鑑真の御胸あからむ冬入日 五島高資

facebook髙橋 眞人さん投稿記事

おはようございます。

【今日の名言】鑑真(唐生まれの奈良時代の僧)

(日本から来た栄叡と普照に戒律を授ける高僧の派遣を要請され)南岳の彗思禅師が亡くなった後、日本の王子に生まれ変わり、仏法を盛んにし、衆生を救ったと聞いたことがある。長屋王という方は、千領の袈裟を作って中国の高僧たちのために送ってくださった。刺繍に「山川は域を異にすれども、風月は天を同じくす。これを仏子に寄せ、共に来縁を結ばん」とあった。してみると、日本は仏法が盛んになるのに縁のある国である。だれか、この遠方から来られた方々のために日本国に向かい、仏法を伝えるものはいないか?

(誰も尻込みして申し出ないのを見て)これ、仏法のためのことなり。どうして、命を惜しむことがあろうか。だれも行かないのであれば、私が行く。

我、もし終に亡ぜんときは、願わくは座して死なん(私の命が終わるときは、座禅を組んだまま死ぬことを望む)。

※5月6日は鑑真の命日(天平宝字7年)です。唐・江南で第一の高僧だった鑑真は日本に招聘され、応諾しましたが、渡海を阻止したい者らの密告や暴風に妨げられ、失明しつつも10年がかりで渡日。76歳で没するまで10年間、天皇を初めとする多くの人々に戒律を授けたほか、唐の進んだ医薬をもたらしました。


facebook水野延子さん投稿記事

  鑑真和上(687年〜763年)

丹生家の主だった方々が僧侶・大師となられて、三尊をお祀りする日本仏教を立ち上げてきた為、神武派にとりましてはそうした事に脅威を感じるようになり、その動きに圧力を掛けるために[鑑真和上]を中国から招いたのでした。

そして、日本仏教は偽りであるとさせて、丹生家の僧侶たちを追放しょうとしました。

[鑑真和上]は、日本に行ってみたいと常々想って御られました。

735年に来朝されたのですが、日本の仏教を知れば知るほど、その素晴らしさに驚き、これこそ本物であるという霊魂(たましい)になられて、ついに朝廷の意に添わなくなってしまい、数年でこのお役を解かれ追放されたのでした。


https://www.touken-world.jp/tips/59180/ 【仏教伝来の歴史/ホームメイト】より

「仏教」と聞くと、現代の人々は葬式や法事といった死にかかわる行事を思い浮かべることでしょう。しかし、仏教が伝来した古墳時代の日本は、海を隔てていた中国や朝鮮半島と比べると、文化的水準が決して高いとは言えませんでした。大和朝廷は交渉の末、朝鮮半島の百済から仏像や経典を手に入れますが、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏が対立。この対立は、子の世代や皇族を巻き込んで数十年にも及びます。仏教伝来についてと蘇我氏と物部氏の対立、その後の仏教興隆について紐解いていきましょう。

インドで誕生した仏教 日本への仏教伝来まで

日本へ仏教が伝来したのは、6世紀半ばの「欽明天皇」(きんめいてんのう)の時代です。日本では「仏陀」、「釈迦」とする場合もある仏教の開祖「ゴータマ・シッダールタ」が約2,500年前にインドで誕生し、中国、朝鮮半島を経て日本へと伝来しました。日本へ伝わったのは、当時の朝鮮半島にあった国・百済(くだら)からです。

日本と百済の関係性

七支刀

なぜ百済が日本へ仏教を伝えることになったのかと言うと、当時の朝鮮半島は百済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)に分かれていた時代で、この三国は頻繁に戦を起こしていたからです。

369年には、高句麗からの激しい侵攻を受けていた百済が、日本への同盟を求めて「七支刀」(しちしとう)を贈ったと伝わります。この七支刀は国宝に指定され、現在は「石上神宮」(いそのかみじんぐう:奈良県天理市)が所蔵。

そのあとも度々、日本は百済からの願いを聞き入れて軍事援助するようになりました。

時は流れ、仏教は欽明天皇の代の頃、百済への軍事援助の見返りとして、百済の「聖明王」(せいめいおう)より仏像や経典が贈られます。当時の仏教は宗教というよりも、大陸で生まれた最新の文化という意味合いが強く、そうした文化を取り入れることが国際的地位を上げることに繋がると考えられていました。

