ゆふづつ

https://sakamachi-hideyuki.github.io/meteors/chapter-of-kushi--supplement-3.html 【流星と昴の日本神話 櫛の章 補足 ユウツヅの意味】より

宵よいの明星みょうじょうの別名「ゆうつづ」は「夕ゆうの神」の意。ツツ、ツヅは星の意ではない。

「ツツ、ツヅは星の意」説

宵よいの明星みょうじょう(夕方から宵よいにかけて西の空に見える金星)を「ゆうつづ」「ゆうづつ」(旧仮名遣いでは「ゆふつづ」「ゆふづつ」)とも言い、漢字では「夕星」「長庚」などと表記される。

このことから「ゆうつづ」を「夕(ゆう)」+「星(つづ)」と解釈して、ツツ、ツヅは星の意と説明されることが多い。

一般的な古語辞典ではツツ、ツヅを星の意とはしていないが、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋おおのすすむ校注『日本古典文学大系67 日本書紀 上』(岩波書店、一九六七年)は磐筒男命の注釈で「ツツは星」としている。大野晋おおのすすむ・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』(岩波書店、一九七四年)は「つづ」の項で「星の古名」としている。

また、神名にツツが付く住吉三神(底筒男ソコツツノオ命・中筒男ナカツツノオ命・表筒男ウワツツノオ命)をオリオン座の三つ星(からすき星、参しんとも言う)と解釈する説もある。国文学者の倉野憲司は、倉野憲司・武田祐吉校注『日本古典文学大系1 古事記 祝詞』(岩波書店、一九五八年)の注釈で「筒は星(つつ)で底中上の三筒之男は、オリオン座の中央にあるカラスキ星(参)」としている。

倉野憲司は後に筒を星の意とする考えを撤回し、倉野憲司『古事記全註釈 第二巻 上巻篇(上)』(三省堂、一九七四年、306頁)において「併しこの推測は、わが上代人が星に対して殆ど関心を示してゐないことと、「石筒之男神」の「筒」を星と解し難いこととが大きな障碍となる」と撤回の理由を述べている。

しかし、序文で述べたように日本神話には星の神話が含まれており、「上代人が星に対して殆ど関心を示してゐない」とは言えない。また、石筒之男イワツツノオ神(磐筒男イワツツノオ神)は名前に星が付く神社で祀まつられている星の神であり、『釈日本紀しゃくにほんぎ』においても星の神とされているので、「石筒之男神」の「筒」を星と解し難いとも言えない。

これらの点を考慮すると、「ツツ、ツヅは星の意」説は一見正しいようにも見える。

「ツツ、ツヅは星の意」ではない

しかし次に挙げるように神名中の「ツツ」は別名では「ツチ」となっている例が多い。

・底筒男ソコツツノオ命(ソコツツノオ)の別名が、底土ソコツチ命(ソコツチ)

・中筒男ナカツツノオ命(ナカツツノオ)の別名が、赤土アカツチ命(アカツチ)

・表筒男ウワツツノオ命(ウワツツノオ)の別名が、磐土イワツチ命(イワツチ)

・塩筒老翁シオツツノオヂ(シオツツノオヂ)の別名が、塩土老翁シオツチノオヂ(シオツチノオヂ)、塩椎シオツチ神(シオツチ)

つまり江戸時代の国学者・本居宣長もとおりのりながが『古事記伝』(一七九八年)で述べているように「ツツ」は「ツチ」と同義と考えられる。

「チ」は神名末尾のパターンであり(句句廼馳ククノチ、櫛真智クシマチ命、止与波知トヨハチ命など)、古語で「〜の」を意味する助詞の「ツ」が前につくと「ツチ」となる(軻遇突智カグツチ、武甕槌タケミカヅチ神など)。

