facebook山下保さん投稿記事
🟢「2024.12. 1 シオン山教会主日礼拝奨励 奨励題:「"待降節"という今を生きる
〜何を待つのか、どのように待つのか〜 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日の日曜日主日礼拝後に、敬愛するシオン山教会の信徒の皆様に、報告と御礼、これからについての新たな心境についての想いをお伝えさせて頂きました。たくさんの労いや励ましの言葉をかけて下さり、感謝なひと時でした。
二年に渡り様々な試練に向き合いながら無牧師の時を過ごしたシオン山教会でしたが、この春からは新しい牧師先生をお迎えし、教会としても新しい歩みを始めることが決まり、明るい光が射し込んできているように感じています。
皆で一つになり祈りあって、内と外に開かれた教会としてのビジョンを共有し、共に創り上げていきたいと願っております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は、今月初めに私が信徒宣教(奨励)者として講壇に立つことを意識して臨んだ、自らにとり記念すべき奨励の内容となります。
シオン山教会の主日礼拝の中において奨励を語る機会は、これまでも何度かありましたが、今回は降誕月でもあり、やはり自らの信仰の初心に帰って、人生における新たな船出の時として神様に祈りつつ原稿を準備して参りました。
これからもこのような機会を頂けましたら、この教会からメッセージを語っていきたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
🔹 「旅をする教会」
「旅をする教会」という言葉があります。
「神の国はすでに来ている。しかし同時に、未だその完成に向けて旅を続けている教会」…「既に」と「未だ」との間を「旅する教会」…
「既に」という一つ目の「待つ」を受けていると同時に、「未だ」という二つ目の「待つ」を生きる私たちがいます。
私たちは、「すでに」神様が私たちと共に、いつも側にいて下さっている、という恵みの日々に生かされていることを知っています。
聖書には、「神は愛なり」とあります。
ここで言う愛とは、"無償の愛、無条件の愛" であり、それが意味するメッセージは福音です。
福音(喜びの訪れ)は全ての人々に開かれています。
私たちには、今もなお神様の存在を探し求めている人々のために、この恵みと祝福に満ちた福音を述べ伝えることを、神様より喜びの内に託されています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神様がいつも私たちと共におられる、私のすぐ側に現実にいらっしゃるという不思議であり神聖な真実を、隣り人にも深い意識のレベルでお伝えすることが出来たら、それにより誰かがその祝福、(喜びの体験に出会わせること)に預かる体験が呼び起こされ、
私たちの小さな言葉や行いが、そのきっかけとなったとしたら、それはほんとうに神様も喜ばれるであろう素晴らしいことです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
待降節にあると言われるは2つの「待つ」、
一つ目は、「旧約の時代の人々と心を合わせて救い主の誕生の時を待つ」という「待つ」です。
もう一つの待つは、主の再臨を待つというものです。
二千年前に、神のひとり子、主イエスキリストの到来をいただいている私たちは、既に、
「救い主が訪れて下さっている今、主が共にいて下さる今」という時を生きています。
しかしそれと同時に、私たちは救いの完成の時である主の再臨の時、「世の終わり」を待ちながら、今日の日の今(この瞬間)という時を生きています。これが待降節のもう一つの「待つ」になります。
「すでに」、私たちはイエス様、神様が心の内に共にいて歩んで下さる神聖な真実との出会いを戴いているのですが、同時に「いまだ」その (全人類の) "救いの業の完成" に向けて旅をしている道の途上にいるとも言えるでしょう。わたしたちは二つの「待つ」を生きる"旅する教会"なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
🔹「メメント・モリ」
「メメント・モリ」という言葉があります。
古代ローマでは「将軍が凱旋式のパレードを行った際に使われた」と伝えられています。
将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」という戒めを思い起こさせる役目を担当していたようです。そこで使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせ将軍の緩みがちな精神を引き締める役割を担っていました。(ただし古代ではあまり広くは広がらなかったようです。)
