https://www.shinchosha.co.jp/special/hm/ 【『愛蔵版 街とその不確かな壁』】より
その街に行かなくてはならない。なにがあろうと――
コロナ・ウィルスが日本で猛威を振るい始めた二〇二〇年の三月初めに、この作品を書き始め、三年近くかけて完成させた。その間ほとんど外出することもなく、長期旅行をすることもなく、そのかなり異様な、緊張を強いられる環境下で、日々この小説をこつこつと書き続けていた。まるで〈夢読み〉が図書館で〈古い夢〉を読むみたいに。そのような状況は何かを意味するかもしれないし、何も意味しないかもしれない。しかしたぶん何かは意味しているはずだ。そのことを肌身で実感している。
村上春樹 村 上 春 樹
魂を揺さぶる村上春樹の〈秘密の場所〉へ――
待望の新作長編1200枚!
十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。
https://tadasiikeigo.com/machi/ 【村・町・街・都市の違いって何?】より
くらしている場所・働いている場所などの規模や様子をあらわすときに、どのような言葉を使いますか。
いろいろな表現方法がありますが、「村」「町」「街」「都市」といった言葉を使うこともあると思います。
ところでこの4つの言葉、明確な定義や違いはあるのでしょうか。使い分けは、どのようにするのが適切なのでしょうか。この記事では、日常会話で何気なく使っている「村」「町」「街」「都市」の違いについて調べてみました。
村とは?
「村」は、地方公共団体の1つです。定義はありませんが、町より人口が少なく、区画も小さめであることが多いようです。日常会話では、いわゆる田舎や農業地帯を指すこともあります。また、町内会の集まりを「村」と呼んだり、小中学校の通学団で「〇〇村」という呼称を使ったりするケースもあります。「村八分」という言葉があるように、「村」は住民同士の強いつながりを表す言葉ともいえますね。
町とは?
「町」も、地方公共団体の一つです。「町」になるためには、都道府県の条例に定められている条件をクリアしなければなりません。
ただし、一度「町」になると、人口が減少して条件を満たさなくなっても「町」のままです。
そのため、村より規模の小さな「町」もあるようです。日常会話では、家が密集している地域を「町」と呼ぶこともあります。これは、「町はずれ」という言葉を思い浮かべるとわかりやすいでしょう。
街とは?
「街」は、商店やビルなどが立ち並ぶにぎやかな通りのことです。英語で表現すると“street”になります。「商店街」「歓楽街」などが、まさに「街」といえるでしょう。
ちなみに、「街」を「まち」と読む場合はたいてい「町」と置き換えることができます(例:街角→町角、学生の街→学生の町、街で買い物をする→町で買い物をする)。
しかし、「町」は「街」に置き換えられない場合があります(町はずれ→街はずれ×、隣町→隣街×)。
都市とは?
「都市」は、大都市・中核市・特例市以外の市をいいます。大都市は人口50万人以上の都市(横浜市、名古屋市、大阪市など)中核市は人口30万人以上または50万人未満の場合は面積100平方キロメートル以上の都市(旭川市、横須賀市、静岡市、鹿児島市など)
特例市は人口20万人以上の都市で、当該都市からの申し出に基づき政令で指定された都市(函館市、茅ケ崎市、久留米市など)です。もっとも、日常会話ではこのような定義を意識することはほとんどありません。人口が密集していて栄えているところは、「都市」とひとくくりで表現されます。
村・町・街・都市の違い
では、日常会話における「村」「町」「街」「都市」の違いをまとめてみましょう。
「村」は、田舎や農業地帯を指して使われることが多いです。住民同士に強いつながりがある集団を指す場合もあります。
「町」は、家が密集しているエリアを指す言葉です。「村」より人口密度は高めですが、「都市」より少ないのが特徴といえます。
「街」は、商業施設やビルなどが立ち並ぶにぎやかな通りのことです。そこに住んでいる人の数は問題になりません。街は、町や都市の一部分といえるかもしれません。
「都市」は、町以上に人口が密集していて栄えている場所です。「都会」という意味で使われることもあります。人口密度は、村<町<都市の順に高くなります。
街は村にもあるかもしれませんが、町や都市にあることが多いです。