そして【櫛の章/櫛真智命】で前述した「オオマドノチ→オオマドノツ」のように、神名末尾のパターン「チ」がウ段に変化して「ツ」となることがある。

つまり「ツツ」は星の意ではなく、助詞の「ツ」+神名末尾のパターン「チ」がウ段に変化した「ツ」と考えられる。「~の神」といった意味ということになる。

「オ」も男神の神名末尾のパターンと考えられるので、各神名は次のように解釈できる。

・海わたの底で底津少童ソコツワタツミ命と共に生まれたとされる底筒男ソコツツノオ命は「底(海底)の男神」

・潮しおの中で中津少童ナカツワタツミ命と共に生まれたとされる中筒男ナカツツノオ命は「中(海中)の男神」

・潮しおの上で表津少童ウワツワタツミ命と共に生まれたとされる表筒男ウワツツノオ命は「上(海上)の男神」

・火折ホオリ尊が海神ワタツミの宮へ行くのを助けたとされる塩筒老翁シオツツノオヂは「潮しおの男神」

・宵よいの明星みょうじょうを意味する「ゆうつづ」は「夕ゆうの神」

昼の女神、月夜つくよの神、夕ゆうの神

【速の章/補足 大日孁貴、月読尊、蛭児の意味】で前述した「オオヒルメノムチ=大いなる昼の女神」や「ツクヨミ=月夜つくよの神」と同様に、「ユウツヅ=夕ゆうの神」は天体を時間帯に言い換えた神名と考えられる(日→昼、月→月夜つくよ、宵よいの明星みょうじょう→夕ゆう)。

『万葉集』には「月」を「ツクヨミ」という神名で言い表している歌が数多くある(六七〇、六七一、九八五、一〇七五、一三七二、三二四五、三五九九、三六二二番歌)。これと同様に「宵よいの明星みょうじょう」を「ユウツヅ」という神名で言い表していたものと考えられる。

まとめ

・宵よいの明星みょうじょうを「ゆうつづ」とも言うことから、ツツ、ツヅは星の意とする説があるが、神名中の「ツツ」は別名では「ツチ」となっている例が多く、これと同義。

・つまり「ツツ」は助詞の「ツ」+神名末尾のパターン「チ」がウ段に変化した「ツ」。

・「ゆうつづ」は「夕ゆうの神」の意。これは「オオヒルメノムチ=大いなる昼の女神」や「ツクヨミ=月夜つくよの神」と同様の言い換え(日→昼、月→月夜つくよ、宵よいの明星みょうじょう→夕ゆう)。


https://note.com/eruetsuryo/n/n13564100fda1 【自然を擬人化すると神になる】より

私は以前、「神=未知と訳そう」というコラムを書きました。このコラムでは、それの一例について、詳しく説明していきます。

おさらい

神は未知の犯人、つまりよく分からない原因を体現した存在です。人間は、どうしてそれが起きたのか分からないと不安になります。しかし原因が分かれば、それが本当か嘘かにかかわらず安心するのです。よって、自分の分からないことを神の仕業とすることで、人々は安心できるのです。

神は自然の擬人化だ

古代の人々にとって、もっとも「未知」を内包しているのは「自然」です。そこで、彼らは「自然」を「神」として崇め奉る(=大切にする)ことで、自然に対する理解を深めようとしたのです。

このようにして崇められた神は、どれも自然にある「何か」を司る存在です。司るとは、体現したり操ったりできるということです。すなわち、神は自然を擬人化した存在なのです。

多神教の神々

たとえば、ギリシャ神話には多くの自然物を司る神がいます。最高神のゼウスは雷と天の神です。ポセイドンは海、太陽の神はヘリオスとアポロンの2人もいます。

このような自然界に存在するものだけでなく、豊穣の神デメテルや戦の神アレスなどの、抽象的な概念を司る神もいます。これらは全て、そこに生きる人たちにとって大きな関心の的(まと)だからこそ、名前がついているのです。

どうして擬人化するのか?