当時、「メメント・モリ」の意味するところは 「今を楽しめ」という趣旨で、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスでした。 (ホラティウスの詩には「今は飲むべきだ、今は気ままに大地を踏み鳴らすべきだ」とあります。)
その後この言葉は、後のキリスト教世界では違った意味を持つようになりました。
天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたためです。
(中略)
キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ、贅沢、手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘因となりました。
京都学派の哲学者として知られる田邊元(タナベ ハジメ)は、最晩年に「死の哲学(死の弁証法)」と呼ばれる哲学を構想しました。その哲学の概略を示すために発表された論文が、「メメント モリ」と題されています。
田辺はこの論文の中で現代を「死の時代」と規定しました。近代人が生きることの快楽と喜びを無反省に追求し続けた結果、生きることを豊かにするはずの科学技術が、かえって人間の生命を脅かすという自己矛盾的な事態を招き、現代人をニヒリズムに追い込んだと指摘しています。田辺はこの窮状を打破するために、メメント・モリの戒告(「死を忘れるな」)に立ち返るべきだと主張しています。
(wikipediaより一部抜粋して転載)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
🔹死んだ先に起きるであろうこと
現代は、社会全般として死を忌むべきもの、恐ろしいこととして嫌悪したり、ふだんから直視することを避ける傾向が強い時代が長く続いてきたと言えるかと思います。
しかし、他方私たちは愛する父母や親族、信仰の仲間を天に送り出すとき、亡くなったその方の魂が天国に凱旋されるのであり、これまでの出会いと交わりに感謝しつつ栄光のキリストと一つになる出来事として、ねぎらいと称えの賛美と共に別れを告げる、という信仰を先達より受け継いできた歴史があります。
ところで、亡くなった後の私たちとは、その先どうなるのでしょうか?
この世には、死後はまったく無に帰すという概念もよくある捉え方かと思われますが、そもそも無に帰すとは、どのような意味があるのでしょうか?
ここで一つの世界観を取り上げて考えてみたい、ご紹介したいと思います。これはあくまでも一つの捉え方(ものの見方)ですので、それが正しいか正しくないかなど、真偽のほどはお一人お一人の心の内で感じたように受け止めて頂けたらよろしいかと思います。
🔹臨死体験とその共通するパターン
医療現場や例えば東北大震災のような災害現場でも様々に知られる例として、臨死体験に関するレポートが数多く報告されています。
臨死体験には個人差があるのですが、ただ、そこに一定のパターンがあることは否定できないようです。(以下は、wikipedia参照です。)
🔹体外離脱現象
臨死体験中には体外離脱現象が起こることが知られています。全身麻酔や心拍停止で意識不明となった時に、体験者は気が付くと天井に浮かび上がっており、ベッドに横たわっている身体を見下ろしたり、ドクターの側で手術中の様子を客観的に眺めている自分に気付く事例が数多く報告されています。そうした体験は現実世界以上の強烈なリアリティーが伴うため幻想ではないと語る者も多いようです。こうした体外離脱中には幻覚的な体験が起こることもあるのですが、現実世界で起きた出来事を体験者が後に正確に描写できる事例も珍しくないのです。
マイケル・セイボム医師の研究によれば、臨死体験者たちが体外離脱中に観察した治療室の蘇生場面を描写した結果が、専門医のカルテと一致しており、研究者たちを驚かせました。
彼が調査したある臨死体験者は、治療者が行った施術の詳細や、メーター計器の針の数値、道具の色や形、物理的視野に入らなかった物品までも正確に描かれていました。そのスケッチは臨死体験者ごとにそれぞれ個別の特徴を踏まえており、専門医であるセイボムから見てもそれぞれにほとんど間違いが無いものでした。
🔹退行催眠療法
ヒプノセラピー(退行催眠療法)と呼ばれる。医療現場に応用されている心理学の分野があります。
驚くべきことにお互い関わりのない多くの患者(クライアント)の方々が、退行催眠療法の後にまったく同じことを口にされるそうです。それは、ちょうど臨死体験をした人が経験すると言われることと似ていました。