https://hon-hikidashi.jp/book-person/6582/ 【村上春樹『街とその不確かな壁』で編集者が最初に心をつかまれたのは】より
4月の発売ながら2023年上半期ベストセラー総合第1位(日販調べ)に輝いた、村上春樹さんの『街とその不確かな壁』。前作『騎士団長殺し』以来6年ぶりとなる新作長編で、電子書籍を含む累計発行部数は40万部を超えています。
村上さんが40年間封印してきた“物語”をもとに書かれたことでも話題になっている本作。その成り立ちと広がりについて、この小説の担当編集者である寺島哲也さんに文章を寄せていただきました。
十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。
(新潮社公式サイト『街とその不確かな壁』より)
街と壁、コールリッジの夢、そしてガルシア=マルケス
長編『街とその不確かな壁』の原稿を手渡されたのは秋の夜、空に大きな月が浮かんだ日だった。
それから数か月後。新作長編が書店に並んだ4月13日には、夜空にくっきりと下弦の月が浮かんでいた。
村上春樹作品と月——『1Q84』に出てくる2つの月のように、村上ワールドに月が登場すると、何か不思議なことが起こる。そういえば、『騎士団長殺し』の第2章のタイトルは、「みんな月に行ってしまうかもしれない」ではなかったか。
今回の装幀カバーは、夜空のような黒地に白抜きのタイトル文字、タダジュンさんの金色の版画が星座の絵のように浮かんでいる(カバー表4の猫の版画も可愛いので、ぜひご覧ください)。
厚さ34mm、瀟洒な小箱のようなこの本は、「村上ワールド」が繊細に凝縮され、村上ファンならずともその物語世界に引き込まれる。すでにSNSや新聞・雑誌の書評で、1980年発表の中編小説や1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』との関連が論じられ、世代を超えて多くの読者が感想を語り合っているが、あらためて村上文学の静かな磁力を実感する。
この小説は1980年と1985年の小説を語り直し、さらに深く書き継いで、「村上春樹の秘密の場所」に読者をいざなう。第一部では17歳の「ぼく」と16歳の「きみ」の みずみずしい恋が描かれ、第二部は福島県の山あいにある小さな町の図書館が舞台となる。
『街とその不確かな壁』という題名を初めて見た時の驚きは、今も言葉では説明できない。
金色の獣と高い壁に囲まれた謎の街が、記憶の彼方から現われ、一瞬のうちに時間が1980年と1985年に遡(さかのぼ)っていった。
そして、題名に続いて心を強くつかまれたのは、原稿の1頁目に置かれたエピグラフの文章だった。
サミュエル・テイラー・コールリッジの幻想詩「クブラ・カーン」。このエピグラフの世界に引き込まれ、コールリッジの詩集をすぐに買い求めた。
その地では聖なる川アルフが 人知れぬ幾多の洞窟を抜け 地底暗黒の海へと注いでいった。
クブラ・カーンとは、モンゴル帝国のクビライ汗(ジンギス汗の孫)であり、この詩の原題は“Kubla: Or, a Vision in a Dream―A Fragment”「クーブラ・カーン あるいは夢で見た幻想――断章」(岩波文庫版の題名)というもので、まさに「街と壁の物語」を想像力豊かに幻視していた。
村上さんの小説は、物語に登場する文学作品がいつも注目されるが、今回はコールリッジの幻想詩とガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』がそれに当たる。
ガルシア=マルケスのマジック・リアリズム。生者と死者、現実と非現実が入り混じる世界……。
先日、都内のある書店に足を運ぶと、そこにはこの2冊が今回の新作長編と並んで、平積みになっていた(残念ながら、隣のカフェに林檎のタルトとブルーベリー・マフィンはなかったが)。その光景は本好きの一人として忘れがたいもので、思わずスマホで写真を撮った。
現在、『街とその不確かな壁』は、電子書籍と合わせて40万部を突破し、さらに読者が広がっている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み直している読者も多く、海外でも翻訳が待たれていると聞く。
コロナ(COVID-19)の時代に書かれた今回の長編は、海外の若い文学者、音楽や映画、アニメーションなど他の分野のクリエイターにも読んでもらいたい……。
春の月を眺めながら、いまそんな夢想をしている。
(新潮社 特別編集委員 寺島哲也)
