https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/kamejii/073.html 【連歌(れんが)発祥の地!酒折宮(さかおりのみや)】より
連歌は、複数の人が「5・7・7」の片歌で問答する日本の文学の一つです。
その連歌は、甲府の酒折宮から始まったといわれています。
酒折宮拝殿
『古事記』には、「倭建命(やまとたけるのみこと)(日本武尊)」が東征の帰路、酒折宮に立ち寄り、新治(にいばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる(新治、筑波の地を通り過ぎて、ここまで幾晩寝たのか)と問いかけたところ、かがり火を焚(た)いていた老人が、かがなべて 夜には九夜 日には十日を(日数を重ねて、夜では九夜、昼では十日ですよ)と答えたと記されています。「4・7・7」の片歌の問いかけに対し「5・7・7」の片歌で答える片歌問答になりました。倭建命は、その老人の才能を誉めて「東国造(あずまのくにのみやつこ)」の称号を授けたそうです。
連歌の碑
画像:酒折宮境内ある連歌発祥の由来となった連歌の碑
この片歌問答が連歌の起源、また、酒折宮が連歌発祥の地とされ、その後、酒折宮には山口素堂をはじめ、多くの文学者・学者が参拝するようになりました。
酒折連歌は「5・7・7(問い)」、「5・7・7(答え)」という形式で、後の短連歌や長連歌とは異なる形式になっています。
現在では、連歌の普及を目的に毎年行われる「酒折連歌賞」。毎回全国からたくさんの応募があります
https://yukihanahaiku.jugem.jp/?eid=77 【有季定型のもうひとつの可能性 ~ 堀田季何「人類の午後」を読む】より
鈴木牛後
「人類の午後」は、俳人、歌人として活動する堀田季何の第四詩歌集。著者は、俳人としては「吟遊」「澤」を経て、現在「楽園」主宰。「楽園」は、有季、無季、自由律などいろいろな形式を受け入れ、しかも日本語、英語など七カ国語で投句できるという、今のところもっとも先駆的な結社といっていいだろう。
本句集のあとがきには「句集全体は、古の時より永久に変わらぬ人間の様々な性(さが)及び現代に生きる人間の懊悩と安全保障という不易流行が軸になっている。一介の人間として、人間及び人類の実(じつ)を追い求め、描くことへの愚かな執念である」(引用者注:原文の漢字は正字)と書かれる。少し難しい表現だが、句集を読みすすめていくうちに、著者の言わんとするところが少しずつ理解されてゆくだろう。
〈前奏〉は、世界の歴史に題材を求めた句群で、作者によれば「現代の日本人が非日常且つ無縁だと錯覚している事象」(引用者注:同上)を扱っている。
水晶の夜映寫機は碎けたか (「一九三八年一一月九日深夜」と前書)
片陰にゐて處刑臺より見らる ミサイル來る夕燒なれば美しき
鳥渡るなり戰場のあかるさへ 自爆せし直前仔貓撫でてゐし
一句目こそ無季だが(前書によって日時-季節-は特定されているが)、あとは有季定型となっている。しかも、「夕焼」「鳥渡る」など、伝統的な季語が多く選ばれていることに注目したい。
有季定型俳句は、日本の伝統的な季節感を下敷きにして、その変わらぬ巡りへの無条件の信頼に基づいて成り立っている。そこには、その枠内での「新しさ」を求める視点はあっても、その枠の外に目が向けられることはほとんどない。無季俳句や前衛俳句はその枠を乗りこえようとする運動であるが、それらは有季定型とは不連続なものとなる傾向が強く、有季の側から見れば異物として視野の外側に置かれがちだ。
その点、著者のこれらの試みは、有季定型という形式に凭れかかっている現在の俳句を、大きく揺るがすものだ。
三句目、夕焼の中を突き進むミサイル。伝統的な美の世界を、外側から冷たい異物が突き破ってくる。四句目は、古来変わらぬ鳥の渡りが、戦場の「あかるさ」の上をゆく。この「あかるさ」は、爆発の炎の明るさであり、また理性が跡形も無く消え去ったあとの虚無の明るさでもあるだろう。
〈Ⅰ〉は、美の象徴である雪月花を使った句を置く。
わがよだれ四半世紀を待たば雪 雪いづれ水に還らむわが骨も
繩文の焰(ほむら)が雪を食ふところ 滿月や皆殺されて祀らるる
われに向く月の面(も)いつも死者の顏 うつくしや靜かの海といふうつほ
迷彩の馬軀けめぐる櫻かな 夜櫻は一枝一枝を死者の腕
花篝けぶれば海の鳴るごとし
ここで描かれる雪月花は、単純に季節の主役としての立場を誇っているのではない。しかしそれでいて、確かな存在感がある。雪月花は、単に賞美されるだけの存在ではなく、古代には信仰とかたく結びついていた。生命への畏敬、穀物の豊穣の予祝など、人間の根源的な信仰である。信仰から賞美、そして現代のファッションのように眺めるものへと移り変わってきた雪月花。本句集ではそこにときに寄り添いながらも、しばしば意図的に異物を差し挟んでくる。
花疲するほどもなし瓦礫道 監視カメラに搜すや花の客ひとり
花降るや死の灰ほどのしづけさに
など、桜があでやかであればあるほど、その陰の暗さが読者の印象に残る。
〈Ⅱ〉ではいくつかの季題が詠まれている。ひとつ挙げれば、「宝舟」。宝舟を描いた絵を枕の下に敷いて寝るとよい初夢を見ると信じられていて、正月の縁起物である。
どの神も嗤笑してをり寶舟 瓊玉も神も模造品(レプリカ)寶舟
懇ろにウラン運び來寶船
一句目の嗤笑はあざけり笑うこと。宝舟に乗っているのは資本主義の勝者たちか。その勝者も積み荷もほとんどがレプリカで(二句目)、積み荷の中で本物はウランだけというディストピア(三句目)。
このような句は機知といえば機知の句で、作者の知的操作の産物であるが、見方を変えればよくできたブラックユーモアでもある。読者はページをめくるたびに、苦笑させられたり心中に不安が兆したりして、飽きることがない。それこそがおそらく、作者の意図なのであろう。
続いて〈Ⅲ〉。このように読み進めていくうちに、読者はさまざまなメッセージを受け取ることになる。散文とは違い、俳句を読むときにはその言葉ひとつひとつの奥へ潜り込むように対峙しなければならない。だからこそ心奥に響くものがある。
吾がからだぴつたりの穴つちのはる 草摘むや線量計を見せ合つて
靑き踏み靑人艸も踏む巨人 野に遊ぶみんな仲良く同じ顏
手を叩く音聞けば手を叩く夏
このような句から何を受け取るかは読者に委ねられているのだが、有季定型の、もうひとつの可能性がここにあることは確かであろう。
(パソコンの性質上、作者の意図どおりの漢字表記にはなっていません)
(「雪華」2021年11月号)
0コメント