戦後俳句を読む攝津幸彦の句/堀本 吟

https://sengohaiku.blogspot.com/2013/01/blog-post_8780.html 【戦後俳句とは いかなる時空だったのか?/堀本 吟】より

(1) 《俳句史的視点の入り口》 磐井への手紙

筑紫磐井さま。予定ではつぎのようなベクトルを持って進めようと思っています。

①和田悟朗の現在的位置。(後述)

② 戦後俳句の、敗戦直後の新人であった、津田清子の主宰誌の終刊に触れて、蛇笏賞の句集『無方』以後から終刊までの、句と比較検討すること。(このためには、「天狼」初期の再読が必要になりますけれど。)

津田清子は、みるところ、「天狼」の系譜の中ではかなり特異な存在です。津田清子の「圭」が8月号で終刊したこと。理由は、「体力の限界」、ということで、あっさりした終刊の辞です。清子現在93歳。山口誓子、25歳から橋本多佳子の指導下に育ち「天狼」直系の女流。多佳子の死後、「沙羅」「圭」を主宰し、92歳まで続けました。文字通り戦後の俳句の営為がひとつの終わりをきたしたのです。彼女の天性のカリスマ性によって、俳壇のアイドル化されてきましたが、橋本多佳子、桂信子、三橋鷹女の後を襲いながら、彼女個人の個性は、いわゆる母性や女性性を表に出さないで女流俳句の強さをみせた人です。そのことは、どこかの場で言っておきたいのです。奈良の地で初期「天狼」の建設精神の根源俳句を全うしてきたこの地味な女性の単独者の風貌は、戦後俳句の一隅に生き続ける、いや、私がそのように位置づけたい、と思っています。

③「京大俳句」(戦前の)にあらわれた戦後的モチーフ、および同誌に投稿された「戦争俳句」の研究は、注目すべきです。 

「京大俳句」読む会は、大阪俳句史研究会の分会ですが、これのみを独立したテーマに掲げ、読書会がおこなわれています。昭和15年の京大俳句事件(俳句弾圧事件)まで、この大学同人誌が包んでいるテーマやモチーフは、戦後にひきつがれる要素が散見します。また、新興俳句の理論付がそうとう公式的唯物論なのですが、しかし、その自らの理論の粗い網をくぐり抜ける、彼らの直感は正しいのです。戦争や国家の弾圧自体も無効にして戦後に直結するモダニティがあります。代表の西田元次氏の悲願である戦争俳句の研究についても、この世代の後世へのメッセージとして、受け止めておきたいものです。

④ 昨年9月8日 「攝津幸彦再読」のシンポジウムを神戸文学館で催しました。

攝津幸彦の母校にあったチャペルが神戸文学館となり、そこで攝津を語ったことは、大きな意味を持ちました。神戸市民の自主的な文化活動のにひとつであるから、企画は大橋愛由等(生粋の神戸っ子)が中心。内容からして、関西の豈の俳句側の同人が協力しコンセプトの大枠を作り、チャンスを捉えての動きが必要だったので、おおかた大橋氏と堀本が即断で進めてしまいました。しかし、参加者は、近在の「北の句会」メンバーや「京大俳句読む会」の友人。詩や自由律俳句、短歌、川柳真摯な多様な関心のもとで実現したものです。

このシンポジウムで中村安伸(実家が奈良、住居は東京)が、私が使った「1970-80年代俳句ニューウエーブ」という言い方について、中村、堀本との認識のズレがあることをいいました。彼に言わせると、自分は、小林恭二の『俳句という遊びー句会の醍醐味』1991岩波新書)によってカルチャーショックを受けたというのです。

(参照。中村安伸《俳句のニューウエーブとはなにか》。詩客ー「俳句時評」六十九回。2012年10月4日投稿)

この反論は貴重であり、こういうことを、話し合わねば、戦後俳句の初期と平成にまたがる戦後世代の戦後間のズレは埋まらないように思われます。埋まらなくともいいが、お互いこうだったんだという自己認識が深まりません。もちろん、いろんな不備やツッコミの限界があった。その反省も含めて、いま攝津津幸彦を読むことの必要を改めてかんじました。このことは、紙媒体の方の豈と連動して、私の立場から詳しく総括するつもりです。

(2) 《戦後の危機感と開放感》 和田悟朗の「地球」の句

2012年、私にとっては、転換や節目をおしえられる動きが生じた。  磐井氏にメールを出した項目の①に挙げた俳人がいる。

和田悟朗は1923年生まれ。現在九十歳になんなんとしてをり、昨年3月、東北の災害の直後、第十句集『風車』を刊行した。(2012年3月刊行・角川書店)。生駒市発信の新しい同人誌「風来」は三年目にはいる。ちなみに、私はその「風来」に創刊以来参加している。

和田は、日常的小景よりは包括的な深遠な大景の書ける俳人である。兜太や橋閒石や赤尾兜子、はたまた高柳重信等に先導され刺激され拮抗しながら、あの知的に見えてとりとめないところもある作家像を短い十七字の世界に立たせている。そういう俳句を和田悟朗は作ってきたのである。

「地球」「宇宙」「時間」「光束」など、観念操作のいる用語は悟朗の独壇場ともいえる目新しい使い方だった。その「宇宙」や「時間」や「地球」や「津波」という言葉のほうがいまや日常的に目に見えるほど、自然災害がめだっている。

台風や地球の水を繰り返し  和田悟朗 『風車』

大地球小地球など柘榴裂け   同

あらためて、丸い球の表面に海や川があり風の動き方次第で波がたったり河があふれたりするその水の循環が「台風」というのだ、と自然の法則を教えられるうちに、循環論法のようなとりとめない思索の回路にはまってしまう。

「地球」と「裂けた柘榴」の配合・・、これは、日常のちょっとした思いつきなのかもしれないが、一転して銀河系のどっかから見下ろされている視線も思わせる。なんの社会的な言辞も書かれていなのに社会性をおび、一層のリアリティをもっている。和田悟朗にしてみればこれは今に始まった手法ではない。

俳人は老いて九十歳になったいま、戦後のテーマを包括的にあらわす場所に追い込まれてきたのだといえる。

春鹿に光束蒼し開眼日   和田悟朗『風車』

「春鹿」は春になって、全身の毛が抜けて惨めっぽくなっている鹿。「光束」は単位時間に伝般される放射エネルギーを光の量を、視感度で測ったもの。「開眼日」は、この季節に使われるならば、天平勝宝4年4月9日(新暦752年5月26日)の東大寺の毘盧遮那仏(奈良の大仏)の開眼供養が有名。新仏に目を入れる供養は一般的な宗教行事である。

「春鹿」「光束」「開眼」。この、活きる世界のちがう三つの語彙の組み合わせは。読む方をいささか当惑させる。これは何を真意とするのであろうか?