「日本書紀」の「仏教公伝」(ぶっきょうこうでん)の項では、欽明天皇自ら「仏の相貌端厳し」(ほとけのかおきらぎらし:仏の顔のきらきらと美しいこと)と褒め称えています。

仏教伝来と仏教公伝

日本に仏教が渡ってきたことを「仏教伝来」と言いますが、すでに渡来人(とらいじん:中国、朝鮮半島からの移住者)などにより私的な信仰の対象として伝わっていました。そのため今の時代で言う仏教伝来とは、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることを指し、仏教公伝とも言うのです。

伝来した年代について

実は仏教が伝来した年代には、538年説と552年説があります。古代史の分野は、史料や遺跡などが容易に見付からないことから、こうした事態を度々引き起こすのです。伝来についても、どちらが正解かという点で研究者の間では意見が分かれますが、現在は538年説が通説となっています。

538年説

538年説は、8世紀はじめに書かれた「聖徳太子」(厩戸[うまやど]皇子)の伝記「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)が根拠です。上宮聖徳法王帝説によると「欽明天皇の時代、戊午の年10月12日に、百済の王より仏像や経典を賜る」とあります。「戊午」の干支は、欽明天皇の治世以前で最も近い年が538年だったことから、この年代が当てはめられました。

また同時代の書物「元興寺縁起」(がんごうじえんぎ:元興寺[がんごうじ:奈良県奈良市]の由来が書かれた書物)である「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)にも仏教伝来についての記述があり、年代は戊午とあります。これが先述した通り、538年説が現在は有力視されている理由。

この元興寺は、日本最古の寺院「飛鳥寺」(奈良県高市郡明日香村)正式名称「法興寺」(ほうこうじ)が平城京への遷都に伴って移転した寺院です。

552年説

552年説は、日本の公式年代記である日本書紀の記述から挙げられます。内容は「欽明天皇の御代である欽明13年に、百済の聖明王が遣いを送ってきた。その人物が釈迦仏を一体と経論数巻を献上した」というもの。この欽明13年が552年なのです。

また552年とは、平城京に栄えた「南都仏教」(平城京に栄えた宗派)の研究によると、釈迦入滅後1501年目に当たります。

そして経典のひとつ「大集経」(だいじっきょう/だいしゅうきょう)によれば、仏教における500年ごとの区切りの年。この552年説は、不自然なくらい切りの良い年であるため、日本書紀の記述でありながら後世の後付けを疑わせる論拠となっています。

蘇我稲目と物部尾輿による崇仏論争

伝来した仏教ですが、大和朝廷内ですんなりと受け入れられることはありませんでした。それは仏教推進派の「蘇我稲目」(そがのいなめ)と、仏教反対派の「物部尾輿」(もののべのおこし)との派閥ができてしまい、激しく対立したからです。

日本初の宗教対立

蘇我稲目と物部尾輿の対立

日本には古来より、先祖の霊や、山や川などの自然を神として崇める信仰がありました。

多神教であった日本に仏の教えと仏像が持ち込まれたことで、「日本には土地に根付いた神々がいるというのに、異国の神を持ち込むなどけしからん」として、仏教推進派と反対派とで意見が割れます。

それぞれの代表者が、先ほども触れた仏教推進派の蘇我稲目と、仏教反対派の物部尾輿です。ただこの争いは、単なる宗教対立だけではなく、政治的対立としての意味も持っていました。

畿内周辺の有力豪族で、皇族との血縁関のあった蘇我氏は、渡来人とのかかわりが深く、本格的に仏教が伝来する以前から仏教を信仰していたと言います。この渡来人達から大陸の最新技術や文化の情報などを入手しており、欽明天皇は蘇我稲目を通して大陸の情報を得ていました。加えて、蘇我稲目は2人の娘を欽明天皇に嫁がせていることから、欽明天皇は蘇我稲目の意見を粗略に扱うことができなかったのです。

一方の物部氏は地方の有力豪族であり、蘇我氏のように皇族の血縁関係も渡来人との繋がりもありません。物部氏が蘇我氏と並び、天皇との結び付きを深めるには、実務で信頼を勝ち取るしかありませんでした。