https://edist.ne.jp/just/20241216_event_toinohensyuryoku/ 【<特報>『問いの編集力』刊行記念イベント:初めて語る松岡正剛直伝「五夜読み」】より
年の瀬となって冬らしい寒さも深まるなか、今年2024年に6年ぶりの長編『街とその不確かな壁』を出版していた作家の村上春樹さんが12月17日(月)に母校の早稲田大学から名誉博士号を授与される暖かいニュースが届いていた。文化芸術分野での功績によるものだ。当日の夜、編集工学研究所代表・安藤昭子による著書『問いの編集力』の刊行記念トークイベントがジュンク堂書店池袋本店にて熱く盛大に行われた。9月に出版された本書は人工知能(AI)の「答え」に飛びつきたくなる時代に、人類の誰もが備え持つ「編集力」によって、その人ならではの内発する「問い」を引き出してゆこうとするプロセスを示す書物である。既に遊刊エディストでも3名の編集人によってレビューが行われていた。
会場だけでなくオンラインでも参加できた『問いの編集力』の裏側について、安藤が編集工学の紹介後に初めて明かした松岡校長直伝の稽古を含めてレポートする。
■編集工学へのいざない
今年2024年8月に亡くなった編集者・松岡正剛が1987年に設立した編集工学研究所では、情報を広い意味で捉えようとしている。創業以来のスローガンが「生命に学ぶ・歴史を展く・文化と遊ぶ」の3つであり、活動の土台として築かれている。いったん全てのモノやコトを「情報」とし、その情報をあつかう営み全てを「編集」と捉えている。私たちの生命それ自体が情報から始まっており、情報同士の関係線を引きつつ新しいモノを創り出すことで私たちの命も文明も前進している。最近ではほんのれんという事業を始めており、小さな場所にギュッと書物を積み込んで、毎月5冊ずつの「本」とテーマ、そして「問い」をセットにして企業に届ける事業もスタートしている。
固定観念や既存の枠組みを思い切って超えて対角線を引くための力を養成するために、松岡は2000年にイシス編集学校を設立した。下は小学生から上は80代まで、職業などの属性がバラバラな参加者がオンライン上で一堂に会して編集力を高めるお題に答え続けて、「師範代」という役割名を持つコーチが指南をしている。例えばコップ1つに対して、お店に置いていれば「商品」、倉庫に置いていれば「在庫」、コミ捨て場に置いていれば「燃えないゴミ」という見方づけなどの含む編集稽古が行われている。この稽古を通じて、情報のグラウンド(地模様)とフィギュア(図柄)によってコップが多面的な情報を持っていることに気づくのだ。
■松岡正剛直伝「五夜読み」稽古
初めて編集工学を聞く参加者へのナビゲーションを終えて本題に入った。安藤が『問いの編集力』の執筆に3年も要していたことを告白する。この本を書くキッカケとなったのが2016年に編集工学研究所でいきなり始まった稽古だった。月1回のペースで、松岡正剛から直々にスタッフにお題が手渡された。説明スライド上で千夜千冊からのメインディッシュの5夜が提示される(このほか食前と食後の千夜もある)。
1.#685 ルドルフ・ウィトカウアー『アレゴリーとシンボル』
2.#296 ベルナール・パリシー『ルネサンス博物問答』
3.#1093 周士心『八大山人』
4.#1528 エルザ・スキャパレリ『ショッキング・ピンクを生んだ女』
5.#262 青山二郎『眼の哲学・利休伝ノート』
5夜全てを取り入れ、自分なりの論点をコンパイルとエディットを駆使しながらまとめてゆく必要がある。出題から1週間後の締切は厳守であり、他の重要プロジェクトの納期があったとしても情状酌量の余地はない。イシス編集学校の奥の院、世界読書奥義伝を掲げる離コースでの熾烈な稽古に類似している。
お題となる5夜を1度読んでも全体像がつかめず、2度目になってようやくキーワードなどの関係線を引けるようになった。締切2日前が「夜明け前」の状態であったと告白する。洞窟のような暗闇の中を歩きながら、5夜に対して生まれてきた俯瞰的な「問い」、あるいは超部分に対する「問い」を灯りとして、何度も書き直しながらジグザグに進み、千夜千冊との対話と外部参照元によって約10ページのレポート(A4サイズ)へと論点が凝縮されていった。