私は、あえて「光束」は燦々と春の日が降ってくる、ととり、「開眼日」は、奈良の大仏さんの聖武天皇が主催したあの「開眼日」というありがたいおめでたい日に決めた。みすぼらしい春の鹿が春の光を浴びている。おりから、大仏さんの開眼日、鹿は、慈悲の光を浴びて、「春」という言葉の言霊の使いのように、みすぼらしさではなく生命の勢いを取り戻す。今日はとりわけこの光が蒼く見える、というのがまた心憎い。「蒼し」はかなりモダンな色目であるが、蒼い光の束を人も鹿も浴びて美しい。しかし、大仏が目を開けるとともにこの世にみちる光のことを「光束」と言うそのことで、宇宙のはてにある光源に置き直される。身近な電球の明かるさのことや、奈良の観光名物の大仏さんの由来を知ることは、今の現象ををもう一度そのルーツに帰らせ、あわせて、現代科学というものが宗教の発生とむすびつくのもむべなるかな、とこういう感慨をもたらす。

和田悟朗は、科学者でもあるゆえにか、大きな概念世界を掲げながら、しかし、身の回りのちいさなことどもにかかわる自分を忘れない。その姿勢を一貫するとは、傍目に見るほど簡単なことではないはずだが、つねにメビウスの環の還流の道筋をたどっている。

ここに例示したように。「戦後俳句」といっても幅が広く方法も多元的なひりがりをもっているのである。

https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/settsu/2012-08-03-9929.html 【戦後俳句を読む(28 – 2)攝津幸彦の句【2012年の攝津幸彦再読】②/堀本吟 】より

別立てで、アピール文、九月八日の神戸文学館で行う《団塊の世代/1970-80年代の俳句ニューウエーブ〈攝津幸彦〉を読む》シンポジウムのことと、パネラーによる事前の一句鑑賞を掲載させていただいている。アピール文を出した時から既に、シンポジウムが始まっているというのが今回のコンセプトの特徴的なところである。(出来るだけ知識を共有したいということと、インタラクティブにその場で、問題意識を生み出したい、という気持ちがある、摂津幸彦についてもその時代についてもわからぬ要素がいくつか出てきている)。しかも、そういうことを置き去りにして、平成の俳句世代がどんどん育ってきよび戦後俳句史)を読む》の一部なのだが、その時に語り合うテーマとかなり深く絡んでくる、というより、絡ませるつもりである。

 テーマが絡む、というのは、詩客のこの欄で、皆さんの研究を読んだり自分の俳句の史的テーマを遡ったりすると、例えば、「時代区分の仕方」と、「時代区分をする意味」、ということが自分の中でアイマイになりつつある、ということに気がついたりする。

 そのわからなくなっているところを、もう一度明らかにしてみる、ということである。

ひとつ例をかかげておこう。 私は、最近書く文章には、「戦後とは第二次世界大戦終了の後の時空のことだ」とできるだけ断っているのだが、最近とうとう、その意味での「戦後」という言葉自体をどう考えていいかわからない、したがってどうしてこれが短歌のモチーフになるのかが全く実感が伴わない、と短歌を作る二十五歳の青年から直接言われた。私の作品が下手くそだったから、ともいえるし、彼の中では戦後の短歌史がまだ構成されていないのだ、とも思えた。が、「戦後」が、一九四五年のそれだということ自体が彼には納得できないのである。今の若者は、「9・11後」、とか。「3・11後」、とかいえば、社会の根本を揺るがせるような大きな災害や状況変化の意味がわかるのだろうか?そういう同時代経験とともに、かかる抽象的な命題を好まない心情も、彼の短歌から窺われた。

私は、その非社会性を避難がましくいっているのではなく、そういう関心は年齢や生活事情が変わればいかに変貌するかはわからないことだ、。

しかし、私は、じつは,その時突然,自分が人に解られようとすることへの意欲の喪失、という心境におちいったものである。さびしいことに、この状態は最近しばしば忍び寄る老人性のウツ状態ともおえるのだが、自分が大切にしてきたテーマやモチーフが、ほぼ全的に理屈からではなく感覚から拒否されている。まあ、新世代が育つということはそういうことなのかもしれない。しかし、振り返って反省してみるに、今の、俳句の二〇代三〇代の人たちが、かつての青春俳人たちのように満を持して差し出している「現在の俳句」の面白みが、私には本当のところが今ひとつ理解できているのだろうか?彼らの表現がわかるとしたら、どういうことが、私自身が納得していないのかもしれない。 どちらにしろ、あまり歓迎すべきことではない。が、こういう表現や思考をやめてしまうならばともかく、死ぬまで現役を貫くとしたら、個であり続けることが孤立無援状態ということになるわけだから、そういう状態にもっともふさわしいテーマはなんだろうか?とまた考える。 

またしても攝津幸彦とその時代からはじまった表現の動きががふっと思い出されるのはそういう時である。 

抛らばすぐに器となる猫大切に ( 器→うつは とルビ) 第三句集『與野情話』昭和五十二年 沖積舎

比類なく優しく生きて春の地震(地震 → なゐ とルビ)

