https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65273930R21C20A0AA1P00/ 【道鏡、実は「悪人」の事績乏しく 名誉回復願い坐像】より
西大寺に奉納される道鏡禅師坐像(奈良市)
女帝に取り立てられ、皇位さえうかがった奈良時代の僧侶、道鏡(?~772年)。長く悪名が根付いていたが、出身地・大阪府八尾市の有志団体により、木彫の坐像(ざぞう)が作られた。ゆかりの西大寺(奈良市)に奉納される。新たな像は歴史的評価塗り替えのきっかけになるか。
有志が像を奉納
くっきりとした目鼻立ちと、屈強そうな体つき。「道鏡禅師坐像」は像高84センチと等身大だ。威儀を示す如意(にょい)という棒を右手に持ち、正面を見据えている。
「道鏡を知る会」(幾島一恵代表)が発願した。きっかけは、2016~17年の発掘調査で明らかになった巨大な塔の基壇だ。天皇も訪れた由義寺(八尾市)のものとみられ、1辺20メートル。想定を超える規模に、道鏡の威信の一端を重ね、坐像造立に名誉回復の期待を込めた。
制作したのは籔内佐斗司・東京芸大大学院教授。籔内氏は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」も考案した彫刻家だ。
参考イメージにできそうな道鏡の肖像や絵巻物などを探したが「必要以上におとしめられた芝居の敵役のような悪相のものしかなかった」(佐伯俊源・西大寺教学部長)という。
悪名ばかり先行するが、道鏡に野心家らしい臭みはむしろ薄い。「強権的な専制を敷くといった悪人ならではの事績にも乏しければ、大経典を筆写奉納するといった、宗教指導者らしい目立った功績もない。どちらかといえば時代の奔流に踊らされたシンデレラボーイだった」。こうみるのは古代史が専門の瀧浪貞子・京都女子大名誉教授だ。
その理由ともいえるのが道鏡のスピード出世だ。退位していた孝謙上皇の病気を治した功績により、763年に「少僧都(しょうそうづ)」になる。翌年「大臣禅師」、翌々年に「太政大臣禅師」、その次の年には「法王」にまで上り詰める。大臣禅師以降はいずれも当時の制度にない僧位・僧階で、道鏡のために用意された。
境内に残る東塔の跡と本堂(奈良市)
この間、孝謙上皇は譲位先の淳仁天皇を廃して、出家したまま764年に再び即位する。重祚(ちょうそ)後は称徳天皇となり、西大寺創建に着手するなど仏教に重点を置いた政治を進める。理想政治の補佐役に登用されたのが道鏡だった。天皇に準ずる待遇が約束された。
栄華極め失脚
道鏡の前歴は、はっきりしない。葛城山で苦行を重ね、呪験力を身につけたという。その後仏門に入り、法相宗の高僧・義淵に学び、東大寺初代別当・良弁の使いをしたという記録もある。サンスクリット(梵語(ぼんご))を独学で修めるなど、努力家でもあったようだ。
ただ、称徳天皇の寵愛(ちょうあい)を一身に集め、高位高官の廷臣らの拝賀も受けるほどになると、道鏡を見る視線は日に日に厳しくなった。頂点に達したのが、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の神託事件だった。
「道鏡を皇位につかせれば天下太平になるだろう」との託宣がもたらされた。この真偽をたしかめに、和気清麻呂が派遣されたが、清麻呂が持ち帰ったのは「天皇の跡継ぎには必ず皇族を立てよ」という託宣だった。これを受けて道鏡はあえなく失脚。770年に称徳天皇が亡くなると、下野国(栃木県)に配流され、2年後に生涯を終える。
「皇位に臣下がつくことはない」「天皇が即位したら日を置かず皇太子を決める」という大原則は、この事件を起点に根を下ろしていく。「皇位継承を巡って1世紀近く相次いだ内紛や粛清に終止符が打たれ、次の時代を地ならしした。そこに道鏡の意義があるのでは」(瀧浪氏)
「道鏡像を奉納していただくのは、敵も味方も分け隔てなく処遇する仏教の理念『怨親(おんしん)平等』にもかなう。悪評を拭うきっかけになれば」(佐伯氏)。新坐像は孝謙上皇が発願した西大寺の聚宝館で25日から11月15日まで公開される。
(編集委員 岡松卓也)
Facebook小名木善行さん投稿記事
学ぶ会で紹介いただいた今日の特選ねずブロです。