松岡は何故スタッフにお題レターを手渡したのか。安藤は松岡がNG部分に赤ペンを入れたレポートを手に取りつつ、「編集力は稽古を通じて、誰しもが身につけることができる」という信念があったことを明かす。約1年間の「五夜読み」の継続によって、将来に続いて模索するための「問いの種」たちを徹底的にアタマの中に埋め込まれたのである。語りの途中で、劇団「こまつ座」を運営していた井上ひさしの名言である以下のフレーズが紹介される。
「むつかしいことをやさしく、
やさしいことをふかく、
ふかいことをおもしろく、
おもしろいことをまじめに
まじめなことをゆかいに、
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」井上ひさし
やさしいことをベースにするのではない、むつかしいことから始めることがポイントなのだ。本当に大事なことを語ろうとすると難しくなる。その上で優しく語れるように努力し、さらに深く、もっと面白くできるようにする悟りを安藤が得ていた。
「五夜読み」を通じた松岡とスタッフとのインタラクティブな刺激によって生まれたのが、捉えがたい「世界」と「世間」をめぐって論を展開する『擬 MODOKI:「世」あるいは別様の可能性』であった。どの章を読んでもむつかしい所から愉快になる。松岡に触発された安藤も、2020年に『才能をひらく編集工学』を出版するステージへ向かったのだ。
■セイゴオ流、不足を立ち上げるコツ
「五夜読み」稽古に関係づけて、不足についてのテーマへと移ってゆく。松岡の『知の編集術』では3つのキーセンテンスが冒頭で掲げられている。
1.編集は遊びから生まれる
2.編集は対話から生まれる
3.編集は不足から生まれる
安藤は編集工学研究所での松岡やスタッフとの仕事を通じて、3番目の「不足」がどこから生まれるのか、という問いを抱えていた。とあるプロジェクト最中に、どうすれば「いい不足」に出会えるのかを松岡に直接聞いた。その時に真剣に考えて答えてくれたのが次の「不足を立ち上げるコツ」だった。
松岡がNGとディレクションしたのは「ゼロイチ(0/1)で何か足りないモノ」を見つけることだった。1番目に挙げられているような、何かに重ねて2つの情報を対比させながら新たな関係性を結ぶミメロギアと呼ばれる稽古が編集学校で行われている。情報はひとりでいられないのだ。
私たちの思考は何かの枠組みに直ぐに吸着してしまう癖がある。2番目として挙げられたように、既に枠組みの中に入っているという前提の下で、そこから外せる状態をつくるように鍛える必要があるのだ。そのためは、正解を求めに行くよりも、3番目となる「異質」や「矛盾」さらに「自分の中の非情に偏った好み」を信じて使う方がよい。フェチを語りつくすことで、編集のエンジンが起動して暖まってゆく。
4番目として、非常に微細なところから全部の世界の「地」に繋がる自信を持つことが大事である。手元にあるペットボトルや、編集学校の最初の稽古に登場するコップを観察することから始めてもよい。入口は小さくても世界というのは全て繋がっているので、そのつもりで考えると出口が系統樹のように広くなり、語り手の突出へと向かってゆくのだ。
最後に登場したのが、松岡が強調する「1つずつ解決するのではダメで、いっぺんにたくさんのことに向かうというのがコツである」だった。このディレクションを受けたときに安藤は「五夜読み」を思い出す。1つ1つの千夜千冊を咀嚼するのではく、5つセットの論点をまとめようとしたときの不足と向きあう闘いと関係づけができたのだ。「五夜読み」が松岡によって考え抜かれた「問・感・応・答・返」を交わし合うコースウェアであったことが後からワカルという、クリスマスプレゼントのような「不足を立ち上げるコツ」の伝授であった。
ソロトークの後の質疑応答が終わり、会場参加者に向けたサイン会が行われる。安藤の手元にあった「五夜読み」のレポートを閲覧可能だった。お題レターに対して1週間でコンパイルとエディットが混ざり合った濃密な論点を10枚以上書ききり、闘いから帰還した後に松岡から赤ペンで植え付けられた創(きず)がレポートに残っていた。
リアルタイムで参加できなかった方に朗報がある。アーカイブ配信が用意されているのだ。コチラからオンライン視聴チケットを購入すると、2025年1月7日の23時59分まで視聴ができる(販売は1月7日の12時00分まで)。今回紹介しなかった別の「五夜読み」で選ばれていた千夜千冊や、松岡によるコメントレターの一部などを知りたい方はすぐにチケット入手へ向かってほしい。
松岡正剛の赤ペンが入った「五夜読み」レポート
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