こうした事情から代々の物部氏は特定の分野に特化し、天皇に仕えていたのです。事実、物部尾輿も軍事や警備を司っていました。

そこで蘇我稲目が推進する仏教を受け入れられることになれば、ますます蘇我稲目は欽明天皇から重用されるようになります。物部尾輿は反対の意見を見せますが、欽明天皇は仏教を受け入れる決断を下しました。こうして、蘇我稲目と物部尾輿の代による崇仏論争は、蘇我稲目が勝利します。

日本初の廃仏運動

欽明天皇

蘇我稲目が勝利したことで、欽明天皇は百済からもたらされた仏像を蘇我稲目に授け、礼拝するように命じました。

蘇我稲目は自身の邸宅「小墾田の家」(おはりだのいえ)に仏像を安置し、もう一箇所の邸宅「向原の家」(むくはらのいえ)を寺へと改修。

このように自宅を改修した寺院を「捨宅寺院」と言います。

こうして朝廷には、仏教の寺院や思想が広まって行くかのように思われましたが、日本書紀によると、そののち疫病が流行。物部尾輿は、疫病の流行は仏教の信仰をしているせいだと主張し、仏像を廃棄するよう欽明天皇へと訴えました。

これを欽明天皇は認め、日本で作られて間もない仏像や寺院の破壊が行われ、廃仏運動へと繋がります。

蘇我馬子と物部守屋が起こした丁未の乱

570年(欽明31年)に蘇我稲目が亡くなり、翌年には欽明天皇も崩御。物部尾輿が亡くなった年月は不明とされていますが、570年代を境に世代は子へと受け継がれていきます。そして、仏教の興隆を賭けて、その裏で繰り広げられる政治抗争までも受け継がれていきました。

蘇我馬子が罹った病

蘇我稲目の嫡子「蘇我馬子」(そがのうまこ)が父と同じ職位である大臣(オホマヘツキミ)の座に就いた頃、天皇の位は、欽明天皇の子「敏達天皇」(びだつてんのう)が就いていました。蘇我馬子は、584年(敏達13年)に百済から仏像2体を入手し、高句麗の元僧侶「恵便」(えべん)を師とし、2人の尼僧に仏像を祀らせます。

しかし、翌年の585年(敏達14年)に、蘇我馬子は流行の疫病に罹り臥せっていました。蘇我馬子が占者に診てもらうと占者は「蘇我稲目のときに破棄された仏像の祟り」と言ったことから、これを敏達天皇へ奏上。そこで敏達天皇は、仏像を祀っても良いとする詔(みことのり:天皇が出す公的な命令書)を発布するものの、疫病の流行は収まりません。

一方で、物部尾輿の子「物部守屋」(もののべのもりや)は、疫病の流行は蘇我氏が仏教を信仰しているせいだと敏達天皇に奏上します。疫病が終息しないので、敏達天皇は仏教の信仰を止めるよう命令。

これを受け物部守屋は、蘇我馬子の寺院を壊し、仏像や仏殿を焼き、尼僧達まで鞭打ちに処しました。それでも蘇我馬子は、なんとか信仰の許可を得ようと敏達天皇に請うたところ、蘇我馬子のみ信仰の許可が下ります。

皇位継承問題から「丁未の乱」へと発展

蘇我馬子と物部守屋の対立

同年、585年(敏達14年)に敏達天皇が死去。

その葬儀を行う「殯宮」(もがりのみや:遺体を安置する場所)で、お互いに対して、蘇我馬子は「緊張で震えながらの弔事は、鈴を付けたらさぞ面白いだろう」と言い、物部守屋は「小柄な姿で長い刀を差して弔事を読む姿は、まるで矢を射られた雀のようだ」と罵倒しあったと言います。

もともとの因縁もあり、蘇我馬子と物部守屋はお互いへの恨みが募るばかりでした。

敏達天皇のあとは、その子「用明天皇」(ようめいてんのう)が天皇の位に就きましたが、病で崩御。蘇我馬子と物部守屋は皇位継承問題で対立し戦が勃発し、587年(用明2年)の「丁未の乱」(ていびのらん:別名[物部守屋の変]とも)で蘇我氏が勝利しました。当時は、現在の皇室典範のような決まりごとはなく、血筋と臣下の擁立とで天皇に即位できてしまう曖昧な時代。このため、皇位継承問題は常に政治紛争に結び付いていました。