「歴史上、数多(あまた)の英雄豪傑偉人がいる中で、皇居周辺に銅像が建っているのは二人だけです。貴族文官からひとり。武将からひとりです。貴族文官のひとりは和気清麻呂(わけのきよまろ)です。和気清麻呂は戦後、歴史からまったく消されてしまった人物ですが、戦前戦中の日本人なら学歴居住地に関わりなく、誰でも知っていた人物です。ところがいまでは東大を卒業していても和気清麻呂を知らない」
これはたいへんなことです。
和気清麻呂(わけのきよまろ)といえば、道鏡が天皇の地位を狙ったときに、これに抗し、天朝を守り、そのため別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前に改名させられた挙句、大隅国(現在の鹿児島県)に流罪となり、後に赦されてからは、広大な土木工事を行って民の暮らしの安寧を測り、またいまの京都である平安京への遷都を進言し、その造営を図った、我が国の歴史上の大人物です。
そして幕末、ペリーが来航する2年前の嘉永4年には、明治天皇の父にあたる孝明天皇から、神階正一位と「護王大明神」の神号を贈られた、わたしたちの国の文官として、最高の栄誉を持つ人でもあります。
ところが、あれだけ文官政治が大事、武官による政治はよくないなどと主張する戦後左翼や、教育界は、いまではまったく和気清麻呂を学校で教えないし、いわれてみれば、テレビや児童向け図書などにおいても、和気清麻呂を描いた本は、ほとんどまったくといって良いほど、出ていません。
そんなわけで今日は、その和気清麻呂の生涯をたどりながら、日本の目指した国のカタチについて、考えてみたいと思います。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2441.html#more【和気清麻呂】より
和気清麻呂が生まれたのは、備前国藤野郡です。
ここは現在の岡山県和気町で、選挙区でいいますと岡山県第三区。ここを選挙区にしているのが次世代の党の党首の平沼赳夫先生です。
ちなみに、平沼赳夫先生の父親が第35代内閣総理大臣の平沼騏一郎、曽祖父が平沼淑郎で、第三代の早稲田大学総長です。
さて、和気清麻呂の家、つまり和気家は、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の第5皇子である、鐸石別命(ぬてしわけのみこと)です。
垂仁天皇は、河内の高石池や茅渟(ちぬ)池など、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにした天皇で、古代においてはあたりまえであった殉死を禁じたのも垂仁天皇です。
ちなみに和菓子の開祖とされる田道間守(たぢまもり)に命じて、常世国に妙薬の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに行かせたのも、垂仁天皇です。
田道間守は、10年かかって(おそらく)インドから菓子を持ち帰るのですが、そのときには垂仁天皇はすでに崩御されていて、そのことを嘆き悲しんだ田道間守は、御陵で断食をして亡くなったといわれています。つまりそれほどまでに垂仁天皇は民衆から慕われた天皇であったということです。
その第五皇子である鐸石別命の曽孫が弟彦王(おとひこおう)で、王は神功皇后の新羅遠征にも出征した勇敢な王です。
ところが遠征の翌年に、忍熊王(おしくまのおうじ)が反逆する。
そこで神功皇后は、弟彦王にその反乱の鎮圧を命じるのですが、すると弟彦王は、播磨(兵庫県)と吉備(岡山県)の境に関を設けて忍熊王の襲撃を防ぐとともに、反乱を鎮圧してしまいます。
この勲功によって弟彦王は、備前・美作に封じられ、代々この地で郡司として栄えることになります。
さて和気清麻呂は、そんな家系の子として天平5年(733)に、同地で生まれます。
彼には三歳年上の姉、和気広虫(わけのひろむし)がいました。
姉は成人すると、奈良の都にのぼって朝廷の采女(うねめ)となりました。
弟の清麻呂も、これを追いかけるように都にのぼり、武官の舎人(とねり)となりました。
この時代、地方豪族の子弟は、男は舎人、女は采女として宮中に出仕することが名誉とされていたのです。
二人の姉弟は、都で一緒に下宿暮らしをしていました。
互いにたすけあう、仲の良い姉弟であったようです。
姉の広虫姫は、15歳(いまの16歳)で、中宮に勤める葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚しました。
