facebook斉藤 一治さん投稿記事 「鎮守の杜」とは、
日本において、神社に付随して参道や拝所を囲むように設定・維持されている森林です。
この杜は動植物などたくさんの命を育み、田畑や海、川にたくさんのミネラルをもたらす、地域と暮らしを守る自然豊かな森林です。
東日本大震災では、深く根をはった木々が津波の勢いを和らげ、被害を最小限に防いでいます。
関東大震災や阪神大震災では、大火により建物が燃える被害を食い止めたりと、防災林として大きな役割を果たしました。
この「鎮守の杜」をモデルとした森林をできるだけ多くつくることは、災害の多いこの国に生きていく私たちが、後世に伝え残さなくてはならない貴重な知恵です。
この知恵を生かしたのが、大江戸のど真ん中にあります明治神宮の森です。日本の誇りです。
鎮守の杜(wikipedia)
古神道における神奈備(かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで神代・上代(かみしろ)ともいう。
https://blog.goo.ne.jp/okudaidou/e/1ccd9e4948f0cf4d5e63f1805cc7323f 【聖域の森 ~その3 日本人は森の神を殺したか?①~】より
古代ローマ人は「農耕民族」だったとか。
私は世界史はまったく詳しくありませんが、戦争をもって版図を拡大し、地中海全土に勢力を広げたローマの市民の、その多くは実は農民だった、のだそうです。
よく言いますよね、日本人は「農耕民族」で、西洋人は「狩猟民族」だと。
しかし物質文明というのは農耕の普及とともに発展したのであって、むしろ「純粋」な狩猟民族からは、物質文明は発展し難い。これはまさに歴史が証明しているわけです。
それに日本人だって狩猟は行っていたし、まったく肉を食べないなんてことはなかった。
パスタは何からできてるんですか?肉ですか?違うでしょ、小麦でしょ。
小麦を作ることを何と言うのですか?農耕でしょうに。
前々から言ってますけど、今回ははっきり言わせていただきます。
「農耕民族」VS「狩猟民族」みたいな言い方は、大変いい加減なものです。唯々誤解を招くだけの、ある意味とても「罪深い」表現だと言わざるを得ません。
農耕民族が良くて、狩猟民族は野蛮だ的な意味で使われてるわけでしょ?じゃあアイヌは野蛮なんですか?エスキモーは?この方々はやたらと戦争したがるのですか?
むしろ逆です。アイヌは自ら戦争を仕掛けることなどなかった。すべてはシャモ(和人)の側から仕掛けたものです。ロシア人ゴローニンが記録しているように、アイヌは狩猟民族ですが、とても無欲な平和主義者だったのです。大変失礼な話だと思いますよ、私は。
日本人も西洋人も、その文化の基本は農耕にある。しかしあえて違いを挙げるなら、
それは、「酪農及び畜産」でしょう。
酪農や畜産は、家畜を飼育して搾乳し、また食肉を得るわけで、これは動物を支配管理して、人間に都合のいいように育てていくやり方ですね。
対して日本では、酪農も畜産も発展しなかった。明治以降、西洋からそのノウハウを輸入するまで、ほぼまったく行われていませんでした。
農家では牛や馬を飼っている場合も多くありましたが、これは基本、農耕に使役するためであり、乳をとるわけではなく、ましてや食肉にするなど滅多になかった。
日本の農民にとって、牛馬は家族の一員でした。馬産地として有名な岩手県南部地方では、「南部曲がり家」と云われる家で、馬と人間とが一つ屋根の下で暮らしていたのです。
岩手県といえば、かつて蝦夷と呼ばれた人々が住んでいた土地です。古代の記録によれば、蝦夷は農耕を行わない狩猟民で、「野蛮人」だったとか。
その「野蛮人」の地において、このような文化の在り様。これをどう思われますか?
