日本武尊伝説

https://www.yamatotakeru.jp/seisei/seisei.html 【日本武尊伝説 日本武尊の足跡を追いかける】より

小碓尊(日本武尊)の征西

日本武尊が行った征西の行程は九州各地に残る伝承を調べ、それらを伝える史跡や神社を印した地図を見て推測しました。それは日本武尊の確実な行程を示すものではなく、伝承地を線でつないだものです。

まつろわぬ者たち     大江山(兵庫県)の酒呑童子

 現在の奈良県を中心とする大和地方にはかつて大王(おおきみ:天皇)を中心とする大和朝廷が近畿地方を中心に周辺地域を治めていました。大和朝廷は各地の王(首領)たちをさらに支配し、その権力や領地を全国に拡大したいと考えていました。5~6世紀ごろには、その勢力が九州から東北地方にまでほぼ全国に広がっていました。

 しかし、中央の勢力に対抗して反乱を起こす者たちが日本各地に多くいました。その者たちは、土蜘蛛(つちぐも) 熊襲(くまそ) 蝦夷・毛人(えみし) 鬼(おに) 悪神(あくしん) 賊(ぞく)などと呼ばれ、"まつろわぬ者たち"(権力者に従わない者たち)とされていました。

 "まつろわぬ者たち"には悪いイメージがついていますが、彼らは権力者(覇者)から見て抵抗する者たち(覇わぬ者)=滅ぼすべき敵だったからです。逆の立場から見れば、権力者は地域に侵攻してきた征服者です。まつろわぬ者たちと言われていますが、彼らの中には地域にとってのリーダー、故に地域を守り、征服に屈しない強い意志を持った者たちもいたのです。地域に伝わる伝承は、権力者側の立場に立って語り継がれてきており、実際の「抵抗者」の姿は違っていたと思われることがあります。

六手八幡神社(千葉県君津市)

  岡山県に伝わる温羅(うら)と呼ばれる者は地域の人たちを苦しめていたことから大和朝廷に助けを求めました。そこで、吉備津彦らを派遣して温羅を征伐しました。これは吉備地方に伝わる桃太郎の鬼退治伝説となっています。実は温羅は吉備のリーダーであり開拓者だったという説もあります。また、日本武尊の東征で登場する房総半島の悪久留王(あくるおう)も抵抗を続けた賊(一説に蝦夷)ですが、千葉県君津市にある六手(むて)八幡神社の伝承では、悪久留王が統治していた地域では悪久留王ではなく六手王(むておう)と呼ばれおり、民の信望が厚かったと伝えられています。

 大和朝廷は領地を拡大し、鉄などの産物を確保するために、次々と土地や人民を征服していきました。これを正当化するためには権力者にとって都合の良い、いわゆる大義名分を創る必要がありました。それが鬼退治など征伐されて当然の伝承となって存在しているとも言えます。歴史はその時代の権力者によって作られていくと言われ所以かもしれません。               

大和朝廷の全国統一

景行天皇の西征

 日本武尊の征西以前、景行天皇は自ら九州に遠征し熊襲を征伐しました。九州の広範囲にその伝承地があります。特に熊襲の本拠地と思われる鹿児島にもその足跡が見られます。福岡県田川市の白鳥神社は日本武尊が熊襲征伐のために滞在したところですが、景行天皇が以前この地の土蜘蛛らを征伐したところでもあるのです。この後、景行天皇は九州東海岸沿いに南下し、宮崎、鹿児島、熊本の順に行幸しています。

 九州北部に入った景行天皇は賊の土折・猪折を征伐しました。この後、山を越えて豊後国に入りました。この山を帝王山(大王山)といいます。

 鹿児島県大隅半島にある肝付町に高屋神社があります。町指定の文化財となっている天子山はその東隣にあります。天子山はかつて景行天皇が熊襲退治で仮宮(高屋宮)としたところです。景行天皇はこの近くの高屋山(国見山とも)山上に祀られていた彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)をここに迎えて祀ったとされています。景行天皇が滞在した地に小碓尊もやってきました。

都にもどった天皇

『日本書紀』 以降 囲み内の濃い青色文字は『日本書紀』口語訳

景行天皇19年(西暦89年) 9月20日天皇は日向から帰ってきました。

 景行天皇は大和朝廷に従わなかった熊襲を討つため、景行天皇12年8月から日向(九州南東部)に遠征していましたが、熊襲を成敗して大和の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)に帰って政務を行っていました。