ここではその中から、いくつかの共通する特徴を挙げて紹介致したいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
🟡死んだら起きる7つのこと
1. 人生のこれまでの場面が、フラッシュバックのように現れる。
臨死体験をした人たちが共通して語るのは、まるで目の前でこれまでの人生の各場面が、フラッシュバックしてくるということです。
魂が肉体から離れる前に、記憶のデータバンクを猛スピードでスキャンしているような感じだそうです。
2. 自分の体が見える。
肉体から意識が離れるとき、自分の体が見えるという経験をする人もとても多いです。
あなたの周りで起きていることや、あなたを取り囲む人々も見えます。
でもとても自然なことのように思えるので、別に怖くはないそうです。
3. 光
よく言われることですが、死ぬときには光を見るそうです。
光は最初、遠くから現れるように感じられますが、次第にご自身はまるで磁石のようにゆっくり引っ張られていきます。光は愛と平和、そのものだと知ります。
こうしてその人はスピリット(霊)の世界へ帰る移行期に入っていくと説明されています。
4. 亡くなった親戚に会う。
光に引かれて、スピリットの世界に入ると、亡くなったはずの家族や親戚、過去世で親しかった人たちが待っています。
魂はあなたに懐かしさを抱かせるために、最も見慣れた形を取ります。魂そのものはこの世での姿は持っておらず、形はありません。でも目的に合わせて様々な形を取ることが出来ると言われます。
5. 守護天使(ガーディアンエンジェル)、魂の導き手(スピリットガイド)に会う。
どんな人にも、守護天使(ガーディアンエンジェル)、もしくは聖霊の働き手、魂の導き手であるスピリットガイドがついています。
今世の間、ずっとあなたと共にいて、あなたの人生を導いてきた存在です。
あなたの好きな呼び方で構いませんが、そうした"ガイド" いわば天使が、スピリット(死後の世界,霊界)であなたを迎えに来ます。
6. ライフデビュー:人生を振り返る
あなたのガイドが呼びに来ると、あなたの人生に起きたことを一緒に振り返る時がやってきます。通称ライフレ ビューと呼ばれるものです。
これまであった人生の場面が次から次へと目の前に現れ、まるで映画を観ているか、本を読んでいるようだ、という感想を持つ人もいます。
恥ずかしい思い出や、失敗を見せられて気まずい思いをする人もいるでしょう。
でもこれは"審判"の時ではなく、起きたことを振り返り、魂としてどの点を改善していけば良いか話し合う場というもののようです。自分の人生全体を見終わると、もう一度現世に帰ってやり残した問題を完遂するようガイドと取り決めると言われています。
7. 戻りたいとは思わない。
スピリットの世界は、完全な愛と平和の世界で、病気やその他この世的(三次元的)な面倒は全くない世界です。安全で自由でストレスも痛みも苦しみもありません。
でもいつか、魂は自らの成長と、現世にある他の魂との協働による感動の体験を得る為に、
再び肉体をまとってこの世に誕生してくるのだ、とされています。
本来的に、悲喜交々の感情を味わいながら、魂をより成熟させ、人生の豊かさを味わうために私たちは生まれてくる、この世に戻ってくる、と説明されています。
🔹臨死体験が意味すること
ここで挙げられたことは、この分野の研究者たちの半世紀以上に渡る、数千〜数万人以上もの患者とのセッションで得た情報の中から、驚くほど共通する要素として出てくるものだそうです。中には地獄のような場所に行き、悪魔やその他邪悪な存在に出会ったという人もいます。臨死体験をした人の中には、あまりにも怖い経験をしたので、心を入れ替えて正しく生きるようになったという人もいます。
死後の世界の存在は、現代科学の範疇では未だに立証出来てはおりません。
けれども確かに言えることは、あなたは決して一人ではないということ、たくさんの霊的な存在(聖霊、スピリット)に愛され支えられているということです。体験者にとってそのことはおそらく間違いない事実であり、そうであると生まれる以前から知っていたのだ、ということへの"気づき"という「真実」が残ります。
🔹キリストの復活が意味すること、
聖書が私たちに語っているのは、この世とは異なる "見えない次元の領域" に、"永遠のいのちに生きる世界" があるということ。
その意味では、ほんとうには死というものはありません。ただ神の御国(即ち異なる次元の世界)に移行するだけとも言えます。
愛する人との魂は、離れ離れになりません。絶対的な無条件の愛と平和、心を満たす喜びと静けさが、スピリット(御霊)の世界で待っています。
魂の目的地は、今世で人間としてのあなたの行動によって決まります。
自分自身にこう問いかけてみましょう。
"この世界にいる他の魂を、私はどのように扱っているだろうか?"