そののち、物部氏は歴史の表舞台から姿を消し、朝廷の政治勢力は蘇我氏一強の様相を呈してきます。この丁未の乱で、蘇我馬子側の勢力に付いていた皇子のひとりが厩戸皇子、のちの聖徳太子です。蘇我馬子は戦に勝利した暁には、飛鳥寺を建立することを誓い、厩戸皇子は「四天王寺」(大阪市天王寺区)の建立を誓っています。

蘇我氏の悲願 仏教の興隆

推古天皇

593年(推古天皇元年)に、日本初の女性天皇である「推古天皇」(すいこてんのう)が誕生。

前の代の「崇峻天皇」(すしゅんてんのう)が亡くなり、その異母姉で敏達天皇の后でもあった「豊御食炊屋姫尊」(とよみけかしきやひめ)が緊急措置として即位しました。

この推古天皇と蘇我馬子、厩戸皇子の三者の共治により国政改革を進めていくことになります。蘇我馬子が飛鳥寺造営を開始したのは、推古天皇が即位した年です。

飛鳥寺は、寺の中央に位置する五重塔に「仏舎利」(釈迦の遺骨・遺灰など)を納めるなどし、596年(推古4年)に完成。606年(推古14年)には現在も残る「飛鳥大仏」も完成しました。

また、仏舎利信仰や釈迦信仰に合わせてこののちに建立される寺の塔は、かつての古墳の代わりとして地下に統率者の遺体を安置し、先祖の霊を祀るようになります。日本は古代から、外国の文化と自国の文化をうまく融合させる術を持っていたのです。

聖徳太子(厩戸皇子)

飛鳥寺と同年に造営開始したのが、四天王寺です。四天王寺は、厩戸皇子が丁未の乱の折、「この戦に勝利したなら、必ず四天王を安置する寺院を建てる」という誓願をしたことから、作られることになりました。

さらに、601年(推古9年)に、推古天皇が飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村)から斑鳩宮(いかるがのみや:奈良県生駒郡斑鳩町)に遷都すると、厩戸皇子は邸宅内に「法隆寺」(ほうりゅうじ:奈良県生駒郡斑鳩町)を造営。

この2寺の他に「広隆寺」(こうりゅうじ:京都市右京区)、「法起寺」(ほうきじ/ほっきじ:奈良県生駒郡斑鳩町)、「中宮寺」(ちゅうぐうじ:奈良県生駒郡斑鳩町)、「橘寺」(たちばなでら:奈良県高市郡明日香村)、「葛木寺」(かつらぎでら/かつらきでら:奈良県高市郡明日香村)を合わせた寺を、厩戸皇子の伝承がある寺として「聖徳太子建立七大寺」と総称します。

仏教が伝来して数十年の時を経ましたが、ようやく仏教は信仰の対象として花開きました。

続いて600年(推古8年)には、20年ぶりに中国・随(ずい)への遣使が行われることになり、600年(推古8年)と607年(推古15年)に遣隋使を派遣。蘇我馬子達は、中国との文化水準の差を知ることとなり、使節からの報告をもとに執政や儀礼の場を整備することとなりました。

そして日本史上有名な「冠位十二階」や「十七条憲法」などが制定されます。こうして蘇我馬子や推古天皇、厩戸皇子の国政改革は、歴史の上では古墳時代から飛鳥時代への幕開けでもあり、仏教興隆にも大きな変化をもたらしたのです。


https://niutsuhime.or.jp/heritage/ 【神道と仏教が融合した文化的景観】より

「紀伊山地の霊場と参詣道」としての世界遺産

丹生都比売神社は、平成十六年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山、熊野、吉野地域とともに世界遺産に登録されました。

これは、弘法大師高野山開山以来の守護神である当社と高野山の関係に、神と仏を大切にする日本人の祈りの源泉があるとされたものです。

日本人にとって、「神と仏が共存する信仰」はあたり前のことですが、ユネスコはまず「日本古来の信仰である神道とインドから東アジアに伝わった仏教がこの地において融合し、現在まで1200年にわたりその関係が続き、それらの文化的景観が残っていること」をあげ、その関係を「ユニーク(他に類がない)」と評価しています。

