https://note.com/t0yama_k/n/n9e89752f7e22 【それは僕らのものではない ―高野ムツオの震災詠について―】より
高野ムツオが『あの時 俳句が生まれる瞬間』(朔出版)を上梓した。『語り継ぐいのちの俳句 3・11以後のまなざし』(朔出版、二〇一八)所収の第三章「震災詠一〇〇句 自句自解」を佐々木隆二の写真とともに再構成し、加筆修正したものである。収録された一〇〇句はいずれも『萬の翅』(角川学芸出版、二〇一三)『片翅』(邑書林、二〇一六)の収録句だ。
『あの時』を読み進めていくと、高野の震災詠とははたしてどこまで個人のいとなみとして行なわれたものであったのか、次第に疑問に思われてくる。
靴を鳴らして魂帰れ春の道
この句について高野は「ベランダから毎年見える微笑ましい光景」としての「園児たちの春の散歩」であるとし、「津波にさらわれた子供たちも、きっと、その列に加わっているに違いない」と記す。制作されたのは震災の翌年。すでに一〇年が経過し、当時この句に詠まれた生者としての園児たちは一〇代の若者になっていることだろう。一方で、「津波にさらわれた子供たち」は―。
自解をふまえるなら、この句が傷ましいのは、この句を読み返すたびに、「津波にさらわれた子供たち」の「魂」が詠まれた時点やこれを過去に自分が読んだ時点から物理的な時間が経過してしまっているのをいつも感じるからだろう。そして、死者と生者とに突然分断されてしまったということの取り返しのつかなさに、いつでも読み手を立ち戻らせるからだろう。この取り返しのつかなさは、かけがえのない対象を喪失したという悲哀にのみとどまるものではない。その悲哀はともすれば、言葉にできないほどの虚しさへと転じていく。
いわばこの句は、いつまでも明けることのない「喪」の時間へと読み手を引き込んでしまうのである。このような高野の仕事は、「津波にさらわれた子供たち」を我がこととしてとらえるようなまなざしから生まれたものではないだろうか。この句に限らず、『あの時』には高野個人を超えた主語によって詠まれたかのような句が散見される。
クリスマスプレゼントだと遺骨抱く
十二月二十五日付の新聞に、津波で行方不明だった少女の遺骨の欠片が父親のもとに戻ったという記事を見つけた。(略)父親は避難先の長野県白馬村から六年近く捜索に通い続けていた。喜びながらも「すべて見つけるまで捜し続ける」と語っている。遺骨を抱き、「娘からのクリスマスプレゼントを受け取った気がする」と呟いた。
この自解に従うなら、この句は我が子の遺骨を抱いている父親を詠んだ句ということになる。しかし、この句自体はあたかも自分が遺骨を抱いているようにも読める。こうした高野の詠みかたは、ともすれば「娘からのクリスマスプレゼントを受け取った気がする」という父親の言葉の簒奪にもなりかねず、その意味ではきわめて危ういものだ。
しかしここにはむしろ、誰のために俳句を詠むのかという作家としての意志がうかがえる。父親の言葉を簒奪する危うさを押してでもなお高野がこのように詠むのは、高野にとってこうした言葉を拾いあげること、耳を澄ませることこそが、何より切実な問題であるからではないか。
吹雪くねとポストの底の葉書たち
高野は、この句は「正月過ぎの福島駅前のポスト」の底を想像したものだと記す。「葉書には、避難先の親戚、知人宛に混じって、この世にはない人の名や住所がしたためられているものもあったかもしれない」ともいう。届くことのかなわない無数の声に高野は耳を澄ませる。
逆にいえば、僕らのためになんか詠まないということ。今回僕が高野の震災詠を読み返して気づかされたのはそうした高野の意志であった。
そういえば僕は以前、次のように書いたことがあった。
たとえば僕は、『萬の翅』を読んでいると、ふいに恐ろしいような気分になる。それはこの句集がとても見事に僕たちの「期待」に応えてくれているように見えるからだ。すなわち、この句集はかつて東北にあって「食へざる詩」を書き続けた「佐藤鬼房」の志を継ぐ者が「被災」し、それでもなお東北で俳句を書き続けているというような、とても美しい「物語」を僕たちに与えてくれているものであるかのように思われる。(「僕たちは「高野ムツオ」で感動したい」https://sengohaiku.blogspot.com/2014/05/jihyo.html)
高野の震災詠を初めて目にしたあのとき、僕らはそれを悲哀に満ちた「棄民」の美しい物語として消費してはいなかったか。安易に涙し安易に拍手を送ってはいなかったか。しかしそれから数年を経て、当時の高野の震災詠からいま改めて感じるのは、高野ははじめからそんな僕らのためになんか詠んでいなかったし、その俳句は今なお、決して僕らの慰みものになんかならないということであった。
車にも仰臥という死春の月
たとえば高野の震災詠としてよく知られるこの句に、僕はずっと違和感があった。この句の持つ構図の見事さが、これが震災詠だとすれば妙に悪趣味ではないかと感じられたからである。そしてこれまで僕は、それは高野の側に問題があるのだとばかり考えていた。実をいえば、僕がこの句を見るたびに思い出していたのは、高山れおながかつて眞鍋呉夫の句について述べた一文だったのである。
〈月の前肢をそろへて雁わたる〉は、三島由紀夫が俵屋宗達の魅力を評して、装飾性と写実性とは楯の両面であると云々した言葉を連想させる秀逸。実際この句に描き出されている情景は現実の正確な描写と言ってもよいのに、読者にはむしろ装飾性の強い絵画を見せられたような感触が残る。その理由のひとつはもちろん、月と雁の組み合わせが、文学と美術を問わず中国の古典文化にまでさかのぼる典型的なクリシェを構成しているため。もうひとつは、「月の前」「肢をそろへて」という限定が、現実の視覚には有り得ないような明示性を喚起するためであろう。(「雪女と月光 眞鍋呉夫句集『月魄』を読む」http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/03/blog-post_29.html)
「この句に描き出されている情景は現実の正確な描写と言ってもよいのに、読者にはむしろ装飾性の強い絵画を見せられたような感触が残る」という指摘は、〈車にも〉に対してもあてはまるものではあるまいか―。僕は、震災詠でありながらこのような典型的な美をも招き寄せるこの句に気味の悪さを感じていた。
しかし考えてみれば、これは何より読み手である僕に問題があったように思う。そして、これは決して僕だけに特有の問題ではないとも思う。たとえば〈車にも〉を読んだとき、僕らはここに詠みこまれている春の月をどのような月として想起するだろうか。二〇一一年三月一一日に実際に出た月は三日月だったらしい。もっとも、高野の自解によればこの句は三月一一日の夜ではなく数日後に見た「大きな春の月」だというから、もう少し欠けの少ない月だったはずである。しかしいずれにせよ、僕らがこの句からイメージするのはそうした月ではなく季語としての「春の月」ではないだろうか。それは、たとえば「秋の月はさやけきを賞で、春の月は朧なるを賞づ」という美意識とともにある、あの「春の月」である。
この「春の月」という言葉の地層を探れば、僕らはさらに、在原業平の〈月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして〉をはじめとする、「春の月」とそれを見上げてもの思いに耽る歌だとか、西行の〈願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃〉にも行き当たるだろう。「春の月」とはそのような僕らの記憶とともにある言葉である。
