https://www.kabuki-bito.jp/news/6809 【猿之助が語る、歌舞伎座『日蓮』】より
6月3日(木)から始まる歌舞伎座「六月大歌舞伎」第三部『日蓮』に出演の市川猿之助が、公演について語りました。
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「日蓮聖人降誕八百年記念」と冠し上演される『日蓮』は、横内謙介が構成・脚本・演出、猿之助が演出・主演をつとめます。戦乱のなか、飢餓や疫病が流行り、世相が混乱を極めたことで、人々が救われぬ世に疑問を抱いた蓮長が、強い信念を胸に、日蓮へと名を改めるまでを描きます。
現代にも通ずる日蓮の信念
今回の作品で、日蓮聖人の若年期を中心に劇化する理由について、「世の中を救いたい、人々に幸せになってほしい、そういった日蓮の熱い思いを伝えたい」と語った猿之助。日蓮は、世の中と果敢に関わっていくという側面を強調されることが多いことからも、「スーパースターであるがゆえに、“宗教の芝居か”と、敬遠される方もいらっしゃると思いますが、日蓮聖人の御消息(手紙)を読んだ際、そこから優しさと愛を感じた」と話し、上演する『日蓮』についても、「心温まる内容になると思う」と、思いをにじませます。
「最澄の精神を受け継いだ日蓮の、心の師に対する傾倒の仕方」、そんな日蓮の情熱も猿之助が舞台で表現します。そのため本作では、猿之助の希望で、同時代を生きていない最澄と日蓮が同じ舞台に登場します。最澄が天台宗を開いた比叡山で修行をする過程で、今を生きることの大切さを説く「法華経」こそ、混乱した世の中で苦しむ人々を救うと確信した日蓮。「一つのことを一所懸命やれば、やがてそれは千を照らすことになる、という最澄の言葉に感銘を受けて一つを極めたのではないかと思うんです。そして、そのために比叡山を下りる。そこをぜひ演じたい。なかなか描かれない部分ですから」と、熱を込めます。
猿之助が語る、歌舞伎座『日蓮』
心に沁みる芝居を
また、この作品を通して伝えたいと猿之助が強調したのが、日蓮が生きた時代と現代の共通点。「今のコロナ禍と同じように、日蓮の時代も疫病が流行っていた。奇しくも今の我々と、劇中の日蓮の気持ちが重なります。生きているこの世で救わなければならない。生まれてきてよかったと思える世の中をつくりたい。理想に燃えて、日蓮は山を下りた。そういう作品にしたい」と話し、現代のコロナ禍に希望の光を照らします。
サブタイトルの「―愛を知る鬼(ひと)―」について、「世の中に対して怒る、不満をもつ、というのは愛があるからこそだと思うんです。日蓮は愛があった」、だからこそ、世の中に疑問をもち、強い信念を見出した、という内容を表現しているとのこと。さらに、「鬼子母神」を例に出し、「日蓮宗は(鬼の字の)角をとるんです」。今回はそれにかけて、“鬼”を“ひと”と読ませるようにしたと説明。博識を披露した猿之助は、「非常にマニアックなんですけどね」と、笑顔を見せました。
本作の音楽は、「なるべく皆が対面せず、パソコン上でやり取りができる音源を、ということで全部作曲してもらい打ち込み」になるとのこと。「歌舞伎座は(感染症対策で)信頼を得ていますから、それを崩すようなことはしたくない」と、舞台装置などもできるだけシンプルにし、衛生面にも配慮してつくり上げます。「スペクタクル的なものを一切封じているというのを見てほしいな(笑)。その分、心に沁みる芝居をしたいですね」。
芝居の力で生きる力を
初めて演じることとなった日蓮について、「真理と行動、この二つを兼ね備えた類まれな人だった」と表現した猿之助。一切経を読み、すべてを学んだうえで、自らの信念に基づき教えを弘めた日蓮の姿勢を、「芝居をつくる姿勢と同じ」と話し、共感を示します。今回の作品でも、「芝居の力、信仰の力」を通じて「生きる力」を授けられるのではと話す様子から、舞台への心意気を感じさせました。