夫の葛木戸主は、たいへんに心優しい人柄で、当時、戦乱や飢饉によって親を亡くした子供がたくさんいたことを悲しみ、子供達を養育して、成人すると彼らに葛木の姓を名乗らせます。
広虫は、そんな夫をよくたすけ、明るく子供達の面倒をみる妻でした。これが現代まで続く里親制度の始まりとされるものですが、西暦でいえば740年頃のことです。
ところが夫の葛木戸主が亡くなってしまう。
その悲しみから広虫姫は、出家して尼になり、法名を「法均」と名乗り、出家前の功績から、進守大夫尼位を授けました。
一方、葛木戸主が亡くなった2年後の天平宝字8年(764)、太政大臣を務めていた藤原仲麻呂が乱をおこします。恵美押勝の乱です。
この乱のことも、また後日書きたいと思うのですが、いってみればいまの日本で大手新興宗教団体の教祖が政権を握り、天皇の地位までも横取しようとした、つまり国家の転覆を図ろうとしたことについて、時の総理が私兵を率いてこれを倒そうとし、逆に国軍を抑えていた教祖側が勝利した、というような事件です。
乱を起こした総理、つまり藤原仲麻呂は首を刎ねられ、さらに、その仲間となった貴族たち375人が逮捕されました。
このとき、逮捕された人たちを全員死罪にすべきという意見が道鏡の側から強くでたのですが、尼となっていた広虫姫が称徳天皇に助命減刑を願い出て、死罪はなしとされています。
そしてさらに乱によってたくさんの子供たちが、親を亡くしたのですが、その孤児たち83人を広虫姫は養育し、夫の葛木の姓を与えています。これが現在の孤児院の始まりです。
さて、その5年後のことです。
神護景雲3年(769)に、道鏡事件がおこりました。
仏教界の大御所である道鏡が、ついに皇位を望むに至ったのです。
道鏡は、河内国弓削郷(大阪府八尾市)出身の僧侶でなのですが、孝謙上皇の看病に成功したことで寵愛され、太政大臣禅師、ついで法王の位を授けられていました。
宿敵である藤原仲麻呂は、すでに殺害しています。
もはや、道鏡の権勢欲を邪魔する者はいない。
道鏡は、この年の5月、天皇のもとに「宇佐八幡の神託」と称して、「道鏡に天皇の位を与えれば、天下は太平になる」と言い出したのです。
この話を持ち出したのは、大宰主神である習宜阿曽麻呂でした。
かりにも宇佐八幡の神託です。
けれどその内容は、臣下の身である道鏡が皇位を窺うという、前代未聞の珍事です。
称徳天皇は事の重大さに思い悩みました。
神託には神託で対抗するしかない。
そこで称徳天皇は、夢枕に八幡大菩薩の使いが現われたとして、その使いが真の神託を伝えるので、法均(広虫姫)を遣わすように告げたとし、法均(広虫姫)に、その使いを命じました。
けれど、勅使に任じられた法均は、このとき病に臥せっていて、長旅に耐えれない。
そこで弟の和気清麻呂に、その勅使の代行をさせるように願い出ました。
このとき和気清麻呂は37歳。
近衛将監で美濃大掾を勤めていました。
この話を聞いた道鏡は、和気清麻呂を呼び、
「自分が天皇になれば、汝に大臣の位を与えよう」と誘惑しました。
清麻呂は、姉の広虫姫と、国の行く末について話し合いました。
そしてその助言を、心中深く受け止めました。
いよいよ神護景雲3年(769)6月末、宇佐八幡の神託の真偽をたしかめるため、和気清麻呂は勅使として都を旅立ちました。
出発に先立ち、称徳天皇は、ひそかに清麻呂に一首の歌を贈っています。
西の海 たつ白波の 上にして
なにすごすらん かりのこの世を
「西の海」というのは、西方浄土を想起させますから、仏教界の海、つまり大御所である道鏡のことです。
その道鏡が立てた波風(白波)を「上にして」、つまり道鏡を天皇に就任させて、「かりのこの世を」現世を、「なにすごすらん」どうしてすごせましょうか、と読んでいます。
称徳天皇のご意思は、この歌に明確です。
どうして臣下であり万世一系の血筋のない道鏡を天皇にしなければならないのか。
それをやってしまったら、Chinaの易姓革命と同じで、結局は日本は、政権をめぐって血で血を洗うウシハク国になってしまうではないか。そんなことは絶対に赦せないと、この歌は明確にメッセージしています。
ちなみに、ではなぜ称徳天皇は、そのように道鏡に対して、あるいは時の貴族たちに対してはっきりと言わないのか、という疑問を持つ人もいるかもしれません。