だが、僕らの記憶とはいったい誰の記憶なのか。
始めより我らは棄民青やませ
高野はこの句の自解で「千年以上前から、東北は中央権力から見捨てられている」と記している。「我ら」とは、そのように見捨てられた者としての多分にうらみつらみをも含み込んだ自負や矜持に対して自ら与えた名であろう。それはまた、「春の月」の記憶が形づくられていくまさにそのとき、その記憶を共有する者たちから「見捨てられ」た「我ら」の謂でもあろう。
思うに、〈車にも〉は、「我ら」ではありえない僕らが、このような歪みや分断を気にせずに読んだときにこそ、いっそう美しくなる性質を持っている句である。この句の「春の月」はあの日に実際に東北に出ていた月であってはいけない。「朧なる」月でければならない。もっといえば、東北があの日実際にどうだったかなど僕らにとって大きな問題ではない。そして、この浅ましい読み筋を受け入れることでこそ、僕らはこの句にいっそう凄絶な美しさを感受することができるのである。
考えてみれば、僕らはずっとそのようにして「我ら」なる者たちを「見捨て」てきたのであった。とすれば、この浅ましいふるまいは一朝一夕に身につけたものではない。
もっとも、高野に全く問題がないわけではない。見ようによっては、〈車にも〉の句における「春の月」の美しさを担保するために、高野は「中央権力」の「春の月」の記憶にすり寄っているようにも見えるからだ。実際、「我ら」を「見捨て」てきた者たちと迂闊にも融けあってしまうような、そうした自らの書き手としての迂闊さを知ってか知らずか、『あの時』には次のような記述もある。
梅一輪一輪ずつの放射能
一年前と同じく、近隣のあちこちで梅がほころび始めた。大きな被災があった塩竃の寒風沢島で毎年見た梅の花が思い出された。福島の、避難せざるを得なかった町や村でも梅が咲いているだろうと、ふと思った。こんな時に嵐雪の「梅一輪一輪ほどの暖かさ」が頭をかすめる安直な俳人根性に、我ながら呆れてもいた。
(2021年11月記)
https://note.com/muratatu/n/nc5721c452374 【高野ムツオの震災詠総括 ―『萬の翅』・『語り継ぐいのちの俳句 3.11以後のまなざし』・『片翅』】より
今年(2021年)は東日本大震災が発生してから十年目を迎える。高野ムツオ著の『語り継ぐいのちの俳句 3・11以後のまなざし』には、被災体験をした代表的な俳人としての手ごたえを感じる。本書と他の二つの句集に沿って、震災と俳句についての高野ムツオの総括的視座を紹介する。
高野ムツオは東日本大震災直後、次の三つのことを考えていたと述べている。
※
〇 阪神淡路大震災後、阪神地区の俳人たちは心に残る俳句を作っていた。「やはり、その時に表現した言葉の強さというものが感じられました。ですから、この大震災では、まず自分も俳句を作ろうと考えました」
〇 「もう一つは、何のために俳句を作るのか、ということです。以前から、生きていく中で俳句とはいったいどんな力になるのだろうという思いがありました。つまり俳句は、誰かに何かを伝えるためではなく、自分自身が表現することで、その言葉から自分が力を得ることができる、それが俳句ではないかという思いです」
〇 「瞬間を切り取るのが俳句、という信念です。(略)実は数日の間に、起こった出来事と作者の間には少しずつ目に見えない乖離ができ始めるんです。同じことを表現するにしても、その瞬間に表現するのと、十日過ぎ、一か月過ぎ、一年過ぎて表現するのとでは、現れ方がはっきりと異なります。時間を遡って同じように表現することはできないのです。だから瞬間をその時に表現しなければならない」
※
震災体験によって初めてそんなことを考えた、という意味ではなく、自分の俳句観を改めて噛みしめ直したということだろう。
そして言わば「先例」としての阪神淡路大震災での俳人たちの作品例として、次のような三句を挙げて、それをどのように受け止めたかが語られている。
倒・裂・破・崩・礫の街寒雀 友岡子郷
高野はこの句の「寒雀」にひたすら生きている人間の姿を見出している。
寒暁神の一撃もて明くる 和田悟朗
自然大災害が起きるとよく「天罰論」が囁かれる傾向があるが、この句はそんな皮相なものではなく、「大自然の摂理そのものが一撃となって現れた」「ただ、大自然の大きな力のもとに生きてゆくのが人間本来のあり方だ」それが「一撃」という表現に籠められていると観賞している。
枯草の大孤独居士此処に居る 永田耕衣
「居士」と自分を呼んで死者に見立てた諧謔味で、逆に際立つ存在感に打たれたと評している。耕衣の家は震災で全壊し、トイレに閉じ込められて九死に一生を得たという。手探りで音の出るものを探り当てて、それを叩いて助けを求めて助かったのだ。耕衣は死を視てきたのである。
それから、自分の俳句に深い影響を与えた句として、次の三つを挙げて、その理由も述べている。
水脈の果炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太
トラック島で亡くなった戦友を埋葬して引き揚げた記憶を詠んだ句で、その表現の基調は「悲しみ」にあるのだが、「置きて去る」にはそれを越えて生きてゆこうとする意志が籠められている、と高野は読む。そしてこう述べる。
「俳句というのは、自分がもともと持っていた世界や体験した事実をただ言葉でなぞって表現することではありません」「作者が自分の気持ちを言葉で構築することによって、初めて自分の心として立ち上がる。そして、それが自分の支えになるのです」と。ここに、兜太俳句に薫陶を受けた「造形俳句論」的俳句観がある。
暗闇の目玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男
この句の「闇」は六林男の戦争体験の現実的な「闇」と、戦後も続くだろう世相と心の「闇」が表現されている。「その暗闇を自分の生を背負いながら泳ぎきってゆこう、という意志」を読み取っている。
縄とびの寒暮いたみし馬車通る 佐藤鬼房
兜太以後の直接の師である鬼房の句にも、「自分の生きる力を確かめている」「確かめることによって、明日の心の支えとしている」と評している。
瞬間を切り取る表現で立ち上がるものを、自分の生きる心の支えとするという、高野の基本的な俳句観の一端が、以上の六句の評文からも覗える。
以上の「前提」的な随想を経て、「この大震災をどう詠むか」と題して、これまでの自作の俳句の推移を論考している。
四肢へ地震(ない)ただ轟轟と轟轟と
有季俳句的に「春の地震(ない)」と表現でき」ずに、実感的表現になったと振り返っている。仙台駅の地下街の店の中で遭遇した激震体験を詠んだものだ。
天地は一つたらんと大地震
電車が途絶え、仙台から多賀城の自宅に徒歩で向かう中で着想したもので、この俳句の形になったのは、それから一週間後だったという。
古事記の天地開闢のイメージだが、「天地がもともとの混沌である世界に戻ろうとして大地震が起きた」というやや理に偏った安易な発想だと自己批判しているが、大震災のようなことに直面すると、私たちの精神の根幹のところにある、そんな大自然への敬虔な畏怖心、古代的な感性に、私たちは一息に引き戻されてしまう。それを表現している。
だが高野ムツオはここで自己批判をして、その方向に向かってしまいがちなる自己を戒め、実感的表現の現場へと軌道修正しているのだ。
地震の闇百足となりて歩むべし
膨れ這い捲れ攫えり大津波