弟へ恋と湯婆ゆづります (湯婆 → ゆたんぽ とルビ) 第七句集『鹿々集』 一九九六年 ふらんす堂 

攝津幸彦は、時勢を斜めに見たり茶化したりすることはあっても、そういう存在への関心の外に出ることはなかったのであるが、現実現象のうちに沈みきっている類のリアリズムの方法は取らなかった。その短歌青年の現在の心理に近い形で、これに近い位置で、しかし、日常些末事が想像力よって変貌するおもしろさを見落とさなかった。そして、その好奇心の動きを言葉の解体や変化に結びつけて、常に想像力の「秩序」化することを攪乱しようとしていた。平凡にことのない日々を送りたいことと、その逆と、矛盾した関心のうちに生の時間を過ごしていたとも言える。

「戦後」の直後を抜け出しかけた団塊の世代の「「吃り吃りの饒舌」,自己矛盾するこの語り口の亀裂に、俳句形式の方が近寄ってしまった、という高柳重信の言葉を思い出そう。 言葉が生まれる原型の場面はこういうものであろう。攝津幸彦を読むということは、つねに自分を彼の時代に呼び返すことだし、さらに私も彼も生まれていなかった時代の感性が味わう孤独にたちかえらせる契機でもある。そして、常に現在時のこの瞬間に引きすえられる。言葉はその時にしか生まれないが、いつしか時空の流れの内に組み込まれる。

「一九七〇~八〇年代の俳句ニューウェーブ」と、私は言いたいのだが、この一方は、厳密には任意されてはいない。若き日の攝津幸彦や坪内稔典の「日時計」という同人誌や、そこから別れた「黄金海岸」(坪内、摂津、大本義幸)、江里昭彦、上野ちづこらが俳誌ジャック(?!)をしたという「京大俳句」、「天敵」(澤好摩)、「未定」(夏石番矢、林桂、高原耕二、江里)、また彼らが集合した「現代俳句」が持っていた勢い、を今の時代の若者たちは知らない。私にしてからが、その具体的な動き方や交流の実態はよくわからず残された句集や時折の回想の中で窺い知るのみである。入り混じったその足跡を見る限り、彼らが落ち込んでいたところはまさに形式が生まれる現場なのであった。それをゆるした面白い転換期。摂津幸彦も、隠れもなくそういう時代の申し子であったわけだ。

https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/settsu/2012-08-10-10020.html 【戦後俳句を読む(28

一九七〇年~八〇年代の「俳句ニューウエーブ」(続)

先日、《攝津幸彦シンポジウム》(9月8日神戸文学館)のことで、パネラー予定の人たちが初顔合わせをした。その時に、主に私が提案している《一九七〇~八〇年代の新人としての攝津幸彦》というセッティングについて話しあった。そのことですこし整理しておく。

「ニューウェーブ」なる名辞には、やはりそれぞれに時代が通過する青春への期待がうかがわれる。世代はともあれ、言葉としてはそんなに違いはない。求めたれている新しさの内実が違うのである。そしてその時期の「ニュー」はいずれ次の時代の「オールド」となり、波は平となりあるいは頂点から奈落へ向かう。

七〇ー八〇年代は、攝津俳句の初学時代ではあったのだが、既に青春のアバンギャルドをスタイル化していた。一般的に学園紛争中の青春に際立ったメンタルな特徴としてあった、表現の主体を確立する、とか、国家権力との対峙などいうような尖った感覚が横溢しており、「日時計」や「黄金海岸」には、私から見れば紙面全体にそれは際立っている。

中村安伸、岡村知昭、ら『新撰21』『俳コレ』の世代、現在三十歳代のニューウェーブたちは、自分たちの直接の先輩格である岸本尚樹、長谷川櫂、田中裕明等を、一九九〇年代の「ニューウエーブ」と感じてカルチャーショックを受けたらしい。その時に直感する「ニュー」の内実はそろそろ総括されてくるだろうが、彼らは、攝津幸彦に関しては、その青春の模索を言葉でしか辿れない。時代的に連続したものとしてあるのだろうか?中村安伸が攝津幸彦の作品の構造に踏み込もうとしていることは留意すべきであり、岡村が、歴史的成立事情を無視して、摂津俳句の言葉そのものから受ける印象から、読み込もうとしていることは、彼らとしては全く正当なのである。

岡村たちはそういう一九七〇年代を時代の相自体についてはすでにあまり実感がない、だからこそ、彼らが攝津幸彦が晩年に達した、たとえば「静かな談林」という言い方をどう受け止めるかは、私には大変興味がある。

また、学生時代を過ぎてすぐに関西の小出版社海風社に努めて、江里昭彦や坪内稔典、久保純夫、宇多喜代子の本を制作した大橋愛由等が、幾分熱っぽくその時代の彼らを「ニューウエーブ」というとき、攝津が、詩への越境侵犯をかさねつつ。そのエッセンスを融合した現代の談林俳諧人へ向かう内的な旅を選んだことを、いかにみとおすだろうか? 「日時計」「黄金海岸」で、攝津は、赤尾兜子の第三イメージばりの超現実的なイメージ俳句はもちろんのこと、脈絡をもたないダダ的な詩文や。一句に句点を打ちそのまま散文詩のように十数句をつないでゆく表記配列など、詩の領域を侵犯するはば広い実験を重ねている。その徹底ぶりは、坪内、大本、よりも広く深い。それが、『鳥子』を産み、『與野情話』の通奏低音となっている。しかし、それらを生んだ小冊子は今は伝説となっていて、あるいは若い人たちには存在さえも知られていないだろう。

その作家的位置づけを、筑紫磐井がうまくまとめてくれている。

俳人は結社で育つと疑いもなく多くの指導者はいい放つが、現代にあって同人誌だけで俳人として大成したたった一人の作家が攝津幸彦である。/摂津が俳句という表現領域で大学卒業後、広告会社に就職し、/関東に就職するようになってからだ。/攝津は、結社の俳句作家とは違った独自の方法論を持っていた。『攝津幸彦選集』(邑書林)

