日本武尊

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1130 【日本武尊】より

新版 日本架空伝承人名事典

日本武尊 やまとたけるのみこと

『古事記』『日本書紀』『風土記』などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第三皇子で、母は播磨稲日大郎姫はりまのいなびのおおいらつめとされ、幼名に小碓おうす命、倭男具那やまとおぐな王がある。年少にして勇武人にすぐれ、諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが、長途の征旅、漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている。

ヤマトタケル物語の大要

『古事記』と『日本書紀』とでは叙述に相違があり、文学として後者は前者にはるかに及ばない。以下『古事記』にもとづいて物語を要約する。小碓命(ヤマトタケル)の兄の大碓おおうす命は父天皇の召し上げた乙女を盗み、ために朝夕の食事に参会しなかった。そのことを教えさとせと父から命じられたオウスは、兄が朝の厠かわやに入るところを捕らえ手足をひき裂いて菰こもに包んで投げ捨ててしまう。その勇猛に恐れをいだいた天皇は、オウスを西方の賊平定に派遣する。これがこの皇子の征旅と漂泊の生涯の発端である。まだ少年のオウスは女装して熊曾建くまそたける(熊襲魁帥)兄弟の宴席に入り、宴たけなわのときに兄弟を剣をもってあいついで刺し通した。虫の息のクマソが皇子をたたえてヤマトタケルの名を奉ったがオウスはそれを聞きおえるや否や、相手を熟苽ほぞちのように振りさいて殺したという。

ヤマトタケルとなった皇子はさらに各地の山の神、河の神、海峡の神を征し、出雲の出雲建を詐術で討ち、西方平定をしとげて天皇に復命した。しかし天皇は重ねて追い立てるように、東方十二道の荒ぶる神、王化に従わぬ者を征討せよと命じる。ヤマトタケルは出発にさいし伊勢の大神に参り、斎宮であるおばの倭比売やまとひめ命(倭姫命)から草那芸剣くさなぎのたちと袋を授かるが、そのとき「天皇はこの私に死ねというのだろうか、西方のいくさから帰りまだ時をへぬうちに軍勢も賜らずなお東国に遣わそうとする」と述べ、憂い泣いたという。東国においてもまつろわぬ神・人をことごとく平らげる。その間、相模国では国造くにのみやつこに欺かれて野火に囲まれるが草那芸剣と袋の中の火打石によって難を逃れた。また走水はしりみずの海(浦賀水道)では、渡りの神の妨害にあい、后の弟橘比売おとたちばなひめ(弟橘媛)が皇子に代わって入水し神の心をなごめて船を進めることをえた。足柄の坂でヤマトタケルは三たび嘆いて「あづまはや」(わが妻よああ)といい、それが「あづま」の地名の起りとなったとされる。そこより甲斐、信濃を経て尾張に至り、往路に婚約した美夜受比売みやずひめ(宮簀媛)と結婚する。だがミヤズヒメのもとに草那芸剣を置いて伊吹山の神を討ち取りに出かけた皇子は、神の降らす氷雨に惑わされ、以後、当芸野たぎの、杖衝坂つえつきざかと進むにつれて疲れを増し、三重についたときは足が三重に曲がるほどの状態になる。やがて能煩野のぼのより大和の国をしのんで、「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美うるわし」などの三首の思国歌くにしのびうたをよむが、ここから病状があらたまり間もなくして世を去る。死後の皇子は「八尋白智鳥やひろしろちどり」(大きな白鳥)と化して天がけり、葬を営む后や御子たちがその後を泣いて追ったという。白鳥は河内国の志幾しきにまで飛び、そこにヤマトタケルの墓、白鳥陵を築いたところ、さらに白鳥は天のかなたへ飛び去ったと伝える。