左  纒向日代宮跡 奈良県桜井市穴師447 GoogleMap

右 景行天皇陵・渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん) 奈良県天理市渋谷

以下 案内板の原文・・・・・・・・・・・・・・・・・

纒向・日代宮跡(マキムクヒシロノミヤアト)

紀元七百三十年、第十二代景行天皇・大足彦忍代別命(才才タラシヒコヲシロワケ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。その立役者は、皇后の播磨稲日太郎姫(ハリマノイナヒヲイラツメ)との間に生まれた日本武尊(ヤマトタケル)である。景行天皇の業績で注目すぺきことは、日本の国の真の歴史並びに天成(アマナリ)の道(宗教・政冶の理念)を子々孫々に遺すべしとの日本武尊の遺言に従い、五・七調の神代文字で記された秀真伝(ホツマツタエ)文献を、三輪君の祖となる大直根子(オオタタネコ)に命じて編纂させ、後世に遣したことである。   穴師坐兵主神社

武内宿禰の報告

『日本書紀』

景行天皇25年(西暦95年) 7月3日

 景行天皇は武内宿禰(たけうちのすくね)をよんで北陸地方や東国の様子、また百姓の消息を見てくるように命じました。

 武内宿禰は天皇の命で全国の情報を収集して帰ってきました。そして、次のように東国の情勢を天皇に報告しました  

『日本書紀』  

 景行天皇27年(西暦97年) 春2月12日

 武内宿禰が東国の各地を視察して帰ってきました。そして、天皇に報告しました。

 「東国に日高見国(ひたかみのくに)があります。人々は男も女も髪を「みずら」結びし(左右に分けて束ね耳上で結ぶ-埴輪に見られる)、体に刺青(いれずみ)を入れていて勇ましいです。この人たちを蝦夷(えみし)といいます。蝦夷が住んでいる土地は肥えているので、奪い取ってしまうべきです。」

日高見神社(宮城県石巻市)

*日高見国(ひたかみのくに)は『常陸国風土記』(信太郡の条)に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」と書かれています。筑波・茨城郡とよぶ以前は「日高見国」と呼んでいました。関東北部から東北地方の一帯は総称として「日高見国」という呼び方だったと考えられます。しかし、東征の帰路、酒折宮で日本武尊が「新治(茨城県)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌を詠んでいることから、茨城や筑波は日高見国を平定してから通過してきた場所と考えます。つまり、日高見の国は茨城や筑波よりさらに北の地域をさすと思います。

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/53810858?categoryIds=11251434  【神武東征の話〔古事記の暗号9〕 73世武内宿禰・竹内睦泰氏の話より】

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/53809209?categoryIds=11251434【正統竹内文書】

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/53783585?categoryIds=11251434 【武内宿禰】

熊襲を討つ『日本書紀』

 景行天皇27年(西暦97年) 8月 熊襲が再び反抗して領地を拡大との情報が入りました。 景行天皇の征西から12年後のことです。熊襲がまた騒ぎはじめました。

そのため、熊襲を討つのが急務となりました。

北陸征伐

九州征伐の前に北陸地方の賊退治に大碓・小碓の二人の兄弟が派遣されたという伝承があります。

剣神社 福井県丹生郡越前町梅浦70-21 GoogleMap

 神社のある梅浦はもと宇見浦です。ここに祀られているのは大碓尊 小碓尊 仲哀天皇です。この神社にある社史には記載されていませんでしたが、村人たちを苦しめていた賊らを大碓と小碓の二人が天皇の命により派遣されて討伐したと伝えられているようです。後に、仲哀天皇も自らこの地にやってきて賊を退治したと言われています。(小椋一葉著『天翔ける白鳥』参考)

 越前町織田には越前国二之宮剣神社がありますが、日本武尊との関係はありません。

 敦賀市の氣比神宮にも日本武尊が祀られています。日本武尊が来たとすれば、福井県の剣神社への遠征前後に立ち寄った可能性があります。東征の帰路、甲斐国で日本武尊は吉備武彦を越国(こしのくに:福井~新潟あたり)に派遣していますが、その事が関わっているのかもしれません。

氣比神宮(けひじんぐう) 福井県敦賀市曙町11-68 GoogleMap

 祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、玉姫命(たまひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)です。

熊襲に向け出発

『日本書紀』 

 景行天皇27年冬10月13日

 天皇は日本武尊に熊襲を討つよう命じました。この時日本武尊はまだ16歳でした。

 日本武尊は家来たちに尋ねました。

「私は弓の名手を連れて行きたいと思っているが、どこかに弓を射つのが上手い者はいないだろうか。」

 これを聞いた家来が申し出ました。

 「美濃の国に弟彦公(おとひこのきみ)という弓の名手がいます。」

 日本武尊は葛城の宮戸彦(みやとのひこ)を美濃に行かせ、弟彦公を連れてこさせました。弟彦公は石占横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子稻置(たごのいなき)、乳近稻置(ちちかのいなき)らを伴ってやってきました。