擬人化とは、本来人間ではないものを人間に見立てる比喩表現のことです。ケモノの耳やしっぽが生えるとか、刀や戦艦が人間になるということではありません。

自然界にあるもの、たとえば雨や風、大地はしゃべりません。人間ではないので、感情を持たず、贈り物をしても受け取ることができません。自らの意志を持って行動することはできないのです。

しかし、それらの自然物を人間のように見立てることで、人間にとってなじみ深い存在にすることができます。人間がもっとも関心を寄せる対象は、人間自身です。だから、自然物を人のように捉えることによって、それに対する知識を深めたり分かち合いやすくなるのです。

そうして自然に対する知識を持つほど、そこからより大きな恩恵を得られるようになる……。それが自然を擬人化するメリットです。

加えて、大きな災害(干ばつや飢饉など)が生じて完全になすすべがないときにも、神は一役買ってくれます。たとえ、人間たちにできることが何もなくても、神さまに祈りを捧げたり貢物をしたりすることで、無力感を感じなくても済むのです。

すなわち、絶望を和らげ希望を持つ理由になるのが、神なのです。

まとめ

神は未知の犯人です。その一種として、未知の対象である自然をあたかも人のようにした神がいます。このような神は自然を擬人化した存在です。

自然を擬人化するメリットは、自然に対する知識を持ちやすくして、より大きな恩恵を得られるようになることです。加えて、なすすべないことがあったときに、無力感を低減する効果もあります。


https://kinan-art.jp/info/20034/ 【自然の神話:南方熊楠の創造神話】より

はじめに

南方熊楠(1867-1941)は、西洋、中国、日本の科学、民俗学、精神性を巡る問い等にまたがって自然研究を行なった画期的な日本の博物学者、民族学者、博学者である。和歌山の仏教と神道の影響を受け形成された、主に彼の独学による、創造的、学際的なアプローチは、東洋と西洋の伝統の中で際立っていた。

南方の遺産は、科学的研究をより広範な社会的、精神的、哲学的問題と結びつけたところにある。多くの場合、自然研究に焦点を当てた彼の著作には、科学的な詳細と詩的な考察の両方が含まれており、また図絵も描かれている。今日、南方の思想は、人類と自然との関係、アイデンティティ・ポリティクス、クィア・スタディーズ、そして、資本主義やナショナリズムの批判に関する議論に共鳴し、ますます内実をともなったものとなっているように思われる。

このエッセイは、粘菌を基礎として文明論を展開した南方熊楠の研究に触発されたものである。これは、特に西洋の観点からすると、一見特異に見えるかもしれないが、南方の文明論は、チャールズ・ダーウィンの「自然淘汰」理論が「適者生存」という資本主義政治に還元された19世紀の社会ダーウィニズムに代わるものを提供した。言い換えれば、西洋資本主義と新自由主義も「自然」の文化的定義に基づいて構築された枠組みのアナロジー(類推)を通して理解することができる。

私の論稿は、人道的な世界を創造する全責任を人間が負うような自然の創造を訴えるものである。芸術を「創造神話」と定義することによって(創造神話はすでに詩や散文の一形態であるため)、そのような自然を創造する芸術とその媒体の力(遡及力を含む)を探求する。

南方熊楠の遺産は、芸術を通して、自然、文化、思想、精神性、テクノロジーといった相互に結びついた概念を探求し、再考する契機となる。

西洋における自然の創造

1592年にコルネリス・ファン・ハーレムが描いた『人間の堕落』には、聖書の創世記にあるエデンの園でのアダムとイヴの物語が描かれている(右上のイラスト参照)。この物語は一般に、人間の責任と善悪の認識についての考察と解釈されているが、私はこの散文の中に、主に西洋における自然概念の創造を見る。この物語の冒頭で、エデンの園には人間と自然の区別はない。園は調和の場として描写され、そこでは、人間も植物も動物も等しく平和に暮らしている。それは人間が善悪の知識の木から実を食べて「知識」を得るまでのことである。この瞬間、神が介入し、人間をエデンの園から永遠に追放する。それ以来、世界は2つの陣営に分かれる。一方は動植物のいる園(自然)、もう一方は自然から永遠に切り離されたもの、すなわち知識を持つ人間(文化)である。