そこが、実は日本の統治のいちばんたいせつな肝の部分です。
というのは、天皇は政治権力を持たない、行使しないというのが、日本のカタチなのです。
天皇が直接政治に介入し、政治権力を揮うようになれば、それはChinaやKoreaの王朝と同じで最高権力者が民衆を私的に支配する国になってしまいます。
権力者のもとに、民衆が私的に支配されるなら、民衆は人でなく、私物というモノになってしまいます。
これに対し日本の天皇は、政治権力を持ちません。政治権力者よりも上位にある最高権威です。
そしてその最高権威が、民衆を「おおみたから」としているのです。
ということは、政治権力者は、国家の最高権威の「おおみらから」のために働く存在となります。
民衆が、国家における最高のたからであり、政治権力は、その「おおみたから」の幸せのために働く存在となるのです。これが「公(おおやけ)」です。
21世紀の世界を見たとき、世界中に200くらい国がありますけれど、どれだけの国が、公(おおやけ)の自覚をもって国家運営されているでしょうか。
たとえば北朝鮮が公の自覚で運営されているでしょうか。
あるいは名前は出しませんがおとなりの国とか、その自覚を持っているのでしょうか。
天皇という最高権威の存在があるから、日本の政治権力者は公私のけじめがつくのです。
そして民衆は、政治権力者によって私的に支配されずにすむのです。
それが我が国のカタチです。
ところが道鏡は、孝謙天皇に寵愛されたことをよいことに、政治権力を手にいれるや、その国家の最高権威までをも、私物化しようとしたわけです。
権威と権力、その両方を手に入れれば、それは最高権力者です。まさに我が国を私的に支配できるようになる。
日本は、公私の区別のない、私的な支配の国に変わってしまいます。
それがわかるから、称徳天皇は、道鏡の神託をしりぞけたい。
けれど、称徳天皇が直接そのような指示を出したら、つまりそれは天皇の政治への介入であり、天皇が政治権力者として権限を揮うことになります。
つまり、道鏡が狙っている立場に、称徳天皇自身が成り下がってしまうことを意味します。
だからこそ称徳天皇は、その御心を、和歌に託したのです。
上の歌は、いっけんすると、これから大分県にある、つまり奈良の都からみて、西の方角にあって、海を渡った先にある宇佐神宮に向かおうとする和気清麻呂の無事な航海を願っただけの歌にも見えます。
けれど、和歌は、相手の気持ちを「察する」文化です。
詠み手の心を、読み手が察する。
その察する技術を磨くのが和歌の世界です。
さて、宇佐八幡宮は大分県宇佐市に鎮座する武神です。
宇佐八幡社に到着した和気清麻呂は、身を清め心を鎮めて八幡大神に宝物を奉り宣命の文を読もうとしました。
すると禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)は、宣命を訊くことを拒みます。
すでに「道鏡を皇位に即けよ」という神託が下されているというのです。
和気清麻呂は不審を抱きました。
そして改めて与曽女に、「これ国家の大事なり。勅使の前に託宣ありとは信じ難し。願はくは神異を示したまへ」と、直接八幡大神の宣命を訊くことを願い出ます。
このあたり、すごい迫力を感じます。
おそらく和気清麻呂の到着前に、道鏡によって買収が行われていたのでしょう。
あるいは、なんらかの圧力が宇佐八幡にかかっていたのかもしれません。
だから禰宜の与曽女は、和気清麻呂を拒んだのです。
すでに、あらかじめできあがっていたシナリオをひっくり返すというのは、並みの迫力でできることではありません。このあたり、和気清麻呂の武人にも劣らない気迫を感じます。
伝承によれば、重ねて神託を申し出た和気清麻呂の前に、身の長三丈(9メートル)で、満月の如く輝く神々しい八幡大神が姿を表わし、厳かに真の神託が降ろされた、とあります。
そしてその神託は、
「わが国家は開闢より君臣定まれり。
臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。
天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。
無道の人はよろしく早く掃い除くべし」
というものでした。