"自分や他の人々の魂が成長するために、私はどのように役立っているだろうか?"
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
🔹「赦し」について
ここからは、「赦し」についてお話ししたいと思います。
これからの時代はすべての人にとって大変に大きな変革の時期に入ります。ご自身の内側から、怨み,怒り,憎しみ,痛みを手放すこと、傷ついた自分の心を癒すこと、自分自身を赦すことが求められる時代がもう既に訪れています。
神様(光であり愛と聖書にはあります)は、自らと他人を赦し、重荷を下ろしてゆっくりと静かに自分を見つめ(内観して)、与えられている今に感謝するすべての人々に、深い慈愛と真実をもたらしてくださいます。
怒りや憎しみなど否定的な考えや感情を持ち続ける限り、どんなに新しい世界(イエス様が約束される新しい御国)に近づこうとしても、これまでの古い信念体系の世界に引きずり込まれてしまいます。
神聖な意識の入る余地のない、従来の競争や上下関係、お金や地位に固執して他人を縛ろうコントロールしようとしてきたこれまでの社会の古い在り方から抜け出せず、いつまでもそこに留まる限り、他者への愛と思いやりからは遠く離れ、思考や感情の中で自分自身を見失いやすくなります。自分を取り巻く世界に対して、否定的な感情を伴うエネルギーを手放す必要があります。
これまでの過去に起きたこと
自分がやってきたと思う自己破壊的な行動や、自分自身と他者に対する否定的な考えから離れ,まず"自分自身を赦さ"なければなりません。
ありのままの自分を赦して受け止め認めることのできるもう一人の自分、それこそがあなたの心の内に生きて共に歩んで下さっておられるイエス様なのです。
他の人たちがしたこと、犯した罪も裁かずに赦す必要があります。私たちは簡単に他人をジャッジ(判断)し自らの正義を主張しますが、(ほんとうは正義と悪とは相対的で、表裏一体の関係性の中にあり、立場や見方により反転するものです)誰一人として、完璧な人などこの世にはおりません。
他人の行いや過ちも、そのすべてが神様のご計画の中に展開されており、その方ご自身の魂の選択として、他人には裁くことの出来ない、そこには決して伺い知り得ない背景であり理由があるのです。(本来、簡単には他人をジャッジ判断は出来ないのです…)
私たちは一人一人が個性的(ユニーク)な存在ですが、もとよりパズルのワンピースのように互いに繋がり支え合い補い合うことにより、
(人間という漢字は、互いに支え合う間に在る)という意味を表していますが、
つながり合い補い合って、そこに神様、御子なるイエス様そして同時に、"ほんとうの自分・無垢なる自己、真我"が立ち現れてくるのです。
私とは「個人」という存在でもあり、同時に共同の意識、人類という種族の「集合意識」その両方に足場を置く存在でもあります。
神の神殿(教会という共同体意識、建物を指すのではありません)のかけがえのない一人として、あなたという換えの効かない大切な"自分"がいるのです。
同時にあなたの身体それ自身が、神殿でもあります。ご自身の手足や腰や胃や腸などの内臓、心臓、体内を流れる血液、細胞の一つ一つに各々にいのちがあります。その存在に労りイタワリの声をかけて感謝してさしあげて下さい。
自分の身体に感謝して大切に扱う、ケアする(気を向ける)こと、その時あなたの身体はその優しさに応えて光に包まれ、輝きを増すようになります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたが赦し始めると、善人と悪人の境界線は消えていきます。もはやどんな区分もなく、あなたは一つなるもの(アガペ、神様による無償の愛愛、無条件の愛)を見始めます。
男も女も黒人も白人もありません。純粋なエネルギーが存在し、その純粋なエネルギーが神様です。
もしあなたが、本当に悪いことをしたと気づいたなら、それが本物の「気づき」であり、
その責任を受け入れて心から悔い改めようとするなら、その悔い改めそのものが赦しとなるのです。悔い改めることで目が覚め,"ほんとうの自分"という存在を意識するようになります。