内容

この天地創造物語は、この論稿の内容と形式の両方において中心的な役割を果たしている。物語として、それは西洋の自然概念の根本的な側面、すなわち人間と自然の分離を明らかにしている。自然は人間や文化から切り離された世界として定義されている。この自然との関係に対する批評では、この概念を「人間中心主義」と表現する。人間中心主義に対する批評では「世界」は究極的には人間に奉仕するために存在するのだから、人間がすべての中心であるという考えに焦点を当てている。聖書の見解では、人間は神の命令に基づいて行動する自然の管理者であり、資本主義では、自然は生産手段に成り下がっている。どちらの場合も、自然は人間の支配下にある。

人間中心主義に代わるものとして、生態系全体が中心となる生態系中心主義または生物中心主義がある。この視点は、人間にとっての有用性にかかわらず、すべての生き物の本質的な価値と相互依存性を強調する。この考え方では、人間は自然の上に位置づけられるのではなく、自然と対等な構成要素とみなされる。しかしこの概念は、聖書の定義と同様に、自然を人間や文化から切り離された世界として定義している。さらにこの概念では、人間も自然も、従わなければならない未定義の高次の秩序(自然)に従属している。

南方熊楠は、人間中心主義も環境中心主義も生物中心主義も超越した、型にはまらない適切な視点を提供していると私は確信する。

形式

エデンの園の創造物語は、創造神話が文化的形式としていかに強力に作用するかを示す。つまり、それは世界を創造できるのである。この物語による「自然」の創造は、西洋文化において何千年も続いてきた。

それはどのように機能するのだろうか。創造神話は、その世界の起源を語ることによって世界を創造する。それは逆説的な創造形式である。創造物語は自己成就的予言であるが、遡及的な力を持つ。

私の芸術観において、創造神話は詩、芸術、創造の本質を凝縮した文化形式として重要な役割を果たしている。何千年もの間、「自然」を再想像してきた物語、詩、芸術作品、また科学は、「創造神話」として機能する。創造神話としての芸術は、自然の別の表現を提示することができるだけでなく、異なる自然を創造することもできる。南方熊楠は、この「文化的創造形式」を使って新しい自然を創造していると確信する。

日本から「西洋」へ、そして「日本」へ

南方熊楠は20歳の時、西洋の方法論と自然研究、そして西洋文化全体についての知識と進歩を求め、大きな期待を抱いて渡米した。1887年にはフロリダで現地の動植物を研究し、1892年にはロンドンに移り、1900年まで大英博物館で学んだ。この長期滞在中、彼は独学と現地調査、そして一流の科学者たちとの往復書簡に頼った。

1900年に帰国した南方は、植物、動物、菌類の境界を曖昧にする生物である粘菌の研究を専門とした。彼は生物学的、生態学的なアプローチでは、粘菌という現象について有意義な洞察はおろか、見通しさえも得られないという結論に達した。それどころか、男性/女性、単細胞/多細胞、動物/植物、生/死といった二元論的かつ還元主義的な科学的カテゴリーは、粘菌には無関係であるか、あるいは粘菌のライフサイクルの特定の孤立した段階にしか当てはまらなかった。こうした枠組み内で分類すると、逆説的に粘菌の独自の性質や存在を否定することになる。

文明のモデルとしての自然

私たちが「自然」という概念に疑問を抱くとき、単に「自然」という言葉を口にするだけで、自然の性質を論じる共通の基盤ができると考えるのは浅はかである。普遍的な「自然」と仮定するのは問題がある。なぜなら歴史が示すように、普遍性の概念は支配勢力のイデオロギーや技術を反映したものでしかないからだ。例えば、外的で客観的な「自然」を意味する日本語「自然」が日本で広く使われるようになったのは1890年代のことである。南方は、この言葉が日常語になった後も、「自然」という言葉をほとんど使わなかった。南方の本質的な「自然」の概念は、彼の著作を通して形成されているが、「自然」が固定された用語の形をとることはなかった。