私は、ここで描写されている「身の長三丈(9メートル)で、満月の如く輝く神々しい八幡大神」というのは、八幡大菩薩がそのお姿をあらわしたというよりも、このときの和気清麻呂の迫力が、まさに「身の長三丈」の神々しさを湛えたものであったのだろうと思っています。
八幡大神の神託は、道鏡の皇位を認めないというものでした。
和気清麻呂は、いそぎ都へ帰ると、すぐに参内しました。
そして群臣が見守るなか、神託のとおりに報告をし、重ねて、
「道鏡を掃い除くべし」
と奏上したのです。
その席には、道鏡も同席しています。
道鏡にしてみれば、事前に宇佐神宮にも、ちゃんと手を打っていたのです。
報告は、道鏡をして「皇位に就けよ」というものであるはずでした。
ところが、和気清麻呂の報告は、その反対だったのです。
このとき道鏡は、「憤怒の形相で烈火のごとく怒った」と記録は伝えています。
和気清麻呂のひとことで、道鏡の全ての野望はおしゃかになったのです。
皇位に就けなかったとしても、道鏡は、この時点で政治の最高権力者です。
激怒した道鏡は、和気清麻呂呼び、名を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名するよう命じます。
そして、名前を汚らしい穢れ人間と改名させただけでは、飽きたらず、和気清麻呂を大隈国(鹿児島県牧園町)へ流刑にしてしまうのです。
さらに姉の法均(広虫姫)も還俗させられて、別部狭虫(わけべのさむし)と改名させた上、備後国(広島県三原市)へと流罪にしてしまいました。
ちなみに、このときに和気清麻呂を大隅国に流刑にしたところにも、道鏡の底知れぬ悪意と底意地の悪さを感じます。
というのは、大隅国は、神武天皇の御生誕の地であり、神武天皇のご両親の陵墓がある、この時代における「聖地」なのです。「聖地」ですから国司もいません。太古の昔のまま、大切にされていた土地だったのです。
その大隅へ清麻呂を飛ばしたということは、「お前が神武天皇にはじまる万世一系の天皇をどこまでも奉じるというのなら、初代天皇の聖地で死ぬまで過ごしておれ!」というメッセージです。
いいかえれば、この時点で道鏡は、わが国における天皇の存在の理由とありがたさを、頭から否定し、自分が「天皇という名の政治的最高権力者」になろうとしていたということがわかります。
つまり天皇の権威としての存在を、道鏡はまるで否定しているのです。まさにウシハク統治者に彼はなろうとしていたことが、この一点をもってしてもうかがい知ることができます。
さて、大隈国に流罪となった和気清麻呂は、旅の途中で道鏡の放った刺客に襲撃を受けています。
ところがこのとき、激しい雷雨となり、さらにどこからともなく勅使が現れて、わずかに死を免れたとあります。
まさに九死に一生を得る旅だったのでしょう。
しかし、罪人として輿(こし)に入れられて、何日もかけて護送されたのです。
大隅(鹿児島県)に到着する前に、通り道となる大分の宇佐八幡に、お礼のためにと和気清麻呂は参拝しようとしたのですが、すでに脚が萎えて歩くことができない。
ようやく宇佐の近くまで来たとき、なんと山から突然三百頭の猪(いのしし)が現われて、清麻呂の乗った輿の前後を守りながら、八幡宮まで十里の道を案内してくれました。
そしていよいよ参詣の当日、不思議なことに、和気清麻呂の萎えていたはずの足は、なんと元通りに治っていたのだそうです。この故事から、猪は清麻呂の守り神とされ、和気清麻呂のゆかりの神社には、狛犬の代わりに「狛いのしし」が安置されています。
一方、備後国に流された姉の広虫姫はどうだったのでしょうか。
彼女は、備後で、きわめて貧しい暮らしをさせられていました。
そして弟のことや、都に残してきた養育している子供たちのことを思い、淋しくつらい日々を過ごしていました。
ところがそんなある日、都から干し柿が届きました。
広虫姫が育てていた子供たちが、義母の身の上を心配し、激励の手紙を添えて、食べ物を送ってくれたのです。
さて、神護景雲4年(770)8月、称徳天皇が53歳で崩御されました。
そして第49代光仁天皇が即位されました。
そして即位した光仁天皇は、道鏡を罷免し、下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷しました。
古来、天皇は政治には関与しません。
そして天皇がいったん親任した政治権力者は、親任した天皇によって罷免されることはありません。