それはともかく、こうした部分に、日本人と西洋人との「自然観」の違いがよく表れている、とは言えると思います。
つまり西洋人は、自然は人間の力で管理、支配できるもの、と捉えていた、という読み方は成り立つでしょうね。
確かに、日本人と西洋人の自然観は大きく違うし、これが文化の違いとなって大きく表れていることは事実です。しかしそれは、「農耕民族」VS「狩猟民族」みたいな、安易、というより、間違った文化観をもとに語られるべきではない!誰が何と言おうと、これだけは、私は強く主張したい。日本人は農耕民族で西洋人は狩猟民族。このような比較論は、極めて安易でいい加減な間違いです!さて、「森の神殺し」の話は次回からにします。今回はここまで。
https://blog.goo.ne.jp/okudaidou/e/ba55003a488f72b4a84ea86c896afec1 【聖域の森 ~その4 日本人は森の神を殺したか?②~】より
古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメッュの物語、「ギルガメッシュ叙事詩」には、英雄ギルガメッシュは森の精霊フンババを殺し、巨大な杉の木を伐り倒す、という件があるそうな。
巨大な杉の木とは、御神木のようなものでしょうか。精霊が守り、神宿る御神木を伐り倒すなどと、なんと不敬で恐ろしいことをしたものか……。
農耕の普及とともに、人々の間には階級差や貧富の差といった、社会内格差が生じ始めます。
権力を得た者はより強い権力を求め、富を得た者はより富むことを欲する。
そうした欲望は戦争の原因ともなり、また物質文明を発展させ、人々はより広い耕作地や文明を支える燃料を得るため、森の木々を伐採し始めます。かつて森の恵みを享受し、森に感謝していた人類は、こうして森を失くしていった。森の神々を、精霊たちを殺していった……。
ギルガメッシュ叙事詩には、このような人類と大自然との対立が、神話的に描かれているとする研究者もおられるようです。
宮崎駿監督の映画『もののけ姫』には、この「ギルガメッシュ叙事詩」から着想を得たのではないかと思われるシーンがありますね。
タタラ場の女主エボシは、森の神シシ神が、巨神ダイダラボッチと化したところを狙って、その首を撃ち落とします。
タタラ製鉄は、鉄鉱石を溶かす熱量を得るために、多量の木炭を必要としました。
木炭を得るためには、森の木々を伐採しなければなりません。それは、森の精霊や神々との対立を生んだ。庶民を富ませ、幸せにするためにはこれしかないと信じ、エボシは森の神を殺すのです。エボシとは、物質的な富や幸せを求め、自然を破壊し続けてきた人類の象徴、ある意味ギルガメッュなんですね。
人類は日本人も含め、こうして自然と対立し、森の神々を殺し、自然を破壊してきた。これが宮崎氏の主張なのでしょう。
しかしこの主張に、公然と反論した方がおりました。宮崎氏と同じ、スタジオジブリの監督、高畑勲氏です。
高畑監督は自身の作品『おもひでぽろぽろ』において、山形県の紅花農家の自然との関わり方を描き、日本人は自然とうまく共生しながら生きてきたのだ、と主張しました。
決して、自然と対立ばかりをしてきたわけではない、と。さて、どちらがより真実に近いのでしょう?答えを解くカギは、日本の山の神信仰、中でも田の神信仰にあるのではないか。
私はそう、夢想するのです。またまた、つづきます。(*Θ*)
https://blog.goo.ne.jp/okudaidou/e/54db5474bb69f74664088eaace3e949a 【聖域の森 ~その5 森林破壊と里山】より
人類が農耕を始めるとともに、自然破壊は始まった……。と、見るのは、果たして大げさでしょうか?農業というものは、自然環境を自分たちに都合の良いように整えていく、もっとはっきりいえば、変えていくシステムだといっていい。
農業が発展していけば、より多くの耕地が必要になる。また物質文明の進展とともに、より多くの建築資材や燃料が必要となってくる。故に、多くの森林が伐採されていくことになる。
森林破壊は平安時代には深刻化していたようです。機内や四国の森林の多くが伐採され、時の政府は乱伐の禁止令を発布しますが、なかなか収まらなかったようです。
森がなくなれば、保水力がなくなりますから、洪水や土砂崩れが起きやすくなる。せっかく開墾した耕地が流されてしまうわけです。自然破壊を進めた結果であり、ある意味当然の報いであるかもしれず人々はここに、大地の神、森の神の祟りを感じたかもしれません。
森林破壊は奥州にも及びました。アテルイの乱の終息後、時の政府は奥州にも耕地を広げるため、蝦夷たちを使役して、土地開発にあたらせます。
その指揮を執るのは中央から派遣された役人たちでした。役人たちは与えられたノルマを早く達成するために、水利や地味の良し悪しに関係なく、山の斜面などにも田畑を拓いていきます。
