chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.nhk.or.jp/kokokoza/r2_music/assets/memo/memo_0000002447.pdf 【ことばの音楽性〜世界の音楽(4)】より
学習のねらい
ことばと音楽の間には切り離せない結びつきがあります。ことばは基本的に声に出して伝えられるからです。そのため、リズムやアクセントなど言語の音の特徴がそのまま音楽の特徴になることも多いです。また、言語の音を楽器に移したり、楽器の音を言語に移すこともあります。人間が、ことばの音楽的な部分を表現手段として見逃さずに発展させて来たことを、世界中の例を通して理解しましょう。ことばの音が音楽をつくる講師植村幸生世界の言語には、それぞれ特徴的なリズムやアクセントが備わっています。詩を朗読するときなどには、特にことばのリズム感がはっきり表れます。ラップミュージックは、アフリカ系アメリカ人の中から生まれてきた、歌であり、詩であり、語りであり、ことば遊びであり、演説でもあります。ビートの強いリズムの上で、巧みに韻(ライム)を踏みながら、英語の詩が早口にまくしたてられます。イランの言語であるペルシア語には、長い母音と短い母音の区別があり、それがことばのリズムを生みます。アーヴァーズという古典的な声楽は、この長短の母音が生み出す詩のリズムに厳格に従って歌われますが、物売りの売り声のような日常的な表現でさえ、あたかも一篇の詩のように響きます。ことばの音楽的な要素として、「ワンワン」「ガチャン」のような擬声語、「どしどし」「わくわく」のような擬態語も重要です。日本語にはこうした擬声語や擬態語が豊富で、日常会話だけでなく昔話などを生き生きとさせます。同じように、韓国のことばも擬声語や擬態語が豊かで、パンソリという語り物では、それらを活用して情景がよく描写されています。メロディーのあることば中国は、京劇をはじめ劇がたいへん盛んな国ですが、中国では「劇を見る」ではなく「劇を聴く」という言い方があるくらい、音楽的な要素が豊富です。中国語には、音の高さの上がり下がりで意味を区別するという特徴が備わっています。たとえば、同じmai(マイ)という音も、高低の付き方しだいで「埋める」「買う」「売る」という違った意味になります。こうした言語のことを「声調言語」といいます。声調言語では、話しことばそのものが一種のメロディーを形づくりますが、劇や語り物では、さらにそのメロディーが強調されたり、逆に抑制されたりします。アフリカにも声調言語がたくさんあります。アフリカではその特徴を生かして、ことばの音にある高低やリズムを太鼓の音に置き換えて相手に伝える、という方法がしばしば見られます。このやり方のことを「トーキングドラム」といいます。トーキングドラムは、その言語がわかる人にとっては「音楽」というよりむしろ「ことば」なのです。楽器の音とことばの音のかかわりあいトーキングドラムがことばの音を楽器の音に置き換えるのに対して、逆に楽器の音をことばの音に置き換える習慣をもつ文化もあります。日本文化もその一つです。三味線ならば「テン・トン・シャン」、太鼓ならば「テンツク・ツクテン」、能管(能の笛)ならば「オヒャーラーイ、ヒョーイウリー」のように、楽器の音を口でまねて曲を伝えたり覚えたりします。こういう習慣全体をここでは「唱しょう歌が」と呼ぶことにします。日本以外にも同様の習慣がありますが、有名なものは北インドのタブラーという一対の太鼓で使われる、ボールというものがあります。唱歌はドレミの階名唱に似ていますが、ドレミと違って、同じ高さでも「テン」といったり「ツン」といったりすることがあります。しかし、「テン」と「ツン」では演奏法が違う場合があるので、楽器の演奏者にとっては、唱歌は階名唱以上に有用なガイドラインになります。つまり楽譜がなくても唱歌があれば、その楽器で演奏する旋律、リズム、さらには演奏法や音色までも伝えることができます。唱歌は、ことばの音を応用して、音楽の音をわかりやすく正確に伝える方法であるといえます。* * * ことばと音楽のかかわり合いは、ことばが単なる情報の乗り物なのではなく、生き生きとした音、いわば音楽的な要素を伴っていることを思い出させます。そうしたことばの音楽的な部分を、人間は表現手段として見逃さずに発展させて来たことがわかります。とかく情報としての側面が強調されがちな現代のことばのやりとりが、どこか調和を欠いていることを思うとき、こうした例を通してことばの音楽的な側面に改めて目を向けてはどうでしょうか。
https://note.com/okadakou/n/n201e055adb50 【音楽と俳句】より
音楽の三要素とは、音階(メロディー)、和音(ハーモニー)、律動(リズム)であるということを知ったとき、これは俳句にも当てはまるのではないかと思った。
まず音階である。これは言葉そのものである。言葉そのものが自ずから音階を持っていると思う。例えば、をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏 という句を声に出して読んでみると、実に滑らかに口舌を滑ってゆく感じがする。これは何故か。句の中のイ行の音「り」「り」「り」「き」「き」が句の節目節目で漢詩のように脚韻を踏んでいるのである。これが読んで心地良い理由である。音楽でいえば旋律の繰り返しにあたるので音楽性が高い句であるともいえるのではないか。
次に、和音である。これは季語の取り合わせと考えてみる。例えば、
水温む立たせて廻す陶の土 土生重次 という句で、詠んでいるものは、陶芸用の土を轆轤の上に立てているとだけしか言っていない。しかし、「水温む」という池や沼を想起させる一見関係のなさそうな季語の働きで、轆轤を回す作り手の濡れた手とその体温が陶土に移るような温かみまで伝わってくる。そしてそれが春の訪れまで読者に感じさせてしまうのである。季語の取り合わせることによって、句に表記されていないことまで表現することができるのである。音楽でいえば「ドミソ」のように三度ずつの音階を積み重ねるように、俳句では単旋律の言葉に季語を重ねることによって復旋律の表現ができるようになっているのである。もちろん、「動かない」季語を据えることによって成しうるもので、「動く」季語であれば不協和音になりかねないものでもある。
最後に律動である。これは五・七・五の定型のリズムにあたる。リズムは繰り返しであるから、読者も予定されたリズムを前提に句を読むことになる。例えば、
旅に病で夢は枯野を駈け廻る 松尾芭蕉
という句では、上五が6文字で字余りの破調であるが、五・七・五のリズムを予定していれば、6文字を三連符の2回繰り返しのように読むことで、決して字余りでもリズムを外れることなどないのである。
斯様に俳句は音楽的な要素を多分に含んでいて、言葉という旋律を五・七・五のリズムに乗せて、季語を重ねた和音に調和させた文芸であるということができるのである。佳句とされるものは、これら音楽の三要素の特性が多分に活かされているという言い方もできるので、鑑賞や分析もまた楽しくなりそうである。
(俳句雑誌『風友』平成二十七年六月号)
☆トップ画像はお借りしたものですが、音符の数が偶然にも十七音になっています。びっくり。
(岡田 耕)
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