罪は暗闇と似ています。暗闇に赦しの光を差し込むと、暗闇は消えていきます。
自分を傷つけた人を赦すことは、自分の魂を癒す助けとなります。
赦す人は、赦される人より大きな報いを受けることができます。自分を愛することができなければ、神聖な愛とは何かを知ることはできません。そして神聖な愛とは何かを知らなければ天の御国に行くことはできません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
🔹待降節のもう一つの意味
「世の終わり」の時とは、巷で噂される終末戦争により人類が絶滅すること、地球が崩壊することではありません。
人類がほんとうの自分を知るとき、意識がより高いレベルに変容することであり、諍いの無い地上のすべてのいのちが大切にされ平和と祝福に満ちた世界が、私たちの目の前に現れる、これまでの古い信念体系、古い政治制度、社会の在り方が、人々の暮らしの全ての領域において全く新しいものへと変容していく、
これまでの古い世界が終わり、光に満ち溢れる新しい世界が訪れることを指しています。
戦争は無くならない、とこれまで盛んに喧伝されてきましたが、恐怖を煽り戦争にかき立てようとする社会の有り様につくづく嫌気が差し、今のままの未来では誰も幸せになれない、新しい世の中を心底望みたい、このままでは地球や全てのいのちは滅びる、それは嫌だと考える方々が今現在、世界中で加速度的に増えるに従い、人類の意識はもう既により高い意識領域に上昇しつつあります。
この地上にある全てのいのち(存在)にとり平和な世界が訪れることが、
聖書とキリストにより既に約束されておりましたが、これから成就しようとしています。
間違いを犯すのは人間ですが、赦すのは神です。そしてあなたご自身が自分と他人とを赦せば赦すほど、あなたは神性(神聖な意識)に近づき、人間性を超越し始めるのです。
全ての人のすべてを赦すことができるようになるその日、それはその人とその人を取り巻く周囲の世界が天の御国(異なる次元の意識、五次元)に入る日になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神は愛なり。愛とは光です。ほんとうは難しい理屈はいらないのです。他者への思いやりの心と感謝の祈りが、人生を開く最大の鍵です。私たち自身の内側、外の世界ではなく、内なる自己を見つめ、まず自分自身、傷ついた己を赦し癒すのです。
自らの人生で出会う人々、いま持っている、神様から与えられているもの、環境、健康、
神殿である身体、多い少ないにかかわりなく財産、時間、季節や故郷、食べ物、足元にある小さな幸せ家族、隣人、その全てに感謝を捧げ、神様への賛美を口にして今この瞬間に生きるように意識すること、その時、あなたご自身とご家族、あなたの周りの方々が変容し救われていきます。もはや何にも縛られることのない自由と喜びの人生が、神様、天使、キリストの愛によって引き寄せられ世界を変えていきます。文字通り山をも動かすのです。
「神は愛なり」
今年の待降節、再臨のキリストは、もう既に来ておられます。時代は大きな転換期、節目の時に来ています。
今は恵みの時、私たちが長い間待ち続けてきた私たちの旅は、いよいよ終わりに近づいています。与えられたこの人生を喜び味わい、すべてのいのちに感謝して生きて参りましょう。
(お祈りいたします。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《参照》
⚪︎教会誌「こころ」2012年12月号より待降節」は「待つ」季節
(カトリック麻生教会) 主任司祭 パウロ三木 稲川圭三
⚪︎YouTube動画のバシャールismより一部抜粋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後まで目を通して下さり大変有り難うございました。もしこれを読んで何かピンと来る方がいらっしゃいましたら、クリスマスのこの時期ぜひ一度シオン山教会の主日礼拝にお越し下さい。心よりお待ちしております。
0コメント