「神道と仏教の融合」の始まり

1200年前とは、弘法大師空海によって、高野山が開創されたことを指します。弘法大師は唐で習得した真言密教の修験の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求めました。

そして、まず守護神として当社の神である丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と高野御子大神(たかのみこのおおかみ)を祀る社を建てました。これが日本における「神道と仏教の融合」の始まりです。

神と仏が共存する日本人の宗教観の形成

高野山の縁起によると、唐で習得した真言密教の道場となる地を求める弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人が現れ、弘法大師を高野山へ導いたと伝えられています。

この狩人は丹生都比売大神の御子である高野御子大神が化身された姿でした。丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け高野山に根本道場を開いた弘法大師は、丹生都比売大神と高野御子大神に深く感謝し、高野山の守護神(明神)として、山内の壇上伽藍に御社(みやしろ)を建てお祀りしました。

これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成されてゆきました。

中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ明治の神仏分離まで当社は五十六人の神主と僧侶で守られてきました。

現在の境内の静かなたたずまいからは想像が難しいですが、昔の絵図や文献を紐解くと、当社には神職だけでなく、多くの僧侶が住まってにぎやかな様子が描かれております。 今日も大伽藍内「御社」の拝殿(山王院)において、「明神さん」へ読経が捧げられていますし、当社の楼門の下で僧侶が一心に般若心経を唱えている姿を見かけることは少なくありません。

神と仏が融和する祈りの源泉としての当社

真言密教の根本道場として空海が創建した「金剛峯寺」と、丹生都比売大神と高野御子大神が祀られている当社「丹生都比売神社」、金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守社として建立された「丹生官省符神社」、金剛峯寺の建設と運営の便を図るため政所として山下に建立された「慈尊院」からなる一帯が世界遺産に含まれますが、それぞれが高野山参詣の表参道である「高野山町石道」で結ばれています。当社は、「金剛峯寺」と「慈尊院」の中間地点に位置し、神社境内の入口に二つ鳥居があり、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習とされていました。

「明神さん」は学びの守護神ともなりました。高野山で修行する僧侶たちは、修行の節目には必ず当社を訪れます。祈願をこめた護摩札を掛け、これまでの神様の加護を感謝し、さらなる精進を誓って般若心経を唱えて、「南無大明神」と結びます。 このような神と仏が融和する姿の中に、ユネスコが評価した日本の和やかな信仰のありかたを見ることができます。

神の地を志した弘法大師

高野山を根本道場とした弘法大師の意図

「聖地」としてふさわしい神が住まう空間

弘法大師が高野山を選んだ理由として、近年、松田壽夫博士が『丹生の研究』で述べているように「水銀の経済的価値を認めていた弘法大師は、留学先の唐で学んだ採掘と製造の新技術をもたらし、高野山経営の経済的な裏付けを求めた」との説もあります。しかし、文献的に高野山においても丹砂が採取された記録は残っておらず、確信にいたるものではありません。

当社が鎮座する天野の地は古来、神のみが鎮まる場所とされていました。天野と高野を合わせて神々の住む天上の「高天原」を意味する地であったのです。唐へ留学する以前、若き弘法大師は山野をめぐる修行の歳月を送り、その中で高野山にも足を踏み入れたといわれています。根本道場を開く地を求めた弘法大師の脳裏に、それにふさわしい聖地として浮かんだ場所、それが高野山だったのではないでしょうか。

自然と先祖に対し「守り守られる」という日本古来からの信仰

弘法大師は、真言密教という新しい教えを広く庶民の間にも伝えようとしました。それまでの仏教は天皇や貴族などのためのものであり、仏教の経典を読み、実践できるのは教養や財力のある一部の人々のみだったのです。 対して、日本古来の信仰はというと、自然の中に神々の姿を見い出し、自然を敬い大切にすることにより、自然に守られる。また、先祖を大切にすることによって先祖に守られる。このような自然と先祖に対する「守り守られる」という関係を大事にしてきました。

「信仰」と「教え」の融合を試みた弘法大師

山は天から降りてきた神々が鎮まる場所であり、先祖の魂が集まり、天に上っていく場所でもあります。弘法大師はこのような信仰観と密教を融合させ、新しい仏教を成立させたように思えます。そういう山を拠点に「真言密教を庶民まで広める」という一大事業に乗り出すとき、「神様、お守りください」と祈った弘法大師が、誠に日本人らしく思えるのです。