「日蓮の、どんな困難に遭遇しても万難を排してやる、という精神に支えられながら、千穐楽まで無事に興行が成功できますよう、日蓮聖人をはじめ神仏のご加護を得て、ひたすら無事を祈ります。何かを求めて観に来てくださったら、お客様それぞれの立場で何かをもって帰っていただけるような芝居にします」。奇しくもコロナ禍と重なった、今回の『日蓮』の上演。日蓮が生きた時代と現代のコロナ禍、そして、日蓮と猿之助がどう重なり、この憂き世にどのようなメッセージを届けるのか、期待がふくらみます。
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歌舞伎座「六月大歌舞伎」は、6月3日(木)から28日(月)までの公演。チケットは、チケットWeb松竹、チケットホン松竹で販売中です。
※「―愛を知る鬼(ひと)―」の「鬼」は、正しくは角なしです
https://www.nichiren.or.jp/hokekyo/id9/ 【ざっくり納得 法華経のすべて 第3章 ●我が子への慈愛 譬喩品【ひゆほん】】より
みなさん、先の方便品の内容はよく理解できたでしょうか?!
正直、難しい…
私にはさっぱり…
実は、お釈迦さまのご説法を聞くために集まった居並ぶ聴衆の中でも、方便品の教えを理解できたのは、智慧第一と称される舎利弗ただ一人でありました。そこで、方便品で説かれた「開三顕一」の内容を、もっと分かり易く、たとえ話をもって説かれていくのが、この第3章譬喩品となります。
先に「三周説法」という言葉が出ておりましたが、お釈迦さまのお弟子にも様々なレベルの者がおります。すべての者を救いとるため、まず理論を説き〈法説周〉、さらに譬えを用いて説き〈譬説周〉、その上に重ねて因縁をもって〈因縁周〉、この「開三顕一」の教えが三めぐりに重ねて説かれていきます。また、その各周に、①まず、お釈迦さまが教えを説かれ〈正説(しょうせつ)〉、②それを聞いたお弟子が自らの理解を述べ〈領解(りょうげ)〉、③それをお釈迦さまが認めながらさらにその内容を補い〈述成(じゅつじょう)〉、④そして成仏の予言が与えられる〈授記(じゅき)〉、このような4つの内容が含まれています。
そこで、方便品の内容〈法説周の正説〉に対して、譬喩品で舎利弗の領解とそれに対するお釈迦さまの述成があり、舎利弗に対して「華光如来(けこうにょらい)」という仏になるという授記がなされ、そして、ここから展開されていくのが、たとえ話によるお釈迦さまのご説法「三車火宅喩(さんしゃかたくゆ)」*1〈譬説周の正説〉であります。
三車火宅の喩え
ある国に一人の大邸宅をもった非常に裕福な長者がおりました。この長者には、大勢の子供がおります。
ある時、この長者の邸宅が火事になりました。中には多くの子供がおりましたが、火が回ってくるにもかかわらず、遊びに夢中で、そのことに気づきません。この邸宅には門が一つしかなく、遊びに熱中している子供はその危険も知らず、父である長者が呼べど叫べどまったく聞き入れないという切羽詰まった状況でした。
長者は、自分の力で抱え救い出せないことはありません。しかし、そうではなく、ここで巧妙な手段を用いて子供たちを救い出そうと考えました。
日頃からおもちゃが大好きな子供たち。その好みにしたがって、
「門の外に立派な車があるぞ!しかも、羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車だ!みな、好きなものを与えるぞ、早く外に出るのだ!!」と。
父の叫びに応じて、子供たちはみなわれ先にと火宅から飛び出し、危難を免れることができました。
そこで長者は、みなそれぞれに、大きくて白くそして力の強い牛の引く、種々の宝石で飾られた立派な車〈大白牛車(だいびゃくごしゃ)〉を与えたのでした。
このたとえ話に登場する長者とはお釈迦さま、子供たちは私たち衆生を指しています。*2