「百足」は夏の季語だが、このとき「季語」は念頭になく、「百足そのものの存在が私には大事」だったと回想している。確かに「膨れ這い」の句は動詞を連ねてその実体的動態表現をしようとしている意志を感じる俳句である。
無季でしか詠めなかった高野ムツオの震災詠に、この後、季語が復活してゆく。大震災という体験が内面化されてゆく過程で、季語が復活したということは、表現論的にとても示唆に富む。身の危険を感じる大震災体験から、津波被害の膨大な文明の破壊と、夥しい死者、大喪失に打ちひしがれる被災者の姿に直面することで、表現に向かう姿勢が文学的になっていったということを意味する。
泥かぶるたびに角組み光る蘆
車にも仰臥という死春の月
瓦礫みな人間のもの
白梅の闇に包まれ死者の闇
鬼哭とは人が泣くこと夜の梅
一目(ひとめ)千本桜を遠見死者とあり
桜とは声上げる花津波以後
みちのくの今年の桜すべて供花
みちのくはもとより泥土桜満つ
非被災体験者たちの「励まし」俳句や、伝統的な無常観や、それでも復活する自然の力強さに託した再生への希望などの類句とは一線を画す水準であり、有季定型俳句によって、被災当事者である高野ムツオがこのような俳句を詠んでみせてくれたことは、その後の俳句界の表現水準の低下を防ぐ防波堤になったと評しても過言ではないはずだ。
原発事故と経済効率優先の戦後昭和・平成の社会のあり様に、立ち止まって深く考え直すべき契機ともなった東日本大震災という体験から、俳句に携わる者各自が、どんな文学的主題を掴み出して表現できるのか、ということが問われていたのである。
文学とは、誰かのために、何かの目的があって創作されるような、合〈目的〉的な流通消費材ではない。
生きて在る人間の内側から込み上げてくる「自己表出」に向かう情熱に従って、それを造形化しようとする意志によって為された行為の結果、生み出されるものであり、それ以外、一切の意味も有用性もない。その意味で、高野ムツオは、震災後、「無名」の人たちによって読まれた厖大な俳句作品に、「大多数の、いわば俳句をささやかな心のよりどころとして親しんできた、一般の愛好家たちの」純粋な文学的行為としての力を見出している。
「河北俳壇」(「河北新報」)に、震災後二か月近くが過ぎた五月一日に投稿掲載された句を以下に転載する。
震災後また朝が来て囀れる 佐々木智子
泣きはらす子にひかりあれ卒業歌 上郡 長彦
避難所の毛布に眠る赤子かな 篠川 祐男
純粋な内面から発せられる自己表出欲求の表れとして俳句が詠まれ、それが作者の心のよりどころとなっているということを、高野は指摘したいのだろう。「大衆俳句」と看做されている句の中に、俳句表現の文学的原点の在処を指し示しているのだ。
避難先六年二組地震の春 近藤 隆
被災地の泥を銜えて初燕 丸山千代子
若葉燃ゆ泣ぎながらでも生ぎっぺし 工藤 幸子
激震に耐へてゐたりし墓洗ふ 綱川 敏子
もうわが田無けれど稔る田に安堵 島田啓三郎
小春日の図書館に居り仮設の子 佐久間律子
次は「小熊座」の「東日本大震災復興支援俳句コンクール」の応募作。
泥の遺影泥の卒業証書かな 曽根新五郎
春の海ただ一揺れで死者の海 泉 天鼓
草笛よ卒業式は意味の中 高橋きよ子
揺るぎなく暑し東北地も海も 瀧澤 宏司
旱星瓦礫の中のランドセル 宮川 夏
生き残りたる火蛾として地べた這ふ 齋藤 俊次
殺処分決まりし牛に緑雨かな 藤森 秀子
瓦礫じゃない私の家です立夏です 松田 正德
夏雲や生き残るとは生きること 佐々木達也
さわ先生カニに変身あいに来た 瀬戸 洋
最後の句について高野ムツオはこう述べる。
「『変身』には、もう、この世にいない人への思慕とよみがえりの願望とが、まさにたどたどしく表現されなければ伝わることのない世界そのものとして書き留められている。本人は、漢字はおろか、ひらがなもこころもとない年齢だから、これは大人の書き写し。俳句というより単なる呟きと言ったほうが適切かもしれない。」
園児の呟きなのだ。そして高野ムツオはこう総括する。
※
こうした俳句に出会うたびに、俳句形式の無名の力というものに私は突き当たる。
練磨洗練された言葉の姿や深遠高雅な思想とは遠いけれども、その場その時の人間の肉声が生々しくかつ率直に、それぞれの在りよう以外では在り得ないものとして聞こえてくるのである。
それは、もしかしたら、作者の表現力以上に、東日本大震災という未曾有の現実体験がもたらした言葉の力であるかもしれない。
あるいは、読み手としても思いが過剰に反応して、かろうじて成立している世界かもしれない。
いや、そうであってもいいと思う。おそらく俳句はもともと、そういう芸文なのだ。そして、それゆえに生まれる無名のエネルギーにこそ俳句の原点がある。
俳句はかつて俳諧や誹諧と呼ばれた当初から、肩書も財もない庶民の詩であった。それは、和歌が貴族や武士が自らの名や存在を残し、広く伝えようとして作られてきたことと対峙する。俳号と呼ばれる名は、いわば仮の名。俳人はもともと自分の名などにこだわっていないのだ。俳号はむしろ、社会的存在としての自分を拒絶する意思表示とも言えるもの。それも意中の何人かの心にしっかり響くことを願う、つつましい自足そのものの世界である。その無名の力を改めて確認できた年と言ってもいいだろう。
※
俳句の原点を見据えた、俳句というものの本質の確認を、かの震災体験が自分に齎したものだったと高野ムツオは総括する。
彼は自分以外の俳人たちの「震災詠」を取り上げ、現場性を持つ重みと真実性、独自の視点の発見的造形の点で共感したと評している。
牛虻よ牛の泪を知つてゐるか 永瀬十悟
原発事故によって行き場を失いたくさんの養牛たちが死ぬことになった情況を詠んでいる句だが、普通の牧場の景としても読める句である。だが「ふくしま」五十句で角川俳句賞を受賞した、福島県の須賀川在住の俳人の句である。
どうしても原発事故禍に遭った牛たちのことに思いがいってしまう句だ。特定の事象についての批判、抗議はスローガンになってしまう。この句は「牛虻よ」の上五が「人間よ」と読める句であり、「生きている人間に対する痛烈な批判であるという、俳句の一つの在り方を示している」と、高野ムツオは評価している。
死んでなお人に影ある薄暑なり 渡辺誠一郎
当時、塩竈市役所に勤務していた渡辺誠一郎は、多くの友人の被災の現場と親しい人達の死を体験した俳人である。
島嶼では八メートル強、市街地は四メール強の津波で壊滅状態になった。
高台にある自宅の被災は免れたが、被災後の激務で体調を悪くした。被災死の遺体の様を、慟哭調を排した静かな調べで、これほど陰影深く詠み得た俳人は他にはいないだろう。次はその渡辺誠一郎の言葉である。
「今回の災禍の現実、そして、私の心のあり様を俳句にしようと思う。しかし、なかなか言葉にならないのが本当のところだ。身体以上に精神に亀裂が走り、今なお浮遊している感覚なのだ」
渡辺誠一郎(「小熊座」編集長)は、後に掲句を収めた句集『地祇』で、心の奥から言葉が立ち上がってくるのをじっくりと待ち、皮相なる言葉を一つひとつ排除するという作業をしたと述懐している。
『語り継ぐいのちの俳句』で高野ムツオは、被災地以外に住む俳人の「震災詠」も取り上げて評している。
サンダルをさがすたましひ名取川 高柳克弘
名取川のちょうど河口で詠んだ句だという。魂がサンダルを探している。亡くなった人の魂が恋人のサンダルを探しているとも読める句だと評して、次のように述べている。