脈々と受け継がれる神と仏との共存関係

弘法大師の姿勢は弟子たちによって守られてきました。 現在も高野山では、丹生明神、高野(狩場)明神に、「明神さん」として壇上伽藍にある御社(みやしろ)に篤く祀られています。御社の拝殿(山王院)では、僧侶たちの読経が毎日欠かさず続けられ、各寺院では「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と弘法大師を称えるとともに、明神さんを称え「南無大明神(なむだいみょうじん)」と唱えられています。

修行に欠かせない「明神さん」

高野山で僧侶になられた方は、100日間の修行「加行(けぎょう)」を終えると、当社に守護を願うお札を納めに来られます。また中堅の方々は「勧学会(かんがくえ)」という法会を勤め、その始めには、「無事勤められますように」との願いをこめて、そして終わりには無事勤められたことを感謝して、当社神前で法楽(読経)を捧げます。

さらに修行を積まれた方々の中から、毎年2名の僧侶が当番として選ばれ、それぞれ寺院内に1年間、「明神さん」をお祀りします。その間、山を下ることは許されず、精進潔斎してその勤めを果たし、さらに山王院において「竪精(りっせい)」という問答講を修めて、高僧の位である「上綱(じょうごう)」と言う地位に就かれます。

これらの行事からは真言密教という尊い教えを学ぶ課程において、「明神さん」が守護神としての役割を果たしていることがうかがえます。

融和のこころ

世界的に「ユニークな」宗教的融和のこころ

「神仏分離令」以来130年ぶりの奉仕

また、高野山上の御社は20年に一度、屋根の桧皮葺(ひわだぶ)きを葺替え改修することになっています。その間、神さまには別の場所に仮住まい願い、竣工後お戻りいただくのですが、その際には遷座祭という祭儀があります。いずれも明治の神仏分離令が出る前は、当社の惣神主が奉仕しておりました。 平成16年高野山からお話があり、およそ130年ぶりに私たちもその遷座祭に奉仕させていただくことになりました。丹生家文書を頼りに、古来の形式により近い形を模索し、当日を迎えました。神道式の祓いに始まり、祝詞奏上(のりとそうじょう)高野山の僧侶の方々の読経、200名からの遷座の行列が壇上伽藍を進みました。何の違和感もなく進んでいく儀式に、当社の神主が奉仕から遠ざかっている間も、僧侶の方々によって神祀りの形が守られていたことが感じられ、深い感銘を覚えました。

宗教的融和こそ共存のカギ

現在、世界中で宗教紛争が起こり、この瞬間にもたくさんの尊い命が失われています。日本人には宗教の違いでこのようなことが起こるのが理解できません。これは、我が国では古くから神と仏が共存し、守るべきものは守り、受け入れるべきものは受け入れてきた日本人の民族の精神によるものです。また、自然との共存が忘れられた今、自然破壊が進み地球温暖化は待ったなしの状況です。今こそ我々が先祖から受け継いだ、世界的には「ユニークな」宗教的融和のこころと、自然を敬い共存する精神が求められています。


https://houjougo.com/1350/ 【=第五章= 3.武闘派神武が東征を開始した~】より

1)神武は東に憧れた

天孫族の瓊瓊杵尊は、北九州勢(邪馬台国)の国内侵攻第三弾として、南九州勢力を支配下に置いた。瓊瓊杵尊だけを天孫族としたのは、後述の神武東征の正統化のためである。

南九州のやせた土地で育った神武は、饒速日の成功話を聞くたびに、東にある、緑あふれる新開の地へ強いあこがれを持っていた。

又、九州は争っている半島に距離的に近く、常に政情が不安定であり、更には縄文期の火山の大爆発による大被害を受けた危険な地であるという遠い記憶が、東征を後押ししたのであろう。

2)吉備で3年間も何をしていたか?