 *九州征服前は日本武尊ではなく小碓尊(おうすのみこと)または日本童男(やまとのおぐな)と呼ばれていました。

 *景行天皇27年は西暦97年とするようですが、この西暦年は正しくはないようです。実は古代の天皇在位年や生没年は西暦で正しく表すことができません。神武天皇の即位年をBC660年にしていることから天皇の年齢がありえない数値となってしまうためです。そのため、天皇は1年に2歳年を取るとも言われているので、その計算で数値を無理やり合わせようとしましたが、別の矛盾も生じてしまいました。天皇在位年や誕生年(年齢)と西暦年を対応させることには矛盾が生じるため解決しないと考えています。

征西を命じる

 天皇の命令で、皇子の小碓尊が熊襲征伐のため派遣されることになりました。この時小碓尊(兄に代わり天皇の後継者となっていたので「尊」をつけています)はまだ16歳でした。

 『古事記』には 「其御髮 結額也」とあり、小碓尊は髪を額のところで結っていたことがわかります。これは当時の少年がしている髪型だったと理解されています。

 *征西出発時に小碓尊が16歳という年齢だったかどうかは実は不明です。別ページ等でも触れましたが『日本書紀』に書かれている日本武尊の生年、没年齢に矛盾があるため信ぴょう性が低いのです。もしこの年齢が正しいとして、16歳はそんなに幼くはないのではないかと思われます。つまり、成人した勇猛な青年だったと思われるのです。戦国時代ならば15歳ごろ元服し、武将として戦に参加し命を懸けて戦っています。

 *小碓には兄の大碓がいましたが『古事記』では、朝夕の大御食(おおみけ)に大碓が姿を見せないことが災いを招きます。美濃国の国造の娘が美しいと評判になり景行天皇は大碓を派遣したところ、その評判は本当で、大碓は美しい姉妹に心惹かれ自分のものとしてしまいました。そして、天皇には別の娘を替え玉として差し出しましたがこれを見破られてしまいました。このことから顔を出せないでいたのです。そこで景行天皇は小碓に教え諭すように言いました。事情を知っていた小碓は父が怒っていると思いました。そこで代わりに罰を与えようとしたのです。小碓は大碓が厠に入るところをつかまえて素手で大碓の手足をちぎってから殺してしまったと報告しました。そんな小碓の荒々しい性格から父に恐れられ、疎まれ、征西を命じられたのです。この時、小碓にはわずかな従者しか与えられず、征西へと旅立つのです。

 このような事情は『日本書紀』には書かれていません。むしろ息子小碓尊は選ばれた勇者として描かれています。

 また、景行天皇は大碓を美濃に送って治めさせることにしました。大碓は現在の岐阜県山県市から土岐市、愛知県豊田市に足跡を残していますから、小碓に殺されてはいませんでした。『古事記』はなぜか早くに兄大碓を消してしまいました。

 しかし、これは小碓の優しさが描かれているのではないかと思うのです。事情を知っている小碓は父の怒りを兄の大碓に伝えました。怯える大碓に小碓は逃げるように助言したのではないでしょうか。大碓は急ぎ都を出ました。そのため大御食には出られません。小碓は父に嘘を報告しましたが、父はそれも分かっていました。日ごろの様子を見ていて大碓と小碓の兄弟がとても仲がいいことを知っていたからです。そのため、二人の思いを理解し、大碓を許すことにしたのでしょう。

伊勢神宮 倭姫宮倭姫命像(神宮徴古館) 三重県伊勢市

強く意を決した小碓尊は九州に向けて出発する前に、伊勢国にいる叔母の倭姫命(倭比売命)に会いました。倭姫命は小碓尊の父景行天皇の妹で小碓尊から見れば叔母に当たります。

倭姫命の御巡幸については伊勢神宮

 小碓尊と対面した倭姫命は小碓尊に衣装を授けました。これは女装のための衣装です。この時、強敵熊襲の首領に立ち向かうための作戦を伝えたのかもしれません。

熊襲と土蜘蛛 九州の強者集団 熊襲 

 記紀では熊襲(くまそ:熊曽)とは特定の人物名ではなく、南九州を拠点とする「まつろわぬ人々」の集団名としています。一般的に熊襲は熊本県南部から鹿児島県北部の球磨郡と鹿児島県中部から大隅半島にかけての曽於郡一帯を支配していた勢力を併せて読んでいたとされています。この二つの勢力は争うことなく互いに協力し合っていたため、熊襲という総称が生まれたのではないでしょうか。

