「国道」も風景の一部。世はこともなし…であるようだが。見慣れているのに奇妙な違和感があるところをキャッチ。さりげないが、異様な風景、人工的ですらある。

 冬萌や米軍基地は囲はれて   →  「米軍基地」

  国道に冬の匂ひのしてをりぬ  → 「国道」

  枕木にわづかなくびれある霜夜 →  「線路」

「 」に取り出した場所がすこしヘンである、一種の境界地もしくは場所ならぬ場所、定住の場ではない空間がある…のに。それが、季節の気配に囲まれて、この「日本」という土地の輪廓をつくっている。季語は場所を定めがたい違和の土地を囲い込む環境デザインの装置である。

2)食べることの奇怪さ

当たり前すぎる一日の終わりかたは同じみたいでも、夕餉のおかずは家ごとに違う。夕方はやはり寒くなって星があんなにたくさん綺麗だ。今夜はやはりあたたかなもの。湯豆腐なんかいいな、ということでいぶきさんの食卓では、

  星しげし湯豆腐の湯の澄んでをり  浜いぶき

煮えたぎっている湯豆腐鍋の「湯」を「澄んでいる」と感じる繊細さが独特。

かたや、お隣の小池さんちでは。今日は、新鮮な牡蠣。

  牡蠣の身に冷たき海の運ばるる   小池康生《起伏》

「牡蠣」の実肉に、冷たい海が運ばれたと感じる触覚に注目した。この牡蛎は、鍋物ではなく、生牡蠣、酢牡蠣のメニュー。舌先にひやり。クセになりそうな味わいである、(酢牡蠣は、あの冷たさがすこしにがてだが。しかし、かつて、河東碧梧桐の…

  酢牡蛎の皿の母国なるかな     河東碧梧洞

…をみせてくれた和食膳の風景には、おおいなる感動を覚えた。

また、かの有名句。

  水枕ガバリと寒い海がある     西東三鬼

この「水枕」の中の海の喩を、小景の中に大景を、近景に遠景を組み合わす、この手法を自覚的にかどうかは解らないが、引きずっているような気がするが、食べることは根源的な行為である。食材も句材もたくさんあるし、その料理法もさまざま、雑食主義の私はひとつの食べ方だけではなく「様々な意匠」にであいたい。 

3)不安な花「帰り花」のとりあわせ

  標識の傾いてゐる帰り花    康生

  帰り花バス降りてゆくひとの老い    いぶき

どちらもそつがない。し飛躍がない、だから帰って、「老い」「傾いている標識」の危うさと「返り花」の生の華やぎと危うさをむすびつける。こういうのは同工異曲とは言わないのだろうか? でも、心象の詩になっている。

4)比喩の個人差

  海鼠腸や人は星雲ぞとおもう   田島健一《白鳥定食》

急に別の空間がでてくるところは「牡蠣の身に冷たき海の運ばるる(康生)」 に似ているとは思わないか? 冬の食卓に冷たい生ものを出す。ここでは形状と触覚から、宇宙が出現。個人差というか、スケールが拡がっている。

  白菜が祖母抱きしめて透きとおる  健一

これは、おもしろい。「白菜」に巻絞めされる祖母というブラックシューモア。しかし愛情がある。十句ぐらいでその人の個性を決めるのはむりというものだが、田島健一は、先の二人とはやや違う日常風景をみている。あえて云えば、比喩の多用を活かして。次のような句とも並べてみる。

  蛾の如き痣がひとつや冬籠    太田うさぎ《胸のかたち》

  ふりむけばメロンパン的冬霞        同

  烈日の剥片として白鳥来     冨田拓也《冬の日》

  隼や日の矢の中をさかしまに        同

うさぎさんは直喩が巧い、健闘しているが、また冨田拓也の求道の俳句は、だんだん手慣れてきて帰って危機を感じるのだが、今月のメンバーの中では、モチーフよりテーマ性がやはりめだつ、若手の中では、新興俳句のもとめた哲学、観念内面、を書こうとしている貴重な人材。新興俳句は、この内面の追究から卓抜な比喩を開発したが、彼のばあいは、赤尾兜子のような感覚に沈むタイプではないということもあり、テーマを探している、求道の道筋がはっきりしすぎるこういう場合には、比喩に頼るときも単純明快な直喩をよほどうまくみたてなければかえって主題が分散する。ここでは鳥を太陽の欠片とか日光の矢と見立てて捉えることで、飛翔するものの緊張感をうまく伝えている。もちろんここ止まり、であるはすがないことを期待する。