ヤマトタケル物語の意義

記紀の天皇記はまず神武天皇による大和の平定(連想するのは坂上田村麻呂)にはじまり、崇神天皇における祭祀の確立、垂仁代の部べの設置などを経て、景行記に至り王権支配の全国的拡大を扱っていると見られる。ヤマトタケルの西征・東征譚はそうした枠組みに含まれており、諸方に設けられていた建部たけるべなる軍事的部民の存在よりすれば、国内の政治的統一の過程における戦闘の諸経験がここに物語的に集約され、大和の勇者の意にほかならぬヤマトタケル像に典型化されたとすることもできる。ただ『日本書紀』のヤマトタケルはそうだとしても、『古事記』のそれはもっと独自な物語の主人公として造形されている。『古事記』はこの皇子を勇猛なるがゆえに天皇から疎外されたという父と子の対立緊張関係のもとにおいて描き、そこからヤマトタケルを一個の悲劇的英雄として形象する。皇子のヤマトヒメに述べた述懐は自己の運命に対する痛切な自覚を示しており、以後の皇子の足どりは征討というより、死によってしか終えることのできない流離・漂泊の旅となってゆく。その終焉近くよまれた思国歌の情調、また天空に飛び去る白鳥の姿はいずれもこの皇子の物語にふさわしい結末となっている。ヤマトタケルの漂泊と死には国家のもとにおける英雄的個人の運命を強く暗示するものがあり、そうした体制と人間の相克・矛盾をとらええている点に『古事記』ヤマトタケル譚の傑作たる理由があろう。

→弟橘媛

[阪下 圭八]

其地より幸でまして、三重村に到りましし時、亦詔りたまひしく、「吾が足は三重の勾の如くして甚疲れたり。」とのりたまひき。故、其地を号けて三重と謂ふ。其れより幸行でまして、能煩野に到りましし時、国を思ひて歌曰ひたまひしく、倭は 国のまほろば たたなづく 青垣山隠れる 倭しうるはし とうたひたまひき。又歌曰ひたまひしく、命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子とうたひたまひき。此の歌は国思ひ歌なり。又歌曰ひたまひしく、愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来もとうたひたまひき。此は片歌なり。此の時御病甚急かになりぬ。爾に御歌曰みしたまひしく、嬢子の 床の辺に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はやと歌ひ竟ふる即ち崩りましき。

古事記中巻

人王十二代のみかど、景行天皇の御子、日本武尊と申奉るは、すなはち素盞嗚尊の御再誕とぞ聞えし。此御時にあたつて、ゑぞが千島の夷ども、みかどに従ひ奉らず、あづまの国々をかすめ、人民を悩まし侍りし程に、みかど逆鱗まし〓〓て、かれを平らげんために、日本武尊をはじめて将軍になし給ひて、関の東につかはし給ふ。この時伊勢太神宮より天叢雲の剣を給はり給ひて、尊あづまへ下り給へば、夷どもたばかりて枯野の草に火をつけて、尊を焼き殺し奉らんとしけるに、尊剣を抜きて草を薙ぎはらひ給ひしかば、炎退きつつ、かへつて多くの夷ども亡びにけり。是によつてこの剣を草薙剣と名づけ給ひけり。

伊吹 童子

女形その始まりは日本武

編者/評者:初世川柳(評)

出典:『川柳評万句合勝句刷』

編・相印(月)・番号(枚、丁、日):智‐4

刊行/開き:1785(天明5年)(開き)