南方は、19世紀末から20世紀初頭にかけての西洋文明モデルが、社会ダーウィニズムを通じて自然の自然アナロジーとして形成されたことを認識していた。また、社会ダーウィニズムが、不平等、植民地主義、人種、階級、性別の階層を、チャールズ・ダーウィンが唱えた「適者生存」の概念の「自然」な結果として正当化していることも見ていた。このことは、西洋文明モデルが必ずしも望ましいものではないという南方の信念を強めるものだった。粘菌研究の欠点からも明らかなように、粘菌は仏教、神道、本草学などの「伝統的」かつ「土着的な知識体系よりも本質的に優れているわけではなかった。

南方熊楠は、粘菌のユニークで帰納的、折衷的な性質に触発され、ユートピア(理想郷)的な文明論を展開した。彼は、人種、性別、国籍といった基本的な概念に異議を唱え、粘菌がダーウィン的な二項対立、分類、階層を超越する様子に類似性を見出した。南方は、真の文明には、彼が「感情的人間性」と呼ぶものの集団的かつ協力的な発展が必要であり、階層構造を超えた親密さと相互理解を強調するものだと主張した。

南方の性格

熊楠が粘菌を研究するようになったのは、幼少期から菌類を収集していたという生来の好奇心と、菌類から学びたいという欲求から生まれたものと思われる。南方熊楠は独学であったが、日本語だけでなく、ドイツ語、英語、ラテン語、中国語を話し、読むことができた。彼は日本の著名な政治家、作家、僧侶、神道家、また遺伝学の創始者の一人であるイギリスの遺伝学者ウィリアム・ベイトソンなど国際的に著名な科学者とも文通の交流があった。南方は強烈で個性的な人物で、着物などの目立つ時代錯誤な服装で知られ、当時の流行から意図的に逸脱していた。酒好きで、社交の場での乱暴で衝動的な行動をするという逸話も残されている。彼は直接的で型破りな方法でコミュニケーションをとった。率直で、しばしばユーモアと鋭いウィットを交えながら、論争を呼ぶような話題についても喜んで議論を交わした。しかし、彼が社交的でなかったことは確かであり、南方の人生はしばしば孤独と貧困に特徴づけられるものであった。自然の中での生活を好み、多くの時間を一人で過ごした。南方は同性愛者でもあった。彼は何度か恋愛関係を持ったが、その多くは男性とのもので、著作や書簡の中でこの側面を公然と語っている。日本の文化史において、同性愛は一定の社会階層や文脈の中ではある程度受け入れられていたが、南方は20世紀初頭のアメリカやイギリスでは、寛容さゼロに直面したであろう。いわゆる、西洋の「啓蒙」国では、同性愛に対して厳しい弾圧と暴力があったのだ。

本田江伊子の論文「南方熊楠とクィア・ネイチャーの出現: 文明論、仏教科学、微生物」(Minakata Kumagusu and the Emergence of Queer Nature: (The Civilization Theory, Buddhist Science, and Microbes, 1887-1892)で、彼女は、南方熊楠の自然概念に関連し「クィア・ネイチャー」という概念を紹介している。この文脈において、「クィア」とは、伝統的な認識論や階層的構造に異議を唱える自然を知り、経験する方法であると定義する。「クィア・ネイチャー」は、自然の多様性、特に微生物世界の多様性に対する親密で体験的なアプローチへと誘う。南方熊楠の独立性と当時の社会的期待への適合拒否は、文化的科学的慣習に挑む他の生命体、すなわち粘菌への彼の親近感と切り離すことはできない。