それから、ここに、『アサヒグラフ別冊―平成俳壇・歌壇』。一九九二年十二月刊行。(齋藤愼爾編集)というムックがある。朝日新聞社が連続して、近代俳句以後の俳句を、カラーグラビア、写真を多く使った大判のムック版でシリーズ編集したもの。ビジュアルな俳句雑誌が俳句ブームに一役買った。短歌についても読みどころの多い。

主な特集《平成俳人群像四十一人自選十句》には、今は亡き鬼房、敏雄、六林男、信子、郁乎等が健在。そして、戦後俳句の作家の流れがつきるところ、その当時に最もなうな俳人として坪内稔典、夏石番矢、長谷川櫂と、並んでいる。

さらに少しページが進むと。そこに《現代俳句のニューウエーブ》で紹介されているのは 攝津幸彦、江里昭彦、と私堀本吟であった。(自分で言うのはなんだが、二十年前は私も若くて初々しかった)。それはともかく、攝津はそこにこう書いている。

二十代の若き日。加藤郁乎に、摂津の俳句はインチキだ、と言われたことがある。/本物が歳月を重ねてインチキであったとわかるのは絵にもならないが、インチキがそれを重ねることで、段々本物に近づくといった構図は、なかなかに俳諧風でよろしいと、/今でも、インチキを無駄や無意味という言葉に置き換えてたのしむことがある。/

彼は幼少時に「めらりともえあがる太陽がみどり色の一片を見たい」とおもいつづけそれを〈緑閃光〉となづけ、俳句形式の現れる周辺にもそれを見たい、と念じる、という。

「俳句形式のあるべき姿や日本語の美しさ、そして言葉そのものの匂いや肉体性が正しく認識される場所にこのみどりの光は隠されてあると、信じているのであった。」<(以上引用文はアサヒグラフ当該号。)

自分の過去のある時期の文学的初心に触れている。「めらりともえあがる太陽のみどりの一片」を見たいという過剰な夢と。それが無意味であるという自覚との狭間に、攝津とその時代の青春の夢がのっぴきならずしかも空虚なものであることが告白されている。一流の諧謔があり、文章の運びがうまい。攝津の表現思想の触りの部分である。

https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/settsu/2012-08-17-10197.html 【戦後俳句を読む(29 – 1)攝津幸彦の句【2012年の攝津幸彦再読】④/堀本吟】より

1970~80年代の「前衛俳句」と攝津幸彦 (1)

①戦後の「前衛俳句」の収束、戦後生まれの俳句青年の自覚如何? 

セッツシンポジウムの企画、司会者大橋愛由等から、一九七〇~八〇年代のこの両者をつなぐ糸、それも「前衛俳句」というカテゴリーでつなぐ糸はどのようにあるのか。なんらかの基礎資料にあたるものをつくってみてくれないか、という要請が出ている。かれは最初」関西前衛俳句」の概念を出してくれと言っていた。私はそれは無理な注文だ、といった。大橋愛由等が望む形での「前衛俳句」は運動体としては存在しない、しかし、話題になったあれはなんだったのか?欠落は多いだろうが、雑誌の目録ぐらいなら出来そうだ。

②「UNICORN 1~4号」(1988/5~1970/2 )」

縄」や「夜盗派」の紙面に、「マンネリズKAWAANIYOUNISURUKA,ムの影がきざしてきたころ、「UNICORN 1~4号」(1988/5~1970/2 )、季刊の同人誌がだされた。その目次を「豈]39-2特別号関西編)に、酒巻英一郎がまとめてくれている。今、攝津幸彦たちが創刊した(「豈」1980.6)を再読するときに、これが非常に役に立つ。「ユニコーングループ」は、今から見ると当時の「前衛俳句」の俳人と言われた人たちの東西の交流の一つである。俳壇勢力を外れて同人誌という形でうちだされている。関西から八木三日女、島津亮、東川紀志男、大橋嶺夫、門田誠一等、と関東からは加藤郁乎、松林尚志、大岡頌司そして安井浩司が参加。編集発行は「縄」。「花」の門田誠一。

「創造的な精神がいかに可能か、という問題意識を抱きつつ、個々の追求の独自なあゆみを歩む、という真実な意味での文学集団であろうとしている。」(大橋嶺夫・NO.1の[あとがき」)

ハイレベルの「創造的精神」が、そういくつも転がっているわけではない。戦後文学や戦後詩を進めてきた状況的なエネルギー「戦後」が曲がり角にきたと感じられた、ということか。既成観念のリセットが目論まれている、そう言う意味でのある新鮮さが感じられる言挙げである。本質的な理念を打ち立てることが、あるいは不可能であるかもしれぬ場所で、しかし、ここおrみは繰り返される。 私も便宜上その時代の言葉として、「いわゆる前衛俳句」ということが多いのであるが、これほど誤解されやすい名辞と概念はない.出来るだけ、使わぬようにするのか、前衛短歌のようにそれに近い人たちや潮流が、その言葉を規範として受け入れて考えるか、どちらかである。

八木三日女は、私がインタビューにうかがった二十年前にも、既にこれはマスコミのレッテルであり、私たちは「前衛俳句」ではなく、ただ「俳句」を作りたかったのだ、と否定していた。それは、詭弁とか自己弁護とも取れるが、レッテルを貼られるとその周辺だけがとりざたされ、イデオロギーがあたかもその句の文学的本質かのように固定化されるだろうから、「創造的精神」の可能性が狭まる、と感じたその気持ちは理解できる。が、そう誤解される要素も含んで、戦後俳句作家は、民主主義の文化の下で、硬直した結社性や有季定型法ではない、俳句の可能性を求めてきた。

「UNICORN 」の内容は、後年の「日時計」、「黄金海岸」、「豈」、のスタイルのモデルとなっているのではないだろうか?