けれど、天皇が崩御し、次の天皇が即位するとき、新たな天皇がその人物を親任するかどうかは、その天皇の裁量によります。
こうして光仁天皇は、道鏡をついに罷免したのです。
そして新たに起こった太政官は、大隅の備後に飛ばされていた和気清麻呂と、姉の広虫姫の流罪を解き、ふたりを都に帰朝させました。
そしてもとの姓名に戻させ、二人の名誉を回復したのです。
光仁天皇の後を継いだのが、第50代桓武天皇です。
桓武天皇は、道鏡のように、信仰を利用して己の私欲を満たそうとする者の政治への関与を防ぐために、あらためて、風水を立てて、都を葛野方面に移設することを計画しました。
それが平安京であり、いまの京都です。
そしてこの計画を提案したのが、実は、和気清麻呂であったといわれています。
和気清麻呂は、桓武天皇のもとで、平安京の造営大夫なり、新都造営に手腕を振るいました。
そしてついに延暦13年(794)に京の都が完成し、この年の10月、遷都が行われました。
都づくりに手腕を発揮した和気清麻呂は、続けて河内と摂津の国境に水利を通じたのをはじめ、京阪神一体の治山治水事業を推進し、民の生活の安定をはかりました。
そして平安遷都の5年後の799年、67歳で永眠しています。
『日本後記』は、和気清麻呂について、
「人と為り高直にして、匪躬の節有り。
故郷を顧念して窮民を憐れみ、忘るることあたわず」と絶賛しています。
また同書は、広虫姫についても、
「人となり貞順にして、節操に欠くること無し
未だ嘗て法均の、他の過ちを語るを聞かず」
と、慈悲深く、人の悪口を決して言わない高潔な人柄をたたえています。
こうして、和気清麻呂の活躍によって皇統は護られました。
そして嘉永4年(1851)、孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて神階正一位と「護王大明神」の神号を贈り、さらに明治天皇は、明治31年(1898)に、薨後1100年を記念して、贈正三位から位階を進めて、贈正一位を和気清麻呂に与えました。
また戦前は、十円紙幣に冒頭の肖像画が印刷され、さらに皇居近くの大手濠緑地に、和気清麻呂の銅像が建てられました。
わたしたちの国の根幹である民を守る、公と私のけじめつけるというシラス国を、個人の欲得によってウシハク国に作り変えようとする人は、さまざまな時代に登場します。
そしてウシハク者は、権力と財力を持っていますから、権力や金力に群がる亡者たちを利用して、さらに一層、自らの権威権勢を高めようとします。
今日ご紹介した藤原仲麻呂も、反乱者として首を刎ねられ、連座した375人も追放処分となりました。
そして皇統を護ろうとした和気清麻呂も、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)というひどい名前を与えられ、暗殺までされそうになり、すでに高齢となっていた姉までも流罪にさせられるというひどい仕打ちを受けました。
同様のことは、幕末においても、吉田松陰、橋本左内、河井継之助、頼三樹三郎、安島帯刀、梅田雲浜などが死罪となり、またそれ以前にも天誅組の中山忠光などが殺害されています。(天誅組大和義挙の変)
ウシハク者は、権力と財力を持ちます。
けれど日本は、シラス国です。
ひとりひとりの民衆こそが、国の宝とされているのが日本の国柄です。
そしてその国柄を護ろうとする者は、いつの時代にあっても、大きな権力に素手で立ち向かう悲哀を味わいます。
「それでも立ち上がる」
和気清麻呂のような、そういう人物が歴史の節目節目に現れることによって、日本は、日本の国柄が守られてきました。
和気清麻呂は、奈良時代末から平安時代初期に生きた、いまから1300年も昔の人です。
そしてその心は、現代日本にも、いまだしっかりと息づいています。
日本を取り戻す。
そのために、日本人のひとりひとりが、その心を取り戻す。それみんなでやる。
そうなれるよう、気づいた人が、ほんのちょっとで良い。できることをする。
それが、わたしたち昭和を生き、平成の世を生かせていただいている日本人の、最後のご奉公なのではないでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=oSlE_aW5lf8
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