奥羽山脈の秋田県側には、大規模な森林伐採の結果、山地や丘陵地が裸地化し、結果耕地が荒廃してしまった跡が見つかっているそうです。(岡本公樹著『東北 不屈の歴史をひもとく』講談社)
このように、農業の進展と森林破壊、自然破壊はある意味セットだと言える面もあるわけです。しかしながら、そのまま進んでいったのでは、結局農業ができなくなってしまうわけだし、文明の進展も止まってしまう。
だから、人々は森がこれ以上荒廃せず、必要な分だけの木材の供給が常にあるようなシステムを作り上げていきます。
江戸期には森林の使用は厳しく管理され、それによって日本の森林はかなり回復したようです。農村にあっては、村のすぐそばにある森を管理し、適度な伐採をしまた植林をすることで、森の植生を整え、自分たちに都合の良いように変化させながら、尚且つ森を守るという一石二鳥ともいうべき方法をとっていきます。
里山とは、このような森のことをいうのです。
日本人は、農耕とともに歩んだ歴史の中で、確かに森林を破壊してきた、大自然を破壊してきた。しかしその一方で、森を生かす方策も怠らなかった。
それは、温暖で湿潤な気候故に、植物が比較的育ちやすい環境であったこともあって、絶妙なバランスの上に立って、森を利用し、ある部分は「殺し」つつ、またある部分は「生かし」ながら、うまく利用してきた、といえるでしょう。
縄文の頃、日本列島を覆っていた森林は、その多くが伐採され、森の神々はその姿や意味合いを変容せざるを得なくなっていったことでしょう。では、その森の神々は、一体どこへいったのでしょう?私はそれこそが山の神信仰であり、わけても田の神こそ、かつての縄文の森の神々が変容した姿ではないのかと、夢想しているのです。
またしてもつづきます。( *´艸`)なかなか進みませんねえ(笑)
https://blog.goo.ne.jp/okudaidou/e/daa5a2d0d959582ae8b94f93dc061288/?img=bb2f43e86a22b691778a3c5cdc23cca2 【聖域の森 ~その6 田の神~】より
日本人は森の一部を「殺し」、一部は「生かし」ながら、絶妙なバランスのもとに森とつきあってきました。このバランスが崩れるときは、大概人間側の欲望や慢心によるものであり、崩されたバランスのツケは、災害というかたちで人間側に帰ってきた。人々はこれを、「祟り」と呼んだのでしょう。
さて、農業は自然を管理し、ある程度人間の都合の良いように環境を変化させていくものでもあります。
それの伴う物質文明の発展により、にんげんは益々自然を「管理」「支配」するようになっていきます。このような状況を続けていれば、そのうち人間は、「自然よりも人間の方が上」「人間は自然を支配することができる」と思うようになるでしょう。
事実、西洋では「人間は神から自然を支配する権利を与えられた」との考えは、信仰の域にまで達していたようです。しかし日本では、そうならなかった。
稲作は大量の水を必要とします。その水はどこからくるのか。それは山からです。
冬の間に降り積もった雪が、春には溶けて大量の水となって里に流れてくる。その山よりもたらされた水の恵みをもとに、人々は稲を育てました。
山=森からの恵みがなければ、稲は育たない。稲だけではない、その他の作物もそうだし、そもそも水がなければ、人間も他の動物も生きていくことはできない。
山からの恵み、森からの恵みによって、生かされている。日本人は太古と変わらず、山に、森に、畏敬の念を持ったことでしょう。ところで、日本人は八百万の神ともいわれるように、神羅万象あらゆるところに神がおわすと考えましたから、当然田んぼにも神がおわすと考えました。田の神については、地域によってそのあり方に若干の異同はあるのですが、一般的に田の神とは、冬の間は山におられて、春の雪解けとともに里に下るとされていたようです。
雪解けとともに、山からの恵み、森からの恵みをもって里に下り、田に降臨するわけです。
田の神というのは、つまりは山の神、森の神なんですね。
人々は耕作地を広げ、物質文明を支えるために、多くの森を伐採しました。しかしだからといって、必ずしも森の神をないがしろにしたわけではなかった。
日本人は基本的には、山=森に対する畏敬の念を失うことはなかったのです。
かつて森におられた神は、さらに奥の山へと帰られた。しかし今度は田の神となって再び下りてきて、太古と変わらず人々に恵みを与え続けてきたのです。
人々は田の神=森の神に感謝し、森の神=田の神は、益々人々に恵みを与え続ける。
森の神と人々との関係は、その文化の基本が狩猟採取から農耕に転換されても、基本的に変わることがなかったんですね。なんと麗しい、人と神との関係か。奇跡ですね、これは。
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