機械の神話

南方が日本で粘菌の研究をしていたのと同じ時期、20世紀初頭、エジプトではヨーロッパの考古学者がピラミッドの近くで機械を探していた。産業革命の真っただ中にあった西欧では、機械なしにピラミッドを作ることなど想像もできなかった。ピラミッドの建設には、高度な技術か物理的な機械が必要だと思われていた。しかし、その機械は発見されなかった。興味深いことに、ルイス・マンフォードは著書『The Myth of the Machine』(機械の神話) の中で、ピラミッドを建造した「機械」は確かに存在したが、それは20世紀の西洋の考古学者が想定していたような物理的な装置ではなかったと主張している。その代わり、この 「機械 」は数学、言語、政治、ヒエラルキー、人間の労働からなる「ソフトな機械」(人体、生体から成る)、いわゆる社会的構造であった。

この発言によって、マンフォードは、一方では物理的な機械と、他方では共有される価値観、規範、習慣、知識、信念、文化との間にある、本来は厳然とした存在論的境界を曖昧にしている。彼は、文化と機械間の再帰的な関係をも強調している。つまり、「機械」(テクノロジー)は究極的には「自然」と同様に、人間の存在と発展の条件を形成するものであるため、それらは互いを定義し合うのである。

自然の神話

マンフォードの「機械の神話」という概念を自然に適用できるだろうか。自然は人間的なものでも文化的なものでもないという、天地創造の物語に由来する西洋的な自然の概念を超えたらどうなるだろうか。「自然」とは数学、言語、政治、階層、人間の労働、そしてテクノロジーから構成されるものであり、社会文化的現象としての自然であることを認めたらどうであろうか。人間、機械、自然の間の境界や重なりが、存在論的で認知的な政治の結果であるという認識は、自然を見直す、ひいては人間と自然の関係を見直すための土台を築くことになる。それは、「自然」と「テクノロジー」概念の統合的なビジョンと批評への扉を開くものである。

南方熊楠の存在論的・認知的政治学

南方は、粘菌が中枢神経系を持たずに、餌までの最短経路を見つけるといった複雑な問題を解決できることに魅了された。彼はこれを、ヒエラルキーに依存せず、協力と相互依存から生じる有機的知性の一例と考えた。粘菌は、明確なトップダウン構造を持たず、個々の細胞がより大きな全体のために協力し合う集団的な有機体として機能している。南方にとって、これは相互尊重と協力が最優先される人類文明の理想的なモデルを象徴していた。粘菌は非常に柔軟で、絶えず変化する状況に適応する。これは、自然も文明もダイナミックに変化しなければ生き残れないという南方の信念を反映している。

南方は自然を個別の物体の集合体としてではなく、全体的かつ相互に結びついたものとして捉えていた。どんなに小さくても、目立たなくとも、あらゆる生命体が生態系のバランスと生存に貢献している。彼は、自然は人間に搾取される原料の源であるという西洋や日本の帝国主義的な考えに反対した。南方は彼の科学的観察と仏教や神道からの精神的洞察を組み合わせた。彼にとって、自然は物理的な側面だけでなく、精神的な側面も持っており、そこでは調和と尊重が不可欠であった。

南方は、粘菌は自然や社会がどのように機能すべきか、つまり、動的で相互に関連し、支配的な構造を持たないものを反映した小宇宙であると考えた。彼のアプローチは、当時の支配的で階層的、搾取的な考え方に代わるものであり、調和、協力、相互依存に焦点を当てたものであった。南方にとって、粘菌は生物学的な驚異であるだけでなく、包括的でバランスのとれた生命観のインスピレーションでもあった。

神社の解体に反対する南方の闘い(神社合祀反対運動)は、西洋のモデルを模倣した政府の政策によって地元の文化や生態系が失われていくことへの彼の抵抗を物語っている。

南方熊楠にインスパイアされた自然神話への嘆願

私の南方熊楠に対するイメージや想像では、彼は「自然の神話」を通して繰り広げられる存在論的で認知的政治における自分の役割を自覚していた。自然を再現することで、彼は個人の認知と認識、文化、自然、テクノロジーの再帰的ループを解き明かし始めた。南方熊楠の性質は、共感力と合理性に富んだ天才、折衷主義と非順応主義の性格、そして仏教、神道、本草学(薬用植物の研究)、西洋科学といった知識体系が統合された学際的な創作手法によって形作られた。彼の影響が日本の大衆思想、批評思想、文化思想、精神思想、科学思想にどれほど大きく、永続的な影響を与えることになるのか、彼が想像できたとは思えない。