熊襲の宴席に女装してまぎれ入ったことをいう。

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国史大辞典

日本武尊

やまとたけるのみこと

景行天皇の皇子。『古事記』『日本書紀』に所伝があり、日本武尊は『日本書紀』の表記、『古事記』は倭建命につくる。訓は北野神社本・熱田神宮本のヤマトタケノミコトがよく、タケルではないとする有力な説がある。はじめ小碓(おうす)命・倭男具那(やまとおぐな)命といい、のち倭建命となる。生母は吉備臣らの祖若建吉備津日子の女針間之伊那〓能大郎女(『日本書紀』は播磨稲日大郎姫・稲日稚郎姫につくる)。有史以来五・六世紀に至る大和朝廷の勢力の全土への拡大という歴史を踏まえて、これを象徴する伝説上の英雄で、記紀のほか、『常陸国風土記』『肥前国風土記』、諸書所引の風土記逸文では尾張・陸奥・美作・阿波などの諸国のそれにみえる。中でも『常陸国風土記』に数ヵ所みえるものはいずれも倭武天皇(『阿波国風土記』逸文は倭健天皇命)とするところから、その身分はあるいは天皇かとする説もある。『古事記』には皇子の異母弟若帯日子命(のちの成務天皇)、同じく五百木之入日子命とともに「負〓太子之名〓」とみえるが即位したことはみえない(『日本書紀』にはその立太子のこともみえない)。しかしその記事や「宮」「大御食」「崩」「御陵」などの用語・用字の扱いは天皇に準じ、またその后子女の項の生子は「生御子」と、同じく歴代天皇のそれに準じている。常陸・阿波両国の風土記の「天皇」号は、これらに拠って皇子の身分を格上げしたものとみることができる。ほかに『三代実録』貞観三年(八六一)十一月十一日条伴善男奏言所引の佐伯直豊雄の款に「倭武命」、『新撰姓氏録』には皇別氏の二氏と佐伯直の祖に因んで「日本武尊」の名がみえる。『古事記』景行天皇段によると、小碓命は天皇の命により兄の大碓命にその命を伝えるが、大碓命がこれに従わぬため、これを殺した。「朝曙に厠に入りし時、待ち捕へて〓(つか)み批(ひし)ぎて、其の枝を引き闕き、薦(こも)に裹(つつ)みて投げ棄つ」(原漢字)とある。天皇はこのため、その「建荒之情」を惶れて皇子を遠ざけることをはかり、西方の熊曾建(『日本書紀』は「熊襲有〓魁帥者〓、名取石鹿文亦曰〓川上梟帥〓」につくる)二人の征討を命ずる。皇子は姨(おば)の倭比売命の衣裳を給わり、女装して熊曾建に近づき御室楽(みむろのうたげ)の日に懐剣で二人を刺殺する。このとき弟建が「倭建御子」の名を献じた。これ以後倭建命と名をあらためる。ついで出雲国に入り赤檮(いちい)の詐刀で出雲建を欺いてこれを誅し、倭に帰還する。天皇は、今度は東国の賊(東方十二道之荒夫琉神、及摩都楼波奴人等(ひがしのかたとおまりふたつみちのあらぶるかみ、またまつろわぬひとども))の征討を命ずる。皇子はまず伊勢神宮を拝し、ここで倭比売命に対し、「天皇吾をすでに死ねとおぼしめすなりけり」(原漢字)とうれい泣く。倭比売命は草那芸剣と御嚢を給う。尾張国で国造之祖美夜受比売と婚約し、東国に向かった。相武国で国造に欺かれて火難に遭うが、草那芸剣で草を刈りはらい、嚢中の火打でこれに火を放って助かる。進んで走水海に至る。ここで渡神(わたりのかみ)にさえぎられるが、后弟橘比売命が入海して暴浪を鎮め、倭建命は無事対岸に着く。かくて荒ぶる蝦夷や山河の荒神を言向平和(ことむけやは)して帰路につく。足柄の坂本で白鹿に化した坂の神を殺し、甲斐の酒折宮を経て、科野の坂神を言向け、尾張国に帰還する。ここで美夜受比売と再会、約束を果たす。翌朝草那芸剣を比売のもとに置いて伊服岐の山の神の征討に赴き、ここで白猪に化したこの山の神のふらせる氷雨のために病み、伊勢の能褒野に崩ずる。后たち御子たちは倭より下って「御陵」を作るが皇子の霊は八尋白智鳥(やひろのしろちどり)と化して「天に翅りて飛び行き」河内の志幾にとどまる。ここにも「御陵」が営まれるが、また白智鳥となって天に翅りて飛び行く、とある。この物語の中には弟橘比売の「さねさしさがむの小野に」の歌、甲斐の酒折宮における命と御火焼之老人(みひたきのおきな)との問答歌、美夜受比売が大御食を献じた饗宴の歌、尾張の尾津前の「尾張にただに向へる尾津の崎なるひとつ松吾兄を」や「倭は国のまほろば」の思国歌(くにしぬび歌)ほか三歌、后たちの歌四歌などがあり、この物語の浪漫的形象を優れたものにしている。倭建命には布多遅能伊理〓売命(『日本書紀』は両道入姫皇女)ほかの妃があり、帯中津日子命(同足仲彦天皇(仲哀天皇))以下六柱(同七人)の子を生んだとある。『日本書紀』は熊襲征討を、はじめ景行天皇の親征とし、その十二年から十九年にかけて長大な説話を展開し、その後二十七年の条に皇子の西征を述べる。ついで二十八年皇子の東征のことを記す。その内容は『古事記』と大同小異であるが、文学的形象において『古事記』に劣る。本居宣長が『古事記伝』二七において、皇子が東征に出発する段の両者を比較して「凡て書紀の此ノ段、殊に漢めきたり、上代の意言(コヽロコトバ)に非ず、其は古ノ伝ヘ説(ゴト)の中に、漢めかぬことをば省(ハブ)き捨(ステ)て、漢ざまの文を多く潤色(カザ)り添ヘて書れたりと見えたり」と述べている。風土記の文はすべて地名起源説話である。別に『出雲国風土記』も同国の健部郷の条に御名代健部についてその起源説話として「倭健命」の名を掲げている。これらの風土記の説話のみならず記紀の所伝もすべて史実とは認められない。しかし、その説話がいつ、どのようにして形成されたか、ないし創作されたかは、なお今後の研究に俟たねばならない。記紀の伝えるこの皇子は、史上最も愛された英雄像の一つで、そのためにその遠征の伝えられる地方や、経路を延長してその遠征・滞在の説話がつくられ、また時代を超えて後世、近現代に至るまで絵画・文芸の題材となっている。