  木の中のやはらかき虫雪降れり    拓也

こういう暗喩へもゆける想像力なのだから。

5)白鳥定食。烈日の断片 …第32号

「白鳥」を例にすると、田島健一、冨田拓也は白鳥をメタファにしている。さきの冨田の白鳥はコスミックだが、田島の白鳥は究めて地上的だ。

  白鳥定食いつまでも聲かがやくよ    健一

田島のは、全編その隠喩も含めて「白鳥」が顕れるこの喩が成功している。「白鳥」はまた「聲かがやくよ」を導き出し、誰の「聲」なのかと不思議がらせる。「白菜」は「祖母」を抱貴一体となり(老いたるレとゼウスの姿か)、妻のうつる鏡の中に降る木枯らしや白い「雲」であったりもする。多くのモノと連鎖してうまれる多くのイメージの絡みで十句ができているようだ。巧まざる諧謔の視線もいい。一句の中の動きも目を引く。で、読んでいて愉しい。これは日常のただ事からのひとつの脱出法である。面白いのは、次の週にでた〈烈日の剥片として白鳥来 ・拓也〉や、中原徳子の句がその田島の十句の世界を覚えずに受けていることだ。

  白鳥よ種も仕掛もある夢よ     中原徳子 《朱欒ざぼん》

6)写生力

  文中の喧嘩の果ててより時雨    笠井亞子《page》

  行間を出て帰らぬ鴨となり       同

  富士壺の口寒月の照らしをり    相子智恵《幻魚》

穏やかな想像力と客観写生。こういう句柄は抵抗感がないのでとくに言うことはない。そのことばばがぜんぶそれぞれここに現れた理由を持っているようで、嫌いな句は無くなる。上手下手も関係ない、作者を知っていて、それはイヤなやつとか好きなやつということも関係ない。私にとってはそこにあるものほとんどが、ああこの人はそうなのか、すべてよし・なのである。次の句にも同じ感想。

  しぐるるや気持ち右向き観世音   矢羽野智津子《四〇二号室》

  湯の里の玻璃澄む山彦物産店       同

典型的な二句一章をつかって、観世音の気持ちをおしはかり自分の気持ちを重ねている。「しぐるるや」のおきかたが、気持ちいい。「気持ち右向き」とは。仏像の向きを言っているのかも知れない、が。

物産展のガラス窓が澄んでいたり、自分を取り巻くものが澄んでいたり、それを通して外側を見ているのである冬の透明感をあらわす工夫の点で、「星しげし湯豆腐の湯の澄んでをり・浜いぶき」のほうがやや上手か。

7)比喩で書くブラックユーモア

ブラックユーモアめいた、鋏のような感覚(でも「下半身」というのが恐い)。マンホールに街が落ちてゆく。地球は丸いから、「メロンパンみたいな冬霞」だとおもって安心して入り込んでいくと、世界の果てで突然落ちちゃうよ。

  極月の鋏と化せる下半身      中原徳子 《朱欒ざぼん》

  街並の落ちゆく冬のマンホール      同

  遁走の果て球体の冬霞          同

  マフラーや世界はかくもやはらかく    同

踏み込んだ大胆な言い止め方、生存の場所どこも安全地帯はないが、このふやふやの地球に感覚しているものの実感が出ている。形式の勝利というより詩的個性の勝利である。

仲寒蝉は、機知でまずひきつける。そこから、言葉の諧謔へ持ち込む。日常のいとなみみのうちに生じてくる単純な面白さを狙っている。

  真ん中に鼻の居すわる十二月     仲 寒蝉《間抜け顔》

  天袋より引きずり下ろす聖樹かな     同

だが、

  だんだんと泣き顔になる雪達磨      同

これなどは、ただごとからのひねり方が足りないような気がした。この人のように定型詩の才能のある人は、技法に手慣れてきたときに油断は禁物。

8)2008年はどんな俳句が出てくるのだろう?

以上、感覚のゆらめきに視点をあてれば、ここで話題になっている多くの日本人の生活のかたちである「郊外俳句」とだけいえない言葉への自由な触手もみえてくる。どこに住んでいようと言葉で日常性を異化すること。それがやはり表現を高めてゆく第一歩である。そして、今までの技法の財産を利用しながら、現在見える形の検証を通して、そこから世の中の形を幻想として変えてゆく、そういう言語の革命志向が、求められているのではないだろうか?

賀状書きも未だ、という歳末の時期に。私が持ちあわせていないデリケートな感覚や技法につきあう時間をかけるのも、業のようにたのしいが、しかし、もっと奔放な定型律があらわれてもいいのではないだろうか、とついつい期待する。




コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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