私は南方熊楠の遺産のほんの表面をなぞったに過ぎないが、彼の遺産を証言し、それを受け入れ、願わくば他の人々にも同じことをするよう勧められることを光栄に思う。西洋文化においては、南方熊楠はまだほとんど知られておらず、そのせいで私たちは本来あるべきよりも少々貧しくなっている。

これは、南方熊楠に触発された創造的自然の創造への嘆願である。人類が最終的に自らを完全に解放し、人道的な世界の創造、あるいはその失敗の責任を負うという自然の神話である。「砂漠」や「ジャングル」や「海」は文化概念であるからといって、それが現実味を帯びなくなるわけではない。それでも、その中で迷い、死ぬ可能性は依然としてある。( 「自然」の定義に対する私の個人的な最低限の要件である。)

1.本草学は、植物・薬草・ハーブの研究に焦点を当てた、中国を基礎とする日本の伝統的な学問である。

2.本田江伊子「南方熊楠とクィア・ネイチャーの出現:文明論、仏教科学、微生物1887-1892年 、(Minakata Kumagusu and the Emergence of Queer Nature: The Civilization Theory, Buddhist Science, and Microbes」、オーフス大学、2022年。 https://www.chikyu.ac.jp/publicity/events/symposiums/no16/speaker/d5-1.html

3.Lewis Mumford, 『The Myth of the Machine:The Pentagon of Power』(権力のペンタゴン:機械の神話第2部) (New York: Harcourt Brace Jovanovich, 1970), 5-10.序章でマンフォードは、ピラミッドを物理的な機械ではなく、社会システムの産物として論じ、ピラミッドを建設した「機械」は機械装置ではなく、複雑な社会的・組織的システムであったことを強調している。

ヘアート・ムル

2024年12月

このエッセイは、2024年の日本での実践志向の創造的研究滞在中に書かれたものである。このリサーチは、特異な日本の博物学者、民族学者、民俗学者である南方熊楠(1867-1941)にインスパイアされている。レジデンスは、南方熊楠が生まれ活動した自然豊かな和歌山県紀伊田辺で行われ、南方熊楠記念館と南方熊楠顕彰館がある。

協力:紀南アートウィーク

クリエイティブ・インダストリー振興財団(Stimuleringsfonds Creatieve Industrie NL

素晴らしい論文「南方熊楠とクィアな自然の出現:文明論、仏教科学、微生物、1887-1892年」を紹介してくれた本田江伊子氏に感謝する

南方熊楠について個人的な感想を聞かせてくれた藪本雄登氏、四方幸子氏、唐澤太輔氏に感謝する。

ヘアート・ムル(Geert Mul)

1965年生まれ オランダ・ロッテルダム在住

ヘアートは、デジタル・アートのパイオニアであり、25年以上に渡り、自然とテクノロジーを巡る探求を行ってきた。版画、映像、映像技術を活用したインスタレーションなど、幅広いメディアで実験的な作品を発表してきている。インスタレーションを通じた自然、人間、テクノロジーと知覚の相互関係は、ヘアートの作品の重要な主題である。

ヘアートの作品は、公共的な場所、美術館、フェスティバルなど、様々な場所で展示されている。

美術館でいえば、クレラー・ミュラー美術館(オランダ)、ロッテルダム・ベーニンゲン美術館(オランダ)、アムステルダム・ステデライク美術館(オランダ)、京都国立近代美術館(日本)、マドリッド国立レイナ・ソフィア美術館(スペイン)、バレンシア近代美術館、カルティエ現代美術館(フランス)、シカゴ現代美術館(アメリカ)などで展示されている。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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