創刊号目次には、彼ら流の《 伝統と近代》と題して保田與重郎の検証が 連載されている。短歌の前衛的存在である岡井隆の歌集について、《『眼底紀行』の反鏡》として、安井浩司、酒井弘司、松林尚志が小論。杉山平一詩集『声を限りに』が東川紀志男紹介。安西と書く。三日女は、友人の結婚式にでた印象㋨中で、フランソワーズ・サガンの『ある微笑』を引き合いに、結婚式という儀式の定型の受容が、女性の精神も人格も支配することに触れている。(この文章さすが、明快。フェミニズム俳句批評の嚆矢だろう。)

なお、このころ話題になった 加藤郁乎詩集『形而情学』の宣伝。また郁乎の詩が「UNICORN 」誌面を飾っている。三日女、亮も当時の典型的な「前衛俳句」である。

ウルトラを目指して、定型の縛りに自己抑制を余儀なくされている「かなり反抗的なモダニズム」といってもいい。俳句詩型を確立するために、ジャンル交流や領海侵犯を恐れない姿勢が、詩客の試行にもつうじる。事情はよくわからないが、短命で終わったこの「真実な意味での文学集団」、しかし三日女、郁乎、亮、浩司という顔ぶればすごい。

以下の、戦後世代の小同人誌と、このユニコ―ンは直接には関係ない,としても、ひとつ上の世代の「創造的精神は以下に可能か」?とかんがえる志向が同じである。 

③関西大学学生俳句会「あばんせ」(1968),「全学俳連ニュース」

捨てようと思っていた古い冊子や、「日時計」・「豈」創刊号など、まにあって貴女は幸運です、と言って、攝津幸彦が送ってくれた現物は、ガリ版刷り赤い厚みボール紙で閉じただけ。封鎖状況の中ハタチそこそこの学生が作った文化面でもラジかリズムを発揮、という時代の雰囲気を見せているパンフレット。攝津は学生仲間の伊丹啓子に誘われ、関西学院大学に俳句研究部を作った。松山での全国学生俳句連盟大会、攝津、坪内、澤好摩等が知り合い。日時計創刊の運びとなったらしい。これらも日時計も、戦後生まれの俳句学生の拠点となった。

④ 「日時計」NO.1(1969. 9)~NO.10(1973.3)坪内稔典発行。(尼崎)

創刊号の参加同人は十四名。

参加同人の平均年齢は二十四歳。

私たちはあらゆる場所で鋭く主体を問われています。日時計を安易な慰めの場所にだけはしないでしょう。/

この編集方針は明朗である。同人誌の方法の原則が打ち出されている。

「参加同人全員の討議から、テーマを決め、編集の企画を決定。/当面は、表現と方法、という特集を設ける。/ 取り上げたい作家を全員で協議(第一回は赤尾兜子)

が、やがて、三年目。8号を出すときにおおはばな遅刊。同人の病気、卒業後の生活の変化、などの理由でリセット。引き続き第二次を発行。これも、二年半でピリオド。

⑤「第二次日時計」NO.9(1972/9)~13(1974.2)

NO.10編集後記は宮石火呂次 屈折する気持ちを書いている。 

昭和四四年二月に創刊されて以来、今日で丁度五年の歳月を数えることになります。/僕たちも三十代になろうとしています、(平行して、学生運動もどっかに行ってしまいました。) 

さて、根底からの主体のありようへの問はどうなったのか、僕たちは少なくとも、作品を書くという行為の中で問い続けてきました。状況と表現と言語表現のあいだで苦闘し続けてきました。それは、つねに自己否定による自己の確認であった。/

学生から生活者への変化の中で、僕達の営為であったこの13号までの日時計を再びとう返すという意味で、ここにいちおうピリオドをうち、あすの出発の起爆剤となりうることを信じて、終刊の後記を致したく存じます。(宮石火呂次)

第二次日時計13号には、「日時計」解散のお知らせが大きく乗り「天敵」(澤好摩)、と

「黄金海岸」(大本義幸)の双方からのアピールが乗っている。

「天敵」についてはまだよく知らないので、詳述はできないが、やがて解消され、「未定」と合流。

*「未定」創刊。

*「黄金海岸」発行は大本義幸(当時東京在住)。

大本、坪内、攝津、立岡、馬場善樹・宮石火呂次 

*「現代俳句」創刊。

*「豈」創刊((1980,6)(発行人攝津幸彦。

私は、豈を通じ、いかなる工夫で俳句を書き続けてゆくのか、あるいは俳句を断念するのか、その有様をじっくり見てみたいのである。いづれにしろ。豈が近い将来、終刊を宣言する頃に、我々の胸に、はっきりした決意があらわれているはずである。(s=摂津幸彦)

以下次号。さらに詳述する。

https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/settsu/2012-08-31-10436.html 【戦後俳句を読む(29-3)攝津幸彦の句【2012年の攝津幸彦再読】⑤/堀本吟】より

1970~80年代の「前衛俳句」と攝津幸彦 (2)

~日時計3号のシンポジウム。兜子・幸彦・稔典・寛章~

前回、敗戦後の俳句を一次駆け抜けた前衛俳句の転換を告げた感がある同人誌「Unicorn」のことを書いた。(綴りをまちがっていた、最初のU以外は小文字である。申し訳ない)。ひとくくりに「前衛」、といっても、それぞれ方法や体質が違い、この人たちが一緒にやれるのも不思議であるなあ、と思わぬではないが、三日女、亮、郁乎、浩司が、一誌に会している光景は、眩しいものであった。時は、六〇年安保闘争が収束して、七〇年代に入ろうとする頃である。

「俳句評論」は一九五八年創刊。「海程」は一九六二年創刊。「高柳重信は一九六八年に総合雑誌「俳句研究」の編集長となり俳句史上画期的な知的オルガナイザーとして敏腕を振るった。一九七三年に新人発掘のために「五十句競作」を企画公募し、攝津幸彦もそこで注目された。現在、芝不器男俳句新人賞が平成俳句を担う新人を発掘する舞台となっている状態を想像して欲しい。いつの時代でも、ある時期が来たら新人が待望され、小さな場所に芽吹いた芽を育てるそのためのステージは考案され用意される。インターネット時代の今と、一九七〇年頃とは、また様相もテーマも違うのではあるが,情報社会時代が本格的に始まるハシリの時期である。。

