出雲王家伝承



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大国主命直系の子孫である富當雄氏が公開した出雲口伝

【出雲神族の渡来】

この世界が、一夜にして氷の山になった。大祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるため一族を引き連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海沿いに歩いた。

そうして何代もかかってようやくたどり着いたのが出雲の地であった。今から4000年も前のことである。クナトノ大神は色々な知識を持ち、前からこの土地に住んでいた人々に鉄の取り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。

糸は麻、綿、はたの木から作り、それをクリやシイの実で染めた。出雲人に戦いの歴史はなかった。人々は生活をよくしてあげることで、自然についてきた。クナトノ大神は王に推された。

【習俗と祭祀】

首長は「カミ」と呼ばれた。毎年10月に各国(各地)のカミが出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。多い国は少ない国に分け与えた。

この時、我々は祖国をしのんで竜蛇りゅうじゃ(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであった。我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。

王が死にそうになると後継者は会ってはならないものとされていた。死体は穢れたものとして忌み嫌い、これを見たり触れたりすると相続権が奪われた。 墓も屋敷内に造ってはならないとされてきた。王が他界すると家人はツタで篭を編み、これに死体を入れて山の頂点の高いヒノキに吊るした。3年が過ぎるとカゴから下ろし、白骨を洗って山の大きな岩の近くに埋めた。山は我々の祖先の霊が眠るところである。

高貴な人の婦人や子供が死ぬと、石棺に入れ、再生を願って宍道湖に沈めた。

我々は東西南北がわかり、数字があった。ヒーフーミーヨー、と数えた。

「初めに言葉ありき」と言われるように言葉を大切にした。

勾玉は祖先の幸魂(さちみたま)、和魂(にぎみたま)、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)を表し、王家のみがつけることを許された。

【スサノオの侵略】

スサノオが砂鉄を奪うために朝鮮から馬を連れてスサの港へやってきた。

ヒイ川の古志人(こしびと)が暴れ、テナヅチ、アシナヅチが助けを求めたのでスサノオがこれを制圧した。スサノオは次第に増長し、出雲を我がもの顔で歩いた。スサノオはテナヅチの娘と結婚した。

【ホヒ族の裏切り】

天孫族が九州から船で攻めてきた。その前にやってきて、王の娘と結婚していたホヒが手引きしたのである。稲佐浜で戦ったが一敗地にまみれた。

※一敗地にまみれる=再び立ち上がれないほどに徹底的に打ち負かされること。

オオクニヌシはコトシロヌシに「これ以上、出雲人が殺されるのを見るのはしのびない。国(王位)を天孫族に譲ろうと思うがどうだろうか」と相談した。

「私は反対ですが、お父さんがそう仰るのなら従いましょう」コトシロヌシはこう答えると、天孫族への呪いの言葉を残し、敵将の前で海に飛び込み自殺した。オオクニヌシはウサギ峠のほら穴に閉じ込められて殺された。ミナカタノトミノ命はゲリラ戦を展開しながら越に後退し、のちに信濃を平定して第二出雲王朝を築いた。

【神武の侵略】

天孫族の侵略を手引きしたホヒ族とは、次第にうまくいくようになったが、今度は神武が九州から攻めてきた。

勢力を回復していた我々は穴門(長門国)(※穴門は関門海峡の古名)で迎え撃った。

神武は防府(※現在の山口県)、河内、熊野などで6人死んだ。

7人目の神武は強かった、その上、我々が「カラの子」と呼んでいた朝鮮からの渡来人ヤタガラスが神武の味方についた。彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。誠に陰険であり、残酷であった。

王のトミノナガスネ彦は傷つきヤマトを神武に譲って出雲へしりぞいた。

王は出雲で亡くなった。神武は橿原で即位し、ヤマトの王となった。出雲人は、ヤマト・出雲・北陸・関東・東北などに分散させられた。神武から数代の王は出雲王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった。

縄文時代も終わりの頃のことである。

【ヒボコ族の渡来】

ヒボコ族が朝鮮から渡来し、出雲に入ろうとしたが、これを撃退した。

彼らは但馬に逃げ、首長のヒボコは豪族の娘と結婚した。

やがて彼らは若狭、近江を経て、ヤマトにいき、やはり朝鮮からやってきた人々(倭漢氏)と結んで安定した。ヒボコ族は鉄が欲しいため、今度は吉備を目指した。

出雲人は播磨国の八千軍(やちぐさ)に防衛線をしいたが、突破された。

伊予や淡路の百済人がヒボコ族に加勢したからである。彼らは吉備王国を築き久米川から鉄を取り、陶器も焼いた。

もう弥生時代に入っていた。

力をつけたヒボコ族は天孫族と手を結び、物部を将として吉備から攻めてきた。

彼らは逃げ惑う女や子供までも殺した。出雲人が絶滅するのではないか、と思われるほどであった。

天孫族はクナト大社(熊野大社)に安置する宝、勾玉を奪っていった。我々は祭祀を停止した。人々は働かず各地で反乱が起こった。

困り果てた天孫族はヒボコ族を動かし「祭祀を復活して欲しい」と頼みに来た。

我々が言うことを聞かないのでホヒ族が代行することになった。しかし国々は乱れに乱れ、天孫族の間でも内乱が起きた。天孫族は伊勢にも攻め込み王のイセツ彦はミナカタノトミノ命が勢力を張った信濃へと逃れた。