 熊襲が『日本書紀』に初めて登場するのが景行天皇の征西の時です。景行天皇12年7月に熊襲が大和朝廷にそむいて貢がないことが書かれており、そのため天皇自らが九州に遠征し賊らを征伐しています。しかし、この熊襲は簡単には征伐できないほどの強者ぞろいだったと書かれています。大軍を送り込むと農民はいなくなってしまうと嘆く景行天皇の言葉もあります。正面から戦いを挑んでも負けてしまうと言うことでしょう。そこで、景行天皇は一計を案じます。

 景行天皇が征伐したのは大隅地方を拠点としていた熊襲です。熊襲の八十梟帥(やそたける)で名は厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)です。市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)という娘がおり、この二人を騙して味方にし、征伐したのです。力ではなく知恵の勝利だったということです。これは小碓尊にも受け継がれます。

 その後再び熊襲が背いたので天皇の皇子小碓尊が派遣されることになりました。小碓尊が征伐する熊襲は川上梟帥で別名は取石鹿文(とろしかや)です。この名前が似ていることから、小碓尊と熊襲との戦いは鹿児島県中部から大隅地方のどこかで起こったのかもしれません。

 しかし、実は小碓尊の征西でも完全には熊襲を抑えられておらず、日本武尊が亡くなった後に再び熊襲が騒ぎ始めました。そこで、次は日本武尊の子の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと:仲哀天皇)が九州に遠征しましたが、熊襲が射た矢に当たり筑紫の香椎宮で亡くなってしまいました。

 その後、仲哀天皇妃の神功皇后が征新羅の前に軍を派遣して熊襲を征伐しました。これ以降は熊襲が反乱を起こすことはありませんでした。(『天皇紀』wikipedia)

 熊襲の後登場するのが隼人です。隼人は682年(天武天皇11年)7月に初めて登場し、一般的に朝廷に対して従順だったとされていますが完全に掌握しているわけではありませんでした。

 隼人は「早い人」の意味を持つようで、九州は大和の南方にあり、四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の南をさす朱雀=鳥に当たるので隼(はやぶさ)としたとも言われています。奈良時代、720年に大和朝廷に反抗する隼人の乱が起こりました。当時朝廷は律令制を進めており、713年(和銅6年)九州南部の支配体制を強化するために大隅国を置きました。しかし、土地の人たちの不満が高まり、721年(養老4年)2月29日に大隅国司の陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を九州南部に拠点を置く隼人が殺すという反乱が起こりました。これを朝廷は同年3月4日に大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人持節大将軍、笠御室と巨勢真人を副将軍として1万人以上の兵を派遣して1年半かけて制圧しました。

隼人塚 鹿児島県霧島市隼人町内山田 GoogleMap

 高さ約3mほどの塚があり、その上に五重の石塔(中央高さ6.6m、他5.5~5.6m)が3基あります。また、この周りには武人(四天王)と思われる石像が4体立っています。

 この塚が造られた訳は諸説あることが分かりました。大和朝廷との戦いに敗れた熊襲・隼人の祟りを鎮めるため、大隅国分寺跡の六重石塔に似ているのでそのころ造られた、付近に会ったものを明治時代にここに寄せ集めたなどです。その後の調査で、正国寺より前の寺院の跡の可能性や隼人の乱の慰霊のためなどと建立目的が言われるようになりました。

隼人塚(隼人の首塚) 鹿児島県霧島市国分重久1072 GoogleMap

 もう一つの隼人塚ともいわれ、ここが隼人の首塚で、隼人の乱で亡くなった兵を慰霊するために立てられたとしています。

 隼人の乱に際し大和から南九州に派遣された将軍大伴旅人ですが、2019年4月1日に突然脚光を浴びることになりました。それは元号が平成から令和に改元すると発表されたからです。この元号「令和」の出典は万葉集で、730年(天平2年)正月13日に福岡大宰府で行われた「梅花の宴」の時に詠まれた歌の序文にある文字を組み合わせているからです。

 大伴旅人は将軍として隼人征伐のため大隅国に派遣されていましたが、藤原不比等が亡くなり、戦の途中で大和に戻ることになりました。その後は副将軍らによって隼人は征伐されました。