「ご存じと思いますが、『名取川』は歌枕です。『みちのくにありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり』(「古今和歌集」)という和歌がありますが、その和歌も踏まえている歌枕」が、無季俳句のこの句の「季語の代わりの働きをしている」と。こんな震災詠の方法もあるのだ。
海溝に雪よ弔歌のごと積もれ 寺井谷子
寺井谷子は北九州市在住。「『弔歌のごと積もれ』は感情が溢れ出たようなとても激しい表現です。被災地に赴くことのできない歯がゆさが生んだものでしょう。昭和二十年八月九日の原爆投下目標地は当初、福岡県の小倉市(現北九州市)だったそうです。天候のせいで長崎に変更になりましたが、もし小倉であったなら、当時赤ん坊だった寺井さんはその犠牲になっていたかもしれません。そんな切実な思いがこの句から感じられます」と評している。
鮑蜑(あわびあま)津波を語りつと消ゆる 西山 睦
西山睦は多賀城市生まれだが、学校入学と同時に多賀城を離れている。普段は意識しないふるさとを、ことに心にするようになった大きなきっかけが大震災だったという。この句は震災から一年後南三陸町の志津川湾を訪れた時のものだという。「町一つ消えてしまった瓦礫の浜を目にした時の幻影でしょうか。津波にさらわれた鮑捕りの蜑が一人眼前に現れ、津波の恐ろしさや苦しみ、悲しみを語り、そして、消え去ったのです。夢幻能の世界でもあるかのようです。実際には南三陸では俳句仲間の一人が津波の犠牲になっています」と評している。
短夜の赤子よもつともつと泣け 宇多喜代子
高野ムツオのこの句の評は以下の通り。
「『もつともつと泣け』というフレーズは、たくさん亡くなった方がいて、亡くなった赤ん坊がいて、そのことが作者の根底にしっかりと捉えられているから生まれたフレーズだと思います。命は貴い、だからもっともっと、いくらでも泣いていいよ、という呼びかけですね」「この句は、東日本大震災に限定して鑑賞する必要はないと思います。今でも戦争はあちこちで起きている、そういう戦地での俳句としても読めます。以前に宇多さんは《八川の赤子はいまも宙を蹴る》とも詠んでいます。こちらは少女時代に山口県の徳山で体験した空襲と、その時、焼死した赤ん坊の姿から生まれた句です。悲惨な体験がより命の大切さを担った言葉を生む。言葉というものの不思議さ、深さを感じさせます。言葉は、その人の生きてきた時空を丸ごと背負って現れるということです」
どれも、彼独自の「現場性を持つ重みと真実性、独自の視点の発見的造形」を評価する視座から評されている。
第四章の「東日本大震災句集『わたしの一句』が示すもの」に書かれた高野ムツオの震災詠観を紹介しておこう。
炊き出しや余震にゆるる蜆汁 熊沢れい子
高野ムツオの季語観を知る上で大切な、この句についての評は次の通りである。
※
こういう俳句を読むと、私は次の二つのことが思い浮かびます。一つは、小澤實さんが対談の時に話した、「原発事故は、季語の意味を変えた」、大きな変化を与えたという言葉です。例えば「新米」という季語は、それまでは米が収穫された喜びのみを表す季語でした。でも放射能によって米に不安感が備わったんですね。
もう一つは、佐藤通雅さんという歌人が、和合亮一さんと私の三人の鼎談で述べた「季語が凌辱された」ということ。こちらのほうがショックな言い方ですね。美しくて豊かな季語の世界が、放射能によって凌辱されたのだと。私ももっともだなと思います。でも、それでは季語は本来の力を失ったか。いや、そんなことではない。むしろ季語の世界に新たな面が加わったと受け取るべきなのです。自然そのものも恵みを与えるだけではありません。悲惨な災害ももたらします。放射能は人間がもたらした存在に関わる脅威ですが、それも季語は表現し得ると思いました。
この句は地震の句ですが、これまでの季語「蜆汁」とは違った趣を表現しています。蜆汁は、美味しい春を告げる、そういう食べ物ですね。でもここでは、余震に椀の中で揺れる蜆汁。不安とともに喜びを味わっている、そういう句になっています。季語にもう一つの面が加わって、しかも俳句に生きていると思います。
※
随筆的な抑制のきいた穏やかな文体で書かれているが、ここには有季定型句の重要な表現論が語られている。
ただ、季語を考える上でそのことを論じるのなら、高野ムツオが触れていない前提問題として、次の根源的な問い直しから始めなければならないだろう。
戦禍による国土荒廃、戦後の経済成長期の多様な公害・自然破壊、また極度の都市部への人口集中。
電力を始めとする膨大なエネルギーなどの大量生産・大量消費という経済優先社会。都市部への極端な人口集中と人工的な社会環境。
その中で、地方の一部を除いて自然な季節感のある暮らしは失われ、大震災以前からすでに季語は「凌辱」されている状態だったではないか、という問いである。
尖鋭的な表現意識を持つ作家たちの間では、現実生活や社会ではすでに死滅しかけている季語を死守する俳句の在り方に疑問が呈されていた。
季語が本来的な季節感という体感的、実感的な自然由来のものであることから、限りなく慣習的な記号的措辞にすぎなくなっている伝統俳句的表現を、戦後の若い世代の俳人たちは忌み嫌う傾向があったことも事実だ。
私たちは今なんの捻れの感覚もなく、季語を使って俳句を詠めた時代から、あまりにも遠い地点に立って暮らしている。
それでも無季俳句や自由律ではなく、有季定型で俳句を詠むことを志した現代俳句派は、社会の未来が反自然的な傾向を加速させてゆくことが予想されているからこそ、季語の本来的な機能の回復に意義を感じたという、曲折を経て今があるのではないだろうか。
そのような認識で俳句に向かい合う者にとって、直接的身体性と実存的認識から俳句を立ち上げようとするための手懸りとしての位置づけへと、季語に対する認識を更新し続けてきたのではなかったか。
そんな現代だからこそ、俳句の季語という自然知の集積を、花鳥諷詠だけではない、今自分が生きて在ることの、実存な認識から立ち上げるための方法論の中に、俳句を置き直す努力をしてきたのではなかったか。
そのことに自覚的であること、それが現代を生きる俳人としての最低の条件ではなかったか。
そういう意味で今、敢えて季語を使って俳句を詠むことは、昔日のごとき日常的な営為ではなく、表現という「非日常」という場を、自ら創り出して詠む「意思」を持ってする営為になっているはずである。
伝統俳句による形式的な季語の措辞化という捻れからの、季語の本来的な機能の蘇生活動で、季語の見直しを行った先駆的俳人に宇多喜代子がいる。
震災詠において季語に「もう一つの面が加わって」、しかも俳句に生きていることを、発見的に語る高野ムツオの言葉は、今のべた俳人としての認識に支えられているものと解してこそ、その真意が理解できるのではないか。
高野ムツオはこの稿でそこまで踏み込んで言及してはいないが、それを起点として、その問題について以上のように考えたことに添って、次のように総括しておきたい。
被災体験や、大切な人を亡くした壮絶な喪失体験を、有季定型表現で違和感なく詠み得た人たちの俳句は、「季語にもう一つの面が加わった」表現というに留まらず、本来的な季語の実存的な機能が回復された表現であるというべきではないだろうか。ここにこそ、季語の本来的な原点があったのではなかったか。
花鳥諷詠論は季語の原点を矮小化していたのではないか。和歌的様式美と仏教的な無常観とが結託して、自然詠礼賛を第一義とする慣習が形成されてきたのではないか。
高野ムツオの著作からやや逸脱してしまったが、彼の震災詠総括の文章を起点にして、わたしたち一人ひとりが自分なりに、このことについて思索を深めてゆくべきであろう。その一例として自説をここに挿入した次第である。