[参考文献]

川副武胤『古事記の研究』、同『古事記及び日本書紀の研究』、同『日本古典の研究』、中村啓信「ヤマトタケと訓むべき論」(『国学院雑誌』八八ノ六)

(川副 武胤)

能褒野墓(のぼののはか)

三重県亀山市田村町名越字女ケ坂にある前方後円墳。文化庁編『全国遺跡地図』は、「能褒野王塚古墳」と表示する。『日本書紀』景行天皇四十年条は、名称を「能褒野陵」、通称を「白鳥陵」と記す。『延喜式』諸陵寮は、「能〓野墓」とし、「日本武尊、在〓伊勢国鈴鹿郡〓、兆域東西二町、南北二町、守戸三烟」と記し、遠墓に入れる。令制の陵墓管理制度崩壊により、当墓と称する処が何ヵ所も生ずることになった。明治九年(一八七六)一月教部省はこれらの当墓伝承地の中から、三重県鈴鹿郡高宮村丸山(鈴鹿市上田町字北松塚)の鵯(ひよどり)塚(白鳥塚古墳)を当墓に考定した。しかしこれについて郡内から異議が提出されたため、墓の修営を見合せて再調査することになった。同十二年十月宮内省は、先の教部省決定を取り消し、当墓を同郡川崎村名越字女ケ坂の丁字塚(一名、王塚)に改定し、続いて墓域・陪冢・道路開設地の設定とその用地買収を行い、同二十六年墓の修営を行なった。これが現在の墓である。台地の端にある南東に面する前方後円墳で、空濠が巡り、正面に拝所を設ける。墳丘は長さ八九メートル、前方部幅四三メートル・高さ六・八メートル、後円部径五五メートル・高さ九・四メートル。墳丘裾末端に円筒埴輪が一部に遺存するが、このような位置の埴輪は天皇陵には見られない。台風災害により空濠底の腐葉土下に礫層があることが判明したが、これが葺石か自然層かは不明。墓域内北東面には九基の小円墳陪冢があり、墓域外の五ヵ所にある小円墳四基・小方墳一基・不整形小墳二基は陪冢に指定されている。宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所所管。墓の近隣にある能褒野神社には、当墓出土と称する円筒埴輪がある。→白鳥陵(しらとりのみささぎ)

[参考文献]

太政官記録局編『太政類典』五、宮内省編『明治天皇紀』四、亀山市教育委員会編『亀山の古墳』、『日本武尊能褒野墓之図』(宮内庁書陵部保管『陵墓地形図』二八九〔L六七〕)、大西源一「日本武尊能褒野墓存疑」(『考古学雑誌』三ノ一二)

(石田 茂輔)

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日本大百科全書(ニッポニカ)