 728年(神亀5年)に今度は大宰府の長官(大宰帥:だざいのそち)として大宰府に赴任しました。歌人でもあった大伴旅人は自宅に山上憶良らの歌人を集め、春になった喜びをみなで共有するため満開の梅の花の下で宴を催しました。このときに詠まれた歌が万葉集に収められています。その32首の歌の前につけられた言葉です。これは山上憶良が書いたとも言われています。

帥(そち)の老の宅に萃まりて宴会を申きき。時に 初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す

熊襲の首領

 小碓尊の征西のときの熊襲の首領は通称で熊襲健(くまそたける)と呼ばれていました。

 名は 川上梟帥(かわかみたける)といいます。別名は 取石鹿文(とろしかや)です。(『本荘の歴史』も参考にしました)

 

おおすみ弥五郎伝説の里 鹿児島県曽於市大隅町岩川6134番地1 GoogleMap

 鹿児島県曽於市大隅町には「弥五郎どん」という高さ15mの銅像があります。高台に立っていますので近くの国道を走っていると見上げるように見えてきます。弥五郎は隼人の首領がモデルともいわれていますが、熊襲がモデルという説もあるそうです。首領は「ドン」なので名前に「どん」がついているのかとも思いきや、「どん」は殿が訛った言葉と聞きました。弥五郎殿という意味なのです。

土蜘蛛

国見ヶ丘

 大和朝廷に反抗していたのは熊襲以外に「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれていた者たちがいました。土蜘蛛は特定の地域にいた部族ではなく、日本各地に存在していました。『日本書紀』には凶暴な者たちで山の窟屋に住んでいたとも書かれており「まつろわぬ者たち」であり、朝廷から見れば滅ぼされて当然な存在でした。平安時代になると土蜘蛛は蜘蛛の妖怪として登場しています。景行天皇や日本武尊が征西したときには土蜘蛛らが激しく抵抗しましたが征伐されています。

『日向国風土記』にも土蜘蛛が登場

国見ヶ丘 宮崎県西臼杵郡高千穂町押方  GoogleMap

 天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に地上界に降りて治めるよう命じました。瓊瓊杵尊が多くの神々とともに降りたのが日向の二上峯です。降りてきても霧が深く辺りは暗くなって先が見えませんでした。この時、この地の土蜘蛛の大鉗(おおくわ)小鉗(おくわ)の二人が現れ、瓊瓊杵尊が持っている千穂をモミにして霧の中にまくと霧が晴れると進言しました。その通りにするとすぐに晴れ、地上界に降りることができました。

 大和朝廷の力が九州に拡大した際、この地を治めていた首領たちは朝廷軍の威光に畏れ、抵抗せず従順になったという出来事があったと思われます。天孫降臨が朝廷による九州征伐という見方をすれば、彼らは格が低い者たちであったので土蜘蛛と総称して呼ばれていたのでしょう。

蜘蛛窟 奈良県御所市高天176  GoogleMap

 御所市の葛城一言主神社には土蜘蛛の遺骸が埋められており、御所の蜘蛛窟は土蜘蛛の住居跡と伝えられています。神武天皇の東征により征伐された「まつろわぬ者たち」です。

小碓尊の征西

征西へ出発                    

 小碓尊は従者らとともに出発しました。

 この従者とは出発前に家来(葛城の宮戸彦)に命じて連れてこさせた弓の達人たちです。

 この時代の武器は剣と弓矢でした。鎧兜を身に着けていましたが、とても重く、身軽に動くことはできません。そのため、離れたところから正確に矢を射ることが効率の良い戦いを行うことに重要でした。そのため、征西に出かけた小碓尊軍にとって、弓の達人は心強い味方でした。

 また、数多くの矢を一斉に放つことも当時の戦法であったと思います。これは、東征の後、伊吹山の神と戦うため剣を尾張の宮簀媛の館に留めて出かけた際、日本武尊は山中で雹(ひょう)を浴びるのですが、これは多くの矢が一斉に放たれたことを意味していると思うのです。しかし、今回の小碓尊軍は兵の数が十分ではなく、これができませんでした。

 征西に同行した達人らは次の者たちです。

 弟彦公(おとひこのきみ)

 弟彦公は次の者たちを連れてきました。

 石占横立(いしうらのよこたち) 

 田子稲置(たごのいなき)

 乳近稲置(ちちかのいなき) 