ヒボコ族から天孫族の王の后が出た。名をオキナガタラシ姫といった。

彼らはこれを無上の誇りとした。ヒボコ族の王は天孫族から「天」の称号をもらった。

数百年が過ぎ、天孫族の間では、また内乱が起きた。王や皇子もいなくなった。

朝鮮から渡来した人々は困り果て、我々の首長に天皇となるよう懇願した。

【出雲大社の創始】

杵築大社(出雲大社)は716年に建てられたもので、それまでは熊野にあった。

祭神のオオクニヌシは出雲人の祖神ではなく、重要な存在でもなかった。

ホヒ族がオオクニヌシの祟りを恐れ、封じ込めただけである。その上、後世になると自分たちの祖神のように言っている。全くおかしな話だ。

杵築大社は平安末期に一時、鰐渕寺(がくえんじ)によって領有された。

この時、本地垂迹説からオオクニヌシが大国様に、コトシロヌシがえびす様になった。

以上

これらの口伝は富家の「財筋」の中で一番優秀な青年を選んで本家に養子として迎え、語り継いだといいます。

富當雄氏も16歳の時に生まれ育った家を離れて、本家の富饒若(にぎわか)氏の養子になりました。

同年の冬、富氏は養父に命じられて身体を清めた後、古代服の正装に着替えて出雲井神社まで裸足で歩いたと言います。そして社殿へ入り養父から出雲王朝4千年の歴史を聞かされます。

口誦伝承されてきた祖先の生き様は神と人とが対話する形式で語られ、質問は許さません。

これを10年間にわたって連続反復し、一語も洩らさず丸暗記をします。

この口伝は次の伝承者に伝えるまで命にかけて死守し、たとえ兄弟や妻であっても他言無用です。

さらにこの伝承者に選ばれた者は獣肉を口に出来なくなります。

また、自分の後継ぎ以外は肉親であろうと敵だと思わなければなりません。

いつの世でも親類縁者が最も危険な敵となるからです。

富氏によると出雲神族は神代文字を用いていました。

パピルス状のものに縦書きにされていたそうですが、大正15年に国立博物館(旧帝室博物館)に貸し出したところ行方不明になりました。

筆写した物はたくさん出回っていますが現物は現在も不明のままです。

富氏は自身の民族について「我々は竜蛇族である、出雲人はみんなそれを自覚しているが口に出して言わないだけだ」と言います。

オオクニヌシはスサノオの子孫とされていますが、スサノオは牛をトーテムとする牛族(ウル人)で、オオクニヌシは竜蛇をトーテムとする竜蛇族、蛇族(シュメール人の黒黄色人)であり、両者は民族が違います。

古代のオリエントは竜蛇族が牛族に追い出される形で各地に散らばりました。

富氏の口伝でも「出雲人に戦いの歴史はなかった。」とあるので、戦わずに住み着いていた土地を離れたことが推測できます。

蛇族の代表家紋は「亀甲紋」「州浜紋」「巴紋」でバビロニアや古代インドの竜神にもこの紋章が確認できます。

「亀甲紋」は海神のシンボルマークでもあり、出雲神族もやはりこれらの紋章を持っています。

地球の北半球諸国において、動物の「牛」の原音にはウル(uru)が多く、メソポタミア南部のシュメールの都市ウルクのウルも牛に由来した地名です。

ウルはトーテムから部族名となり、さらに王朝、都市の命名由来となりました。

これらの牛と蛇のトーテムは古代の日本にも神話、神名、石碑、地名などに残っています。


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「出雲王国とヤマト政権(富士林雅樹著)」によりますと、徐福の日本渡来は3回行われ、第一回目は山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡付近に上陸したとされています。

この上陸地は富士林氏の推定のようですが、この地から山東人骨と呼ばれる当時の中国人らしき集団の骨が発掘されていたり、中国由来の陶塤(とうけん:土笛)等も多く出土しているので、この地が上陸比定地となったようです。

このときは出雲王国と戦争になり、徐福は中国へ逃げ帰ったようですが、BC219年頃、今度は出雲王国の沖合に徐福の先遣隊が現れ、出雲王に献上品を捧げて上陸交渉を行ったようです。