当時滞在した高嶋と吉備勢力(盾築遺跡付近)は海を隔てて対峙していた。

北部九州からの遠征軍勢では、吉備勢力を武力で制圧するのは難しく、何らかの交渉を続けていたのだろう。

最も考えられるのは、鉄の交易権などを交渉材料にして、吉備勢力を抑えた、若しくは味方に引き入れたのではないか。

つまり、奈良盆地での不戦とお互いの勢力を認め合うという講和が成り立っていた。

その後の前方後円墳の成立にも関わる重要な関係が成立した。

3)孔舎衙の戦いで敗退したが、迂回して再チャレンジ

吉備での講和が成った後、現大阪南方面(日下町付近)に侵攻したが敗れた。

この対抗勢力は、生駒山を東に越えたすぐ近くに陣取る地場の長髄彦である。長髄彦は、既に東征していた物部氏勢力の戦い方などを参考にして、鉄製武器も使って強かったのだろう。

しかし、めげない神武は南に迂回して南の紀の川(吉野川)をさかのぼり、宮滝付近で北転し宇陀を通って、奈良盆地南に侵攻した。

侵攻ルートは次項(創作された熊野ルート)に詳述。

4)奈良盆地に進軍開始

奈良盆地攻略は、先ずは、吉野川沿いの各勢力を味方につけてから(7月)、次のような段階を経て進軍して、奈良盆地を制圧していった。

①吉野、宇陀など南部を行ったり来たりしながら、磯城、葛城、磐余の各勢力を制圧し、協力関係築く。8月から10月の間。

②最も手ごわい、北部に陣取る長髄彦勢力と対決する。今度は饒速日(物部)の協力を得て勝利。11月から戦闘開始。

③翌年2月から、山辺の道沿いの抵抗勢力(土蜘蛛)を排除する。この勢力は吉備勢力の北方すぐに位置しており、吉備の直接的ではないにしろ影響下にあったと思われる。

④これら抵抗勢力を葛城に押し込める。

⑤同年3月に橿原宮造営を決意。

  約一年後の、1月1日に即位。(辛酉革命に則り、推古朝から1260年前とした)

※特徴的なのは、三輪山周辺の出雲勢力と纏向周辺の吉備勢力と武力衝突した形跡がない。

①吉備勢力とは先に吉備で対峙して、鉄交易などで協力関係を築いていたと思われるので、奈良盆地侵攻に際して、戦う必要が無くなっていた。

②出雲勢力は、既に国譲りで配下に収めていた。又、その自然信仰的な広がりは広く根付いており、それを利用した占領政策をとることとしていた。

※倭国(やまとこく)

奈良盆地に入り磯城勢力と戦う際に、「倭(やまと)の国の磯城邑」という表現が出てくる。その後、戦後の論功行賞として、椎根津彦に「倭国造(やまとくにみやつこ)、大倭国造」を与えている。倭国造は葛城国造と同列で、倭は一地方の呼び名である。

その後、漢字表現が、「倭」から「大和」になったが、奈良盆地の一つの地方であることに変わりはない。

律令制が敷かれた時期から、この奈良地方全体を、大倭国→大倭→大和と表現するようになった。

更に、現在、奈良盆地をやまと盆地と称したり、神武から始まる政権をヤマト王権、初期ヤマト王権、日本列島をヤマトの国、日本は大和などなど、いろいろな思入れがある表現が溢れて、見る人聞く人を惑わしている。弥生時代と古墳時代などの時代区分も同様である。

地域名と時代名に思入れを入れずに表することは、人を惑わさずに実相を知ってもらう方法である。

5)神武は武闘派、政治力はどうか

神武は戦いには勝利し、橿原の宮を作り、論功行賞を行ったと伝わっているだけで、戦後、奈良盆地をどう支配していったのか伝わっていない。

つまり、実際の政治は先に居た国軍的役割の物部氏と、ずっと付き添ってきた親衛隊的役割の大伴氏(道臣命)に任せていたのではないか。

故に、日本書紀では、橿原の宮でどのような政治を行ったかの記述が出来なかった。

道臣命(後の大伴氏)は築坂邑(現鳥屋町)に宅を与えられたとある。

日本書紀神武巻の最後に、唐突気味に、神武と並んで伊邪那岐、大己貴大命、饒速日が日本(秋津洲)を賛美する一文が載っている。これは、神武が彼らと同等レベル以上の存在であると位置づけたかったのだろう。

古事記では、神武亡き後の相続争いを暗示するような歌と記述で、日本書紀のように国家(秋津洲)を論じていない。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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