 日本武尊に従った4人の出身地は尾張氏の勢力圏内にいました。

 弟彦公は東山道が通る美濃国(岐阜県南部)の出身です。

 この名は尾張氏系図に二か所で見られますが、一人は乎止与命(尾張氏系譜11代)の先々代(同9代)にあたり、もう一人は建稲種命の孫(同14代)です。尾張氏系図の9代が征西に従軍した弟彦公とすると、東征に従った建稲種命の曾祖父にあたり、若き日本武尊から見れば随分年輩になるのではないでしょうか。この点を考慮しているのかは不明ですが、小椋一葉著『天翔ける白鳥』では弟彦を「尾張氏の8代に当たる人物」とし、兄弟が筑紫豊国国造の祖でもある大原足屋であり「筑紫が弟彦の手柄によって得た地」と解説しています。

 また、第11代垂仁天皇の皇子に鐸石別命(ぬでしわけのみこと:和気氏の祖:景行天皇の母日葉酢媛(ひばすひめ)の妹淳葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ)が母)がいます。その曾孫に弟彦の名が見えます。垂仁天皇の皇子が第12代景行天皇で鐸石別命と景行天皇は母は異なる兄弟です。鐸石別命の曾孫と景行天皇の皇子日本武尊(征西時16歳)では微妙な年の差がありますが、可能性はなくはないと思います。鐸石別命は和気清麻呂で有名な和気氏の始祖となっており、岡山県の和気神社に祀られています。そして、そこには弟彦公と同一人物とされる弟彦王が祀られています。弟彦王は神功皇后の三韓征伐の際に忍熊(おしくま)王を平定した功績により現在の岡山県和気郡を治めることとなったと言われています。すると、弟彦公は日本武尊に仕えた後、子の仲哀天皇の皇后であった神功皇后にも仕えたことになります。しかし、この弟彦王は皇族で、日本武尊に仕えた弟彦公も皇族となり『日本書紀』にある美濃出身が説明できません。

 『愛知県史』では「弟彦公は尾張氏の系譜に弟彦命とある人物でその祖父建諸隅命の妹は崇神天皇の妃大海姫であるからその年代も景行天皇の御代に當ってゐる。(原文のまま)」と書いています。

 石占横立の出身地「石占」は伊勢国桑名(三重県桑名市)にありました。

 石占は聖武天皇が東国を行幸されたときに石占頓宮がおかれたところで、三重県桑名市にありましたが、その具体的な場所は分かっていません。一説には日本武尊が東征の際立ち寄った尾津神社がある付近ではないかとも言われています。

 田子稲置の出身地「田子」は尾張国愛智(名古屋市熱田区)と言われています。

 名古屋市瑞穂区に田光町(たこうちょう)という地名があります。この地名は田子稲置が開いた荘園「田光荘」に関係しています。(wikipediaより)

 乳近稲置の出身地「乳近」は尾張国に属し海に面した地でした。

 一説として乳近は愛知県大府市北埼辺りを指すと言われています。北埼はもと北尾と近埼(ちがさき)が合併したところで、町名もそれぞれの一字を合成しました。この近埼が乳近であったと言われています。(愛知県大府市ホームページより)

 ここに登場する人物は皆尾張地域と関係がありました。そのため、小碓尊が弟彦公らと合流したのは伊勢神宮で倭姫命と会った後であろうと思います。東征時は伊勢神宮から北上し桑名に向かっていますが、征西時は一旦大和に戻り、軍を整えてから再出発していると思われます。つまり、小碓尊は大和と伊勢神宮を往復しています。弟彦公らは全員そろってから、大和にもどる小碓尊と伊勢で合流したか、九州までは大和からの小碓尊本隊と尾張からの弟彦公らの援軍は別行動で向かい、九州に入ったところで合流したと考えられます。

 弓の達人の弟彦公を召喚するため、小碓尊は葛城の宮戸彦に命じたのは、尾張氏が葛城地域と関係があることの証かもしれません。

 日本武尊の時代は尾張国造として乎止与命(おとよのみこと)が治めていました。その子建稲種命(たけいなだねのみこと)は東征に従軍し、娘の宮簀媛は日本武尊の妃となります。

 日本武尊の征西、東征は尾張氏の活躍なしでは成功しなかったとも言えます。つまり、景行天皇の時代、大和朝廷と尾張氏は深くつながりをもっていたことが考えられます。このつながりは、尾張氏の祖先に遡るものです。一説では大和の葛城近く高尾張邑を本拠とし、神武天皇に仕えていた一族が濃尾平野に移って勢力基盤としたとされています。

志段味(しだみ)古墳群 愛知県名古屋市守山区上志段味  GoogleMap

 名古屋市守山区にある志段味(しだみ)古墳群は現在古墳公園として整備されつつあります。この古墳群の中に4世紀前半に造られたとされる古墳があり、その中の二つの古墳(白鳥塚古墳と尾張戸神社古墳)は墳丘に石英が敷かれていたことが大和の古墳との関係を示すとして注目されています。