この時の献上品は編鐘(へんしょう)と呼ばれる青銅製の打楽器で、のちにこれが銅鐸へと進化したということです。

その翌年、徐福の率いる大船団が現れ、島根県太田市の五十猛(イソタケ)の磯に上陸したということです。ここで徐福とスサノオの関連が出てきました。

記紀によりますと、五十猛命はスサノオの息子という設定になっています。

これが出雲の伝承では徐福の息子となっており、スサノオ=徐福説の一つの根拠となります。

また、徐福の集団が居住した地域とされる出雲市の斐伊川河口地帯は、スサノオの八岐大蛇退治の舞台となったところでもあります。ここでもスサノオと徐福の影がだぶります。

徐福は出雲王の娘・高照姫と結婚し、王族となります。

この点もまた、出雲王・手名椎の娘・櫛稲田姫と結婚したスサノオの行跡とそっくりです。

しかし、その後がいけません。

徐福はこともあろうに、義理の父となった出雲王の暗殺をたくらみ、ヤチホコとコトシロヌシという出雲国の王と副王を二人とも殺してしまいました。

このことが露見して命を狙われることになった徐福は中国に逃げ帰ります。

このときの徐福の悪行が、記紀においてはスサノオの横暴な振る舞いとして記されたということです。

徐福の名前を記載せず、スサノオと変えて記載した理由は、出雲人が徐福の悪事を思い出さないようにするため、ということです。

出雲国造家の果安という人物が、記紀の編纂者のひとりであった忌部子人という人物に頼んだということまで書かれています。

その後、徐福はBC210年頃に三回目の渡来をし、北九州の吉野ヶ里遺跡付近に住んだらしいのです。

徐福は出雲ではホアカリ、北九州ではニギハヤヒと名乗ったとも書かれています。

この二つの名前は非常に重要で、ホアカリは天孫ニニギの兄として、ニギハヤヒは神武天皇の親族として記紀に登場する名前であり、これらがすべて同一人物だったとすると、徐福の血筋はヤマト王権の内部にしっかり残されたことになります。

その事実を記紀が隠匿しています。

スサノオのルーツは朝鮮半島の伊西国にあり、その前は高句麗、さらにその前は中国南部の江西省、と辿って行くことができます。

これは徐福の渡来ルートとは異なるものであり、徐福=スサノオと完全一致させてしまうと矛盾が生じます。

これを解くカギは、記紀における「切り張り手法」にあるのではないかと思います。

スサノオというのは個人の名称ではなく、スサノオ族という民族の名称を呼んだものであり、その族長をスサノオと呼んだ。

だから歴史上スサノオは何人もいて、記紀に書かれたスサノオのエピソードは一人の人物の行動を追いかけたものではなく、多くの人物の行跡があたかも一人の行動のように記されています。

これはアマテラスやツクヨミ、あるいは神武天皇といった人物の描写にも当てはまることで、数人のエピソードを一人としてまとめているので、スサノオにおいてはイコール徐福であるときと、徐福ではない人物であるときがあります。

記紀が編纂された目的の一つは、日本が中国に対して独立した国であることを主張することでした。

日本という国はその開闢の時から、中国とは別個の王統を延々と維持してきた国であるということを主張し、中国の政治介入をはねつける必要があったのです。

そのため、徐福という人物は記紀から抹消されたと考えられます。

中国出身の人物の血がヤマト王権の中にあってはまずいのです。

さらに、三千年前の周王朝の後継者候補でありながら日本に逃れてきた太白、呉越戦争に敗れて九州に逃れてきた呉王夫差の子孫などのことも記紀は記しておりません。

念には念を入れて、中国から人は来ていない、という歴史が編まれたのです。

記紀に富士山に関する記述がないのも、晩年そこに行った徐福の記憶を思い出させないため、という配慮からのことだったのかもしれません。


facebook長堀 優さん投稿記事

出雲王家伝承関連の一冊です。私に王家伝承に関する本を託された権禰宜様の鬼気迫る雰囲気は、今でもはっきりと記憶に残っています。それだけ怨念が深いということなのでしょう。

 出雲王家に残る伝承では、出雲王朝は、東と西の二つの王家が交代に主王(大名持)と副王(少名彦)を務めていましたが、大陸から渡ってきた徐福と連れてきた童たちにより主王と副王は薬殺されます。

 その目的は、高品質の出雲の鉄を独占するためであり、始皇帝が徐福を派遣したのです。

 出雲国は大混乱に陥り、徐福は一度帰国に追い込まれますが、二度目は筑後へ渡ります。

 徐福は、始皇帝を騙して日本に渡るお金と人材を提供させたとの説もありますが、始皇帝の命でなければ、二度目の日本渡航はあり得ないはずです。

 薬殺されたコトシロヌシやクナト姫の御霊が憑依したチャネラーさんの口を通し、出雲王家の伝承そのままの史実が天外先生たちに語られたそうです。

 怨念があまりにも強いため、何人もの能力者の力を合わせなければ、浄化できなかったといいます。

 私自身、出雲人のエネルギーを常日頃感じているだけに、天外先生に深い感謝を直接お伝えしました。ありがたい機会でした。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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