日本武尊

やまとたけるのみこと

景行(けいこう)天皇の皇子で、仲哀(ちゅうあい)天皇の父。この皇子の像は『古事記』と『日本書紀』で大きな相違があり、われわれが悲劇的皇子の物語として感動を受けるのは前者であるが、後者では天皇支配の体制に適合する姿に修正されている。記では、皇子は臼(うす)を人格化した小碓命(おうすのみこと)の名で登場し、兄に食事に出席するように願えとの天皇の命令を取り違えて、兄を惨殺する。この豪勇を恐れた天皇は、熊襲建(くまそたける)の討伐に皇子を派遣し、16歳の皇子はおばの倭比売(やまとひめ)の衣装で女装して熊襲建に近づき、これを殺す。このとき倭男具那(やまとおぐな)と名のっていた皇子は、熊襲建から日本武尊の名を奉献される。そしてその帰途、出雲建(いずもたける)を偽刀(ぎとう)の計で倒し、山、川、海峡の神を服属させて帰還する。しかし帰京後まもなく今度は東征を命ぜられ、「天皇は私に早く死ねと思っておられるのか」と嘆きつつ伊勢(いせ)神宮に奉仕する倭比売を訪ね、剣と袋をもらって出発する。

東征では多くの困難が起こった。まず相模国造(さがみのくにのみやつこ)にだまされて野火の難にあい、また浦賀水道の神に航行を阻まれる。皇子は野火の難を倭比売から賜った剣で草を薙(な)ぎ、袋の中の火打石(ひうちいし)でこれに火をつけて逃れ、浦賀水道では愛する弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水(じゅすい)により死を免れる。だが東征の帰途、熱田(あつた)の宮簀姫(みやずひめ)のもとに伊勢の神剣を預け、素手で伊吹(いぶき)山の神に立ち向かった皇子は、神の正体を誤認したために大氷雨(おおひさめ)に打たれて深手を負い、伊勢の能煩野(のぼの)にたどり着いて死ぬ。物語はこのあたりから歌を交え、生と死の悲劇性を高めていくが、とくに、死後白鳥となって翔(かけ)り行く皇子を后(きさき)や御子(みこ)たちが追う終章は、この物語の白眉(はくび)である。

皇子がいくつかの名をもつことから理解されるように、この物語は多くの話がまとまって成立した東西平定の物語である。それは『古事記』のなかで、崇神(すじん)朝の国家体制の確立を受け、神功(じんぐう)皇后の朝鮮半島征服へと展開させる意味をもつが、われわれに与えるこの物語の感動は、父である天皇に遠ざけられて異域で死なねばならなかった皇子の死が語りかける、一人の人間の悲劇的生涯である。

[吉井 巖]

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世界大百科事典

日本武尊

やまとたけるのみこと

《古事記》《日本書紀》《風土記》などに伝えられる英雄伝説の主人公。記では倭建命と記す。景行天皇の第3皇子,母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされ,幼名に小碓(おうす)命,倭男具那(やまとおぐな)王がある。年少にして勇武人にすぐれ,諸方の平定に派遣されて日本武尊の名を得るが,長途の征旅,漂泊の末に力尽きて倒れる悲劇的人物として描き出されている。

ヤマトタケル物語の大要

《古事記》と《日本書紀》とでは叙述に相違があり,文学として後者は前者にはるかに及ばない。以下《古事記》にもとづいて物語を要約する。小碓命(ヤマトタケル)の兄の大碓(おおうす)命は父天皇の召し上げた乙女を盗み,ために朝夕の食事に参会しなかった。そのことを教えさとせと父から命じられたオウスは,兄が朝の厠(かわや)に入るところを捕らえ手足をひき裂いて菰(こも)に包んで投げ捨ててしまう。その勇猛に恐れをいだいた天皇は,オウスを西方の賊平定に派遣する。これがこの皇子の征旅と漂泊の生涯の発端である。まだ少年のオウスは女装して熊曾建(くまそたける)(熊襲魁帥)兄弟の宴席に入り,宴たけなわのときに兄弟を剣をもってあいついで刺し通した。虫の息のクマソが皇子をたたえてヤマトタケルの名を奉ったがオウスはそれを聞きおえるや否や,相手を熟苽(ほぞち)のように振りさいて殺したという。