お釈迦さまは人々の性格や好み、その望みに応じて、まずそれぞれにかなった教えを用意されたのでした。車は迷いの世界から悟りの世界へと乗せていってくれる乗り物で、教えを表します。三乗とは、みなの望みにしたがってかりに説かれたものであり、本当はそのような三つの区別があるのではなく、みなをただ仏と成すという目的を遂げるための方便〈手段〉であったことが明かされたのです。これが、三乗という三つの立場を開いてみなが仏となる教え〈一仏乗〉を顕すという「開三顕一」の教えなのです。
さて、この譬えの中で強調されているのが、お釈迦さまと私たち衆生との父と子の関係であります。
「今この三界は、みなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ我が子なり。しかも今この処は諸々の患難(げんなん)多し。ただわれ一人のみよく救護(くご)をなす」
「欲令衆(よくりょうしゅう)」として、日蓮宗においてよく読まれるこの譬喩品の一節から、日蓮聖人は、お釈迦さまの主君・師匠・親の三つの徳〈主師親の三徳〉について教示されています。
仏さまといっても、たくさんの仏がおり、日蓮聖人の時代は阿弥陀さまに熱心に帰依する浄土信仰が盛んでした。しかし、阿弥陀さまは主徳・師徳はもっていたとしても、私たち衆生との親子関係はない。常に私たちのことを我が子として、慈愛の心もって救い、守り、導いて下さる、私たちと切っても切れない仏さまとは、父であるお釈迦さまただ一人なのだと、非常に実感的にお釈迦さまと私たちの関係を示されているのです。
私たちにとってかけがえのない親であるという、こういったお釈迦さまと衆生とのつながりが、「一大事の因縁」の意味するところなのです。
このように、お釈迦さまは愛する我が子を何とかして救い導こうと、いつも手を差しのべておられますが、衆生の側はそれを信じ受けとめることがありません。三乗の教えが説かれたのも、こんな我が子を導くための深い慈悲の心から起こったものなのでした。
では、ここにおいて、私たちはどのような態度をとるべきなのでしょうか?
この譬喩品には、以下の言葉が重要なキーワードとして私たちに示されています。
「汝等もしよく是(こ)のことばを信受せば、一切皆(みな)まさに仏道を成ずることを得(う)べし」
「汝(なんじ)舎利弗、なお此の経においては、信を以て入ることを得たり…己が智分に非ず」
父であるお釈迦さまの教えを、ただ素直にそのまま信じること、これが何よりも大切なのです。舎利弗も智慧が優れているから授記を得たのではありません。ただ、信によって仏の道へと入ることができたのでした*3。
譬喩品は次の言葉で結ばれています。
「かくの如き等の人は、則ちよく信解せん。汝(なんじ)まさに為(ため)に妙法華経を説くべし」
信とは、まさに、この法華経を聞く者の条件なのです。
注釈
*1 法華経に説かれる譬えの中で、「法華七喩(ほっけしちゆ)」に数えられるたとえ話の第一番。
法華七喩
譬喩品第三―――――三車火宅(さんしゃかたく)の喩え
信解品第四―――――長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え
薬草喩品第五――――三草二木(さんそうにもく)の喩え
化城喩品第七――――化城宝処(けじょうほうしょ)の喩え
五百弟子受記品第八―衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩え
安楽行品第十四―――髻中明珠(けいちゅうみょうじゅ)の喩え
如来寿量品第十六――良医治子(ろういじし)の喩え
*2
*3 このように、「信」が重要であることから、一方で、この法華経を信じない者の罪も、この譬喩品には詳しく説かれております。
「此経(このきょう)を信ぜざる謗法(ほうぼう)の者の罪業(ざいごう)は譬諭品(ひゆほん)に委(くわし)くとかれたり。」
『唱法華題目鈔』昭和定本日蓮聖人遺文189頁 文応元年〈1260〉5月28日
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