震災を詠むとき季語が邪魔になるという考えは、詠もうとする内容によって、限定的にその通りである場合もある。だが、季語の本来的な機能を使った俳句表現で、詠めないものは何もないと「意思」してきたのが、有季定型を守ってきた現代俳句派の主張であったはずである。
「変質し凌辱」されていたという季語を、現代俳句の有季定型派が敢えて選択して詠み続けてきたのは、季語の形式主義からの奪還と、本来的な機能の回復という志が、震災体験という「非日常」体験によって、人々に共有され始めたということに他ならない。
震災体験による俳句表現が、その主張に追いついてきたと言えるだろう。
高野ムツオは季語と震災詠が融和的に表現された例として、「小熊座」の同人や一般の人の、次のような俳句を揚げている。
地震の地の遺影の子等も卒業す 佐藤 孝子
卒業子「天を恨まず」と言ふ答辞 阿部サタエ
非常食分け合ひしこと春の雪 浅沼眞規子
嬰の泣く声を力の三月来 石崎 径子
名札無き柩の上に梅一枝 小野寺演女
蝶生まる瓦礫の町を故郷とし 佐藤 成之
開くたび墓標が見える揚花火 土屋 遊螢
最後の句について高野はこう評している。
※
かつては、例えば隅田川の花火も、もともとは江戸時代の水難事故やコレラによる死者、餓死した人などを供養するために始まった花火ですよね。花火にはもともとそういう意義があったわけです。それがいつの間にか、昭和、平成の平和な時代になってから、ただ単にみんなが騒ぎ喜ぶだけの花火になってしまった。しかし、こういう俳句を見ると、花火が生まれた原点に戻されます。そしてそれは、俳句にとっては、高橋睦郎さんの言葉と同じく言葉が豊かになった証だというふうに考えることができると思います。
※
給水に並ぶ少年桜の芽 おとはすみ子
雪遊びしている声が空からも 関根 かな
九か月十四日目のクリスマス 杉山 一朗
この三句には次のコメントを添えている。
※
震災以前から三世代で俳句に親しんでいる家族の作品です。一句目は少年のけなげな姿を捉えた句、二句目は亡くなった幼子たちへの追悼の思い。楽しいはずの雪遊びが悲しみを誘います。三句目は当時十歳の小学生の作品。震災が起きてから初めてのクリスマスが、九か月と十四日目だった。こんなことに気づくというのはやっぱり、これは子供なりに震災後の一日一日が大変だった証ですね。毎日、今日は何日目か数えているから、こうしたフレーズが出てくる。これも現実と分かちがたく結びついているから表現できたのです。
※
次は原発事故関連の句。
「フクシマ」にあらず「福島」秋刀魚焼く 大野 京子
風評のまつただ中の田植唄 齋藤 耕心
セシウムの声か落葉のかそけさは 坂本 豊
帰望といふ造語を託す星朧 高橋 保雄
黒板の日付は三月十一日 花房 祥道
ふくしまにそれでも生きる種蒔いて 唯木イツ子
水こぼさず死者をこぼさず春の地球 新井 秋沙
最後の句は私も特に感銘を受けた句だ。
高野ムツオはこう評している。
「これは埼玉の方の句ですが、かなりスケールの大きい俳句。こんな壮大な視点の命を見つめた俳句が、日常のささやかな句作りから生まれてきたというのも、今度の震災が俳句にもたらした大きな出来事だと思います」
そして、この章を次の言葉で総括している。
※
この世とか現実とか、生きて暮らしている場を指す言葉はいろいろありますが、「世界」とは宇宙も含めてすべてを包括する時空を指す言葉だと、哲学者で俳人でもある大峯あきらさんから教わりました。その世界と、それぞれが、それぞれの在り方で、言葉で向かい合った時に初めて俳句となる。それも相対するのではなく、その世界の一住人なんだという姿勢から、つまり、自分もただの一事象としての存在なのだと認識するところから、初めて俳句が生まれてくるんだと私も思いました。世界を「自然」と読み替えてもいいと思います。自然の中には人間とか、社会も入るのだと、高浜虚子も言っています。ただ、それは目に見える狭い自然現象だけではないのです。人間の叡智などちっぽけで、たちまち霧散してしまうものに過ぎない。もっと壮大なスペクタクルの中に生かされている微生物のような存在であって、その微生物が吐く泡のような、言葉が俳句となるのです。(略)
高橋睦郎さんは、今度の震災では短歌より俳句のほうがいい作品を残したと言っています。なぜかというと、俳句のほうが、その背後に抱える沈黙の量が、震災という悲惨な事実とつり合っていたからだと思うと述べていました。俳句の沈黙の力をこれからも大切にしたい。また、それは、これまで紹介した俳句にも十分、備わっていると思います。
※
最短詩形の俳句が持つ底力が、一般の人たちの俳句作品においてもいかんなく発揮されたことの発見、そして、これまで俳句は時事詠には向かないと信じられていた迷信が払拭されたという意味で、俳句表現上、この震災体験はとても有意義なことであったと言えるだろう。
高野ムツオは俳句の短さを、伝統俳句派の表現技法論的に「省略」とは言わず、膨大な「沈黙の力」と定義している。そして有季定型の現代俳句派が、伝統俳句派の形骸化した「季語」の使われ方から「季語」を、今生きてあることを詠む俳句表現の場に奪還するという姿勢の再確認も、この度の震災詠の膨大な作品例を持って検証し、再確認しているのである。
さらにそのことを確認するかのように、第二章の「一〇〇〇日以後」では、冒頭で、俳句で詠まれてきた「自然」と「人間」という根源的な問題の検証を行っている。この章はこの本のために新たに書き下ろしたものであることを見れば、この本の「主題」がここにあったことが窺い知れる。〈「自然」と「人間」はどう詠われてきたか〉という節に始まり、高野ムツオは俳句表現における自然と人間詠の検証を行っている。自然と人間詠を検証した高野ムツオの論考を、箇条書きにして以下に紹介する。
※
⑴ 芭蕉の自然観
荒海や佐渡によこたふ天の河 芭蕉
① 自然とは悠久の存在という認識
② 時間の永遠性を春夏秋冬という一年の循環のうちに認識
③ 「風雅」の追求とは、自然そのものの四時(いしじ)、つまり四季の変転のうちにある
④ 自然の永遠性が一年という循環サイクルの一瞬一瞬に生起している。そのことを詩歌の世界において打ち出したのは芭蕉が最初
⑤ 人間の営みもその自然のサイクルの中に生ずる一現象に過ぎないという認識
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
「佐渡」も「古池」も人間世界の喜怒哀楽がひしめく「この世」の象徴
⑵ 子規・虚子、近代俳句の自然観について
① 写生説の正岡子規
西洋美術の理論を友人に教わり、それを俳句表現論に移植した。
子規は自然という現実から目を背け、概念化された言葉の世界で言葉の遊戯を繰り返していた「月並み」と呼ばれる当時の俳句や、そこに終始していた宗匠たちを批判した。子規の関心は写生という表現方法の活用にある。
子規にとっての課題は、子規という「人間の表現」にあった。これは明治という近代意識そのものである。
子規にとって自然とは「自らの命と関わる事象事物」として存在していた。子規が病を得て後の自然は、概ねこの姿勢から捉えられている。
そこが芭蕉の自然観とは違う。
いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
この句の主題は病臥の寂しさ。作者の関心は、今降りしきる雪にある。「尋ねけり」に込められた思いは、今、眼前で変化していく自然の相そのものへの関心である。
同時にそれは、作者自身のこの世にある時間の消滅の姿である。子規にとって自然とは、まもなくこの世と決別する自らの命そのものを映し出すものとして存在していた。