そのような中で、「日時計」は一九六九年二月創刊(坪内稔典、攝津幸彦、伊丹啓子、澤好摩、他)。一九七四年二月に十三号を持って終刊。会員による討議から、当面は【 表現と方法】を共同テーマとしてかかげることが、編集後記にあり、同人が毎号そのテーマのコラムの短文を寄せている。(これは8号まで1971年12月までコラムが続いており。シンポジウムは第一回赤尾兜子、第二回伊丹三樹彦を招いたあとは中断。)

1号《澤好摩、立岡正幸》《招待作家。赤尾兜子》

2号《攝津幸彦、立岡正幸》《招待作家 五十嵐研三》《評論寄稿、中谷寛章-揺れながらの上昇-俳句方法論序説》

3号【シンポジウム第一回 表現と方法 ●現代俳句の発想と方法《第三イメージ論を中心に》】

出席は、赤尾兜子(渦)、攝津幸彦、坪内稔典、中谷寛章(渦)、三宅博子、山内清(地帯)。広瀬道子(集団55)。立岡正幸(司会)。詩人も参加していることと、赤尾兜子の片腕として「渦」にいた論客中谷寛章が雄弁をふるっていたことも興味を引いた。

いま、「日時計」全巻を手元において目を通しつつあるのだが、平均年齢二十四歳、時あたかも大学封鎖のさなかであることもあり、全体が活気ありむしろ、攻撃的な知の志向性と、情況=外部への強い関心がめだつ。

「私たちはあらゆる場所で主体を問われています」(創刊号)、「俳句は私たちの実存の総体の中でのみ全体的に考えることができる」(2号)。「僕らが今日俳句作家に望むのは、語義通りラディカルな精神だ。我が国の精神風土の血脈をえぐる思考だ」(3号)。この後記は坪内稔典。五十年前のことをあげつらう意味ではないが、かっこいい。もう一度ネンテン氏ににこういうことを言わせたいものだ、とふと思った。坪内、攝津たちが学びたかったのが、赤尾兜子の「第三イメージ」説であった。

「日時計」3号の座談会の進行(/ 印のところは省略部分。丸括弧内は筆者のまとめ。)

~【なぜ書くか。書くという行為について】~

攝津・大学問題で発せられる言葉は、甚だ欺瞞性に富んだもの。/例えばカリキュラム編成というものを、帝国主義的な改編と結びつけるところがある。/(それと)僕らの内部の言葉が引き離されて/カオス的な言語状況を生じる。強大な空白感に悩まされ/言葉に対する不信感が生じる。(じゃ、どうすれば良いかといえば、「言葉が形成される意識」に問題を移す。)/映像化されない言葉をふたたび言葉にしてゆく、イメージの発想の根源を、常に問い返す作業が必要。/

摂津の言うディスコミュニケーション的思考に対して、中谷と坪内は学園闘争の情況的な中での発語を問題にする。書く行為には、自分を表現することのほかに、状況に切り込む言葉がある、という中谷。この情況で作品を書く行為が犯罪的に思える。と坪内。攝津は、自分の肉体から発した言葉が必然的に伝達性を帯びることに「不潔感」を持つ、という、その感覚にこだわる。

攝津「自分自身だけが感動できる/自分にとって絶対的な言葉を要求するのです。」

中谷「肉声ということですね。言葉そのものが自分の身体の一部である、というような。」

攝津は、イメージには情況(外部)が既に入ってきているから、最終的に、その目的意識を、作る前のイメージが持ちうるか、という問題にたどり着く。意外にもこれに賛同して、

中谷「肉体的言語というものを書き得たら、もう、そこに、/ものの存在すべてが入ってくるとは、僕も思うのですがね」。

摂津「しかし。言葉を使って語るってゆくところにしか何も生まれてこない、という気もする」。

と、悩みは堂々巡りする。青臭いといえばいえるが、大学紛争の情況は、表現の方法にも反省を强いているのである。攝津が提示した、肉体を出てゆく言葉に対するこだわり方も、己のアイデンティティに対する懐疑をあらわしたものであろう。彼は、発想と方法について、俳句以前の発想の根拠にある、として、次のようなことを言う。

摂津「肉声というものをどう多元的に発散させるか」ということ。

摂津「死滅した冷たい植物的な言葉を使っで意識的に語呂遊びをやることで、僕達の肉体に何か帰ってくるのではないか、ということを考えているのですが。」

日時計は、その実験工房であった.(8,9号)には《俳句前史》という、行わけのない詩文もと往生する。

 議論はこのあとながながと続く。「インサイダー」(体制)、「アウトサイダー(体制外・あるいは反体制)」、「インサイダーの中のアウトサイダーでいいのか」というような、当時流行りの言葉が飛び交うのは、懐かしいが、でも、要するにこれは一種の言語操作であるからして、やがて来る不毛感も予測される。摂津は、「政治的情況の論理化を強いられてる」情況下では、「それ以前の、言葉で表わされない状況をインサイダー的な立場から俳句に定着させようとする行為をとるのですよ」。

~【第三イメージと情況】~

前衛俳句の理論で一番謎めいているのがこの「第三イメージ」論であった。以下は兜子自身による自論の展開としては、貴重なものである。

赤尾・(「情況」論議をふまえて)。今日的情況(現在目前)と、普遍的情況(もうすこし先のまでの状態)の両情況を支えて第三イメージは尚且つ成立すると自分では思っています。/イメージという言葉が非常に安易に使われている。/なぜこんなに簡単にイメージが出てくるのか、といえば、テレビというひとつの媒体がイメージを流しているからですよ/

概要すれば、第一イメージ(テレビが流す「アンフォルメルなイメージ」も避けられぬ。これもイメージの一部だが、全体ではない)。第二イメージ。(ものの存在の根っこをたしかめる、「現出的イメージ」(サルトルの実存的な確かめ方)) 「一本の樹なり、岩なり、塩なり jしか残らない状態、これは不動のものです。」。