左 白鳥塚古墳      右 尾張戸神社古墳

建部大社(たけべたいしゃ) 滋賀県大津市神領1-16-1 GoogleMap

 日本武尊が亡くなってから景行天皇が建部を置いたところです。ここには日本武尊の一族と勇敢な従者らが祭神として祀られています。

末社  弓取(ゆみとり)神社 箭取神社 (せんとりじんじゃ)

 日本武尊の征西に従った家来たちが祀られています。

 弓取神社 

 祭神は弓の達人の弟彦公です。

 箭取(せんとり)神社 

 祭神は日本武尊の家臣たちで、石占横立、尾張田子之稲置、乳近之稲置

 この神社の末社には東征の際の家臣も祀られています。

 行事神社 

 祭神は日本武尊の家臣で吉備臣武彦、大伴連武日です。

 蔵人頭神社(膳夫神社)

 祭神は料理の神とされる七掬脛命(ななつかはぎのみこと)

小碓尊軍九州に到着

『日本書紀』 

景行天皇27年12月

熊襲の国に到着しました。

この国の人たちの様子や地形の様子を視察しました。

熊襲にはここを治める勇者がいました。名前は取石鹿文(とろしかや)です。またの名は川上梟帥(かわかみたける)といいます。川上梟師は親族を集めて宴会を開こうとしていました。

そこで、日本武尊は髪をほどき、童女の姿(女装)になって密かに川上梟帥の宴会にもぐりこみました。

 小碓尊一行は現在の大阪から船出し、瀬戸内海を航行して九州北部に到着し、景行天皇が熊襲征伐で南下した道を再び通ったと推測しています。

移動手段

 すぐに、馬を利用したのではと考えがちです。しかし、一説によれば一般的に家畜用馬が帰化人らとともに朝鮮半島から渡ってきたのは4世紀末の古墳時代中期以降です。交通手段として使われたのはもっと後の時代とされています。日本書紀にも風土記にも景行天皇の時代に馬を人が乗るための交通手段として利用したという記述は見られません。このことを無視してはいけないと私が講師をつとめた講演会「日本武尊を追いかける」で参加者の方から指摘されたことがあります。古来から家畜用の馬はいましたが、それらは主として農耕、運搬に利用されていました。馬が公的にも交通手段として利用されていたのは飛鳥時代の大化の改新以降のことという指摘です。そのため、小碓尊軍は船または歩いて移動したと考えるべきとのご意見でした。

 日本武尊が川や海では船を利用したということには問題はありません。実際、弥生時代以前から交通手段として船が使われています。馬が人を乗せるために利用されていたかどうかが問題です。調べてみると、馬が乗るために利用されたのは飛鳥時代以前、古墳時代後半とも言われていることが分かりました。ただ、日本各地の伝承の中に、古墳時代前半でも馬が交通手段として使われていたと伝えられていることがあります。馬の利用は古墳時代後半以降とすれば、それ以前の馬の利用にふれた伝説や言い伝えは間違っていることになります。(それは伝説なのですから事実を伝えているとしても、それが真実かどうかは問われてはいませんので間違っていても問題ないのかもしれません。)馬の利用については、記録がないだけで、木曽馬のような日本にもともといた馬が古代から人を乗せる目的で利用されていたはずと唱える人もいます。しかし、この馬も大陸からやってきた馬が日本で他種と交配されて生まれたもので、木曽馬もこれに当たるそうです。つまり、大陸から入ってくる以前には乗馬用の馬はいなかったとも考えられます。

  内々神社(愛知県春日井市)

 愛知県春日井市の内々神社伝承では、東征の副将軍建稲種命(たけいなだねのみこと)の死を久米八腹(くめのやはら)が早馬で知らせに来たとあります。この伝承によれば日本武尊の時代にも馬が利用されていたことになりますが、先に述べたことからこれは後世の創作と言わざるを得ず、古墳時代前半の馬の利用を証明することにはならないのです。

  太田切川(長野県)

 また、東征を終えた日本武尊が信濃の太田切川(長野県駒ケ根市・宮田村境)を渡ろうとしましたが大水のため足止めとなってしまいました。その時、駒ヶ岳の方から神馬がやってきて日本武尊らを乗せて渡ったと伝えられています。これも馬が人を乗せたことになっていますが、その証明とはならないようです。

  行縢山(宮崎県)