② 高浜虚子の「花鳥諷詠」
自然と人間は対立する概念ではなく、人間は自然の一部であるというように理念化されるようになった。(芭蕉と同じ)次が虚子の言葉。
※
花鳥諷詠と申しまするのは花鳥風月を諷詠すると云ふことであります。一層綿密に云へば、春夏秋冬四時の遷り変りによって起る天然界の現象並びにそれに伴ふ人事界の現象を諷詠する謂であります。(「ホトトギス」昭和四年二月号)
※
俳句とは、一人の人間が自らの思想や意志を言葉で主張することではなくて、自然界の諸相を詠い上げる、そのことによって自ずと表現できるという主張。それらを諷詠すること自体が表現の目的。自然を詠い上げることが、実はそのまま自分自身を詠い上げることになるという認識。俳句形式と、そこに表現される自然への十全の信頼感が芭蕉同様に横たわっている。
遠山に日の当りたる枯野かな 虚子
次はこの句についての虚子の言葉。
※
自分の好きな自分の句である。
どこかで見たことのある景色である。
心の中では常に見る景色である。
遠山が向ふにあつて、前が広漠たる枯野である。その枯野には日が当つてゐない。落莫とした景色である。
唯、遠山に日が当つてをる。
私はかういふ景色が好きである。
わが人間は概ね日の当らぬ枯野の如きものであってもよい。寧ろそれを希望する。たゞ遠山の端に日の当つてをる事によって、心は平らかだ。
※
そして虚子はさらに芭蕉の「乾坤の変は風雅のたね也」という言葉を踏まえながら、その概念をより強く反映した自然現象、つまり諷詠すべき現象を「季題」と呼んだ。
この言葉は、明治四十年頃の河東碧梧桐など日本派の俳人によって用いられたのが嚆矢とされているが、虚子はその概念を花島諷詠の根幹をなすものとして、たびたび強調した。
しかし、芭蕉の「造化にしたがひて四時を友とす」という態度と、虚子の季題という認識方法には相違がある。
芭蕉の姿勢には、変転極まりない世界そのものを、あらゆる方法で捉えていこうというダイナミズムの裏付けがあった。主観的であるか、客観的であるかの区別によって、捉え方を限定しようともしなかった。自分の五感をさまざまに駆使して事象を捉えていこうという自在さをも備えていた。
それに対して、虚子の季題説は自然現象を表現契機の素材として、あらかじめ限定することから成り立つものである。その限定は、事象の季感を詠うという俳句の固有性を一段と明確化することにつながった。
この一見硬直化しがちな対象の限定という方法は、限定された素材の世界の豊かさを発見することにも通じた。
季題から発想されることで、俳句に詠われる世界まで、さらに多様化した。
しかし、この限定は、同時に俳句の他の可能性を閉じてしまう危険性をも伴っていた。この方法は本来の持つ自然把握の仕方とは相矛盾するものであった。
言葉は新しい見方や感覚によって更新されることで生きて働くものだが、その言葉をあらかじめテーマとして意識することは、その言葉の美意識や情趣が、表現以前に作者の感性そのものに、既成認識のフィルターをかけてしまう危険を併せ持っていたからである。
自然に対する見方に一つの先入観を与えてしまうことが、季題の力に頼るだけの概念的かつ没個性的な俳句が量産される傾向を生むことにもつながった。
③ 水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」
昭和になって、俳句は水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の主張を境に、多様な展開を見せ始める。
〇 写生主義一辺倒への批判。
〇 季題という自然把握の方法を、単なる約束として作句する無自覚な表現のあり方に対する批判。
〇 主体の表現意識から発想される俳句とは、本来は季題の束縛からも自由でなければならないという主張。
このような、季題を表現契機としない俳句の可能性の追求へ至る道筋にあった。
④ 人間探求派の表現
水原秋桜子に始まった新興俳句が、抒情や表現の新しさの追求のみではなく、中村草田男や加藤楸邨の人間探求派と呼ばれる表現観へと展開し、さらに新興無季俳句へ進んでいったと指摘し、高野ムツオは次のように述べる。
〇 人間探求派の表現方法は、人間存在としての心的有り様を起点にして自然の諸現象を捉えてゆく方法。
鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨
この句の「鰯雲」は、もはや季題ではなく季語と呼ぶべき位相にある。この句は「鰯雲」から発想されたものではない。「人に告ぐべきことならず」という感懐は、あらかじめ作者に内在していたもの。それが鰯雲という現象との出会いによって言葉の形をなした。むしろこの中七下五に込められた思いが、鰯雲を見出したと言ったほうがよい。
作者という個の心的有り様が、自然の諸相を見出している。そのことで「鰯雲」の象徴効果をいっそう際立たせている。人間社会の一現象としての、人間観の表現へと意識が傾斜してゆく。これは方法上の変化ではあるが、当時の社会的な情勢やそこで生きる人間の在り方と必然的なつながりを持っていた。加藤楸邨のこの句は、日本が戦争へと突入してゆく時代のもので、「自分が何を求め、如何に生きるか」を、彼一人ではなく多くの若者が自らの生死を表裏にしながら考えていた時代である。こうした人間そのものへの関心が無季俳句へと進んでいったのは、必然的な流れであったと言えよう、と高野ムツオは述べている。
※
以上が本書での高野ムツオによる「自然観を主軸に置いてみた俳句表現史」の総括要約である。
ここからさらに、俳句における人間詠の問題、特にそれを困難にした戦争を取り上げて、次のように論考を展開している。その冒頭の文章をそのまま摘録する。
※
戦争は、俳句はいかに人間を表現すべきかという命題を突きつけた事件だった。それはそれまでの自然に投影された人間や、自然の一節として自然に生かされている人間という視座からは、とうてい捉えることができない次元であったからだ。戦争とは四季という時間の巡りとはまた別の時空とし捉えるべき出来事であった。「もし新興季俳句が、こんどの戦争をとりあげ得なかつたら、それはつひに神から見放されるときだ」とは山口誓子の言葉である。これは新興俳句の意義に重点を置いた物言いだが、俳句自体の存在意義と読むことも可能であろう。戦争を詠むとは、とりもなおさず人間そのものを表現することであり、季題や季語を詠むことが第一義ではなくなる。さらには季題や季語を詠むことが自己矛盾を引き起こす。
※
そして次の句を揚げて、
戛々とゆき戛々と征くばかり 富澤赤黄男
直接的な戦争批判を目的とした句ではないが、出征する者たちの先にあるのは死と背中合わせの戦争の恐るべき正休が隠されていること、季節感とは無縁な次元から、ただ連綿と続く大勢の若者の靴音にのみ集中して作品化したと評している。さらにもう一句。
いつせいに柱の燃ゆる祁かな 三橋敏雄
この句は、滅びるものの象徴的風景とも読めると評している。この句は春夏秋冬という時間観念とは別の出求事としでの戦争が表現されていて、こうした命題を詠う時、季題や季語という自然把握の方法を拒絶した表現がまた不可欠だったのであり、そのことがまた、俳句の可能性を広げた、と捉えている。
平成二十三年に起きた東日本大震災という出来事は、自然と人間との関わりにこれまでとは異質の変化をもたらしたとして、高野ムツオは次のように述べている。
※