第三イメージとは?・・・ 兜子は以下のように語る。

赤尾「その両者の二つを把握して、第三イメージが構成されれば、これは単なる俳句上だけの方法論ではなくて、一つの詩の構成方法としても異論はなかろう、と思うのですよ。」

兜子の提言に向きあう若き坪内、摂津の二人が質問形式で追い詰める意見陳述は、今日読んでもなかなか迫力がある。

坪内「原質的なイメージを捉える作業は論理的であるか」

赤尾「いや、論理より少し重い解体できないもの」

坪内「確かめてゆくためにどんなエネルギーの燃焼があるのか?」

攝津「先生の「存在」とは、僕らが意識する以前に存在しているのか?」。

赤尾「いや/石は千万年前からあったかもしれないが、その石の存在的生命をどうやって確かめるかは、自分の力で確かめるのですよ」

攝津「そこが我々が論理的になる所以」

赤尾「論理的一辺倒ではこまる」

攝津「新しさを求めるために石を鉄にしちゃうんです」

赤尾「それも論理的プロセルがありすぎる。/石が直ぐに鉄にならなければ、と思う」。

坪内・情念が非常に論理的に捉えられているのが、第三イメージに注目するところ。

赤尾「/(詩)」より俳句は知的操作を動員して定形との格闘を自律させなければ、他に方法がないのですよ。(イメージ自体はドロドロしている)」

(論理と情念が一塊になっていて切り離せない、ということがはなしあわれる。)

【感受と論理】【現代俳句の今日的位置】【現代詩と俳句】と続くが、ここでは省略。

 シンポジウムは、 ~【第三イメージをこう考える】~  の章でおわる。

坪内「第三イメージは、日常的突如や時間が失われたある非常に作られた空間ですね。」

赤尾「現存にべたつきではない。日常的な感情を後ろに回して、第三空間に持って行っているつもり」。

坪内「第三イメージは長い詩にも使えるのでは?」

赤尾「可能性は感じる、みごとな作家がいれば」。

坪内「その場合俳句形式をこわしてゆくのではないか、形式の根拠が薄くなる」

赤尾「僕の場合/季語を第三イメージに持ち込んでいる。そこで、かろうじて俳句を支えようとしている。季語はそれ自体で俳句的に機能する。

坪内「しかし、歯止めになるでしょうか?第三イメージというのは俳句を壊す、洪水のような力を持っていますよ」

赤尾「(山本健吉は俳句は時間性のない詩だ、といっているが)、僕は俳句が時間のない詩だということを崩すつもりです。」。

坪内も、中谷も赤尾自身も、第三イメージが俳句を壊す考え方だ、という。

赤尾「中谷君があたりが壊してしまうんではないかね。、第三イメージを継承して。」

中谷「哲学にザインとゾルレンの世界をつなぐ架け橋として種々かんがえられているのですが、ひとつその構想として第三イメージ論があるのではないか、と思っているのです。一方ではザインの世界に足をつけ、一方ではゾルレンの世界に手を届けているという、そう言う感じがするのです。」

会は、ここで時間切れ、最後は摂津幸彦は沈黙していたようだが、攝津の初期の俳句には、座談会中の方法に関する発言が、照応できる、坪内稔典は正岡子規にかえり、論客中谷寛章は夭逝した。赤尾兜子もまた。同人誌「日時計」が目指したものは、次のステージに送られる。このメンバーの顔合わせ自体が、現代俳句の方法探求の過渡期の情況である。

https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/settsu/2011-09-23-9337.html 【戦後俳句を読む(10-3)攝津幸彦の句 / 堀本吟】より

亡きものは亡き姿なり・・団塊世代俳人の逆説的立ち位置・・・

1・〈極私〉 

 攝津幸彦没後十年、それからさらにもう五年経とうとしている。うれしいことに、この間に、生前の各個人句集を集めて、『攝津幸彦全句集』(沖積舎)や『選集』(邑書林)、散文集『俳句幻景』(沖積舎)、夫人の回想集『幸彦幻景』・・。後世が十分学ぶに必要な資料が刊行された。これらの文献をひらくことは「セッツ」と共にもういちど「セッツ」とこの世界をたのしむことでもある。あるいは果ては忘れさられてしまうのかも知れないが、この作家ののこした俳句の幅や深度を反芻すればそうはならないはずである。

 しかし、そうはいっても、攝津幸彦とは、じつは型どおりには捉えにくいたいへんな俳人である。彼の俳句には(依然として)とらえ方のわからぬ要素が多々埋蔵されているのである。(すぐれたリーダーや先達とはおうおうにしてそういうものだが)

 団塊の世代は、昭和二十年以降つまり第二次世界大戦以後に生まれ、昭和の終焉を見た。戦前に生まれた戦後作家(鈴木六林男、金子兜太、三橋敏雄、安井浩司、阿部完市、加藤郁乎、等を想起してほしい)作家達を父として年の離れて兄として、その背中をみて成熟していった。最近台頭している平成の新人達、昭和という時代を知らないで生まれ育った青年俳人達(いまの『新撰21』の20代〜40代の作家を一応想起してほしい)は弟や息子世代にあたる。攝津幸彦達はそのはざまに活躍した。

春夜汽車姉から先に浮遊せり 攝津幸彦 

弟へ恋と湯婆ゆたんぽゆづります   同

 「姉」の句は 『陸々集』(1992・弘栄堂書店 )、「弟」の句は 『鹿々集』は最後の公刊句集である『鹿々集』(1996、ふらんす堂)所収。

 等々、なつかしみある句を遺した彼が、前後の世代の人たちと決定的にどこが違うか、ということが私には一つの関心を惹く。(同時代の坪内稔典や江里明彦、夏石番矢等との作風や個性の異同のほうがむしろ言いやすい)。私がここにきた当初には、彼らが昭和後半、二十世紀末の「新人」といわれていたのだが・・・。俳句の流れの中で、その終盤に登場した新しい波、攝津幸彦もその一人であり、現在の平成の新しい波をうむ一つの起点ともなっている。