ヤマトタケルとなった皇子はさらに各地の山の神,河の神,海峡の神を征し,出雲の出雲建を詐術で討ち,西方平定をしとげて天皇に復命した。しかし天皇は重ねて追い立てるように,東方十二道の荒ぶる神,王化に従わぬ者を征討せよと命じる。ヤマトタケルは出発にさいし伊勢の大神に参り,斎宮であるおばの倭比売(やまとひめ)命(倭姫命)から草那芸剣(くさなぎのたち)(草薙剣)と袋を授かるが,そのとき〈天皇はこの私に死ねというのだろうか,西方のいくさから帰りまだ時をへぬうちに軍勢も賜らずなお東国に遣わそうとする〉と述べ,憂い泣いたという。東国においてもまつろわぬ神・人をことごとく平らげる。その間,相模国では国造(くにのみやつこ)に欺かれて野火に囲まれるが草那芸剣と袋の中の火打石によって難を逃れた。また走水(はしりみず)の海(浦賀水道)では,渡りの神の妨害にあい,后の弟橘比売(おとたちばなひめ)(弟橘媛)が皇子に代わって入水し神の心をなごめて船を進めることをえた。足柄の坂でヤマトタケルは三たび嘆いて〈あづまはや〉(わが妻よああ)といい,それが〈あずま〉の地名の起りとなったとされる。そこより甲斐,信濃を経て尾張に至り,往路に婚約した美夜受比売(みやずひめ)(宮簀媛)と結婚する。だがミヤズヒメのもとに草那芸剣を置いて伊吹山の神を討ち取りに出かけた皇子は,神の降らす氷雨に惑わされ,以後,当芸野(たぎの),杖衝坂(つえつきざか)と進むにつれて疲れを増し,三重についたときは足が三重に曲がるほどの状態になる。やがて能煩野(のぼの)より大和の国をしのんで,〈倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美(うるわ)し〉など3首の思国歌(くにしのびうた)をよむが,ここから病状があらたまり間もなくして世を去る。死後の皇子は〈八尋白智鳥(やひろしろちどり)〉(大きな白鳥)と化して天がけり,葬を営む后や御子たちがその後を泣いて追った。白鳥は河内国の志幾(しき)にまで飛び,そこにヤマトタケルの墓,白鳥陵を築いたところ,さらに白鳥は天のかなたへ飛び去ったと伝える。

ヤマトタケル物語の意義

記紀の天皇記はまず神武天皇による大和の平定にはじまり,崇神天皇における祭祀の確立,垂仁代の部(べ)の設置などを経て,景行記に至り王権支配の全国的拡大を扱っていると見られる。ヤマトタケルの西征・東征譚はそうした枠組みに含まれており,諸方に設けられていた建部(たけるべ)なる軍事的部民の存在よりすれば,国内の政治的統一の過程における戦闘の諸経験がここに物語的に集約され,大和の勇者の意にほかならぬヤマトタケル像に典型化されたとすることもできる。ただ《日本書紀》のヤマトタケルはそうだとしても,《古事記》のそれはもっと独自な物語の主人公として造形されている。《古事記》はこの皇子を勇猛なるがゆえに天皇から疎外されたという父と子の対立緊張関係のもとにおいて描き,そこからヤマトタケルを一個の悲劇的英雄として形象する。皇子のヤマトヒメに述べた述懐は自己の運命に対する痛切な自覚を示しており,以後の皇子の足どりは征討というより,死によってしか終えることのできない流離・漂泊の旅となってゆく。その終焉近くよまれた思国歌の情調,また天空に飛び去る白鳥の姿はいずれもこの皇子の物語にふさわしい結末となっている。ヤマトタケルの漂泊と死には国家のもとにおける英雄的個人の運命を強く暗示するものがあり,そうした体制と人間の相克・矛盾をとらええている点に《古事記》ヤマトタケル譚の傑作たる理由があろう。

[阪下 圭八]

[索引語]

倭建命 景行天皇 小碓(おうす)命 倭男具那(やまとおぐな)王 大碓(おおうす)命 熊曾建 出雲建 草薙剣 弟橘比売 美夜受比売 能煩野 思国歌 志幾

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