まず挙げられるのは、自然は人間にとって恩恵のみを与える存在ではないという、当然ながら、どこかでスポイルされてしまっていた事実を突きつけたことである。大地震が起きた時、マスコミはむろん、学者までもが千年に一度の出来事であることを驚愕をもって伝えていた。しかし、しばらくして誰もが気づいたのは、千年という時間認識は人間が作り上げたもので、いつどこでプレートがずれ、あるいはマグマが噴山しようが、それは自然自体の摂理であって、場合によっては千年は一瞬に過ぎないという自明の事実であった。
自然には自然だけのスパンがあり、それは人間の尺度では測ることができないものなのだ。
そして、人間を生かすのは自然だが、人間を滅ぼすのも自然だという自然の持つ厳しさをも認識させたのだ。
※
そして原発事故について「人間を含めた自然全体を危機に陥れるのは、紛れもなく人間自身であることを教えてくれた」と述べている。
そして現代における自然と向かい合う俳句のあるべき姿勢について次のように述べている。
※
俳句は、自然との共生を大事にする日本人ならではの文芸であるとか、俳句には森羅万象に神が宿るとする日本的アニミズムの思想が込められているとか、これまでもよく言及されてきた。そうしたこともまた、私は否定しない。いや、むしろ積極的に肯定する立場にいるつもりだ。ただ、それが俳句形式という文芸の特権であるとか、守るべき堡塁であるといった硬直的な考え方に終始してはならない。もう、芭蕉の時代のように自然の悠久さやその恩恵を受容するだけでは生きがたい時代を生きているのである。俳句もまた、自然の運行にただ従うだけでは、時代を捉え、その時々の人間を表現する文芸として、この先も生き続けるとは思えない。俳句が本来の意味で自然とともに在り続けるためには、俳句も俳人も未来を見据えた世界観、自然観を模索していかなければならない。
※
高野ムツオは『語り継ぐいのちの俳句』で震災詠が俳句に齎したものを、以上のように総括している。
季語無用論を唱える者たちからは距離を置き、また、伝統俳句派的な形骸化した自然観とも距離をおき、季語がもつ可能性を信じ、そこに新しい表現を開拓しようとする立場からの、震災詠論でもある、と言えるだろう。
最後に『語り継ぐいのちの俳句』の第三章、自句自解から、いくつかを以下に紹介する。「自解」の一部抜粋付き。『萬の翅』から。
車にも仰臥という死春の月 『萬の翅』
三日目、近隣に住む一人暮らしの句仲間のことが気になって訪ねた。留守だったが、隣の人の話では避難所に逃れたらしい。無事だったことを知り、胸を撫で下ろす。行きも帰りも、泥だらけの道には車が横転したり、逆立ちしたり、重なったりしている。橋下の道路には何台も積み重なって山をなしている。言葉を失った。数日後の夜更け。ふと顔を上げると大きな春の月が浮かんでいた。不思議なものを眺めている心地がした。
泥かぶるたびに角組み光る蘆 『萬の翅』
数日後、電話が鳴った。読売新聞の記者からだった。やっと連絡がとれた、被災地の俳人として短文を書いてほしいとのこと。悲惨な状況の中、自分にできるのはそれくらいしかないと承知した。が、何をどう伝えるべきか、迷ったが自分が書けるのは自分の体験しかない。そう決心し窓に目をやる。すると向こう岸の水際に何か光るものがある。蘆の芽だと思った。川辺に下りて確かめるとさざなみであった。確かにまだ芽が出るには早過ぎる。自嘲の、それでも心地よい笑いが浮かんだ。
瓦礫みな人間のもの犬ふぐり 『萬の翅』
三月二十八日の早朝、神奈川県に赴く息子を車に乗せて、仙台の海岸線の高速道路を走った。息子が「あっ」と声をあげた。つられて海側に一瞬視線をやると、瓦礫が目に飛び込んできた。流された家々、車、木、それらが累々と果てしないのだ。このあたりの田畑は、毎年犬ふぐりが咲き乱れるところであった。
鬼哭とは人が泣くこと夜の梅 『萬の翅』
三月末、例年なら多賀城址周辺の梅が咲くころである。しかし、停電が続き周囲は闇に包まれている。我が家まで津波は達しなかったが、対岸の住宅地はすべて津波が押し寄せた。夜になると、どこからともなく嗚咽が聴こえてくる思いにとらわれた。声なき声。
みちのくの今年の桜すべて供花 『萬の翅』
四月上旬、私を慰めるために、東京の俳句仲間が隅田川の花見を企画してくれた。桜も終わりかけていた上に、震災後で、さすがに人出が少ない。遊覧船が「頑張れ、東北」という横断幕を掲げて過っていった。橋の上から眺めると、堤の桜がまるで仏飯を並べたようだった。まもなく東北には桜が咲き出した。宮城県七ヶ浜町の菖蒲田浜で倒れながら咲いている桜が目に沁みた。これまで見たことがないまぶしさであった。
※
自解付の句を読んでゆくと句の誕生現場に立ち会っているような臨場感がある。こうして俳人高野ムツオの震災詠総括は終わった。
主題は深く内面化し継続されるだろう。 ー了
https://spica819.main.jp/100syosyo/10141.html 【【95】 人体は土より生れり霜の花 高野ムツオ】より
現実のあらゆる事象には、それぞれにおける固有の物語が潜んでいる。少し言い方を変えるならば、すべての事象は長大な時間を背負っており、その各々に来歴があるということになる。改めて考えてみれば、それこそ道ばたに転がっている石ころ一つを取ってみても、まさに気の遠くなる程の時間の堆積の果てに存在しているという事実に思い至るであろう。そして、それと同じく我々自身の存在もまた膨大な時間と数え切れないプロセスを経て、この現在に存在しているということになる。
掲句は、第二句集『鳥柱』収載のものであるが、ここには「人体」の存在とその成り立ちが表現されている。中七は「成れり」ではなく「生れり」。そもそも元を辿れば、人間の存在というものは、地球上の様々な動植物の数え切れない生滅の連鎖の上に成り立っているわけであり、それゆえこの「土より生れり」という表現も、決して単なるフィクションではないことが理解できるであろう。そして、その「人体」もやがて「土」へと還ってゆくわけであるから、ここにはまさに生命における本然的な部分がテーマとして描かれているということになる。
下五には「霜の花」という冬の季語が配されているが、この言葉は基本的に「霜」のことをそのまま意味する。冬の季節において、「人体」から発せられる呼気は、冷たい外気との温度差によって白く見える。まさに生命そのものが内包している熱ゆえに起こる現象であるが、よく考えてみれば、そもそも「霜の花」の降りている大地にしても、その奥底には高熱のマグマが潜んでいるということになる。このように見ると、それこそ「人体」の存在と地球の内なるマグマは、そのまま相関の関係を成しているようにさえ思われてくるところがある。
高野ムツオには、東北の風土性に根差した作品が多く見られる。例えば〈雨の奥羽に妻も一枚の葉であるか〉〈陸奥の国襤褸の中に星座組み〉〈阿弖流為の髭より冬の蝗跳ぶ〉〈霜の声つづいて悪路王の声〉〈海鳴の凝りたりしが陸奥の国〉〈みちのくはもとより壺中初茜〉など、強い土着性を見て取ることができよう。全体的にフィクション性が強い側面があるが、一方で実世界との関わりが断たれているわけではなく、云うならば現実と空想的な物語性が混淆されて作品世界が展開されている。このように見ると、高野ムツオの俳句には、リアリズムの要素が少なからず内包されているといっていいであろう。
そして、こういった作家性は、平成二三年(二〇一一)の東日本大震災に際して〈車にも仰臥という死春の月〉〈泥かぶるたびに角組み光る蘆〉〈瓦礫みな人間のもの犬ふぐり〉〈残りしは西日の土間と放射能〉〈原子炉の火もあえぎおり秋夕焼〉〈凍星や孤立無援にして無数〉など、極めて迫真性の強い表現として現出する結果となった。