 たしかに戦争を知らない世代のはしりとなった存在であったが、その時代人の特徴と共に、彼にあっては、発想の場所とりわけ個人的なところにある、とみられる。俳句形式を想定して解読してある程度のことが解る多くの俳人にくらべてやはりそうとう蠱惑的な印象をふりまいている理由かも知れない。

 摂津の句があまりに高度の技術を駆使しているために、そういう彼の俳句の意味の重層性多義性に惹かれて、同時代のわれわれは、多義性のひとつひとつ根拠を明らかにするようなことをあえて等閑視してきたとも言える。攝津幸彦の特異性をしめす表徴は多くの句にも散見するのであるが、それはあとにおくこととして、私はある散文の一節に目を留めた。そこにはこう述懐されている。

 青春が確固たる目的もないままにひたすらに上昇を思考する病いのように、私と俳句とのかかわりも、またひとつの病いであったのだ。しかし、いつの頃からか、血が流れる身体をこすりつけるにふさわしい価値あるものが見いだせない状況がやって来ていて、いまや病いとてけっして近寄ることができないほどの空虚が私の身辺を取り巻いているのであった。

 思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造から、なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。

 《俳句と極私的現在》一九八一年三月「俳句研究」。『俳句幻景』所収一九九九年南風の会発行)

 存在と言葉は別次元のものである、と言う命題を認めながら、それでも作品の内容や形式と、一種の絶望感ただよう個人的動機とが不即不離であるということに、あやうく触れてまた離れるている微妙な筆調である。

 表現の動機は人さまざまであるが、伝統詩型の場合は、おおむねその様式性を学ぶことに重点が置かれる。俳句などはとくに形式への帰依のほうが強い。それで、上に書かれた「思想が意匠ではなく、意匠がそのまま思想であるかのような、」という攝津の俳句形式に対する認識は、まさに多くの共通認識でもある。私が十代の少女だった頃、〈思想は一の意匠であるか〉という萩原朔太郎の詩の一節にひどく惹かれたことがあった。それと同じ感慨をあるいは攝津幸彦も抱いてしまったのである。

 だが、その後につづく「思わせぶりのみが目立つ俳句形式の逆説的構造」というところは、攝津特有のレトリックでその時代の文学思想としてともかく納得されている。これを、穏やかに平たく言い直すならば、さしずめ次のような説明がいるだろう。

「俳句形式とは、思想を信条や真情の吐露としてではなく、完璧に詩形のスタイルを完璧に表現することで思いを貫徹する行為である。これは表現の動機からすれば逆説となるが、俳句形式を完成するためにはこの逆説が、まさに正当であり、正統ということの証しであるとされるが、しかしこれは事大主義である。」(筆者翻案)

・・と最低限これぐらいの説明は必要で。このほうが、思わせぶりないちゃもんと受け取られかねない。ともかく、彼はこの「逆説的構造」から「なんどか徹底的に白けてみようと思ったことがある。」のだそうだ。句もわかりにくいが、散文の文脈も散文詩の一節のように、論理がねじれたり曲がったりしている、攝津幸彦の心底もわかりにくい。しかし、このような理念のねじれや錯綜を情緒的な面もふくめて丁寧に書き込むことを、攝津は誠実に果たしているのである。感覚的に私には攝津の懐疑がよくわかる。そして、人口に膾炙する下記のような名句は、このような韜晦に充ちた認識の中から生まれている。

幾千代も散るは美し明日は三越  『鳥子』

国家よりワタクシ大事さくらんぼ  『陸陸集』

 韜晦に充ちた日常詠や、太宰治の発言にこと寄せたマニフェストである。

2 無化された〈私〉

 彼の根底にはつよい伝統回帰の心、(いや、回帰ではない。むしろ伝統とは何か、と訊ねる心)、私に執しながらも、自己放棄においつめられるなにかの心理的機制が強烈だといわざるを得ない。言葉もふくめて世界から退こうとする退嬰の心理や自分の生存への危機感や葛藤が、形式破壊をも辞せず形式の本質をきわめようとすすむ現代俳句の形式願望のベクトルとかみ合ってゆく。だれもが抱く葛藤である。その葛藤は、すくなくともその時期までは創作のエネルギー源として効果的に機能していた・・。

 先ず、深みのある諧謔というべき独得な味わいと、それを生み出すための高度な技巧・・が驚きをもって注目されるのであるとしても、それは曰く言い難い生存への懐疑という実存的な動機からあみだされているのだ。攝津幸彦に対しては、(あるいは対しても)、私は表現の思想が成立する重要場面として、そのかかわりのありかたを考えたい。

 私は攝津の俳句を読むたびに、人生いかに行くべきかについて素朴に素直に考えている青臭い青年の像を思い描き、且つ、最後になって、そういう感慨全体を茶化される。このように句が進む経過や段取りが面白くてならない。彼はきっと、晩年執心した永田耕衣や安井浩司の世界のなにかに反応しているのだ。(今回はこのことは述べない)。そして、きわめて人間的でありながら、存在と言うときに、ふと、懐疑におちいる思考のアンビバレンツをみてとる。そこに大きな大事な示唆を受けるのである。

 また。

 俳句的自然、俳句のリアリティ、新しい俳句形式の発見という大義や情緒への回帰そのものにも白けきろうとする時、やがてそこに無化された「私」が発見されるのではないかと思った。

(同上エッセイ)

 とつづく文意では、「俳句とは?」と言う「大義への回帰」を捨てたときに、書き得なかった「私」が、書き得ない「無化された」すがたのままあらわれるはずだ、これこそ自分が俳句で語りたかったことなのだ。と言う。

きりぎりす不在ののちもうつむきぬ 『鳥子』

亡きものは亡き姿なりあんかう鍋(『輿野情話』)

 これは「無化された私」が、「逆説的」にそこには居ないことを主張しにあらわれている、と読むべきなのである。(ほんとうにそう読むべきであろうか?)

具体的な解説はこの後に囃したい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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