 宮崎県延岡市にある行縢山(むかばきやま)の行縢は乗馬の際に身に着ける革製の馬具に似た形をしていることから日本武尊が名付けたと伝えられています。この伝承も怪しくなります。日本武尊の時代に乗馬用の馬はいませんから、そのために利用する馬具もありません。この時代には存在しないはずの馬具に日本武尊が名前をつけることができません。

 馬ではなく牛を乗り物として利用したとする伝承があります。

  柿野神社(岐阜県)

 岐阜県山県市にある柿野神社は日本武尊を主祭神として祀っています。この神社の言い伝えによると、日本武尊は賊を討伐しながら大碓命を訪ねてきましたが、村に入ったところで牛が死んでしまいました。そこで牛の遺骸を埋葬し、石碑を建てました。この碑を牛塚、牛象と伝えています。

 馬の利用に関してはより専門的な分析が必要でしょう。あくまでも伝承として先に進みたいと思います。

戦い準備

 小碓尊は北九州で美濃の弟彦らと合流しました。

八剣神社 福岡県北九州市八幡西区 GoogleMap

 日本武尊を祭神としています。

 熊襲征伐の折、小碓尊一行が立ち寄ったと伝えられています。また、神功皇后も戦勝祈願したと言う言い伝えがあり、平安時代に社が建てられました。

八剱神社 福岡県遠賀郡水巻町立屋敷 GoogleMap

 熊襲征伐のために建てた仮宮を訪れた小碓尊は砧姫(きぬたひめ)という娘を好きになりました。そして、ここに滞在中は身の回りの世話をさせていました。小碓尊は熊襲征伐のため九州の東海岸沿いに南進し見事平定しました。

熊襲を征伐してから再びここに戻ってくると砧姫は子を宿していました。しかし、日本武尊は都に戻らねばなりません。別れの時、日本武尊は砧姫への変わらぬ愛を誓って仮宮に銀杏の木を植樹しました。

 日本武尊の東征後、尊が亡くなったのを知った砧姫は仮宮だったところに祠を建てました。

夏撮影の銀杏と社殿冬撮影の銀杏

白鳥神社 福岡県田川市白鳥町15 GoogleMap

 祭神は日本武尊、景行天皇、大碓命です。

 小碓尊は九州に入ってしばらくここに滞在しました。さらにここから少し離れた福岡県水巻町の八剣神社に移りました。

八剣神社 福岡県鞍手郡鞍手町中山1588 GoogleMap

 祭神は日本武尊、宮簀媛、須佐鳴(すさのお)尊です。

 村長(むらおさ)の田部今朝麿(たべけさまろ)が村人達と小碓尊らを温かく迎えました。この地には都に帰るときも立ち寄りました。村人たちは仮宮を建てて守護したと言われており、小碓尊はこれを大変喜び、中山(この神社の地名)や植木(御山神社の地名)といった地名がつけられたそうです。

御山(おやま)神社 福岡県直方市植木1023-1 GoogleMap

 日本武尊と宮簀媛(みやすひめ)、素戔嗚尊が祀られています。熊襲征伐の折の小碓尊軍の休息地(陣所)であったようです。

 案内板には以下のように書かれています。

 「小碓命(日本武尊)が熊襲征伐の命を受け、行軍の途次、今朝麿(田部宮司家始祖)の案内で中山剣岳に登られ国見をされて御出発後、この地にて休息され家来の弟彦公(尾張氏)に命じ、壇を築き一株の松を植えて後世の験とされた。名付けて植木といい、松樹生い茂り所を植木の森(御山)と号し、その里を植木の里という。」

近津神社 福岡県直方市頓野1542 GoogleMap

 伊弉諾・伊弉冉を祭神としています。傾向天皇の平定8年後にやってきた小碓尊は土地の有力者大兄彦(おおえのひこ)が献上した弓矢をこの地に鎮祭したとあります。戦いに千度勝つという意味を込めて千勝社とも呼ばれているそうです。

戦闘の地

闘いの相手は土蜘蛛と熊襲

土蜘蛛との戦い-九州の伝承地は3か所あります

伝承地1 福岡県田川市猪国での戦い

伝承地2 福岡県田川市白鳥での戦い

伝承地3 佐賀県小城市での戦い

熊襲との戦い-九州の伝承地は6か所あります

伝承地1 宮崎県延岡市での戦い

伝承地2 宮崎県西都市の伝承地

伝承地3 鹿児島県霧島市隼人町での戦い

伝承地4 鹿児島県霧島市牧園町の伝説

伝承地5 鹿児島県霧島市国分中央の伝説

伝承地6 佐賀島佐賀市大和町での戦い

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000