高野ムツオ(たかの むつお)は、昭和22年(1947)、宮城県生まれ。昭和38年(1963)、阿部みどり女の「駒草」に投句。昭和42年(1967)、「海程」入会。昭和53年(1978)、佐藤鬼房を訪ねる。昭和60年(1985)、「小熊座」創刊。昭和62年(1987)、第1句集『陽炎の家』。平成5年(1993)、第2句集『鳥柱』。平成8年(1996)、第3句集『雲雀の血』。平成15年(2003)、第4句集『蟲の王』。
https://mag.ssbj.jp/machi/3718/ 【その17 高野ムツオ(俳人)】より
中野栄駅周辺、高砂中学校、蒲生海岸(仙台市宮城野区)
仙台ゆかりの文化人が、街を歩きながらその場所にまつわるさまざまなエピソードを紹介する「まちを語る」シリーズ。今回は俳人の高野ムツオさんが、2011年の東日本大震災の当日、また20年ほど前の教員時代と、それぞれ記憶に残る場所をたずねました。
『季刊 まちりょく』vol.17掲載記事(2014年12⽉20⽇発⾏)※掲載情報は発⾏当時のものです。
中野栄駅周辺
JR中野栄駅前。震災から4年近くたち、当時の様子をうかがわせるものは何も残っていない。
▲JR中野栄駅前。震災から4年近くたち、当時の様子をうかがわせるものは何も残っていない。
JR仙石線の中野栄駅前。国道45号の歩道に立ち、高野ムツオさんは「東日本大震災の当日、私は仙台駅からここまで歩いてきまして」と話しはじめた。
2011年3月11日、仙台駅の地下で地震に遭った高野さんは、徒歩で多賀城の自宅を目指した。午後5時過ぎに仙台駅を出発、渋滞の車のライトを頼りに国道45号を歩く途中、中野栄駅前を過ぎたあたりである光景を目にする。「ここから我が家まであと2kmぐらいというところで、車が急に迂回しはじめた。どうしてと思ったら、その先に車がいっぱい横転している。津波に流された車だったんです」
その先は水がたまっていて歩くことができず、高野さんは回り道をしながら夜の10時頃に自宅にたどりつく。多賀城の街を襲った津波は、自宅の約200m手前で止まっていた。震災直後の混乱と不安のなか、高野さんは「自分には俳句を作ることしかできない」と、言葉を五七五の形にしていった。
四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と
地震の闇百足(むかで)となりて歩むべし
車にも仰臥という死春の月
これらの震災詠を含む作品が収められた句集『萬(まん)の翅(はね)』は、2013年11月の刊行後高い評価を受け、蛇笏(だこつ)賞など3つの俳句賞を受賞した。「多くの人に共感してもらえた。励みになります」と高野さんは語る。
高砂中学校
高砂中学校の校庭にて。旧知の先生方との再会もあり、しばし教員時代に戻ったかのような時間を過ごす。
▲高砂中学校の校庭にて。旧知の先生方との再会もあり、しばし教員時代に戻ったかのような時間を過ごす。
高野さんは6年前まで中学校の教員でもあった。そこでこの日は、かつて教壇に立った高砂中学校を訪ねた。約20年ぶりという高野さん、「なつかしい。校舎もまわりの住宅地も変わりませんね」。高砂中への勤務は2年だけだったが、近所のお年寄りから聞いた、学校のそばを流れる七北田川が昔はとてもきれいだったという話や、仙台港周辺の開発のために住み慣れた家を離れた家族のことなどを今も覚えているという。
多忙な教員の仕事と句作との両立について尋ねると、「よっぽどさぼり方がうまかったんだろうね」と笑いつつ、「忙しくて俳句をおろそかにしてしまった時期もあります。でも、同僚から『他の仕事は誰でもできる。でも俳句はあんたしかできない』と言われ、自分は俳句を続けるべきなんだと思いました」と振り返る。学校でも生徒に俳句を作らせた。「最初はいやがるけど、だんだん自己を表現するようになる。そうやってできたものは、子どもたちにとっては宝になります」
蒲⽣海岸
明治末頃、地元の住民が海上の観測のために築いたという蒲生海岸の日和山(ひよりやま)。震災後の標高は3m、大阪の天保山と「日本一低い山」を競い合う。高野さんの師・佐藤鬼房がここで詠んだ句に、「日本一低い山なり鰻食ふ」がある。
▲明治末頃、地元の住民が海上の観測のために築いたという蒲生海岸の日和山(ひよりやま)。震災後の標高は3m、大阪の天保山と「日本一低い山」を競い合う。高野さんの師・佐藤鬼房がここで詠んだ句に、「日本一低い山なり鰻食ふ」がある。
蒲生海岸へ足を延ばす。ここには、高野さんの師である塩竈の俳人・佐藤鬼房(おにふさ)も訪れて句を詠んだという鰻料理の店があったが、その一帯には枯れ草が深々と生い茂っていた。「すっかり昔の蘆(あし)原に返ってしまったな」と高野さんが呟く。養魚池跡の水辺には水鳥の群れが羽を休めている。「野鳥はみんな戻ってきた。自然界に生きるものは逞しいね」
そんな風景を見ているとさまざまな思いが浮かぶが、それを言葉にすることはむずかしい。そうしてみると、わずか17音からなる俳句という言語芸術のなんと深遠なことか。
「俳句は短い形式だけれども、今あったことを取っておいて後で作ることはできない。自分がそのときに受けたショックであれ感動であれ悲しみであれ喜びであれ、それをその場で五七五に捉えることによって、そのときの思いが言葉のなかに永遠化されるんです」。そうやって生まれた一句が、長い物語をも凌駕する力をもつのだろう。
多様な動植物の生育地だった蒲生干潟は、震災の津波によって壊滅的な被害を受けたが、徐々に元の姿を取り戻しつつある。
▲多様な動植物の生育地だった蒲生干潟は、震災の津波によって壊滅的な被害を受けたが、徐々に元の姿を取り戻しつつある。
泥かぶるたびに⾓組(つのぐ)み光る蘆
春、泥のなかで芽を吹く蘆は、再⽣と希望の象徴だ。この⾼野さんの句を⼼に留め、⽬の前の枯れ野がかがやく季節を思い描いてみる。
2013年3月、詩人の高橋睦郎(むつお)さんを案内して蒲生に立ち寄った際、高野さんはその時期には少し早いヒバリの鳴き声を聞いたという。「震災後、このへんにはヒバリはいなかったんじゃないか。でもその声を聞いて、ああ、戻ってきたんだと思いました」
▲2013年3月、詩人の高橋睦郎(むつお)さんを案内して蒲生に立ち寄った際、高野さんはその時期には少し早いヒバリの鳴き声を聞いたという。「震災後、このへんにはヒバリはいなかったんじゃないか。でもその声を聞いて、ああ、戻ってきたんだと思いました」
掲載:2014年12月20日
写真/佐々⽊隆⼆
⾼野 ムツオ
たかの・むつお
1947年宮城県岩ヶ崎町(現・栗原市)生まれ。父親の影響で10代から俳句を作り始め、俳人・阿部みどり女、金子兜太(とうた)の教えを受ける。古川工業高校卒業後、神奈川で地方公務員として働きながら國學院大學文学部夜間部に学ぶ。大学卒業後は仙台で中学校の国語教員となり、その傍ら句作を続け、塩竈の俳人・佐藤鬼房が主宰する結社「小熊座」に参加。1994年、宮城県芸術選奨、現代俳句協会賞を受賞。2002年、「小熊座」の主宰を引き継ぐ。2014年、第五句集『萬の翅』にて読売文学賞、小野市(兵庫県)詩歌文学賞、蛇笏賞の3つの賞を受賞。現在、現代俳句協会副会長、「河北新報」俳壇選者などを務める。おもな著書に、句集『雲雀(ひばり)の血』『蟲(むし)の王』、『NHK俳句 大人のための俳句鑑賞読本 時代を生きた名句』などがある。多賀城市在住。
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